小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説④
それら花々は恍惚をさえ曝さない
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
その制裁は、たぶん、ミーがやめろというまで続けられることになっているに違いない。規律として、なのかどうかはしらない。いずれにしても、ミーが満足し、それを制止するまで、それは続けられて仕舞うしかないのだった。
男たちは事実、自分たちの暴力に、明らかに飽きていた。戸惑いはない。しかし、興奮ももはやない。男が例えこのまま死んだとしても、それがミーの望みなら、それでいいと言うことなのだろう。気にするな。なにも。
どうでもいいことだ。
そんな事は。だれが死んだところで。殴ること。ける事。壊すこと。そいれだけに彼らは飽き果てたままに無理やり集中し、ときにミーに流し目をくれる。
すべてを、あなたに
壊れていく肉体。わたしに、壊されたばかりの、…どうするだろう?ミーは、もっと、本当に、私が彼を壊して仕舞ったら?目の前に、自分がそうさせているように。
どうやって?どこまで?人が加えられる暴力など、たかが知れている。所詮は。結局は、死と言う、要するにそんな結果に辿り着いて終って仕舞うしかない、そんな、惨めな破壊のどうしようもない凄惨さ。眼差しの先で、金髪だった男はもはや、地の泥と自分の血に塗れて、苦痛そのものと化して仕舞って、そして、いまやその苦痛さえもが麻痺している。ただただ、自分の肉体に加えられる衝撃を、ただただ享受しているだけの生物のいまだかろうじて生きたままの残骸でしかない。
私は立ち上がって、一万ドンの紙幣を抜いて、テーブルに置く。振り返ると、そこ、粗雑な、家畜の棲家あるいは古びた物置にしか見えないちいさな家屋のむき出しの奥のほうに、女は私を見つめたまま、立ち尽くしていた。
電子音は鳴りっぱなしだった。なにもかも、放置され、そんなことはどうでもいいのだと、調理台の上の電気機器のどれかに指先を伸ばしかけたままに、女は首をだけよじって、私をだけ捉える。その眼差しに。
絡め、すがりつき、抱きしめて咀嚼するかのように。
女の瞳孔は開いていて、そして、もはやそこには何の表情もない。ただの空洞?白と黒の。あざやかな。かすかに開かれた唇は、あるいは、女は口から息遣う。しずかに。無言のままに。眼差し。
何もかもが足りなくて、もはや完全に知性など消滅させて仕舞った眼差しは、極端な潤いだけを曝して私を捉えて離さない。
何も言わない。私は背を向ける。バイクにまたがって、エンジンをかけようとしたときに、向こう、振り向いたミーが私を見ているのに気付いた。
何の屈託も無く、あの、出がけのミーに何ら変わらない、素直な笑い顔を曝す。
今にも、手を振りだしそうなほどに。一瞬のためらいの後で、私は微笑を返し、クラクションを一度だけ鳴らしてやった。ミー以外の目にはふれない。舌がふれる。
ふいに、離れる。
フエが、口を離した後で、一瞬ためらったことには気付いた。もういちど、前のように唇を開いて、包み込んで仕舞うのではなくて。
もう少し違うもの。もう、すこしだけ。やがては、ややあって、という間さえもないうちに、舌を出して、上目にフエは眼差しをくれた。…ね?
でしょ?
違う?
ほら…
ね、と、意図された、いたずらな色彩を曝してみせて、舌はべたっと無造作にそれにおしつけられて、私は瞬く。確認されるもの。ふたりに。愛しています、と。もはや無意味に過ぎないが、確認され続ける、それ以外ではありえない状態。
愛しています
差し伸ばされた指先は、フエの眉を
あなたも
なぜた。唾液は、
わたしを
舌をつたって垂れる。触感。眉の。やわらかい、それ。
フエがもう一度口に含んで仕舞う前に、私は彼女の頬に両手を当てた。もういいよ。
なんで?
眼差しはまばたく。なんで?
Why ?
もう
Tai
いいの?
Sao ?
なんで、もう
Anh
いいの?
à...
飽きている自分がもうすでに、もっとしたいなどと想ってさえいないくせに。立ち上がったシャワールームに、フエはついてこない。放尿する。目の前に、なぜそんなところにあるのかその必然性が理解できない鏡が、私を移す。
美しい男。通った鼻筋。澄んだ眼差し。日に焼けていいる。フエはいつか嘆息した。もっと、色が白ければいいのに。
日本から来たときのように?
そう。
あの頃のように、裸に剥きたての卵のように。
結局は、この熱帯の町では日に焼けない白い肌が尊ばれ、殆どの人たちは当然の褐色の肌を曝す。観光の白人たちはそんな異人種の奇妙な価値観など知ったことではないと、これ見よがしに直射日光に肌を曝す。そして、白人たちの肌の留保なき白さは、ベトナム人たちにとってかならずしも彼らが美しいと見なす白い肌の白さと一致するわけではない。他者の色、に、すぎないもの。
着ているもので、そもそもが外国人か現地人化の区別がつく。なにがなんでも、現地の女たちは日差しを遮断しようとする。たしかに、理には適ってはいる。熱帯の太陽の下で生まれ、死んでいくべき人たちにとって、強烈過ぎる熱帯の日差しはただ、息遣う無残にも肌を破壊していくもにすぎない。いずれにしても、隠れなければ為らない。その、太陽の、強大な光の容赦もない束からは。
正午、町は廃墟になる。だれも、外に出ようとはしない。灼熱。それにここぞとばかりに肌を曝し、その色彩に染まって仕舞おうともくろむのは、本来、その閃光からは縁遠い、昏い冬の異郷の人々の気狂いじみた感性に過ぎない。
自分の尿の匂いが立って、一瞬鮮度を撒き散らし、鼻は次第に馴れていく。女たちが私にくれる、虐待された犠牲者のような眼差し。もう、許してくれませんか?
一杯に媚を曝すか、必死に媚を、自虐的隠しこんで。
お願いです。
見つめられるもの。
許してください。
それが、
あなたを見つめる
いま、
わたしを
自分自身さえ見つめられる。うすくくもった鏡の表面に。考えてみれば、彼らが、…熱帯のアジア人たちが曝す褐色は、結局は偽りの色彩であったのかもしれない。尊ばれる純白の色彩。それは稀な色彩であり、かつ、日に灼けないもともとの彼らの本来あるべき色彩だったはずだからだ。たとえそれが、白人たちのそれに比べれば、あきらかにくすんで黄ばんではいたとしても。どこかいかにも生き物臭いなまなましい、あるいは、百合の花弁の付け根近くの、かすかに黄色を感じさせる、そんなふうな、決定的に薄汚れた色彩。アジアの黄土色の固有の白ささえ失わずには生きられない生物たち。
私たちの褐色には、すくなくとも黒人たちの褐色の色彩の素直さは、本質的に存在しない。月の裏側に住んでいたとしても、彼らの色彩はそれ自らの色彩を誇るに違いない。アフリカの褐色にはあるそんな尊厳など存在しない。アジアの褐色には。
シャワーを浴びた後で、ショートパンツだけを履いて、シャワールームの外に出ると、その部屋、フエの父と、彼女の弟の共有だったそれの真ん中に、その男はたたずんでいる。
何も言わずに、眼差しをただ私の方にくれているが、彼が私を見ているわけではないことなど、私はわかっている。彼が顕れるときは、いつもそうだった。結局は、その、あざやかに見開かれた、色彩の無い、無慈悲なまでに色彩を失って仕舞った、そのまん丸な眼差しで、事実して何を見ているわけでもないのだった。
Đật、…ダット、フエに殺されて仕舞った、その父親。開かれた口は、唯、よだれか何かを派手にたらすように、だらだらと無意味に血を、…その色彩。
垂れ流される血。
赤。
鮮やかな、その。色のすべてに、…色彩。もう、ふれることなどできないのですよとばかりに、ただ色彩をなくして仕舞ったその男は、口から垂れ流す血だけが純粋な鮮度そのものとして、赤い。ただ、あざやかに。見たこともないほどの、鮮明さ赤さ。赤、と言うものは、ここまで赤くなければ為らないのだと、言葉もなく自らの存在でだけ、教え諭そうとしているかのように。
色彩。消滅して仕舞った色彩の中に、彼はただ、昏く、眼差しは揺らぎもしない。あなぼこ、のような。
不意に、空間に空いた、あなぼこ、のように。
何を言って欲しい?私は想う。
何を?
知っている。もはや欲望など存在しない彼に、欲しいものなど何もない。意志もなければ希望もない。怨念?…記憶の残存?…まさか。きれいなまでに空っぽで、なにもなく、彼は唯、そこでしずかに血を流す。ただ、だらしなく。ただただ、穢らしいほどに見もふたも無く、その鮮明すぎる赤の、目舞うほどにも美しい色彩の純粋さを曝して。
何が欲しいの?
耳元につぶやいてやろうとする私は、その前に、左手の人差し指を一本だけ立てて、彼の唇に近づけてみる。接近。ゆっくりと、…させる。息をひそめて接近させて、指先はふるえる。集中、ふるえた。やわらかい、意識の、やわらかい集中が、かすかに、ふいに、そっと、ふっと。
ふっ…と、私を微笑ませた。…ほら。
なにか、言ってみなよ。
ふるえる。
君が最早聞き取れもしない、かつての君の言葉でも。
かすかに、私の指先だけが。やさしく、やわらかく差し伸べられた、それ。私の。爪、…きれいに砥がれた、その、爪、日に焼けて黄ばんだ、レースのカーテン越しの日差し。
ふれるのは、その日差しの温度。それだけ。流れる。口からは、血。
開かれた口の中に、色彩をなくした昏さだけが穴を開けて、なにもそこには見えはしない。
あなぼこ。
やっぱり、と。
あなぼこ。
流れるがままに、血。空間に無数の線を引いて、だらだらと。
さあぁぁぁぁぁぁ…ら、と。
…さら、と。
すううーっ、と。
つうっっ、と。
っっっっ…、と。
ぷちっ、と、した、不意の気泡。
誰もいない空間には、誰もいない。がらんとした空間。あの男は、何の必然で、なんどもなんどもここに現れるのだろう。結局は、何の言葉も、何の行為も為し獲ないままに、消えうせて仕舞うに違いないのに。彼がいなくなった後の床には、何の痕跡も無く、ただ、日差しが、すり抜られたレースのカーテンが戯れた、翳、をだけ、…翳?と、さえ、言獲ない淡い色彩のたゆたい、に、すぎ、ない、それ。
フエがいない。
部屋を出た、二つ目の裏の居間のシャッターは押し広げられていて、日差しをそのまま差し込ませていた。シャッターの向こうに、光のじかの散乱が散る。
むしろ、怒り狂ったような鮮度。
そこから出て行ったのに違いなかった。シャワーも浴びずに?いつも、朝、シャワーを浴びた後出なければ、外には一切でようとはしないのに。
シャッターの向こうに、遠く喚声が聞こえた。…歓声?まるで、パーティか何かがすでに始まっていたような。たとえば、結婚式の。花嫁と名は婿が、いま、みんなの前で始めてのキスをする。普通、皆の前でなどキスすることはないのだから、ひょっとしたら、最初で最後なのかも知れない。不特定多数の、そしていずれかの知り合いたちの、眼差しの前に曝された唯一のキス。
ほら
喝采、嬌声、はやしたて、囃し立てられて、
…おめでとう
そんな。
群れて、連なって、反響しあって、そしてぶつかり合っては砕け散りもしない、それら、声。
声、…声。
声。いずれにしても、声。
無数の。
…声。聴く。遠く、かすかに。私は。
百メートルも無い向こうの、穢く小さい道裏市場の向かい、いきなり開けた広大な更地の真ん中に、人だかりが出来ていた。五十人足らず、子供や老婆も含めれば、もっと。
男たちが怒号を上げる。汗の匂いさえする。むき出しの褐色の肌の群れ。私と同じように、まだショートパンツだけの、着ざらしの彼らが、群れを成して制裁しているのは、あの少年だった。ミー。まるで、猫が加える手の平のパンチのような、たわいも無い暴力が、少年の華奢なからだを自在になぶった。
更地の尽きたところには、主幹道路と、その先にハン川が姿を曝す。朝、とはいえ、日差しの直射に私の肌は温度を感じた。素肌は。…ブーゲンビリア。
道の両脇に、手入など何も無く野生を曝すのは、ブーゲンビリアの、そして路面に散ったのは、それら、花々の色彩。季節など無関係に、咲き放題に咲いては花弁ごと堕とす、それら。
どうして、と想った。
君はそこに、どうして傷付いたままなのだろう?
いまもずっと。
ブーゲンビリアが、空間に点在する。…散乱?
ただよい、泳ぐことさえない、無造作な、無慈悲なまでの停滞。少しのふるえでさえも、そんなもの、…散乱。もはや存在などする必要もないのだとばかりに、…なぜ?
涙さえ流しもせずに、そこにたたずみながら、あるいは永遠に?なぜ、悲しんでいるのだろう?
飽きもせずに。
倦みもせずに。
終ることなく、そして、つきることなく。理沙。
私は、想えば、彼女の本名さえ知らない。…彼女、その、美しい、壊れた女。…壊された?
理沙。…彼女が、眼差しの先、指先をは決してふれ獲はしないぎりぎりの、そんな距離にたたずんで、ただ、その、見も知らぬ、色彩の無い女。…誰?
鮮明な血をだけ流しながら。
つぶやく。知ってる。
すでに。
それが理沙であることは。
その、見知らぬ女が。
堕ちる。花々の中に、堕ちる。たとえば、ブーゲンビリアの。散乱に。乱れて、散って、そして身動きさえしない。すべては。…
…停滞。すべては鮮やかなまでにその自らの停滞を曝し、そして、むごたらしいほどのあきらかさで、それらは息づいていた。…花。…フエ。…百合。
彼女は、その時、その群がって、やる気も無い制裁をきまぐれに加え続けるだけの集団の中で、ミーを保護しようとしていた。
やめて、と。
やわらかく、諭されるように誰かに引き剥がされては、
もう、手を。
そして、駆け寄って、ふたたび、
…ださないで、この…
怒号。…くそやろう。冗談のような暴力、…***やろうども。小学生の、演劇の舞台のような、…くそまみれの。そんな
腐った糞塗れの穢い豚野郎ども。
暴力を彩る容赦ない怒号。まるで、目の前で人が殺されようとしているかのような。戦争でも起こっているような。不意に攻め込んで来たどこかの国の軍隊が、目の前で民間人の子供を、戦車にそのまま轢き殺して仕舞ったかのように。無慈悲な誤爆の無数の爆弾が、市街地をいきなり廃墟にして仕舞ったかのように。一瞬で燃え上がらせながら。燃え上がる、火炎と黒鉛と、…怒号。
いま、目隠しされた女が一人、後ろ手に連衡される。不意に、彼女にとっては、まさにそうでなければならない(そして)明確な(誰にも)シグナルに(その意味など)突き動かされて、(了解できなかった)、怒号。
響く。白人のあの軍服の男が、いきなり発砲して、与太つきながら低速で駆け出す彼女の背中を撃ったから。
くの字に曲がった身体。それは彼女の全力疾走だった。
一瞬、空中に浮かんで、血が噴き出すのを待たずに、たたきつけられた地に撥ねる。…ブーゲンビリア。…怒号。
静寂。…微笑むのか?
喚声。…叫ぶ。…彼女は。
ブーゲンビリアの花々が、私を覆いつくした。何も聴こえない。私はすでに気付いていた。色彩など、花々はとっくの昔に失って仕舞っていた。その、生まれたときにはすでに。匂う。
色彩が。
ブーゲンビリアの花弁が、散乱した。私は悲しかった。理沙が、悲しんでいるのではなくて。たぶん、それは私の悲しみに違いなかった。彼女が涙を流しているのではなかった。その、見ず知らずの、見えない昏いだけの女が。
あなぼこの。
私が。
私が、ただ、涙を流し続けているのだった。もう、…
想う。
許してあげる。私は想った。すべてを、私は許す。
駆け寄る私に、フエが救いの眼差しをくれた。お願い、と、そんな、短い懇願だけが眼差しを刺す。疎らで、自分たちが加えている暴力に対して、もはややる気など失って仕舞っていた集団を、無造作にぶつかりながら掻き分けて、フエを引き離そうと、まるでエスコートするようなやさしさでその肩を抱いていた男を殴った。
何も言わずに。怒号はその瞬間に沈黙した。
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