小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説⑥
それら花々は恍惚をさえ曝さない
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
フエは抵抗しない。…彼らは頭がおかしいののよ、と、言った。終ったあとで、フエは。そして、私は横たわった彼女の傍らに寄り添って、そして、ただ、彼女の頬を撫ぜたのだった。しゃくりあげ続けながら、彼女は、そして、フエ。
呆然としたように、私の頭をなぜながら、力尽きた私を抱きしめもせずに、…ひどい。
憎悪。留保も無く。憎む。迫害者たちを。嫌悪。たたきつけられた犬は立ち上がれもしなかった。フエは、何の抵抗も曝さずに、私の指先が彼女をなぜるがままにまかせ、指先は、悪趣味なピンク色の寝巻きの上からそのかたちをなぞった。怒号が立つ。一瞬唖然とした後で、人々は駆け寄って、なかなかその暴力をやめな いミーは、そしてだれかに突き飛ばされた。羽交い絞めされ、それでもその犬の首輪を放さない、彼の憎悪、指先は、いつか、やさしく彼女のそこを這う。フエのパンツを剥ぎ取って棄てるのに、時間などかからない。人々は、怒号に塗れ、ミーからやっと剥ぎ取られた犬はすでに口を広げきったまま、舌をさえ喉に押し込んで仕舞って、失心のうちに窒息しかかる、目を開けたまま。その、あるいは、精神の崩壊を曝した白眼は、何ものをも見ない。フエ。しゃくりあげるだけのフエは。ショートパンツを脱ぎ棄てた、私の裸をさえも。…どうするだろう?壊れ果てたように、しゃくりあげるしかない彼女のそのふるえる唇の先に、それを近付けてやったら?
ふくむのだろうか?唇に。朝のように、やさしく、装って、いつくしんだ眼差しを曝して、泣き叫びながら、太った女が犬をゆする。北欧系の、薄い茶色の短毛の猟犬。駆け寄ったとき、フエの眼差しが捉えた、泥だけの犠牲者は、ミー。眼差しに透明な憎悪だけを曝して、ミーは。犬に向けていたのと同じ、それ、あるいは、下をだけ脱がされた、大股を開かせられて無防備なフエの眼差し。…無言の。
どうしたの?と、何をするの?と、その問いかけさえも無い眼差しに私が口付ければ、唇を濡らすのは涙。その許可も無く私は彼女を愛する。ゆっくりと、傷つけないように彼女を完全に奥まで確認しきったあとに、かすかに身を起こして、見れば、ブーゲンビリアの下に、美紗子は横向きの血を流す。シャッターの向こう、日差しの中に、失われた色彩がそこでだけ、ブーゲンビリアの花々の色彩の鮮やかさを、無きものにして仕舞っていた。そして、鮮やか過ぎる水平の血の流れは、どこまでも落ちて北の方に流れ去っていく。唇は痙攣をやめない。フエ。
しゃくりあげ続けるフエ。ふるえ続けるその下唇を、私は口に含んだ。土砂降りの雨の日に、やがてあのカフェの女が私にそうするのと、ちょうど同じように。
まるで、それを模倣してしまったかのように。
一瞬だけ眼差しが白濁した気がして、そして。力尽きれば、そうしなければ為らないと決まっていさえいるかのように、フエは私の頭をなぜるしかない。誰も助けてくれなかった、と言った。フエは。
あんなにも人々が私たち二人だけをとり囲んでいるのに、だれも、だれひとりとして、私たちをたすけてくれるものはだれもいなくて、そして、むしろそこに取り囲んでいたのは迫害者たちだけだった。
戯れるような拳に殴打をくれられて、ミーの眼差しは憎悪を絶やさない。それが、さらに、彼らを怒らせて、その、残酷なほどの軽蔑の光は、すでに彼らをたじろがせていた。まるで、一度も殴りもしかったかのような、やさしいただふれただけにすぎない暴力が、彼を苛む。引っ掛けられて、転がされて、土の触感を感じる。フエの立てた悲鳴を感じる。
聴く、よりむしろ。
とおく、鮮明に感じられたもの。
憎しみ。…それは。
ただ、ミーは、なんらかのものへの破壊欲などではなくて、単純な憎しみだけに駆られていたに違いない。私が見た、あの澄んだ目のミーは。純粋な憎しみは、もはや、彼から行動をさえ奪って仕舞った。燃え上がって仕舞えればよかった。
憎しみそのものとして。一瞬たりとも燃え上がれもしない彼は、ただ、眼差しに純粋な憎しみとしてだけ、映ったすべての形象を捉えた。ぴったりと、容赦もなくふれあって、汗ばんだ皮膚の籠りあった温度に耐えられず、身を起こし、そっと、自由になっていく。私は。フエのなかで、やわらかくなりかけたそれが、内部に押し付けていたものが、ゆっくりと、垂れ堕ち始める。そのままに、股をひらいたままで、両腕さえ投げだして、フエは留保ない絶望を眼差しに曝していた。
もう救われはしないのだと、そう自覚して、一切の喜びさえも無く。
しゃくりあげる声さえ、最早無い。
思い出したように、言った。
彼らは狂ってるわ。
あの、ミーを囲んでいた人間たち…殆どすべての、近所に住まう人間たち、彼らのことを言ったのだということに、おくれて
They are...
気付く。
...Crazy.
4月30日。そして、5月1日も、休み。だから、連休だということになる。私も、フエも。
外気に触れて、急激になえきったそれを為すすべもなく垂らし、あの青年。ミーが彼らに制裁を命じたその青年のそれをなぞってみたかのように、私はミーの投げ出された足元に方膝にひざまづいて、投げ出された私の両腕は、何をもつかまない。
何をも踏みしめない、脱力して放置されたフエの、くの字に立てられたその足と同じように。どうしたのだろう?あの青年を。
ミーは。あのまま殺して仕舞ったのだろうか。
生きているだろうか?虫の息であったとしても。たとえば、あの更地に放置されて?雨は降らなかった。その二日間の間には。だから、日差しは彼の肌を焼いたのだろうか?
焼かれたのだろうか?為すすべもなく。
そして、結局は、私はなすすべもなくて、ミーの傍らに横たわる。合成ビニールの、日本製のソファの、此処では高級で、明らかに安物の触感が、肌にじかに触れる。貨幣価値のマジック。貧しい日本人は此処ではリッチ・マンになりおおせて、ホスト上がりの起業コンサルの私のようなものが、立派な日本語教師になり仰せ、そして、安っぽい粗悪品は高級品になる。
日本製はなぜあんなに高いのか、と、ベトナム人生徒に聞かれたとき、私は答えた。日本に行って、働けばわかるよ。
ビールも何も、日本で、日本製がいかに普通のありふれたプライスを曝しているだけに過ぎないかが。…奴隷労働、のようなもの。
安価に買い叩かれて、日本の末端企業に買われる。安価なだけが取り柄の労働力として、かの国で酷使され、軽蔑さえされながら、それでも彼らの多くは言う。その契約が切れた後で。もう一度日本に戻りたいと。
その理由は私にはわからない。
立ち上がったフエが、自分のそこを確認する。受け入れたもの。単なる、性行為の必然的な代償にして、哺乳類の存在根拠。そこに人格など存在せず、人権も存在しない。
昼間、参加している、いわゆる《送り出し会社》の、ウェブ面接に立ち会ったことがあった。広い会議室に、だれもが使っているみんなの日本語という教科書の、第20課程度、初級の半部くらいの教程を終えたばかりの若いベトナム人技術者たちが、外付けカメラを取りつけらたノート・パソコンの前に、ご大層に二十人ばかり整列する。フエは、笑いもせずに、私に眼差しをくれた。
絶望的な色彩を隠しもせず、消し去りもせず、ただ、容赦もなく曝して、そこに、生きてあること、存在すること、それ自体がすでに手遅れだと言わんがばかりに、もう…
遅い、と。女性主体のベトナム人教師たちはパソコンの背後に、7人近く座りこんで事の首尾を観察する。日本人は私しかいない。特別扱いの日本人。まるで、殖民地を視察したサーか何かのように。学生たちは《送り出し会社》の制服に正装して、奴隷じみて個性を奪われ、日本風にパイプ椅子に座る。自動車部品系の下請け製造企業らしかった。大阪の会社だ。外国人相手に容赦のない、大阪なまりが耳につく。早口の、抑揚の激しい踊るような発音が、起立したベトナム人の一人ひとりに浴びせられていく。諦めて仕舞わなければならないことを、ただ、なすがままに諦めただけなのだと、そうつぶやいたように、そんな色彩を、一瞬だけ眼差しに曝して、…フエ。
立ち上がったフエが、よろめいたのはその瞬間に、だけ。やがてそのままたちずさんで、想い出したように、今更服を脱ぎ捨てた。上半身にだけはりつて、汗を吸ったその。
褪せかかったピンク色の。
立ち上がった一人ひとりが、丸暗記の、文法的な理解の一切無い自己紹介文を大声で読み上げる。斜め背後から見るパソコン画面にどんな顔が並んでいるのかは見えない。ただ、窓越しの光を直射した、やわらかい白濁。その液体。
垂れ堕ちる。
私が吐き出して、与えたもの、受け取ったもの。彼女が。受胎?…あるいは。フエが求め続けていたものを、彼女の体内のそれは浴びて、飢えたように分裂し始めるのだろうか?
それとも、唯の無駄なのだろうか。結局のところ、日本語以外に話せもしないから、必死になって日本語を勉強させるしかない数人の彼らの、日本語を勉強した外国人に馴れた崩れかけの日本語は、WiFi電波をとおして、極端なほどに聴き取りづらい。
一問一答に、なまりの強い外国人の日本語は、海の向こうで聴き取られ獲ているのだろうか?電話回線のような、背後のノイズをはふくまない、クリアなひしゃげたノイズのような声の群れ。質問と全く違う答えをなんども返して仕舞うベトナム人には、容赦もない軽蔑が与えられる。
見下しきった笑い声。ベトナム人たちは、それを当然のものとして、ただ、無根拠に受け入れるに過ぎない。すぐに、想う。
私は、まるで、これは単なる人身売買に過ぎない、と。故国から、連れてこられた奴隷労働者たち。やわらかく膨らんだ尻を曝す。立ち尽くしまま。日差しは斜めに、そしてフエはそのまま身動きもしない。私の視線すら考慮には入れずに、彼女には、むしろただ彼女だけの時間が流れていた。
私の眼差しの先で。
《有償奴隷たち》、と、心の中でなかで私は彼らをそう呼んだ。パソコンの向こうで、裕福で住みやすく近代的で安全な国から、苦笑混じり褒められたことがわかれば、にこにこ媚びた笑顔を曝してみせる。買ってください。
Sir、私をできるだけ高価に買ってくれませんか?かの国を、無数の《有償奴隷たち》が回転させる。安価な労働力が、かの国の製造クオリティを維持させる。フエは、思いつめたように、壁に作られた、小さな母と妹、一緒に、彼女が二十歳のときに死んで仕舞った彼女たちのためだけの祭壇に、ちいさな台に上がって、背伸びして、線香に火をつける。
ながいながい、線香、線香立ての灰の中に突き刺されて、からだの中から、垂れ流れだしているものはそのままに。
一問も答えられなかった学生のひきつった表情。垂直に伸ばされたふるえる背筋、あまりにも下手くそな発音。不用意な相槌。それらのすべてが、ベトナム人教師たちの頭を抱えさせ、とき、不意の失笑を呼ぶ。
お手上げだよ、と。
台から降りて、振り向いたフエは私を見る。見つめる?…そうではなくて。ただ、想い出されたように。
私の存在を、そこにいた私の、その振り返った眼差しにふれさせて仕舞った瞬間に、唐突に想い出したような。
やっと、想い出せたことに、表情さえなく、その眼差しの奥にだけ、笑んでみせ、そこには。
彼女が振り返ってみるべきべき必然など、そこに私がいるという、それ以外には存在しないことなど、すでに、私にも、彼女自身にも、知られていたには違いないままに、そして。
契約が成った《有償奴隷たち》は、買われて行ったかの国で、同じような外国人の群れの中に投入される。外国人だらけの寮。まるで、奴隷村のような。形成される、《有償奴隷たち》のコミュニティ、決して、かの国の人間たちには、白い目では見られても、尊敬の眼差しなど、一切向けられることの無い、そこ。《奴隷村》。
どこが奴隷売買と違うのか、私にはわからない。そして、その会社に参加している限り、結局は私は奴隷商人の端くれには違いなく、かの故国は、奴隷労働の、余りにも洗練された大国以外の何者でもない。曝された、褐色の皮膚。
臀部と、下腹部と、かすかな胸にだけ、女性性を表現した、痩せた身体。フエ。むしゃぶりつきたいような、とは、間違ってもいえない。とは言え、それはあからさまに女性のもの以外ではなく、すべての曲線がただ、しずかにその女性性をだけ、曝す。
女。…あなたは、女を見ています、と。
日差しの中、朝の、日差し。やわらい。かすかに霞む。まだかろうじて、朝と呼んでもいい気がする、すでに褪せかけ、失われかけた朝の日差し。
なぜかは知らない。
頭の中で、モーリス・ラヴェルの、二番目のヴァイオリンソナタが、鳴った。自分勝手に。何の想い入れもない曲。
まるで、耳元に再生させたように。
いい加減な記憶をだけ、でたらめにつぎはぎにしたものしかないはずなのに、まるで、本当に誰かが耳元に、勝手に、弾きはじめて仕舞ったかのように。ためやいも容赦もなく。
愛着も、なにか固有の記憶も、想いでも、なにもない、唯、頭のどこかに記憶されていたに過ぎない曲。かならずしも美しいとも想わない。鳴る。
響く。…それだけ。眼差し。
フエは、私からもはや目をそらさない。
ぐるっと、外を廻って来たのに違いない。日差しを注ぎこむ、開かれたままの研磨の荒い鉄板のシャッターの、そのぎざつきにふれて仕舞そうなすれすれに、意味もなく添って入って来たミーは、右手に引きちぎられたバナナの葉っぱをもてあそんでいた。私には目もくれない。そのまま、フエに寄り添うように耳打ちし、相変わらず、ショートパンツのままのミーは、不思議に、かすかな同性愛のような気配をさえ暗示させて、フエ。彼女は彼に身を寄せられるにまかせたまま、至近距離に、無造作にふれ合う皮膚。
耳元から唇を離したミーは、不意に声を立てて笑った。私に流し目をくれる。
Go wedding party
フエが、表情さえ変えずに、私に言った。…行きましょう。
結婚式に。
結婚式?
Lễ kết hôn ?
けっこんしき、に、いきましょう
うなずきもしない。フエは。
けこんしきいぃんきましょ
つぶやいて、フエはそして、不意に声を立てて笑う。
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