小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説⑪
それら花々は恍惚をさえ曝さない。
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
水面の群れは、止め処も無い浪打ちの連なりのきらめきの明滅に、その、太陽光の反射をざわめかせて止まずに、…太陽。あまりに野生的なもの。
見上げられたそれはむしろ、ただ野生そのものとして、まったき他人、預かりも知らない他者そのもとしてだけ、空のやや低いところに直視できないまぶしすぎる閃光を放つ。
誰のためのものであったこともなかった。なにものかのためであったことなどなかった。太陽は。その膨大な時間を浪費しての自己破壊の燃焼は。それ。それら。空の色彩も。光そのものも。海も。大気も。風も。温度も。
太陽は、結局はそれが私の眼差しに触れるためにそこに存在しているわけではなかったことを明示して止まない。私の眼差しに、ふれるときにはいつでもまさに。無慈悲なまでの他人の輝き。閃光。破壊的に、肌を焼き、やがては私たちを破壊して仕舞う。だから、懸命な人間たちはそれから隠れ、日翳げに身を寄せる。汗を拭い、火照る皮膚をいたわってみる。
野生の息吹。留保もなき、ただ、破壊的な。
フエのうちに戻ってくると、静まり返って、人の気配など何もない、ただただ広い家屋の隅の、狭い私たちの寝室のベッドの上に、絡み合うように下着だけになったフエと、ミーが寝ていた。ドアの差込式の鍵は内側からしかかからず、鍵をかけない限りたてつけのわるい古い木戸は開いて仕舞って、そして、私が帰ってこない限り鍵を閉めるわけにもいかないので、当然、ドアは開け放たれている。
そもそもが、ドアくらい開け放たれていなければ、暑苦しすぎて寝苦しい。扇風機がかすかな雑音を立ててオレンジ色のファンを廻し続け、彼らは何かからお互いを守ろうとしたかのように、複雑に四肢を絡めて、褐色と白の皮膚を汗ばんでみせる。
ベッドの上と足元に、彼女たちによって脱ぎ捨てられたままの、二人分のアオヤイとブラが散乱する。シャツを脱ぐ。
衣擦れの音がする。ショートパンツに着替えて、肌。色彩。私の腕はフエの色彩に近いほどに褐色に染まっていた。それが二の腕でその色彩を失い始め、気の長いグラデーションを描いて、やがては胸元、胸、そして腹部の、真っ白い色彩に消し去られて仕舞う。いわば、乱暴に言って仕舞えば、二色の色差をもっているのだが、無様な色差をひとつに色彩に染めて仕舞おうとは想うものの、庭で肌を焼くことは出来なかった。
フエが、発狂したようになって、
Are you
私に食ってかかるから。
crazy ?
何遣ってるの?あなた、…この世の中の
おかしくなったの?
不条理のすべてを目の前にたたきつけられて仕舞ったかのように。混乱さえして。肌は、白くなければならない。そもそも、白いものだから。自分の肌の褐色を、無造作に曝しながら。ベッドの上の彼女たちに眼差しを落とし、眼差しが感じたのは、かすかな違和感。
なにが、おかしいのか、私は気付かない。眼差しは違和感に、一瞬軽く戸惑うが、確認しようとする眼差しの先に触れるのは、汗ばんで絡みつく二人の女のからだ、日陰の、明るさを全体に浴びた、それに過ぎない。細められた眼差しは諦めて、外に出ようとした瞬間に、ミーがわたしを見つめていたことを思い出す。
振り返ってみたベッドの上で、背を向けたフエの後頭部の、黒づいて、寝乱れたかみの毛の乱れのさきに、ミーの、かすかに笑んでいる眼差しが見つけられた。
見つめ返し、ややあって、私は微笑むしかない。やがて、私が立ち去ろうとするのに、明らかな拒否の色が浮かんだ。その眼差しに。
駄目
なぜ?
行ってはいけない
と、想うまでもなく、私のからだがドアをすり抜けていこうとするのを、ミーは、息をひそめて、やさしく、フエを起こして仕舞わないように気を使ってやりながら、やさしく、フエ。
フエはいつでも、苦しくて仕方がないかのように寝る。一日に、十時間も寝なければ気がすまないミー。
ベッドから、身をすべらせたミーが、私を追う。
私は家屋の中を、とはいえ、どこに落ちつこうというあてなどなかったから、さまようように。二つ目の居間で、水を飲む私をミーは見る。ずっと、微笑んでくれながら。私も同じように、そして、指先には水。
グラスのガラスを通して、感じられるはずもない水の触感。
てざわり。
私から、やさしい眼差しを離そうとしないミーの、傍らを抜けて仏間の翳に、そして、風通しと日照のせいで、そこだけはとても涼しい。私が、ときに振り返る眼差しの、そして彼女も確認するのだろうか?ミーの肌に確認したように。私の皮膚に、落とされた翳が、私の歩くにしたがって、その翳の色彩と形態を、崩し、移行させて仕舞うのを。
光の庭。夕方、とまでは言獲ない。午後5時。仕事が終る時間、平日ならば。休日の5時。いまだに力を失わない太陽の光は、しだいにやさしさを強めながらも庭に降り注ぐ。庭は光の、明るさのうちにたたずむ。
庭を、私を確認した3匹の猫が親しげで、媚びた一声をくれて、瞬間の停滞の後に、あわてて走り去って逃げる。
素足が、庭のコンクリート地の上の、砂粒の触感に痛みを知る。庭の、ちょうど真ん中にまで出ると、ミーは、家屋の正面の、仏間の開け放たれた六面の木戸の端にたたずんで、私に微笑む。まるで、それを、私自身が求めていた気さえした。
たとえば、…見て。と。もっと、ぼくを、見て、…と?
見て
ミー。
ぼくを
美しい、
見たいなら
華奢を極めた少年のような。中性的な少女のような。ミーの、真っ白いからだが、日陰に曝され、足元でだけ、直射にふれる。
声を立てて笑う。背後で、クラクションが鳴った。
門の先、ブーゲンビリアの向こう、主幹道路に一台のバイクが止まっていた。その、バイクにまたがった青年が、エンジンを吹かしてみせる。…行こう、と。
包帯を、頭にぐるぐる巻きにした青年。ショートパンツだけで、上半身を日に晒す。からだに、傷がある。打身の黒ずみの点在。まるで、いまさっきまで死んでいた人間が、なにかの間違いで突然蘇って仕舞ったような、そんな滑稽さがあった。あの青年。結婚式でも逢った、ミーが痛めつけさせた、あの、傷だらけの青年。振り返り見ると、仏間の翳にミーはもう、いない。すぐに、Tシャツに首をくぐらせながらミーは駆けてき、彼女が履いている私のショートパンツは大きすぎてだぶつく。
広い庭の中に、選んで私のすれすれにすれ違って見せて、私が嗅いだのは、その汗ばんだ体臭。寝起きの。他人の汗にさえ濡れた、その。
不意に立ち止まったミーが、振り返って、一瞬思いあぐね、すぐに私に駆け寄って、ミーの差し伸べた指先が私の唇をなぜた。目を閉じないままにキスをくれ、走り去る。傷だらけの成年は、ミーに柔らかい笑みを投げ続けていた。すべてが、と、いつでも、すべてが、いとおしくも美しいのだ、と、そんな留保なき確信をぶちまけようとしているかのように。バイクの後ろにまたがって、ミーがヘルメットをかぶり終わらないうちに、バイクは走り去った。
居間のソファに寝転がって、Line を開けば、大量の土砂災害の画像と、おかゆを食べさせられている父親の画像が交互に届いていた。美紗子。母親。いまや、老いさらばえた。
最後に、彼女を抱いてやった時、美紗子は何も言わなかった。そんな事実がかつてあったこと、それ自体が、すでに思い出されもしない過去になって仕舞ってから、たぶん十年以上経っていたはずだった。十代の私の眼差しが捉えた彼女と、三十代の私が捉えた彼女とには明らかな差異が、あるいは、差異しか、なかった。もはや、あの頃とその頃とでは、あからさまに違う人物たちが、違う物語を生きていた。たとえからだを同じうしたところで、もはや同じうするものは何もない気がした。それが許せなかったわけではない。なぜ、あんなことをしたのだろう?最後に顔を逢わせた夜に、美紗子はなにも言わずに受け入れて、私は激しい嫌悪感に駆られながら彼女を抱く。当然のように、美紗子はすべてを許して、そして、その日の朝にも、当然のような朝の笑顔をくれた。おはよう、と。老いさらばえた声で。ひさしぶりに実家に帰ってきて、遠い外国に行って仕舞う息子に見せるのに、ふさわしい、その。
父親はただ、介護ベッドの上から、言う。ああーぃ...
...ぃーぃええーんなぁー
からだに気をつけて、…な。
なんども繰り返して。繰り返しを聴くまでもなく、すぐさま理解されていく母音だけの
ああんぁおおうひおおぇええ
言葉。美紗子は
いおいえぇえうんぁあ
にこついて、ときに
あいえんあぁああぁ
声を立てて笑い、肉体。
花。
色彩をなくした、やせた全裸の青年が、目の前の床を張っていた。…ホア。まだ、這うことも出来なかったころに死んで仕舞ったというのに。
そんな、経験のなさを嘲笑わせさえせずに、ただ、床の上を這う。ホア。
涙を流して仕舞いそうになる、そんな感覚が、喉の奥にくすぶるだけで、私はそれを見つめるしかない。
色彩の無い、昏さにそまって、顔を失ったホア、声を立てて鳴きもしない。昏い。
ホアが、やわらかさの視覚の色をさえ失ったその両手足を、引きずるようにうごかして、這っていくその先から、床の緑の御影石を血の、鮮烈な紅彩が筋をひいて汚していく。ときに、どこから吐き出されて仕舞ったのか、ぶちまけられた血の飛沫をさえ飛ばしてみせながら、飛沫。
歌舞伎町のホストだった二十代の頃に、出会ったその女、私に貢いだ、あるいは、私を買った、その、四十代のアパレルの女社長は私をすべて、脱がせると、飛沫。
彼女の表参道の、かならずしも広くはないリビングの真ん中に立たせて、…ねぇ。
言った。
「ひざまづいてみて。」
酒に弱い女だった。シャンパンの数杯で、すぐに酔いつぶれてしまうくせに、何時間も、ずっとよいつぶれたまま起きている。だから、ずっと、酔いつぶれた眼差しを私に向ける。彼女がその人生の経験のひとつとして、捉えた私の姿の九割以上は、ほぼ、酔いつぶれた眼差しが捉えた、かすんで、ゆがんだ形態だったに違いない。たとえば、彼女の眼差しが私の、色彩のないくらい翳をいつか見出したなら、それを、私だと気付くことができるのだろうか。
「犬みたいに。」
表参道沿いの、古いマンション。グランド・フロアから
「ひざまづいて見せて。」
数えた二階、ようするに三階、窓から街路樹のてっぺんの茂みの、深い時間の朝の葉々の浪立ちが、ざわめく。
「…ね。べろ、…」
女は、
「だ、」
…名前は忘れた。確か、恵子、…けいこ、さん。彼女は
「だし、し」
夕方に待ちあわせて、彼女の原宿の会社の近くで食事をして、店に行く前に、雑な歌舞伎町のホテルで私を求めて、店に行って、朝が来て、そして、
「だっ、し、」
彼女の自宅に連れ込む。いつものように。…ねぇ。
「べろ、だし、し、…出して。」
…来て。媚びて、笑う。…来てよ。
「…ねぇ」
見せたいもの、あるの。そんなものんにぃねぇええー ありはしないのに。きって なにも。みせたぁぃもんの いつものように ああんぉ… 来て。
「犬っころみたいに」
午前、10時。
いにゅっ、っこ、ろぉみ、たいにぃい
…たぶん。時間、そんなものは、どうでもよかった。あのころ。時間はただ濫費させれるためにしかなかった。私の時間の、好き放題の濫費は、女たちに金を支払わせた。私はその大量の金銭を食い散らした。そして、彼女たちが食い散らし獲たのは、結局は私の肉体が与えるもの以外にはなかった。
微笑みながら、スリットの入った、短いスカートいっぱいにだらしなく股を広げて、ときにふらつきながら立ち尽くした彼女の目の前に、ひざまづいてやる私は微笑んでいる。スネに、張り替えられたフローリングの質感がある。やわらかい。防音素材なのだ、と言った。だから、大丈夫。
潤が、いっぱい声、だしても。
「犬みたい」
笑う。いっぱい、声、出して。
「ね、…犬?」
不意に、…ねぇ。声を立てて笑って、声、立てちゃう男、好きなの?
「誰の犬?」
嫌い。死ぬほど、嫌い。けど、…さ
「…ねぇ」
やぁあれのいんぬんあぉ? 潤のは聞きたい。
にぇぇえ
好きにしろ。…と、私は、その時の声を立ててやった。まだ、何もしていないのに、これ見よがしに、彼女と向い合わせに立ったままで。激しく、えづきながら、
「誰の犬なの?」
やれぇんぃにゅぁあのぅお
もう、なにもかもが耐えられないように、その声だけを。…もっと。
もっと、叫んじゃって。
「…ねぇ」
にぇぇえ
女は言った。
「誰の?」
叫んじゃっていいよ。
やぁれえのおぉお
「お前の、犬じゃん?」私は、言った。上目遣いに、彼女を見つめ、「決まってるでしょ?」…お前の…ね?
「お前だけの犬でしょ。」
「うそ」
うちょおおあー 女が叫んだ。大声で、笑い出して仕舞いながら。いま、為すべきなど、叫び、ただ叫び、泣き叫ぶがまでに、そして笑い、大声で、大丈夫。
誰にも聴こえはしないから。
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