小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説⑯









それら花々は恍惚をさえ曝さない。

…散文









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









蘭陵王/小説













フエも私も、いずれにしても共犯者には違いなかった。それに留保も条件付けもありはしない。フエは体中に絵の具を塗りたくって、彼女に白い油彩の色彩を与えて遣ったのだし、私はそもそもが、ミーのすることを許可していた。無言のうちにでも、なんであっても。

彼女があの男を殺して仕舞う前から。私はすでに、彼女がそうすることを知ってさえいた。そうなる以外になかったのだった。何かを認識するというわけでもなくて、認識する前にすでに、私は知っていた。ミーが、あの男を殺さないわけがない。すくなくとも、私は共犯者だった。

市場のトタン屋根が、ただただ過剰なほどに、雨の音を反響させる。拡声器でもつけたように。


開け放たれたままのシャッターをくぐると、フエはソファの前にひざまづいて、身を投げ出したミーの皮膚の白いペンキをはがして遣っていた。丁寧に、ピンセットを当てて。大袈裟にフエは声を立てて叱りつけ、そしてわざと痛がって見せるミーを、大声で笑いながら諌める。戯れ。今日はメーデーだった。祝日。

フエの褐色の肌が背伸びして、そのついでに私に、歎くような眼差しをくれて、そして、媚びる。ミーのかみの毛は、丸坊主に刈り上げられていた。彼女たちの周辺、ソファの上、床の上に、白と黒との短く、細い散乱が散り、テーブルの上に置かれた型式の古いバリカンは、昔弟が使っていたものだったと言う。

歯の、なかば錆びかけたそれには、いかにも鉄くさい、そして、集積して消え去らないかみの毛の粒子を散らしたような、臭気を執拗に留めた。

Chết rồi

仕舞った!

死んだわよ

フエが、想い出だしたように言った。皿を出して、バン・クンを盛り付ける私を振り向き見ながら。

だれが?

Anh thanh

タンさんよ。

誰?

つぶやく。タンさって、だれ?

Thanh là ai ?

フエは、私を見つめ、すぐに噴き出して仕舞って、ミーを指さす。…ほら。

Mỹ ghết

殺したわ。

…ね?

あの男、

ほら。

ミーが。

その男の名前が、タンだということを、私はようやく想い出した。ミーは、目を伏せて、そして、いつくしむような眼差しを、ただただ、私に媚びた目線を向けるにフエに、投げた。

何も言わないままに。

すぐ近くの、小さいが真新しい家に住んでいた。自動車販売業かなにかで、とりあえずの財はあった。年齢は私とほとんど変わらない、違うのは、二十五、六で結婚した彼には十何歳かの息子と娘がいることだった。むしろ、彼の母親の、たしか Hạnh ハンという女性のほうとの付き合いが、私には印象的だった。

家のガレージに、バン・ミーというサンドイッチの店を出して、そこでときどき、私はバン・ミーを買うことがあったから。私の片言のベトナム語をなかなか聴き取れない彼女は、派手に笑いながらいつも受け答えした。周囲のだれにでも、こいつ、日本人なのよ

Người Nhật

そう、わめくように囃し立てて見せながら。

一度、雨が止んだタイミングで、私がフエの家を出たのは、単純にバイクに乗りたかっただけだった。いたずらに、殺人現場にたむろしつづける人々の群れから逃げたかったわけではなかった。いずれにしても、私たちのあの家屋、孤島の森の中のような孤立した空間が、暴徒の群れだかなんだかは知らない。群集に襲われて、私たちが皆殺しにされて仕舞うのが、そもそもの事の必然として、確信以前に当然のこととして、いずれにせよ私はすでに受け入れていたのだった。

もはや、一片の疑いさえいだかずに。崩壊は、すぐに、いつか、やってい来る。容赦もなく。待つと言うわけでもなく、ただ、その猶予として、私は私の現在の時間を認識していた。

遁れようとするわけでもなくて、受け入れる気もさらさらなくて、ただ、私はバイクを転がすことを選んだ。絵の具の小さな断片を剥ぎ取ってじゃれつくミーとフエの、終わりも無い無際限な戯れを、眼差しに捕らえ続けるのをは、私は持て余して仕舞っていた。

ラン・コーと言う、山の向こうの、ダナン市とフエ市の間の、湖のような入り江を囲う町にでも、言って仕舞おうかとも想った。なんども、ナムたちと行った事があった。フエと、結婚式の前に、その家族に連れられて、遊びに行ったこともあった。

雲に触れ合いながら山を越えて、海に近づいていった先の湖は、ただ静かなたたずまいを見せて、かつては水産の豊富だった底には、乱獲のせいでもはやまともな魚などいない。遠めに見れば、あまりにも美しい風景も、近づけば投げ棄てられたごみを浮かべて、ただただ穢らしい。

日本人のボランティアでも連れてくればいいのに、と、私はナムに言ったことがあった。彼らは、そう言うのが好きだよ。後進国にやってきて、慈善事業をやって、自分で満足して、それで帰っていくんだよ。フェイスブックやインターネットに、いっぱい記事をアップロードしてね。フィーはいいねの数と自己満足だ。

雨の日の午前、主幹道路を走っていれば、いきなり雨が降り始める。そうなるに決まっていた。一日中、降ったり止んだりを繰り返す。明らかに、その日の空の色彩は、気象レーダーのコンピューター解析を待つまでもでもなく、誰の肉眼にも明らかだった。人気はなくなる。視界はいよいよ白濁し、激しい雨に逆らって進む速度の加速させる雨粒の群れが、顔の全体をこまかく、鋭い痛みで埋め尽くす。雨の味が唇にする。匂う。ぬれる。いつもの群れるバイクの姿は、ほぼ、消えうせていた。

聴こえるのは、基本的には雨の轟音と、自分が尻に敷く瀟洒なバイクの、エンジンの荒いうなりに過ぎない。

足元にだけ、エンジンが撒いた暖かい温度がある。からだは冷えた。

海辺の橋、いくつもの人間が飛びこんで自殺するので有名な、高い橋を渡る。吹き荒れる風に、ハンドルを取られそうになりながら、制限速度の倍以上を超える。

無造作な凹凸を疎らに散らした路面はぬれ、水滴ははね、これで転びでもしたら生きてはいない確信だけは、まざまざと与えてくれる。









フエが見たら、取り乱して罵るに違いなかった。何台も、バイクを抜かした。合羽に、盛大な雨の音を鳴らし続ける彼らを。

Tシャツが雨にぬれて、もはや重力を感じさせる。

雑な工事が好き放題に作って知った水溜りの群れが、いつでも激しい飛沫を飛ばし、横目に見る海岸線の向こう、海はただ、白い。

真っ白の、海の白濁。もっと、と。

もっと、速度を。

橋を降りて、市街地を横断する主幹道路を飛ばす。バイクの台数は増え、事故の危険も増大する。もっと。

更に加速し、いくつもクラクションを聞く。警察が来たら、なんでも簡単だ。紙幣を握らせて遣ればいい。

信号を無視し、そして、対向車線をはみ出して追い越そうとする向かいの日本車のすれすれを通り過ぎてみる。その結果は見なかった。さらに。

もっと、加速を。転倒しそうになりながら、ぎりぎりでカーブした。

フエの家の前を通り過ぎて、もういちどぐるっと川沿いを回ろうかと想った。雨が急激に、その力を失って、そして、次第にやんでいく雨が不意に匂った。通り抜けて仕舞いそうなほどの至近距離に。

とっくの昔から、ずっと匂い続けていたはずのそれを、不意に、前触れも無い想起ででもあるかのように気付いて、速度を緩める。あの、喫茶店に止まる。その店は、雨の白濁の中に、ただ、廃墟のようなたたずまいをだけ曝す。

いつ見てもそうに違いない。

バイクを止めて、中に入ろうとすると、雨はもはや完全にやむ。ぬれた大気の質感が、それ以上に濡れぼそっているはずの肌にじかにふれてやまない。湿った髪を両手のひらにぬぐった。

カフェのテーブルは出しっぱなしで、雨に打たれているままだった。誰もいない。家屋の中にも。

結婚式のとき、私が横たわっていたベッドの上に、脱ぎ捨てられた女の寝巻きと、男のショートパンツが散乱しているままだった。それらは、だれかがその上から寝転がったに違いなく、押しつぶされて仕舞いながら。

背後に甲高い、咎める喚声が上がって、その聴き覚えのない女声、振り向くと、あの、結婚した女が笑いながら血相を変えて、…何を遣ってるの?、と。そう言っているに違いない。

Làm gì ?

こんな雨の中に、ずぶぬれになって、と、そう言った女自身が、同じようにぬれぼそっていた。あるいは、市場かどこかへ行って、時間をいたずらに濫費するだけの雨宿りが耐えられずに、小ぶりの雨の中を帰ってきたのかもしれなかった。バイクの音が聞こえた気はしなかった。

大袈裟な声を立てて、許可もなく女が私のTシャツをはぎっ取った瞬間に、私は嗅ぐ。

不意に、自分の匂い。雨にぬれて、汗ばみもした自分の皮膚の、臭気。雨の中で腐った内臓のような。そして、多くの女たち、…他人たちが、いい匂いだと言って見せた、それ。

まるでそれが、あたりまえの作法であるかのように、色づいてみせて、私の肌に鼻を寄せて、匂いを買いでみせて、…ねぇ、

なんで、こんなに、いい匂いが、するんですか?

その、単純な疑問文に微細な差異をかさねただけのヴァリエーションの群れ。

なんで、こんな、匂いすんの?

臭気。一瞬、眉を顰めた私には構わずに、その女はTシャツを丸めて、

どうしてさ、…ね?こういう匂い、する?

絞って見せては声を立てて、その

ねぇ、いい匂い。…なんで。

撥ねる水滴。笑う。…ひどい。

やばい。匂う。めっちゃ。いいの。

Xấu ! びしょぬれじゃない。我慢の限度を

んー、…匂い、なんか、…ね。いいかも。なんか。

超えて仕舞ったとでも言いたげに、

好きだったりする。こういうの。…男の子の体臭。

罵る声を私に投げて、

なんでさ、私の好み知ってたりする?

ショートパンツも脱がせた。女が、何をしようとしているのかは、私には知れた。私は、自分で下着を脱ぎ捨てて、ベッドに横たわった。

ほら、と。想う。

好きにしたらいい。

私は最後に、不意に犠牲者のような顔を曝して

どうせ。

黙り込み、私を見つめる女を、

欲しくて

見た。

仕方ないのなら。

私は目を閉じる。

閉じられた、眼差しの向こうに、さまよいおよぐ仕草の、微細で明晰で鮮烈でしつこく、これみよがしな気配の、むき出しの、ささやくような連なりとして。まるで、そうするのを楽しむように、戸惑いの時間を女は楽しむ。心の中、あるいは、体の中に、躊躇のゆらめきをいじり倒してもてあそんで。

脱ぎ捨てられる服の衣擦れもしないままに、私の胸に唇をつけた女は、唇で、そして、ややあって、大切なことを想い出したように、匂いを嗅ぐ。

嗅いでいますよ。

いま、犬のように。

あなたの匂いを。

そう、伝えなければ鳴らないのだとばかりに、はっきりと、派手な音を立てて。

ほら。

ぬれた、女の

あなたの匂いが

衣類が私の

心の中に。

腹部に触れる。

からだを押し付けて、唇をむさぼった後になって、ようやくぬぎ棄てては見てものの、すでにお互いの皮膚に移されて仕舞った、かすかに体温を移した雨の水滴は、容赦もなく私たちを濡らした。髪の毛が堕ち、頬を、シーツごとぬらしてしまう。

かみの毛の水滴は、むしろ、ただ、冷たい。

触感。皮膚の、いかにも女じみた。こんな触感に、あの、人も殺せないような顔をした男は、たとえば昨日の夜に、あるいはパーティのはねた午後にも埋もれてみたのだろうかと想うと、不意に耐えられずに私は声を立てて笑い、女は戸惑う。

快感。その身体が、それを与えていないとは言獲ない。気持ちいい?…もちろん。どんなものであったとしても。

感じられたそれを拒否していたとしても、それが鮮明な快感であることには違いない。美紗子のそれであったとしても。同じような快感を、全く違う手つきで、ときに埋もれ、ときに留保もなき憎悪と怒りとをもって拒絶する。

もっと。

ふれればいい。もっと、と。

女のために想った。

焦がれて、どうせ、欲しくて仕方がなく、夢にまでもてあそんで仕舞うのならば。なんど、夢見たの?と。

匂う。

あれから、私のことを。

女の、髪の

ただただ、私を求めて。

そして体臭。時には、口臭。

口の中の、獣ものじみたかすかな匂い。

もはや、差し込まれた舌が感じさせる、その。

フエ…と。

女の歯が、やさしく

想った。

唯のいたずらとして

フエ、

倦んだ、戯れ、

不意に。

そんなものとして、私の唇を、

フエ。

咬んだ。

褐色の百合、彼女は私に違いない。

どちらがどちらの生まれ変わりであるという問題ではなくて。理沙がミーの、あるいはミーが理沙の生まれ変わりであったように。初めてフエと出会ったとき、それはサイゴンの、縫製会社の事務室の中だった。その日の朝、私は東京からホーチミン市のタンソニャット空港に降り立って、ナイト・フライト。クアラルンプールを経由してその二時間くらいの間に、その空港のロビーの天上に、色彩をなくした私が、彼。

何の見覚えも無い男が、空港の高い天井にへばりついて、ただ、静かに右手の方に、水平に鮮血を流しているのを見た。暗い口の中から。

私は、私の両目が血を流している確かな質感におびえた。

異国の空港のトイレ、国籍も知らない無数の人間たちの間に、背中をすれ違われながら、涙でさえも流しているわけではない私の両目から、血が、流れ続けて止まないのを見た。

渇ききった、そのまぶたがまさに。

音響。耳の奥に、あるいははるかな遠方に、静かに響いた、私を食いつくしていく音響の群れ。

空港のロビー、国籍の無い土地。国籍がない中性的な染まりきらない場所として、無理やりどこかの国の土地の上に確保された、どこでもない土地。私は、空港のロビーが好きだった。嘆かわしいほどに、音が聞こえる。

私を食い散らしていく、その。

タンソニャット空港。乱立する柱の群れが淡い翳を作り、海。

私が、空港の到着ロビーを歩きながら見たのは海だった。白濁した海。

浪打つ表面のわななきを反射させる光によるのか、ただ空の色彩に染まって仕舞っただけなのか、いずれにせよ、海。夢。それが夢であることにはすでに気付いていた。海の上に、一人の少年が立ち尽くしていた。休みもなく、その形態を崩し続け、白濁した、光の、眼差しが捉えた先からすでに失われた名残りの残像にさえなっていくしかない、その、光の色彩。浪の。漣の、白濁の鮮やかなグラデーション。それは、もはや、と、想う。

色彩でさえない。

少年は、浪の上にただただたたずんで立ち、両目から涙のように、血を流し続け、海の水に受け入れられもしない血は、上の方、垂直に上昇していく。

その先に、なにがあるというわけでもないのに。

瞬く。…まばた、こう、と、する。

夢。見つめられた夢の中では、瞬くことさえできないことを知った。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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