小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説⑤
それら花々は恍惚をさえ曝さない
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
駆け寄る私に、フエが救いの眼差しをくれた。お願い、と、そんな、短い懇願だけが眼差しを刺す。疎らで、自分たちが加えている暴力に対して、もはややる気など失って仕舞っていた集団を、無造作にぶつかりながら掻き分けて、フエを引き離そうと、まるでエスコートするようなやさしさでその肩を抱いていた男を殴った。
何も言わずに。怒号はその瞬間に沈黙した。
だれもが私の名前をは知らない。そして、だれもがわたしをは知っている。フエのうちに住み着いている、あの女の日本人の旦那。不意にひっぱたかれた女のような、卑屈な非議の眼差しをくれた、無言のその男とは、一度近くの海鮮料理屋で飲んだことがあった。大柄な、太った男。色は白い。…どうして?
眼差しが、泣きもしないままに、…どうしてあなたは、なじる。…そんなことするの?数人の、周囲の子供たちの遊びまわる嬌声だけが聞こえた。一人が、ものめずらしそうに私のショート・パンツを引っ張って、上目に見あげ、声を立てて笑う。すべての人間が私から目を離さずに、そして、何も言わない。ミーは、うつむくわけでもなく、私を見つめていた。かすかに、口元をだけ微笑ませて。彼が、私が制裁から救ってやったことに、何の感謝も感じてはいないことは、すでに明らかだった。そして、私はそれに対して何の不快感もなかった。
むしろ、彼がそうであるのは、当然である気がしていた。私が勝手に入り込んだだけだった。私に対して彼がそれを望んだわけでもない限り、乞いでもしたわけでもないままに、しゃしゃり出てきた他人に、彼が何らかの感謝を感じる必然性などなにもない、と、私の個人的な感覚をは別にして、彼のその感覚のリアルを、ただ、その眼差しは素手に教えていた。…でしょ?
…と。
ね?
私がそっと、
…じゃない?
手のひらを伸ばし、ミーの更地の泥に塗れた皮膚に触れると、その触感。
ざらつた、土の。
その瞬間、ざらっつっ、と。フエは大声に泣きじゃくり、私にしがみつく。私に殴られた男を押しのけて、…ねぇ、と。
彼らは、迫害者なのよ、と。しがみつき、泣きじゃくり、
ね?
ときに私の傍らに、
…じゃない?
煙草を吸いながら立っていた、色の白い男を罵る。食って掛かり、唾吐き通うとする程に。
**の穴にでもぶち込まれちまえよ、*野郎。
フエの頭を撫ぜながら、
**の糞でも食わせてやるか?
私は慰める。
おやじの****でもしゃぶってろよ***やろう
フエの逆上した怒りは収まらない。咬みつけるだけ咬みつき、確かに、むしろ私たちは、彼らに集団で迫害されているに違いないのだった。迫害者は彼らだった。そして、彼らも、迫害者として、そこに立っていた。暴力的なひとりの外国人を表情もなく見つめながら。フエを腕に抱いたまま、私はそこを立ち去る。立ち去り際に、その、私に殴られた男の足元に、フエは唾を吐く。
唾が、サンダル履きのその、裸の足の甲を汚した。瞬間、逆上した男は食ってかかろうとしたが、すぐさま私の存在に気付いて、結局は膨大な罵りごとに挿げ替えて仕舞う。矢継ぎ早の、小声の。ミーが無言のままに、私たちを家まで先導する。私に、彼の住処の場所を、教えてやらなければならないかのように、フエの家、あの、敷地前の路面にブーゲンビリアを撒き散らした、広大な、廃墟のような家に。
足元に散乱したブーゲンビリアを踏み散らしながら。
いずれにしても、その、色の白い男、…私は二三度カフェで挨拶したこともあって、そのたびに名前を聞いたはずのその男が、あの制裁の首謀者なのに違いなかった。
今に帰って、ソファに座らせる。フエは泣きやまない。彼女の前にひざまづいて、涙を拭ってやる、その指先を涙がとめどなく濡らし続ける。顔を覆いもせずに、ただ私だけを見つめて、背筋さえ伸ばして、フエはむちゃくちゃに、ただ、泣きじゃくる。轢き付けさえ全身の筋に起こしながら。私はすでに、ミーが理沙、…二十年も前に死んだあの女の生まれ変わりであることを、どうしようもない事実して認識していた。
為すすべもないほどに、その事実は抗いようも無かった。
前日に帰ってこなかった、そのミーが、どこで何を遣っていたのかは知らない。ミーは、裏庭の、家屋の間際によじれて傾き、四方一杯に花を撒き散らしたブーゲンビリアの下で、泥だらけの服をはたいていた。フエの弟のものだった、その。
口付ける。
そっと、そして、そのわなないて、はげしく痙攣し続ける涙にぬれた唇は、フエの、その、そしてわたしのその優しい仕草の意味をは受け取らない。私のふれられただけの唇が、彼女のわななく顎のせいで、もみくちゃにされて、私は目をさえ閉じなかった。
見つめるのは、見開かれたままの、涙にぬれた瞳に映った、光の残像に過ぎない。あるいはそれは、私の残像。フエが、見ているわけでさえなく、理の当然としてだけ映して仕舞っているもの。
少年が、やっと家屋に入ってきて、フエのそばで服を脱ぎ棄てる。そのまま洗濯機に放り込み、シャワールームに入っていく。Đậtたちの部屋のそれ。
私たちがいつも使っている、その。
フエは泣きやまない。
唇は外さない。そしって、彼女は唇に、むしゃぶりつこうともせずに、ただわなないて顎を震わせ、気付く。無反応のうちに、悲しいほどに私を求めていた。
もっと。
願って、…
近くへ。
願って、いる、目の前の女。
もっと、もっと、と。
泣く女。
泣きながら。
至近距離以上に、私を通り過ぎて仕舞うほどに、もっと、近くへ。…フエが、飢える。
口付けでも、それ以上の、あの行為によっても、結局は満たされ獲はしない、渇望。もはや、何に渇望しているのかさえわからない。水平に、ゆっくりと鮮やかな血が流れていく。
それは、美紗子の。
天井に突っ立って、美紗子はその、色彩を見事になくしたままに、ただ、右側、…水平に、右の方に向ってだけ、鮮血をほとばしらせていく。
ゆっくりと。まるで、彼女にとっての左の方に、そっちの方にしか、重力など存在しないとばかりに、その、見えはしない力に、それでもそっと添い遂げようとたくらんだかのように、流れる。
迸って、ゆっくりと流れる鮮血。嘲笑われた、間延びした時間が、それにはスピードを与えなかった。ゆっくりと。
ただ。誰にも気付かれないほどにゆっくりと。
そっと。
ふっと。
ふうっ…と。
何を見てるの?想う。私は。何を、あなたは見ているのか。そんなに、両方の目を見開いてまで。まだ死んでさえいないのに。
昏い彼女の、見開かれた目は何をも見出さなかった。
鮮やかな血の色に、目舞いそうなそんな気がしたとき、フエ。その、至近距離の鼻から吐かれた、吐息のような大きな息が、そして、私は彼女の唇に舌を差し込んだ。
フエが、泣きながら私を見つめて話さない。私をなど、見留めてもいない癖に。彼女の、ただ、私を見つめる眼差しが見出しているもの、それはたぶん、なんでもないのだった。
あるいは、単なるブランク。…単なる。そして、埋め尽くす、彼女の、視界。埋め尽くした、それ、私の。視界。フエは、見つめて、埋め尽くしたのは、私は、フエ、彼女の視界は一杯に私で埋め尽くされる。…ねぇ。
声。近くへ。
もっと、…ね。近くへきて。フエの舌は、ふるえるばかりで、口蓋の中にちぢこまって、私の舌にさえ触れようとはしない。燃え上がらせることは出来るだろうか?
私は想った。
明確で、鮮明なたくらみとして。散乱するがままの、停滞した花々を、燃やして仕舞うこと。ブーゲンビリアの。一気に、眼差しが。私の眼差しが、一瞬にして、捉え続ける、すべて、ブーゲンビリア。燃え上がらせて仕舞うこと。
炎が踊る。
…舞う。
花々は燃え尽きもせずに、そのまま燃え続けるのだろうか?あるいは永遠に?時さえもが果てたその後にまでも。たとえば、その夢を見ているところの、私の命自体がとっくに尽きた先にさえも、永遠に、花々は燃え上がり続けたのだろうか?
花々。むらさきがかった紅。それらは、いま燃え上がるために存在しているのだと、ひとつのまったき自覚として私は認識する。
燃え上がるためだけに存在していた、それら、花々の永遠の停滞。
花々は燃え上がる。
あるいは、私の眼差しが尽きたその先にまで、彼ら自身のその必然の許に、…彼らだけのために。
私は、それらを燃え上がらせるすべさえもなく、ただ、見つめるにしすぎない。その色彩。どうして、と。
想う、どうして、私は泣き続けているのだろう?
頬に触れる涙の触感も、温度の暖かさも、曇ってゆく眼差しの濁った混濁も、そんなものなど何一つ残しもしないそれは、そしてて、私は泣く。
涙さえないままに。
流れ落ちるままに、…涙の。フエは、私が立ちあがるのを引き止めない。しゃくりあげ続けながら、変わらないきれいな姿勢で、任せる。私に。フエは、私が彼女の頭を、それが明確な愛撫であるかのように、撫ぜてやるのに、ただ、留保無く無抵抗に、そのままに。
私が為したがまま。あるいは、いまここで、彼女の首を絞めたとしても、彼女はすぐさま受け入れて仕舞うに違いなかった。やがてあの女、カフェの、あの、色気づいた女に、土砂降りの雨の中にしてやるように。
不意に、首を締め上げた私に、私のうえで、何の抵抗さえ曝さなかったように。…しなさい。
そのまま。
…のぞむがままに。
あなたのもの
息を詰めて、顎を突き出して身をのけぞらし
わたしは、わたしの
窒息寸前の、苦痛、そして
あなたのもの
土砂降りの雨、閉じられたシャッターの向こう。…正午の。フエの頭をなぜる、私の優しすぎる指先の触感に、ときに彼女のかみの毛が絡もうとするが、絡み付けずに滑らかな、そのてざわりだけを残した。
ショートパンツだけを履いて、髪をふきながら出てきたミーが、わたしに微笑む。曝された、上半身の肉付きは、少年の、どんなに痩せて、あばらさえ浮かせていたところで、そうなるしかない最低限の筋肉を張らせた、そんな、繊細にしなる強靭ささえない。まるで、皮膚と骨の間に、うっすらとした貧弱な贅肉だけすべりこませたようなを、うすらべったいその胸元に、小さい乳首の色彩の沈濁だけを尖らせた。
どこにも、男じみたところのない身体。ミーは、私の腰を、逆に慰めるようにやさしく叩いて、声を立てて笑った。なめらかに、垂直に流れた背筋のラインをはっきりと刻んだ、その、日差しを斜めにあびた後姿は、ただ、美しい。息を飲むほどに。
フエは、しゃくりあげるをやめない。
やがて、終ったあとでフエが、言った。何年ぶりかに、その体内がその行為の結果を受け入れたあとで。彼女のからだのうえに、そして私の体重をすべて彼女に預けて仕舞った、その身体の重さに、汗ばんで、私の頭をやさしく、…自分のせいで、なにもかも、すべて、ぜんぶ、ことごとくがなにもかも、ただ自分だけのせいで、もはや完全に、すべてが、まったきすべてが木っ端微塵に終って仕舞って、(そして)もはやどうしようもなく、(曝されたのは、)絶望するしか(…廃墟。)無くて、(光、)むしろ、(瞬かれたのは廃墟の、)立ち尽くしているのさえもが苦痛なのだと、そんな(…光。)誰かの頭をなぜて遣っているかのように、ただ。
やさしい、手のひらの愛撫。疲労。あの、白い男、彼のうちに飼われている犬が吠え掛かってきたのを、ミーが捕まえて路面に叩きつけて仕舞ったのだ、と言った。フエのけだるげな息遣いの切れ目に、私は発される英語と、ベトナム語の混ざった言葉の意味を照合していく。飛び掛ってきたその放し飼いの中型犬の首輪をつかんで、振り上げては叩き付ける。市場の前の朝のまばらな人々の前で、それをなんども繰り返したらしかった。フエは、犬が泣き叫ぶ、空間が引き裂かれたような絶叫に、目を覚ました。私も、シャワールームのなかで、いつだったかに遠く聴いた気がしないでもなかった。…わからない。美しい背筋を曝して、ミーが仏間の方に立ち去って行って仕舞ったあとで、私は彼女をソファのうえに横たわらせたのだった。そっと。
フエは抵抗しない。…彼らは頭がおかしいののよ、と、言った。終ったあとで、フエは。そして、私は横たわった彼女の傍らに寄り添って、そして、ただ、彼女の頬を撫ぜたのだった。しゃくりあげ続けながら、彼女は、そして、フエ。
呆然としたように、私の頭をなぜながら、力尽きた私を抱きしめもせずに、…ひどい。
憎悪。留保も無く。憎む。迫害者たちを。嫌悪。たたきつけられた犬は立ち上がれもしなかった。
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