小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説⑩









それら花々は恍惚をさえ曝さない。

…散文









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









蘭陵王/小説













もう、残っているのは十五人ばかりしかない。彼らのすべてが、《盗賊たち》であるわけではないのだろう。単なる友達もいれば、ひょっとしたら、親戚の人間だっていたかもしれない。いずれにしても、フエは不意に私を振り返って、大丈夫?

飲みすぎたの?

眼差しが私を伺う。花嫁は盛んに、膨張色にいよいよ肉体の豊満さを、無様なまでに強調しながらミーに何かを語り続けていた。まるで、年上の男性の友人のように、ミーはそれを聞いてやる。澄んだ眼差しがある。ミーの、それ。知性をなど、一切感じさせないままに、英知も何もないただ澄んだだけの眼差しが、花嫁を見つめる。やわらかい笑みだけを浮かべて。顔を包帯でぐるぐる巻きにした、あの犠牲者の男が私に新しいグラスを差し出すと、フエがあわてて拒絶した。

駄目よ

グラスを差し出す手にさえ、

もう、

包帯が

駄目

捲かれている。冷酷なミー。

決して違法者を許しはせず、容赦もせず、させもしない彼。沈黙したままの澄んだ眼差しを、私に、上目にミーは投げる。いずれにしても、私はもうすぐ、連休が終ったら日本へ行くのだという、《送り出し会社》の生徒と、一緒にカフェに行く約束があった。午後に。彼は、不安でたまらないのだった。私に感謝の意を表明しておきたい必然もあった。懇願するように媚びる眼差しを、断るわけにもいかなかった。フエの頬に口付けてやると、隣で花嫁が色づいた嬌声を上げてみせ、行くよ。

Anh đi về

私は言った。フエは微笑を薄くくれただけで、言葉を返しはしない。


うちに帰って、その日、二度目のシャワーを浴びて、簡単な服装に着替えて、そして、いつもの雑多なカフェに行くと、その、Kha カーという名の二十代半ばの青年は、先に来て独り、スマートホンをいじっていた。

《送り出し会社》の近くの、ベトナム中部の各地から集められた研修生たちのための寮の近くの、雑多で、雑然とし、廃屋のような、ただ、穢らしいカフェ。歩道にまでもちろんあの、赤いプラスティックの粗雑なテーブルと椅子が並べられ、安価なアイス・コーヒーを提供する。煙草の吸殻や紙くずやなにやかにや、棄てるべきものはすべて床の上にほうり投げられ、放置され、疎らなベトナム人の若い男たちの集合の中から、私がカーを認めると、私が声をかけるより先に顔を上げて、立ち上がって椅子を差し出した。…どうぞ、こちらへ。

せんせどじょお

甲高い笑い声を立てながら。あわてて、奥で椅子に座りこんでスマホをいじり続けている店員の女を呼ぶと、コーヒーを二杯頼んだ。カーは媚びて、どこか、縋るような眼差しを私に向けた。そして、選ばれた人間の矜持を、どこかに背景として秘めて。

カーは、クアン・ビンという、中部とはいえかなりの距離を隔てた田舎町から来た。いわゆるベトナム戦争、つまりは第二次インドシナ戦争のときの、地雷がいまだにどこかしらかにさび付いたまま大量に埋まっていて、いまだにどこかしらから発掘される。開発もされないがらんどうの町で、仕事もないから、普通、まともな人間は何かしら都市に流れてくる。そして、彼らは連休でも何でも、暇さえあれば必ずその出身地に帰る。そして言うのは、かならず、出身地こそは、ベトナムの中で一番美しい、と。

いじましいほどにきらつかせた眼差しをまばたかせ、うざったらしいほどに媚を撒くカーは、優秀な言語能力を持っているとは言獲ない。まだ、動詞の活用さえ、完全に教えられてはいない。とは言え、日本の会社が彼を買ったのだから、彼は日本へ行けるのだ。二週間ばかり休んで、実家で過ごし、今日の早朝にダナン市に帰ってきたばかりだと言った。関西空港へ、ダナンの国際空港から発つことになっている。

あさ。来ます。午前、6時です。

そして、二日ばかり、此処で過ごし、準備をし、

あさ。ぃきぃまっ。ごじぇぅん、ろっじ、

ダナンの空港からの直行便で関西国際空港へ行く。

大変。クアンビンは遠いですから。

6時間くらい。…たしか。

たいへんクアンビンわぁとうぃえっから

此処から関西まで、直行便なら。

日本の、どこへ行きますか、と、彼に聞いたら名古屋か岐阜だと言った。どっち?

まだ。

まじゃ

これから?

まだ、知りません。

まじゃしらなせぇ

名古屋は、どんなところですか?

まじゃ、まじゃまじゃ…

言う彼に、いいところだよ、と、私はそう返すしかない。なんどか行ったことはある。どこまでも、真っ平らな街だった。山影と言うものが、見えない。ある意味において、その平野の規模はともかく、見える風景はベトナムのサイゴンに似ていた。その、土地の形だけは。

岐阜は?

ぎっわ

女の人がきれいです。

本当ですか?

うなづく。

ほぅんとじぇっか

事実かどうかは知らない。すくなくとも使われる化粧品はここより綺麗なはずだ。

浅黒く日焼けした肌。フエよりも黒い。しみこむような褐色を曝し、いかにも丸顔で、えらの張った骨格を曝す。はっきり言って仕舞えば、日本のことなどよく知りもしない。

もともと、その国に興味があったわけではない。自国で、少しでもチャンスを獲得すために、海外経験が何より必要だった。就職するにしてもなんにしても。いずれにしても、日本に行けば、単なる貨幣価値の差異のせいで、賃金は多くなる。たとえ、買い付けられたのがかの国の地方の零細企業の、がんじがらめの奴隷労働であったとしても。

日本に対する知識も、興味も、基本的に後付けに過ぎない。彼にとっては、彼の生活拠点は、日本に住もうがどこに住もうが、結局はベトナムの、母なる故郷クアンビンなのだった。一般的に教育程度の低い男たちは。そして、むしろ女性たちは、容赦なく平気で海を渡って帰ってこなくなる。男たちは、いずれにしても、どこか、どうしようもなくいじましい帰巣本能を曝してやまない。

同時に、日本の大学に留学して帰ってきたベトナム人たちは、男も女も、たいていはどこかで国を棄てた風情を曝す。一種の軽蔑さえ曝して。付け焼刃の知性らしきものを身につけ、こんな国に、いつまでもいるものじゃないよ、と。まるで、知性と言うものが、自分の周囲そのものを軽蔑するためにしか存在しないとばかりに。









労働者に過ぎないカーは、そんなアジアの先進国風に、エレガントに斜に構えてみせた、そして、本質的にはいじけたところのある感性になど一切ふれることさえできずに、たんなる、野放図な愛国者に過ぎない。

二時過ぎの、執拗な暑さを内側に含んだ大気が、連休のために、人通りをなくした街路に停滞する。日差しは土を曝したままの路面に直射し、容赦もない。カフェに座り込んだ数人の青年たちは、店員含めて、誰も彼が猫背でスマホをいじり続ける。カフェの客は男しかいない。髪の毛を刈り上げて、自然とつんつん咎って仕舞ったカーのかみの毛の、その反射光の白濁を点在させた鮮やかに黒い色彩の下に、カーは大袈裟な笑みを浮かべ続け、眼差しはあてどもなく泳いで止まない。

その實、不安で仕方ない。

後二日しかない、と言うことなのかもしれない。それが、渡日を待ち望み、あの《奴隷売買》以外のなにものにも見えない面接を繰り返して、やっとつかんだ渡航切符である、ということと、あと二日で知りもしない外国に、数年間の契約期間にわたって拘束され、滞在しなければならない不安とは、また、共存しながらもあいまみえないもの、なのかも知れない。

たどたどしい文法、忘れかけの数少ない語彙、そのうちにすぐに話すことなど、あるいは、話せることなど尽きてしまって、不意に、思い出したように、恋人が日本にいます、と言った。前にも、聴いた事がある。授業のときに。カーの恋人は、福岡にいた。農業実習生として。

遠いですか?近いですか?と言う。それは、自分で、前にも私に聴いたことだった。

遠い…ね、と。

言って、しかし、新幹線で三時間くらいだ、と。新幹線、というその言葉が、無意味に憧れをカーの眼差しに浮かべさせ、直接的な、現実的な、余りにも遠い距離の隔たりの、不可能性そのものを見えなくさせる。

そもそも、それを意図して、新幹線の話しなど持ち出したのだった。…《有償奴隷たち》。経済網がこのうえもなく上品に、エレガントに作り上げていく、もはや国家あるいは領土の枠にかならずしも縛られるわけでもなく拡げられていく、留保なき殖民地活動。

奴隷売買。

いつかのスカイプ面接で、パソコンの向こうにいた日本人の下請け企業は、明らかにベトナム人主体に買いあさっていた。日本語が流暢なベトナム人さえ自分たちの周りにはべられせて。次の標的はどの国だろう。あるいは、どのくらいの貨幣価値に停滞していて、どのくらいの教育水準を維持しているところの、どの地域の、どの国家に所属する、どの人種なのだろう?のこっている、扱いやすい《親日国》は、どこだろうか?扱いやすい、値札を首からぶら下げた奴隷候補の人材たちの産出地は?奴隷売買に、もはや人種も、肌の色も、宗教も、そんなものは一切無効だった。貨幣価値の差異と、御しやすい効率性こそが、奴隷たり獲る条件であるに過ぎない。教育、あるいは知性とは、たんなる家畜化された御しやすさ以外をは意味しない。

恋人に会いますか?

言ったら、カーは声を立てて笑う。

いいえ。あいません。

のけぞって、

いーぇえ。あいましぃえ、え

大袈裟に、そして、たぶん、逢えません、といいたいのだろうと、察された。

とおいですから。

手のひらと手のひらを

ろーいぃでっから

かさね合わせて、そして拡げる。いっぱいに

といぃー

ほら。

とぅ、いぃー

こんなに遠い。

アラスカよりは近いだろう?と、そう言おうとして、そんな比較文法など、彼はまだ知らないことを思い出す。

時間を持て余し、近くの海に行った。ミーケーという海岸。津波など起こしようもない、いわば、牙の無い脆弱な海。海岸には、驚くほどにまばらにしか人がいない。なぜなら、この午後の浅い時間、まだ日差しが高く直射する時間帯に、海岸になど行く人間など、地元の人間たちにとっては気狂いじみた行為にほからないから。

海岸を、少数の白人たちがたたずみ、大量の韓国人たちが、強烈な日差しに顔をしかめ、そして、タンクトップとノースリーブから肌を露骨に曝す。海岸とは、肌を曝すために存在するのだ、と。

日本語の音声と韓国語の音声が、結局は区別がつかないほどに酷似していることにいつものように、そして何度目かに気付く。舌に高速にかたかた叩きつけるか、舌の奥にもてあそんでじゅくじゅく舐めるかの違いにすぎない。耳に、同じように響く。空港のロビーで。町の中で。ふとしたすれ違いざまに。レストランの中で、となりあわせに。海岸で。外国の街。容赦ない、お互いがお互いの模造品であるかのような類似。お互いに、異郷の人間としてすれ違うならば。

海。

韓国人たちは、奇妙に同じような顔をしている。

ざわめく。

日本人と中国人との差異は女のメイクの違いに過ぎない。

浪。

それら複数の、浪。固有の、ただただその一回性のもとに消え去っていくそれらの、…浪。無際限な集合にほかならないそれは、眼差しの中に、…浪。ようするに一つの浪立ち。

浪が打ち、打ち続け、それらはざわめくが、

ベトナム人はきれいですね。

カーが秘密ごとめいて、耳打ちした。だれに聴こえるわけも鳴く、覚えたての日本語など、彼らがわかるわけもないのに、私たちの目の前で、なにか文句を言い合っている韓国人カップルの集団に気を使って。

ひねくれた、軽蔑交じりの眼差しを加えながら。

カーが、頬を軽蔑的にふくらませて笑った。

ベトナム人は、いちばん、きれいです。

韓国人たちの何が、カーに気に食わないのだろう?たぶん、単に、そして留保なく、韓国人がベトナム人ではないからに違いない。

ざわめく浪の音が、連なる。聴こえた。人々のさまざまな言語の、低い聞き取れない遠い木魂しのような連なりのむこうに、…あるいは、むしろ、こっちに。

日本は、あっちです。

私は、海の果てのほうを指さした。ダナン市の海岸は東向きだから。東の海の向こう。雪。

それは雪なのだ、と想った。

ブーゲンビリアの花々。

直射日光にまばたき、傍らのカーを振り向けば、直射した午後の海の日差しは彼の褐色の皮膚を、そしてそのかみの毛を光に白濁させるのだが、純白の。

その雪は。眼差しのなかにいっぱいに広がった、その、ブーゲンビリアの花々は。

気付く。それらは雪に過ぎない。

その本性を曝してみろ、と想う。お前たちの本性を。結局は、いかに指先を、そっと、気付かれないように、壊して仕舞わないように差し伸べて、触れようとしても、ふれた瞬間にはすでに私の体温が一瞬のうちに溶かして仕舞っていて、水に変わり果てて、私は一度たちとも雪そのものに触れたことなどなかった。

いつでも。

すでに。

雪が

いつであっても、雪は、そして

舞う

雪なのだ。その花々。いま、眼差しが見つめるブーゲンビリアの、その、匂って撒き散らされる色彩、むらさきがかった、赤の、要するにあざやかな紅。その、それら、…色彩。

愉しいですね。

カーが言った。にこやかに、笑みをくれながら。私たちの肌が汗ばんでいることをは知っている。知ってるよ、と、言いそうになった。私はずっと、彼を傷付けたり、不安がらせたりしないように、親切そうな微笑をくれてやりながら、ぼくたちが今、時間を持て余してだけいて、まともに交わされるべき会話の手立てさえなく、単に立ち尽くしているに過ぎないことくらいは。

知ってるよ。安心して。

私はカーの背をなぜてやった。外国人たちが海に入る。生暖かい温度。潮に塗れて。

声を立てない。不思議なくらいに。肌を曝しながら、それでも日焼けを気にするのは、韓国人と中国人に過ぎない。

日本人は、奇妙なほどに目に付かない。そんな人種がこの世に存在すること自体が、なにかのフィクションのようにさえ想える。アメリカ映画が作り上げた虚構なのではないか?どこかの島の食人族や、どこかの奥地のゾンビかなにかと同じく。韓国人が、わざと立てた水しぶきに、短い喚声を上げてみる。背後に、主幹道路に疾走するバイクの音が連なる。遠く。

水面の群れは、止め処も無い浪打ちの連なりのきらめきの明滅に、その、太陽光の反射をざわめかせて止まずに、…太陽。あまりに野生的なもの。

見上げられたそれはむしろ、ただ野生そのものとして、まったき他人、預かりも知らない他者そのもとしてだけ、空のやや低いところに直視できないまぶしすぎる閃光を放つ。

誰のためのものであったこともなかった。なにものかのためであったことなどなかった。太陽は。その膨大な時間を浪費しての自己破壊の燃焼は。それ。それら。空の色彩も。光そのものも。海も。大気も。風も。温度も。

太陽は、結局はそれが私の眼差しに触れるためにそこに存在しているわけではなかったことを明示して止まない。私の眼差しに、ふれるときにはいつでもまさに。無慈悲なまでの他人の輝き。閃光。破壊的に、肌を焼き、やがては私たちを破壊して仕舞う。だから、懸命な人間たちはそれから隠れ、日翳げに身を寄せる。汗を拭い、火照る皮膚をいたわってみる。

野生の息吹。留保もなき、ただ、破壊的な。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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