小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説⑮
それら花々は恍惚をさえ曝さない。
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
ややあって、男が不意にミーを押し倒そうとした瞬間に、振り上げた清龍刀が男のわき腹に突き刺さった。
斜めに。
血は噴き出さない。
ミーが、声を立てて笑った。
腹を足蹴りにして、男の体から無理やり引き抜くと、一気に血が噴き出しながらも、男はいまだ倒れない。
男は、何かを確認しようとする。…何を?ミーがもう一度蹴り飛ばし、それでも倒れない男を、むしろ嘲笑う。私に目くばせをくれて。
頭に清龍刀を振り下ろした瞬間に、突き刺さりはせずに、皮膚と骨格を砕いただけのそれは、鮮血を撒き散らした。
なにが起こっているのかもわかってはいないままに、口と目を、ただただ見開ききった男の身体が、覆いかぶさって自分のからだをも地にたたきつけた瞬間に、ミーは小さな悲鳴を上げた。
血にまみれる。
男は、なぶるようにミーに馬乗りになって、血を撒き散らす。ミーの、白の身体に、その、鮮血の赤を。
乾ききらないミーの、油彩の色彩は男の血まみれの肌を汚す。男は、まだ死ねない。のた打ち回りながら、ミーは泥だらけになって、男を跳ね除けたとき、後ろ頭をやわらかい地面にぶつけた男は、長い長い鼻息でだけ答えた。馬乗りになったミーに、刃先で突き刺され、破壊されるに任せる。ミーの、そして、男の身体は血に染まる。
死なない。
ただ、最早ぼろぼろの肉体の残骸を曝し、皮膚を、筋肉を、骨をまで砕かれ、破壊されながら、そして身体は、とっくにその生存限界を超えて、生きていくことの出来る可能性のすべてを喪失して仕舞いながらも、男の身体は死なない。
もはや、意志さえないはずなのに。
私の傍らに、色彩をなくした、見たこともない出たらめな、むしろカマンベール・チーズを、パソコン上でゆがませたような、そんな人体らしきものの翳。
それが息づかう。
もはや、人体でさえも無いのに。
血を流す。その昏さのいたるところから、ただ、鮮明なそれを。
男の身体は、馬乗りになったミーの身体の下で、痙攣と、壊れはててえづくしかない呼吸音を、無茶苦茶なノイズそのものとして、ただ、かき鳴らした。
かくも、と、想う。こうまでも、死とは困難なのか。
すべての可能性をなくし、ただ死ともはや完全に一致していながらも、死に到達することは、これほどまでに困難でなければならないのか。生への執着など、肉体自身にももはやありはしないのに。
吐き気がする気がした。
その瞬間に、私が泣きじゃくっていたことに、気付いた。鼻水を散らしながら。
男が死んだ瞬間に、ミーも、私も気付かなかった。他人の血にまみれて、白い化粧を半分以上落として仕舞って、まがい物の肌のくすんだ白を無造作に曝す、ミーは飽きもせずに、すでに完全に死に絶えて仕舞った肉体を、清龍刀で破壊し続けた。
私は止めなかった、止めるすべも、必然性もなかった。
最後に、単に、おそらくは肉体的に限界に達した疲労のために、振り上げた清流等を、でたらめに顔だった部位の残骸にたたきつけた。地面ごと突き刺さったそれは、すでに死に絶え、壊れきった肉体から、最後に血を飛び散らせた。
息をつき、しゃがみこんで、やがて立ち上がったミーは、私に微笑みかけると、駆け寄って、私にからだを預けた。…やばい。
Mệt quá
疲れたよ。
私は彼女をしばらくのあいだ抱きしめてやり、その体温を感じ、彼女におそらくは私の体温を感じさせ、家に連れ帰るために、腕に抱きかかえて、振り向いたとき、私の眼差しに前の、すれすれに、色彩をなくした男の、顔さえない肉の残骸が縦に、どこまでも高く伸びていた。暗い空の向こうにまで。ただ、いたるところから血を吹き出させて仕舞いながら。
天に昇る?…どこまでも、地面にへばりついたままに?空の先など、ただ、宇宙が広あっているだけなのに。
男の、くらい肉塊は、どこまでも空を突き破って延びる。
色彩さえもないままに。
*
* *
目を覚ましたとき、フエは、傍らで眠っているままだった。ミーを連れて帰ったとき、フエは疲れ果てたように、散乱する絵の具さえ片付けないで、寝室に、寝ていた。手のひらに、白の油彩を乾かせて、罅割れさせて。
床に、渇かない白の絵の具が、飛び散ったままに。
寝室の通風孔からの光、白濁したそれ、そして、後れて、すでにずっと鳴り響いていた降りしきる雨の騒音に、ようやく気付く。ミーを連れて帰って、ミーは、ともあれシャールームで血を洗いながすものの、すでに皮膚の体温の上に、渇ききった油彩の白は、取れもしない。
ほら、と。シャワールームから出てきた彼女は両手を広げ、そのまま、白い、ぬれて、輝きを失った絵の具の白濁が穢した皮膚を曝した。
私が彼女の皮膚の、油彩が爪ではがしてやろうとすると、ミーは声を立てて笑い、私もつられて笑うしかない。
雨。久しぶりに降った雨だった気がした。ほんの数日前にも降ったかもしれない。庭の、ブーゲンビリアも、バナナも、雨にぬれているはずだった。周囲のすべての色彩を、色彩も無いままに、鮮やかに白濁させて仕舞う雨の中に。
それら本来の、色彩を奪い去らずに、むしろよりあざやかに際立てながらも、ただ、白濁させるほか無い、その、雨。
朝も近くになって、私とミーが、その戯れにも飽きて仕舞って、お互いに寝付いた明け方に、終には堪えられずに一面の雲の群れは、雨を降り堕させはじめたに違いなかった。いまや、叩き付けるような音を、家屋の、トタン敷きの屋根に低く、無造作にかき鳴らさせて、私は聴く。
それら、音響。
その、連なりあいもせず、反響し合いもしないままに、ただ、無際限に鳴り続けるそれら無数の単独の音の群れ。
ひざまづくようにして、フエの手のひらをひらき、彼女の手のひらの絵の具をはがそうとすると、ミー。
剥ぎ取られていく白い絵の具の皮膜に、あるいは、私の爪の先に、彼女はその白い皮膚を充血させて仕舞いながら、そして笑う。斑に、いくつもの引っ掻き傷のような、赤い痕跡を、体中に曝して。
剥ぎ取りようも無い髪の毛に、どこも彼処も白い汚点を散乱されて、彼女は。なんども声を立てて笑い、ブーゲンビリア、その花は雨にぬれているだろうか。
色彩の、白濁の中に、あざやかにその本来の、むらさきに赤の色彩を際立てて、誇ることもなく曝してみせながら。フエが、小さな笑い声を鼻に立ててた。
目覚めていたフエは、寝た振りをするわけでもなくて、ただうすく、やさしく、ただかすかにふれ合わされただけのその眼差しの向こうに、そして、彼女は笑う。
Làm gì ?
その
…ねぇ、
ちいさく、ただ、ふるえる空気の
Anh làm gì vậy ?
いわば、振動。
あなた
感じられないほどに
なに、してるの?
かすかな。
フエの褐色の肌。
手のひらの皮膚は、白い。
単に粗雑なしわに塗れて。
シャワーを浴びに行くと、シャッターもまだ開かれないままに、結局は昨日そこで寝付いて仕舞ったミーは、ふかく、ソファに背をもたれうずもれ、指先に自分の皮膚をもてあそんだ。自分を慰めようとしているのか、未だに粗く、疎らに付着したままの、白い油彩の痕跡と戦っているのか、それは私にはわからない。
彼女たちのために、朝食の Bánh cuôn バン・クンを買いに行くと、その、市場の目の前、更地に人だかりが出来ていることに、私は昨日のことを思い出す。死体はいまだに撤去されていなかった。警官が人だかりを規制しようとするまでもなく、人々は維持されたある程度の距離の向こうにたたずんで、声を潜めるでもなくささやきあう。
人々の体の向こうに、雨の中に野ざらしの死体が曝されたまま、血を失った、赤と白の残骸を雨に洗い流していく。
たんなる肉と骨格の塊り。誰かが、スマート・ホンに写真を撮った。警官は何も言わない。合羽を着た半数の人間と、着のみ着のままに、雨に打たれる半数。
ショートパンツだけの、わたしの肌をじかに、生ぬるい、冷たくはない雨が触れる。移り気に、自在に強さと弱さをもてあそぶ気まぐれな雨が、かすかな風さえ伴ってでたらめに肌をもてあそぶ。自分の髪が、ぬれた質感を持って不意に匂う。
かみの毛の匂いは、誰も彼もが、いつも、同じだ。
誰かが私に気付き、そして、教えあったわけでもなく、無言のうちに連鎖して、人々の振り返った眼差しが私をだけ捉えた。いつのまにか、彼らは沈黙していた。緑色の制服の警官は、もとから押し黙って、ただ死体を見つめているだけに過ぎない。
そのまま、見つめていさえすれば、事件など勝手に解決して仕舞うのだとさえ言いたげに。
二十人ばかりの、彼ら、群集は私を注視する。ものも言わない。雨の音が聴こえる。殺したのは私に違いないと、彼らはそう想ったに違いない。私は、そう想った。為すすべもなく、私は微笑み、目をそらした。
金を払って、ビニールに野菜ごとぶち込まれたバン・クンを受け取りながら、彼らはどうするだろう、と想った。
もしも、彼らがかたくなに、私があの男を惨殺したのだと確信したならば、彼らは私をどうするのだろう?フエごと、あるいはミーごと、惨殺して仕舞うだろうか。ミーが、あの男にしたのと同じように。たとえば、この更地で。フエも私も、いずれにしても共犯者には違いなかった。それに留保も条件付けもありはしない。フエは体中に絵の具を塗りたくって、彼女に白い油彩の色彩を与えて遣ったのだし、私はそもそもが、ミーのすることを許可していた。無言のうちにでも、なんであっても。
彼女があの男を殺して仕舞う前から。私はすでに、彼女がそうすることを知ってさえいた。そうなる以外になかったのだった。何かを認識するというわけでもなくて、認識する前にすでに、私は知っていた。ミーが、あの男を殺さないわけがない。すくなくとも、私は共犯者だった。
市場のトタン屋根が、ただただ過剰なほどに、雨の音を反響させる。拡声器でもつけたように。
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