小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説⑦
それら花々は恍惚をさえ曝さない
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
ミーは、不意に声を立てて笑った。私に流し目をくれる。
Go wedding party
フエが、表情さえ変えずに、私に言った。…行きましょう。
結婚式に。
結婚式?
Lễ kết hôn ?
けっこんしき、に、いきましょう
うなずきもしない。フエは。
けこんしきいぃんきましょ
つぶやいて、フエはそして、短く声を立てて笑う。
シャワーは一緒に浴びた。先に出た私が、普通にショートパンツを履いて、ソファでパソコンを見ていると、ミーは私たちの寝室から、勝手に探り出してきたフエのパーティドレスや、アオヤイを、テーブルの上にでたらめに並べていった。ぬれた髪をバスタオルに拭き取りながら、裸のままにフエは出てきて、その無造作に積まれた衣装のに目をくれて、そのミーの行為には文句さえつけない。
扇風機を廻し、椅子に座りこんで、身をくねらせて、ミーが選んで差し出すドレスのひとつひとつに駄目出ししていく。…駄目よ。
テーブルの上の、無造作な
違うわ。
ドレスの山を、なんども
それじゃない。
ひっくりかえして、ときに
それも。
声さえ立てて笑いながら
気分じゃない。
なかなか乾きもしない
…なかったっけ?
そのかみの毛。ながい、
もっと、ほかに。
そして
ちゃんと、持ってきたの?
ながい選別。ふいに
全部。
立ち上がったフエは、寝室に引き込んで、私のためのスーツを一そろい持ち出す。…着て。…ね?
ようやく選んだ、候補の四着をミーに抱えさせ、ようやく寝室に引き込む。私は立ち上がって、スーツに着替え、どうせ時間がかかるに決まっている。
冷蔵庫をあけ、グラスに氷を落とす。
鳴らされる音。
注ぐ水。…透明な。
色彩。
透明無色とはいえ、まがうことなく、そこにそれが存在していることを、執拗なほどに明示する、その、色彩さえない存在の色彩、…と、しか、いえないその、実体。顔を上げた至近距離に、あの、朝の白い男が立ち尽くしていた。私が殴ってやった、あの。
息がかかりあうべき距離に。その、見たこともない穴だらけの形態。むぞうさに、翳に無数の洞穴を穿って戯れたような。
絶望。
留保なき、容赦なき、無慈悲なまでの、唯のむき出しの絶望。不意に開かれた真ん丸く開いた口から、血が一気に下にあふれだす。床を、水浸しに…血で浸して生きながら。
色彩の無い、その男。あるいは穴だらけの何か。彼はただ、そこで絶望していた。なにに、というわけでさえもなくて。
もはや。ただの昏さそのものとして。…まばたく。私は。
空間に、彼が存在していた気配だけでも探してみる。床は窓越しの陽光を、反射させる。あわい、いたずらなだけの反射の白濁、グラスにふれた唇に、その触感がある。冷たく、硬く、ぬれた、その。
私は息遣う。振り返った先の、屋外の竈へとつづく開け放たれたドアの向こうの、まだるっこしい逆光の中で、見も知らない老人が開け放った口からいっぱいの血を垂れ流す。しずかにだらだらと、そして彼の周囲に光は無く、色彩も無く、音もない。
ミー。
不意に、耐え難いほどに沸き立ったどうしようもない懐かしさに、私は想わず手を差し伸べるのだが、逆光の中、庭は日に照っている。
きらめき、きらめきながらもそこにはもはや、朝の気配は完全にない。容赦もない。
ただの、午前だという以外に何ものをも曝さない、光。土に蒸したこけ。錆びた、冴えた緑彩。その横には赤茶に錆びついたトタン屋根の下の崩れかけの竈。煤にまみれ、誰も使わなくなったそこの横には、積まれたままの薪の山がその名残を留めて、てっぺんで猫が見つめた。白い、その猫が。
私を。
ミーが消えうせても、消えうせないままの私に残った、その耐えられない懐かしさの残存に、私はなすすべもなく涙を流していたのだった。
声は無い。
泣き声をさえ、もはやなくして仕舞った気がした。あまりに切なる悲しみに、泣き声さえもが追いつけないのではなくて、もとから泣き声などもっていなかったのだ。私は。そうとしか想えなかった。さまようしかない眼差しの中に、苔の向こう、やがてはバナナの木が無造作に実をつけていた。さかさまに、房を曝して。淡い、緑とさえ呼び獲ないほどの、淡すぎる緑。酸味が匂う。
背後に、花のない、名前さえ知らない樹木は沈黙するだけだ。
寝室に入ると、すべて肌を曝したミーが、そしてその前にフエは、ひざまづく。褐色の肌の背中が、くらんだ日差しの中に、いよいよ色彩を濃くした。
何をしてる?と、問いかけるまもなく、フエが自分の下着をとっかえひっかえして、ミーのための下着を選んで遣っていた。
少年が、少しだけ照れくさそうな笑みを装って、私に眼差しを投げたのは一瞬に過ぎない。白いミーの肌と、フエのそれが、鮮やかな対比を作っていた。戸惑いを曝したままに、私は、しずかに息遣って、前触れもなく振り向いたフエの、唯単につぶらなだけの目が、そして、広げた薄くピンク色がかった下着を、フエは私に差し出して見せる。…どう?
ねぇ、これなんか、どうかな?
倒錯的な匂いがする。むしろ、同性愛的な。
まだ未成年の土くれをつけたままのいわば奴隷の少女を、大人のレディが慰み者にしている、そんな、あるいはエレガントで貴族的な戯れ現場を見せ付けられたような。
生乾きのフエのかみの毛が、流れを打って背中に堕ちた。
私の同意を獲ないままに、顎をしゃくったフエの指図のままに、ミーは片足を上げて、フエが屈みこんで広げた薄手のそれに足を差し込む。華奢な、少女のような。
どうしてだろう、と、私は想った。
なぜ、彼を少年だと想いこんでいたのだろう。あの、彼に、暴力を容赦もなく加えて仕舞った早朝に、水流の飛び散るシャワールームで、彼を裸にひん剥いて、私の眼差しは彼の全裸を視界に治めていたのに。
なぜ、彼は少年でなければならなかったのだろう?すくなくとも、私にとって。
フエが、彼の眼差しの前で、すき放題に肌を曝してなんとも想わないその必然性を、ようやく理解した気がした。確かに、彼の名前は明らかに女性名なのだから、そうでなければならないはずだった。
薄手の下着が、彼の下半身をつつみ、下着だけを身に着けた、短髪の少女がいたいけもなくはにかみながら、私に上目遣いをくれる。
刈り上げられたかみの毛がむしろそこに、鮮やかな倒錯の気配をあたえた。まるで、収容所に収容された、捕虜の少女のように。これから拷問を受けるのか、性奴隷としてなぶられるのか、明日の栄光と勝利のための人体実験に供されるのか、単に集団屠殺されるのか、いずれにしても何かが間違っている。そして、それはまったくもって彼のせいではない。…あるいは、正確に言えば、彼女の。
うすく肉付いただけの、少女の少年の胸を、いっぱいに詰め物のされたブラが隠す。肌色の、余りに地味なそれ。それが、アオヤイ用のものだということは知っている。選んであったアオヤイを、フエは彼が、自分の16歳で失ったその妹であるか何かのように、着せてやる。まず、パンツを。真っ白い、さらさらする薄手のそれ。かすかな光沢は、単に、それが絹だから、なのだろうか。
薄紫色のトップが彼女の上半身をつつみ、パンツを隠して仕舞う。下からわき腹へと、斜めに這い昇って散らされた、何かの花の図柄。
紅に、紫味をかすかに含ませたそれ、想起される、ブーゲンビリアの色彩に、かすかに目舞う。
どう、で、すか?
どうぇすか
振り返ったフエに、私は答えなかった。下半身を膨らませる、だぶついたパンツが本来ありもしない曲線とボリュームを下半身に華奢な質感のままに与え、下着に作られ多体のラインに無造作に添ったトップが、華奢な身体に作られたひたすら女性的な線を、ふるえるように繊細に描く。
痛ましい。
刈り上げられた、徒刑囚のようなかみの毛と、色づいた少女の、ただただ綺麗でしかない気配が、残酷な刑罰をだけ、ただ、眼差しの前に曝した。
目をそらしもせずに、私は彼女の名前を呼んだ。
ミー
Mỹ
美
何?…
Nói gì ?
つぶやく、フエの声が、
なんて、
ひざまづいたままの下方から
言ったの?
聴こえた。
…đẹp
美しい
美
私は言った。フエはややあって、声を立てて笑う。…でしょう?
ね?
Mỹ
そうでしょう?
もっと、さ、だから
んー…
ほら、言ったじゃやない。
ちゃんと
なんか、…なんか
あんた、結構、かわいいのよ
背筋くらい
ね。…なんか
まって。
伸ばすものよ
違わない?
わたしほどじゃないけど。
だから
ねぇ
でしょ?
もっと
どうなの?
違う?
ばか
なんか、さ
やっぱ、この色…
なにやってるの?
違うんだって
言ったじゃない
ねぇ
わかる?
すごく映える…ね?
なにやってるの?
違う?
んー…
馬鹿な子
…じゃない?
あんたに
ほんとに
でも
ね?
声。フエが放つ、ベトナム語の音声の群れ。その、否応無く感じ取られる聞き取れさえしない言葉の意味の群れが耳にふれて、私は目をそらした。ミーは、もしろその、美しいものが持っていてしかるべき矜持をあえて曝して見せたように、直視した。
私を。
なぜ、と。
想う。なぜ、ここにいるの?
何の必然性も、ありはしないのに。なんの記憶さえも、もはや存在してはいないのに。振り返った向こうの、たんなる無意味なヴォイドとして、通路の用をしか足さない三番目の居間の突き当たりの壁際に、ただ、血を流し続けるのは理沙。
その、見たこともない単に地味な、それが女であることが確認できるだけの不細工な形態。デッサンのゆがんだ、できそこないの人体造型。
色彩を無慈悲なまでに完全になくして仕舞って、そして、どうして、と、私の想いは言葉にはならない。背後に、ミーの笑い声が聞こえる。どうして、こんなふうに、君は生まれ変わって仕舞ったのだろう、君は、こんな異国で。そして。
そんな大量の血など、人体に含まれているはずも無いのに、理沙の開かれた口はその鮮烈な色彩の濁流を、あふれさせて留まらない。
どうして?
0コメント