小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説⑭
それら花々は恍惚をさえ曝さない。
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
おなかがすいたわ。
Đói quá
つぶやいて言ったフエの眼差しは、私を振り向きもせずに、ただ、つかんだその手の平にだけ私の存在を確認する。
あるいは、澄まされた、その五感のすべてで。
冷蔵庫の中に、食べ切れなかったパーティの残りが、もらっておいてある、と言った。断るのにも関わらずに、あの新婦の女がつつんで無理やり渡したらしかった。
ビニール袋の中に、そのままぶち込まれた、ゆでた鳥一匹を骨ごと潰したその料理、…中部のパーティで必ず供されるそれを千切って指先につかんむと、指先に、冷やされきった鳥の、べたつく油がじかにふれて、べとつかせる。香辛料が匂う。
ベッドに座って、彼女に差し出してやれば、あお向けたフエは、口をあけて…ほら、と。
あーん、と。
à......
その無言のジェスチャーのままに、私は彼女の体を汚さないように、鶏肉の断片を、口に運んでやった。
つかんだ骨の、叩き折られたキレ先が、彼女が噛み付くたびに指の腹ににぶく踊る。ここでは、くちゃくちゃと音を立てたところで、誰も何も言わないばかりか、むしろそれが当然なので、彼女も当たり前のように唇を舐め、耳になでつく咀嚼のやわらかい音を立てながら、咬む。
フエは、私以外の外国人の前では、さすがにそんな音は立てなかった。外資系企業のアカウンターばかり遣っていたので、その程度の知識くらいはあるのだった。
手羽先の、複雑にへし折られた残骸を、結局はうまく食いつけなくて、フエはそのまま口の中にくわえ込んだ。私を見つめた眼差しの奥で、彼女がむしろ、口の中にくわえ込まれた鳥の骨の断片の、その触感が与える映像を追っているに違いないことは、私には知れていた。黒目が、ふるえるように、かすかに揺れる。
しゃぶり取った、舌でつきだして、骨を唇にくわえ、...Ăn đi
あなたもたべなさい
言う。私は
Anh ăn đi
首を振る。
No rồi
微笑む。私は。
おなか、いっぱいだよ。
彼女に。
Xấu
かすれた声。
駄目よ。
咥えられた骨のために、うまくは発音できないベトナム語の音声。
Ăn đi
投げ出されたままの、フエの両腕は、何ものをもつかまない。…頽廃。
ほら、
頽廃と言えば、これ以上の頽廃もない気がした。
たべなさいよ。
為すすべもなく、喰うと言う最低限度の生き物の行為にさえも、戯れてみせるほかにない。
身を屈めて、彼女の咥えた骨を、唇に奪ってやる。鼻で笑った彼女の、その、息がかかった。左手に持った、ビニール袋の中に、そのまま吐き棄てた。
フエの指先が、足の付け根だかどこかの骨を拾う。皮が千切れそうにぶら下がって、フエの指先にへばりついて震えた。
...ăn đi
唇に触れそうなほどに差し出されたそれを、
Anh
彼女の指先に歯を触れさせながら、しゃぶりついた。フエの眼差しと、唇から、微笑みが消えない。私はフエを見つめる。
Ngon
決して、
おいしいでしょう?
他人が作った料理を褒めない、フエ。
Ngon quá
骨を、ビニールに棄てると、かさっと、それが立てた音が小さく耳にふれたが、私の眼差しの先に油にぬれた自分の二本の指先、親指と一刺し指をさしだして、…ほら。
舐めて。
口には出さない。
…わかるでしょう?
あなたが人間でさえありさえすれば。
咥えた私の唇と、舌と、歯が、なんどもその指をしゃぶって見せるのを、フエはときに、
舐めなさい。
鼻にだけ笑い声をたてて見守る。
いい子だから。
私の唇から、名残りさえ惜しまずに引き抜かれた指先は、すぐにビニールをまさぐって、つかまれた胸肉の断片を、フエは彼女の乳首にのせた。…ほら。と。
Ăn đi
声を立てて笑う。ふくらみ、というほどのふくらみさえないそれ。褐色の、その黒ずんだ濁点を隠した、引き裂かれた白の肉片を、身をまげて加え、舐めて、フエはくすぐったさに、耐えられないように声を立てながらじゃれれば、拒絶した手首が私の腕を打ち、こぼれた骨と肉の断片を、彼女の腹部に散乱させた。
いくつか。ほんの、3つか4つか。
彼女の上に、覆いかぶさり、ひれ伏すようにして、それらを唇に拾っていく。
無意味で、お互いの失笑をしかひきださない戯れの後に、時間だけは持て余されて、一人だけのシャワーのあとに、日付も変わって仕舞えば、私はフエの傍らに添い寝する。シャッターにかぎはかけなかった。ミーが帰ってくれば、たやすく入ることが出来る。そして、ミーが盗難に入った日からの習慣で、二つ目の居間の照明はつけっぱなしにされていた。盗難防止のために。
物音に気付いたときも、フエも、私も起きていた。暗がりに、胸に彼女を抱いてやりながら。一時間くらいの間も、暗がりのなかに、目を覚まして、息遣うがまま、それ以外には何もしないままに。
シャッターが開かれた音はミーに決まっていた。とはいえ、私はそれを確認しないわけにもいかないのだった。立ち上がると、バイクが数台立ち去る音が聞こえた。
居間の照明の下、ビニール袋をぶら下げて、私に気付いたミーは微笑みを返した、何の屈託もなく。テーブルの上に放り出されたビニールの中には、白い油彩絵の具がいっぱいに入っていた。放り投げられてテーブルに転がり出し、たしかに、ホイアンにも、サイゴンにも、そしてダナンにも、日常的な雑貨屋や飲食店と軒を並べて、画廊がどこにもかしこにも目に付いた。
そのくせ、誰かが買うところを見たこともなく、絵を描くのが人々の一般的な趣味であるなどいうことは、間違ってもあり獲ない。
本屋さえ、都市部にすら数件もなく、教科書以外の本を読んでいる人間など殆ど見ない。ミーが、声を立てて笑い、何も言わずに、服を脱ぎ捨てていった。
完全に曝された肌を、恥ずかしがりもせずに、からだを捩ってシャッターを指さすミーの、その指先の先には、清龍刀が立てかけてあった。剥き出しの歯を上にして。間違っても、美しい刃先だとはいえない。いびつな装飾がほどこされながら、ただ、鍛えられ、砥がれた部厚い鉄身と言う、それそのものの存在をだけ、眼差しの先に曝す。
ミーが声を立てて笑う。
…ほら。
私も、彼に追随して
すごいでしょ?
笑うしかないのだった。
油彩のチューブをねじって、自分の手のひらにひねり出すのを、私はただ、見守った。彼女が何をしたいのか、私はすべて、すでに知ってさえいる気がした。ひとつの、留保もない実感として。
たとえば、化粧。自分を、より鮮明に美しくするための。
彼女の指先が、白い油彩をもてあそんで、その額は白くぬり潰されていく。眉も、鼻筋、そして、頬を斑に、あるいは、かみの毛をまで。
化粧との、どうしようも埋めようのない違いを、私は実感した。書かれることのない純粋な白の氾濫は、ただ、彼女の形姿も個性も塗りつぶして、消滅させて仕舞い、ただ、それがそこに存在していることだけを際立たせた。否定も出来ずに、それはいま、そこにいるのだと。寝室から出てきたフエは、褐色の肌を照明の下に曝しながら、そして、そのかすかな凹凸に、翳が添って、這い、かたちを崩しては彩る。
フエが、声を立てて笑った。理由さえ聴こうとはせずに、ひざまづいて、ミーの身体に白を塗りたくる。手のひらを、いっぱいに白く汚して。
撫で付けられる乱雑な白の群れが、でたらめに彼の身体を染め、その、形姿を、いよいよ彼から奪っていく。彼、あるいは、彼女から。
女たち二人は、声を立てて、時に笑った。女、でさえないのかもしれない、その、彼をも含めて。私は唯、見守る。ソファにいつか、身を横たえて仕舞いながら。
まだらに、無残なほどのむらを残しながら、ミーが自分の身体の色彩を、何をも語りはしないただ無機質な白にだけ埋没させて仕舞うと、くるっと回って、無意味な嬌声を上げた。
Đẹp không ?
空間に響き、
綺麗でしょ?
まだらに垣間見える、ぬりきられない地の肌の息づいた色彩が、その白の無機質さ一色に、偽ものじみたいかがわしさをだけ与えた。
見世物のような。くだらない、宴会芸か何かの失敗作のような。いぶつで、冗談にもならない、本気にでは出来ない目の前の、ミーの身体が曝す彼女の現実。
純白…でさえ、ない、ミーの白濁。
来い、と、ミーが、笑いながら手招きをした。フエは従わない。夜も遅い。そして、服さえ着てはいない。私の傍らに寝転がって、白く穢れた手のひらを曝し、私に戯れてみせる。
ミーは、清龍刀をつかむと、開け放たれていたままの、シャッターの隙間に消えていく。
遅れて、私は彼女の後を追った。
背後に、フエが声を立てて笑った。やわらかく悪意もない軽蔑混じりの、いかにも軽々しい笑い声。
深夜一時を回って仕舞えば、人通りなど何もない。夜の家屋の照明さえ、もはや疎らに過ぎない、その街路を街路灯だけが、鮮やかに照らし出す。
ミーの白塗りの、まがい物の素肌は、ただ、外気に曝されて、ゆっくりと油彩を渇かせていく。
裏道をまっすぐ、そして、広くは無い車道を渡ると、朝の更地に出る。剥き出しの土の上、まだらな雑草の散乱を踏む。どこかで、野鼠か何かが疾走し、逃げる。その、音だけが足元の向こうのどこかに立つ。
右手の先には、主幹道路の街灯の、さっきまで彼女の肌を染めていたと同じオレンジ色の列と、ハン川がただ、暗い翳になって、夜の光に染まる。その向こうには、朝まで続く街路とビルのイルミネーションが、遠く、小さく点在し、それ以外に人工の光はない。想ったよりも、月は明るく、冴えた。月の光が、彼女の肌を白く、やや、かすんで浮かび上がらせる。染まりきらない翳として。
広大な更地のほぼ真ん中に立つと、彼は立ち止まってホー
Ho !
と、甲高い呼び声を立てた。南部のベトナム人が盛んに口にする、遠い人を呼ぶときの声だった。動物的なその音声を、私は耳に聞く。
だれも反応するものはいない。
ダナン市は、夜にもなれば、外気は肌寒さを持つ、たとえ、夏であったとしても。ショートパンツだけの私に外気がふれ、かすかに、私の肌を鳥肌だてた。
どこかで犬が、遠く吠える。朝の犬が、結局どうなったのかは、私は知らない。話によれば、そこまでミーがその身体を破壊して仕舞ったのだったとしたら、とても五体満足でいるとは想えない。安楽死させて仕舞ったのか、あるいはどこかで、いまだに生き続けさせられているのか。
戯れるにも程がある気がした。誰もいないのに、誰に、彼のその塗りたくられた裸身を見せびらかそうというのだろう?かならずしも、そのからだが女じみているわけでもないのに。
むしろ、少年のそれのように、色気をすらかもし出せてはいないのに。あるいは、やわらかく、いかにも幼さなく、夭い、あるいは倒錯した気配を以外は。
帰ろうよ、と、彼に笑いかけようとした瞬間に、ふたたび聴こえた犬の吠え声のこちら側に、気配がした。街路を背にした逆光の、単なる影としてその男は接近し、私もそこに居ることを見留めると、はっきりと舌打ちをした。
その男。ミーに犬を破壊された、その、色の白い、お金持ちの男。仕事は何をしているのかは知らない。いずれにしても、エリート層であるには違いなかった。
ミーに、呼ばれて出てきたのに違いなかった。ただ、私に軽蔑を明らかに含んだ眼差しを一瞬だけ、溢れかえっていっぱいに投げた後、ミーをだけ見つめて離しもしない。
眼差しに、明らかに、その眼差しが捉えた存在への渇望があった。たぶん、本人とって、胸やけがしそうなほどの。飢えた、ただただ飢えた眼差し。すべてを、骨までしゃぶっても飽きたりないような。
あるいは、ミーのあの下僕たち。彼を取り込んだ取り巻きたちが、ひそかに、あるいはときに露骨に曝して見せる、それに限りなく近い、その。
彼女にかならずしも降伏してるわけではない以上、ミーに、うかつには近付けないが故に、彼の眼差しが帯びる切迫して容赦もないその色合いの違いだけが、その取り巻きたちと彼の間にある差異にすぎなかった。
男は、私も見向きもせずに、わざと私のすれすれを通り過ぎていった。お前の出る幕は無いのだと。そこで、指をくわえてみているがいい。そのとき、私の眼差しが捉えたのは、結局は、自分が曝したわけでもなければ、自分に曝されたわけでもないもない、あくまでも他人事に過ぎない欲望が燃え盛ったときの、その眼差しが持って仕舞う、どうしようもない矮小さと、意地穢さと、穢らしさにすぎなかった。最低の、ポルノ・フィルムに辱をなんども塗り重ねて、その何十乗にもかけて、そしてひねり潰して指先程度のちっぽけな汚穢にして仕舞ったような、ただ、たんなる見苦しさだけが、眼差しに、単なる汚点としてだけ拡がる。
ミーは、煽情もしないままに、彼女を見つめる男を魅了して仕舞ていった。もともと、そうだったからこそ、彼女に暴力をふるわせたのかも知れなかった。あの群集たちに。その男は。
この日の朝に。
愛するもの、そして、彼の手には追えず、彼の手にはふれない獲ないものに、むしろ泥をぬりつけて仕舞うこと。他人の暴力によって。
彼の穢い、飢えた眼差しは、明らかに、私のフエを見る眼差しの、フエの私を見る眼差しの、あるいは理沙の、美沙子のそれらの眼差しの、留保もない素直なコピーに過ぎない。
私は、目線を外しはしない。ただ、彼の穢さを、見る。
ミーは微笑み、ときに声を立てる。
男が至近距離に近づいたときに、そして、それから何をなすべきなのか、その答えを必死に、ただ軽蔑交じりの微笑を浮かばせるに過ぎないミーの眼差しに探ったときに、ミーが言った。
Đẹp không ?
きれーじゃない?
anh
わたしのこの、純白の肌は。
Đẹp không ?
あなたたちが、必死になって、美の基準として崇め奉っているところの、肌の純白。
あなたも守り続けているんでしょう?
白。
もともと白い肌に塗りたくられた、単なる色彩の白さが、ミーの生体の白さが、いかに複雑なそれ以外の色彩をふくみ、もむくちゃに塗れているのかを、ただ、無言のうちに冷酷な事実して曝す。
穢く、薄汚れたような肌の白さを、塗りたくられたただ一色の、もはや色彩とさえ呼べないほどに単なる白は一気にあばき出して仕舞う、覆い隠した穢さの上で、自らの色彩の留保もなき鮮度をだけ、曝した。
綺麗でしょ
男は、何も答えずに、彼女の眼差しを見つめる。飢えた、男の性器の匂いさえした気がした。
爪先立ったミーは、男の唇に、一度だけ、ほんの、瞬きにもみたない一刹那だけ、ふれた。
とおりすぎた空気が触れただけの、そんな。
ややあって、男が不意にミーを押し倒そうとした瞬間に、振り上げた清龍刀が男のわき腹に突き刺さった。
斜めに。
血は噴き出さない。
ミーが、声を立てて笑った。
腹を足蹴りにして、男の体から無理やり引き抜くと、一気に血が噴き出しながらも、男はいまだ倒れない。
男は、何かを確認しようとする。…何を?ミーがもう一度蹴り飛ばし、それでも倒れない男を、むしろ嘲笑う。私に目くばせをくれて。
頭に清龍刀を振り下ろした瞬間に、突き刺さりはせずに、皮膚と骨格を砕いただけのそれは、鮮血を撒き散らした。
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