小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説⑧
それら花々は恍惚をさえ曝さない
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
ね?
声。フエが放つ、ベトナム語の音声の群れ。その、否応無く感じ取られる聞き取れさえしない言葉の意味の群れが耳にふれて、私は目をそらした。ミーは、むしろその、美しいものが持っていてしかるべき矜持をあえて曝して見せたように、直視した。
私を。
なぜ、と。
想う。なぜ、ここにいるの?
何の必然性も、ありはしないのに。なんの記憶さえも、もはや存在してはいないのに。振り返った向こうの、たんなる無意味なヴォイドとして、通路の用をしか足さない三番目の居間の突き当たりの壁際に、ただ、血を流し続けるのは理沙。
その、見たこともない単に地味な、それが女であることが確認できるだけの不細工な形態。デッサンのゆがんだ、できそこないの人体造型。
色彩を無慈悲なまでに完全になくして仕舞って、そして、どうして、と、私の想いは言葉にはならない。背後に、ミーの笑い声が聞こえる。どうして、こんなふうに、君は生まれ変わって仕舞ったのだろう、君は、こんな異国で。そして。
そんな大量の血など、人体に含まれているはずも無いのに、理沙の開かれた口はその鮮烈な色彩の濁流を、あふれさせて留まらない。
どうして?
花々
そんなところに
きらめくのは
涙さえ、
花々
たたずんでいるの?
その
もう、
色彩は
噴出しながら
見出され獲たことなどあったのだろうか?
私は
光と
鮮血を
網膜に
ながさない。
つかれた嘘を通さずに
ただ、…。
朽ち果てたように。私は寧ろ、涙さえも流せないままに、背後のミーたちを悲しむ。体中に、神経線の中が痛い。感じ取られた痛みなど、どこにありはしないのに。
やがて、疲れ果ててソファに身を投げていた私に、アオヤイで着飾ったふたりが姿を現す。奥の日翳げから、色づき渡った笑い声を立てながら。並べば、フエのほうが少しだけ背が高く、あるいは、余り似ていない姉妹のように見えるかも知れない。
私が投げて遣った微笑みは、騒ぎ立つ彼女たちには何の影響さえ及ぼさない。無造作な、戯れあいの中に、ようやく私の存在に気付いたかのように、フエが言った。
Đẹp trai
私に。
あら、…
装って
ハンサムさん。
媚をあふれさせた笑みをくれて。
完璧に施された、いかにも描かれたはっきりとしたメイクが、ふたりに造り込まれた美しいふたりの女を存在させる。
虚構された美、そして、虚構されてあることを、一切悔いようとはしない。恥ずかしげもなく、あなたが見ているのは、いわば描かれた美しい絵なのだと、そのまま地の声で耳元に話されたような、そんな、私を戸惑わせたふたりの美しさ。
ミーの短髪が、あきらかに理不尽な悲惨さを、その美しさに鮮やかな破滅の色彩を加えて、みずからは何も意識しない。
そこに、容赦もない破滅美を目覚めさせて仕舞ったことをなどは。
ミーの友達の結婚式なのだ、と、フエが口ぞえた。彼女の、彼女のお姉さんの。
Her girl friends’
微笑む。そして
syster
笑う。繰り返す。
marriage
それを。
ふたりは。
ひっぱり出したホンダの真っ白いスクーターを、運転するのは私だった。ミーを真ん中にして、フエがうしろから私の腹部に手を廻し、しがみつく。お互いに、からだは押しつぶされそうなほどに密着し、その息ぐるしさにミーは、大袈裟にわざと暴れてみせる。二人は、いずれにしても、きっかけを探し出しては戯れあうことをやめない。
家を出るときすれ違った、路上でトヨタのワゴンを洗車中のあの白い男は、私たちに気付いた瞬間に、明らかな殺意のような、暗い、ただ暗い感情を、眼差しに容赦なく曝す。戯れあう二人には、気付かれもしないままに。
フエがいちいち英語に翻訳してくれる、ミーの指示の先に辿り着いたのは、前日の朝の、あの喫茶店だった。
前面道路の半分にまでもはみ出してテントが張られ、その翳の下に丸テーブルが並べられる。アルミの。そして敷かれた粗い装飾布が、無造作に日翳げに色彩を投げる。その飢えに、必要以上にグラスと茶碗と平皿が並べられ、料理の殆どがラップされたまま、すでに並べられていた。
午前十一時。もうすぐ、パーティが始まるのだった。用意された席の半分以上を、人々が埋めていた。若い、十代から二十代の、行ってその後半までの若い男たちと女たちが、でたらめに座を埋めて、だれもがすぐにはその顕れた、美しい女の一人がミーだとは気付かない。ほんの数秒の眼差しの、戸惑った揺らめきの後に、彼らは急に喚声を上げてミーに群がり、罵るような賛辞をくれる。
あの女はいない。そして、もう、私は確信してさえいた。これは、あの女結婚式に違いないと。群がってくる集団の中に、顔の半分近くを包帯にぐるぐる巻きにした男が、笑い顔をときに痛みにひきつらせて仕舞いながら、ミーにじゃれる。右足を引きずって。
彼は、ぼろぼろになっても、生きてはいた。女たちは、私に、だれもがそうするような、一様の流し目をくれる。いつものように。
あら…
ただ、
やだ
私は
どなた?
その眼差しに倦む。
人の子を散らしたように、喚声を上げ続ける集団が場を空けて、その、ミーをバイクの後ろに乗っけていたサングラスの女がそれに違いない、彼女の彼女がそこに微笑む。極端に露出の高いドレスに、書かれた完璧な顔を曝して。女のとなりがミーの席であることは、すでに法律で決まっている。女の眼差しが、私とミーとを交互に前後して、どちらにともなく媚びて色づく。
ミーが、彼らに私たちを何と言って紹介したのかは知らない。ミーの到着だけを待っていたように、ビールは抜かれ、ラップははがされて、強奪されるようにパーティは始まった。ハンだ、と言って、フエが私に紹介したミーの恋人は、むしろ、何かの精神疾患か、薬物の影響を感じさせるほどに、開かれきった瞳孔に私を捉えて、ふるえる黒眼はただ、無言に媚を曝す。二十代の前半。たぶん。この女の姉に違いない。あの女は。
ざわめき声が群れをなして、乾杯の音頭が四方で鳴って、それらの連鎖のなかに、三十分おくれてバイクに乗った新郎と新婦たちが到着したときには、すでに席は乱れ始めている。街中に、ベトナムのどこにでも必要以上に乱立するブライダルショップのひとつで、ウェディングドレスの着付けをしていたに違いなかった。透けるレース地の、純白のドレスが、必要以上に協調されたその豊満なからだのラインごと膨張させて、むしろ、みだらなまでの肥満を感じさせた。
まるで、高額娼婦の熟れの果てかなにかのような。
それは、あの女だった。予想の通りに、そして、妹の祝福を受けるすれ違いざまに、私に、何の色づきもない、会ったこともない人を見るような眼差しをくれたのが、私を戸惑わせた。
誰かが持ち込んだ、こまのついた巨大なスピーカーから鳴らされだした轟音の、現地のダンスミュージックが空気を割って、その騒音のただなかに、新郎と新婦は長い長いキスを曝した。やせたひょろながい痩せ身の新郎は、まるで、卑猥な純白の肉の塊にからだごと突っ込んでいるように見える。
目を、やさしく閉じて、地味な顔立ちを精一杯に気取って。
まどろむ。
カフェの奥の、物置のような彼女たちの寝室のベッドの上に横たわったまま。
それほど飲んだわけでもないのに目舞いがして、帰ろうとするのを新郎が引き止め、私を彼らのベッドに横にならせた。
ただただ乱雑に小穢い部屋の開けっ放しの向こうに、パーティの騒音が、次第に人数を間引きさせながら立ち騒ぎつづける。目舞いはやまない。さまざまな混濁した匂いが鼻にふれて、はなれない。
女の。女たちの?男と女の。残り香、生活臭、腐敗臭、衣服の匂い、その他。
誰が一体住んでいるのか、もはや定かではない男用、女用、あきらかな子供用、各種のサイズ、色、かたち、それらがでたらめに山づみされた、無造作な隅の衣服の束が、いつまでも鼻に馴れない匂いを撒き散らす。
剥げて、漏れて染みた雨水のつけた色彩の鈍い混濁を曝す壁面に、日差しが投げやりにうちつけて、その、廃屋のようなたたずまいを容赦なく曝した。約二週間の休暇のあとで、いよいよ日本に渡るのだという、ヴァンという青年が言った。
いつか、二日前か、その前か。あの、送り出し会社の生徒が。最後に、個人的に施した会話の授業の中で。
私が質問したのは、単純な構文。
日本と、ベトナムと、どちらに住みたいですか?
比較構文の例題。笑んだ私の顔に、いつでも真っ向から、無意味に微笑を返す悪びれもないヴァンが、素直にベトナムです、と答えた。
どうしてですか?
大袈裟に、おどけた表情を曝して見せた私に声を立てて笑いかけ、留保もなく答える。
ベトナムのほうが、きれいです。…から。
笑うしかない。一瞬たりとも外国人の心情さえ考慮に入れない、田舎者じみた愛国の表明。それが当然で、だれもがそう思うに違いない当たり前の常識であるかのように。《有償奴隷たち》…なのに、帰ってきた後でもなぜ、日本にふたたび行きたがるのだろう?
なんども、なんども、チャンスをうかがって。
捲き上げられたままの蚊帳が、風にそよぐ。雨の日に、やがてはあの女が私に覆いかぶさるときにも、もっと湿った気配をたたえて、そよぐそれ。名前は知らない。女の。
匂う。
その女が、入り口の向こう、日差しの下の、テントが無理やり作った日陰の中に、正午過ぎの祝福を浴びる。血まみれのミーが、絶望さえさらさら無い、表情のかけた眼差しを曝した。
問いかけようとする。…何を?
声もでない。
何を見てるの?新婦が新郎の頭を戯れに引っぱたいて見せ、…君は。何を?
見てるの?…何を?
両目が開かれただけの血まみれの顔がつつんだ、その、精神?…そのうちに、壊れかけの。
瀕死の。
死にかけた。
美しいミー、君は、今更血に塗れて君は、嬌声。へたくそなカラオケの轟音が鳴り、ひときわ高い笑い声を立てるのはハンの傍らに立った女装のミー。なにも、言葉を発そうともしない唇を、ミーは、ただ、力なく開き。
死にゆくミー。
なぜ、今更。…想った。
君はふたたび死のうとするの?
まばたき、指先が私の額に触れたことに気付く。ミー。彼女は静かに、案じる眼差しで私を見下ろした。覗き込むように。
額に手を当てて、彼女は私の熱を、なぜか測る。手のひらが、私の体温にじかに触れる。十六歳よ、と、フエは、彼女に髪をとかさせながら、言った。結婚式のために、うちを出る前の、最後の、身づくろい。
お父さんとお母さんは、もういない。
どこに?
…天国に。
指先。上を指すフエの指先の向こうに、色彩の無いダットが張り付いたままだった。
ミーは、フエの髪をとかしてやりながら、あなぼこ。昏いそれ、私から微笑む眼差しをそらさない。流す。それは、血を。下に。重力に素直に。もはや、そんなもの感じているはずもないのに。ただの、あなぼこのくせに。
見開いただけの眼差しが、仰向けに横たわったまま、覗き込む彼女の眼差しに触れる。鮮やかな、薄紫のアオヤイが匂いを立てる。どこかで決定的に、色づいた清冽さを香らせる、絹固有の匂い。
瞬き、私は目を閉じる。閉じられた眼差しの向こうに、遠くフエの声が聞こえ、離された手のひらは名残らせた彼女の体温の残像だけを、感じさせる。
かすれる衣擦れの音、そして、空気のざわめき。
立ち去った少女。あるいは少年。美しいミー。
やがてすぐに死んで仕舞う、彼女。惨殺されて。
血に塗れて。
刈り上げられた短髪が、どうしようもない悲惨さを付与するむき出しの美しさ。誰かが私をまたがって、壁際に添い寝した。女。からだをよせて、私の腹部に添えられた手のひらが、私をただいつくしむようになぜた。
大丈夫、と。そのまま寝て仕舞っても、構わない。
手のひらの触感が、そうつぶやく。何も心配はないから。…なにも、と。
視界に、なにも入れたくはなかった。ただ、私はまどろんだ。閉じたまぶたの中にさえ、止め処もない視覚が止め処も無くなにかを見せ付けるのをやめはしないことなど知っていながら。
停滞したブーゲンビリアは音さえ立てない。
鈍い、締め付けられ苦痛に似た疲労が、鼻の付け根、目の奥にほのかに停滞した。フエの妹と母親は、彼女の目の前で死んで仕舞ったのだ、と、その弟は言った。ナムに、英語に通訳してもらいながら、私はそれを聴いたのだった。私たちの結婚式の前日の、家族だけのうちわの小さなパーティで。ナムという陽気な乱入者を含めて。
むかし語る。
酔いつぶれかけた眼差しを、鈍くナムだけ投げかけて、フエの弟は。
彼が十八歳だった頃、庭先で、土地問題のせいで喧嘩別れして仕舞う前の、いとこが生んだ二人目の幼児をあやしてやる。フエ。日曜日。
昼下がり。
妹を連れて、英語学校へ行く母親が、またがったバイクのクラクションを鳴らして、妹に催促をかける。
きらめかせるのは直射日光。
奥から、歯ブラシを口に刺したまま顔を出した妹に、甲高い罵声を浴びせたのは、その母親と、それに同調したフエ。
早く。
Nhanh
駆け込んだ奥で、うがいをする音が派手に鳴る。
幼児が、転びそうになって、あわてて駆け寄ったフエが抱きかかえた腕のなかに、幼児がもがく。言葉にはならず、吠えるのとも、鳴くのとも違う、あきらかにヒト、その、言葉にいまだふれないままのヒト科ヒトの稚児が立てた嬌声。
白いアオヤイのまま駆け出してきた妹がバイクに飛び乗ったときに、その、赤いヤマハのスクーターが揺れる。
大袈裟な罵り声。時間はまだ、十分にある。それに、遅刻することが当たり前の国なのだった。いつでも、いかなるときも、どんな場所でも、どんな場合でも。ここでは三十分程度の遅刻は倫理だ。
ふかされたエンジンが音を立てて、フエは手を振ってみせる。いらだった彼女たちは振り返らない。そのまま、吸い込まれるように走り出し、主幹道路に曲がろうとしたその瞬間に、逆光のふたりの翳を大型トラックが消し去ってしまう。
一瞬のうちに。
何事も無かったかのように。バイクごと、轟音さえ立てずに、ただ、短いノイズが遠く聴こえた。
そうなる事が、当たり前の、当然であるかのように。音響そのものが消滅したかのような、ほんの刹那の静寂、その、真空に落ち込んだに違いない寂とした一秒未満、やがて、一気に罵声が立ちかい、騒音、そして怒号、人々が駆けつけていくことが、音響として理解される。
立ったまま、失心していたフエは、ただ、すべてを音響として、それに触れていた。容赦もない、その現実。それ、そのものに。涙を拭って、自分の眼差しのすぐ先で起こったことであるかのように語る。
弟、…、名前は忘れてしまった。彼の。その日、そもそも、その日もいつものように、Trần Thị Ý チャン・ティ・イーのうちに入り浸りっぱなしで、うちにはいなかった彼は。
フエ。
ミーを立たせてふたたびひざまづき、メイクの修正をほどこしてやるフエ。美しい女たち。装われた女、留保なく、自分たちが女であると言うどうしようもない真実を装って表現しつくす女たち。ミーが、私のからだの上にその幼いからだを曝して、腰を使う。それが、夢だということには、すでに気付いていた。
あの時、メイクをもう一度施されなおすミーを見やりながら、不意に鳴った Line の無料通話の、向こうで、困り果てた顔をした美沙子の、老いさらばえた顔が、斜めにさした日差しの、画面を反射させた白濁の中に、
…地震よ。
顰め声で言って、すぐさま鼻にだけ笑い声を立てた美沙子の声には、なぜか軽蔑し、嘲笑うような気配があった。
白い肌が、色彩を失ったままに、私のからだは快感をさえ、あるいは、そのそもそもの触覚それ自体をさえ、発動させない。自分勝手に、ミーは腰を降るしかなく、彼女の顔は見えない。
ただ、色彩をなくし、暗い、彼女のそれは、私の眼差しを拒否しながら、関西よ。
美紗子が言った。
こっちもいっぱいゆれたよ。となりだからな、すぐ、と、諦めはて、軽蔑しきり、挙句嘲笑し、生まれてきたこと、それ自体を後悔させてやりたい、そんな欲望に突き動かされたはずなど無かった。そんなはずは、と、戸惑いを曝す私を、ミーは考慮しない。
穴を空けたように、開かれきった口が垂れ流すのは、鮮烈な血の色彩、…赤。
私は、彼女に壊される、上に乗ったミーに、彼女、私が壊して仕舞った残骸。…こっちも、と。
土砂が崩れたばかりよ。もう一度。
台風のせいで。
あのあと、すぐにね。
…美紗子。美紗子は水平に、血を流す。
静かに、ものも言わずに。
凄惨なまでの、日本の自然。叩き潰し、なぎ倒し、破壊し、破滅させ、それを繰り返しつづけなけば気がすまい、その。理不尽で、無慈悲で、容赦もなく、絶望的であること事態を、ただ恍惚として曝し続けるかのような。
ただ、過酷でだけあろうとする。
じかに、私の唇に触れたそれが、誰だかは知っていた。色彩の無い、彼。
両目から、血を流す。色彩。
冷酷なほどにその鮮度を誇る、その色彩、それは赤。見事なまでに、ただ、醜悪な彼。
もはやかたちを留めない、たんなる昏さ。
穢らしい、その。
目を背けることさえできずに、私は、朽ちかけの。
腐りかけの。
ボロボロの。
悲惨な
汚穢そのもの。
永遠に穢いもの。
破滅した。
原型さえない。
無慈悲なまでの。
ただ昏いだけのあなぼこで、色彩もないままに、決してその姿を曝しはしない、彼。
止め処も無い、両目の血。開かれた口からは、そして、それら、血。その、色彩。
私。
それは、色彩を喪失した私にほかなならない。
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