小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説③
それら花々は恍惚をさえ曝さない
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
…花々。
朝早くに、ミーが彼の《盗賊たち》に連れられて、バイクで出かけて言って仕舞ったあとに、私は日本語学校へ行く道すがらにミーたちを見かけたのだった。
ダナン市。
観光都市として、政府によって急激に整備が整えられ始められたここは、華やかにイルミネーションで飾られた開発済みの商業圏と、暴力的なまでに荒れた、広大な更地になった、買い上げられたばかりで何も手付かずのむき出しの土地とを、無造作に並存させた。そしてその合間に、もとから住んでいる人々の、まるで廃墟か何かのようにしか見えない家屋が並ぶ。居住区。それらのむちゃくちゃな共存はお互いに混ざり合って区分不可能に、町にただ混乱した印象をだけ与えて笑わせる。
バイクに乗って、河沿いを走る。泥の河、ハン川。町をきれいに分断し、橋は五つもかけられている。ほんの十年前まで、この街には橋などひとつしかなかった、と、ナムという名の私の友人が言った。今、インドのどこかの州に行っている。その、かつてひとつだけだった橋は現存する。周辺の、いかにも観光都市然とした、ぎざついた、装飾のきつい六車線の橋の片隅に、うち棄てられたようにその貧弱な橋はあって、もう、だれもそこを通りはしない。道さえもが切り離されているので、ひょっとしたら通行禁止なのかもしれない。老朽化のせいで。私は知らない。気にはなっても知ろうとする気にもなれないほどに、もはやその橋には存在感など無い。
一瞬で、川沿いにその橋を通り過ぎる。次の角をまがって、細い道路に入って、そして、もうすこし直進すれば、ベトナムでは有名な、その日本語学校はあった。
角の手前、川沿いの主幹道路の真ん中に人だかりが出来ている。見なくても何が起こっているのかはわかった。
路上に、数台のバイクがそのまま止まって、誰かはしゃがんで覗き込み、だれかは突っ立ったまま電話をかける。通り過ぎるバイクの群れが盛んにクラクションを鳴らす。遠巻きに、誰かは路面に倒れ臥したそれにスマート・ホンのカメラを向けて、たぶん、何かにアップ・ロードする気に違いない。
スピードを落とした。交通事故。いつもの。日本製のバイクが氾濫する無造作な交通事情のなかで、バイクの事故は後を絶たない。対向車線に大きくまたがって入りこんだ車が、その人だかりを大袈裟に迂回してクラクションを鳴らした。
その、気が狂ったように、ながくながくながく、押しっぱなしにされた長いクラクションの騒音。
悲鳴のように、甲高い笑い声が聞こえた。風圧の騒音の中に。
ざわめき。私は気を取られて、反対車線から迂回にかかったバイクとぶつかりそうになり、罵声。ひしゃげた女性。ヤマハのスクーターの、その見事に太った子連れの女は派手な罵声を浴びせた。
騒音の群れ。
通り過ぎざまに垣間見れたのは、疎らな人々の足の群れた翳の向こうの、色彩。
赤。…血。ヘルメットをかぶっていなかったのかもしれない。いきなりカーブで曲がろうとしたのか何なのか。酔っ払って運転する時間には、まだ、十何時間か、四時間程度には早い。
いずれにしても、その血はだらだらと、ただただだらしなく想われたほどに無様に流れ出してアスファルトを染める。
汚らしい色彩。あんなものが、と想った。その時には、鮮明に。あんなものが、その色彩は。命を支える大切な血潮であっていいものなのか?…もっと。想う。せめて、…と。
せめて、もう少しでも美しくあればいいのに。すくなくとも、あざやかでさえ。
切実で、妙に孤独な要求として、誰にと言うでもなく、私は頭の中につぶやく。クラクションが止まない。耳元を、人々の声の群らがったざわめきが通過する。
曲がるべき角を行き過ぎて仕舞ったことには、三秒後に気付いた。旋回して戻るにはおそすぎるきがした。もう一つ先のかどを待つほんの数秒のあいだに、ふいに眼差しが捕らえたもうひとつの橋の向こう、手付かずの草にまみれた更地の広大な広がりが、唐突に私を惹きつける。なんども通ったことがある。めずらしくもない。そこに行ったところで、何をするわけでもなく、ぐるっと回って、ガソリンを若干無駄にして、それで終るだけの話だった。いずれにしても時間は、まだあった。
決断するまでもなく、わたしはそのまま、スピードに任せた惰性の結果として、橋の下をくぐっていた。
更地。もはや、どこまでも拡がっていると言ってさえいい、ただの更地。野鼠と茂りかけた草の緑の色彩のためだけの王国。
処々、気まぐれに朽ちかけの家屋が点在し、カフェが店を出す。夜になると、店の前の街路樹に、勝手に捲きつけた無意味にけばけばしいだけの電飾をまばたたかせて、それでも大した客など引けはしない。
朝。8時前。その、空間はもはや朝らしい手付かずの鮮度をなど見事に失っていた。
広大な更地ブロックの、一つの真ん中にミーたちがいた。バイクを止めて。
通り過ぎて、曲がった角の、小汚いカフェにバイクを止める。離れたところに、彼らがむき出しのまま見渡せた。カフェには路面席しかない。前面の歩道のすべてに安っぽい、赤いプラスティックのテーブルと椅子だけが並べられている。
まるで、ピクニックにでも来ているような。客などいない。
あれ?、と、驚いたような顔をした後で、めんどくさげに注文を取りに来たそのたったひとりの女は、私の注文を聴き取れない。
か、ふぇ、でん、だー、と。
かぁ、ふぇ
なんども繰り返し、女は
でん。だあー
私のすれすれにまで顔を近付けてみせた。若い、それは匂いでわかる。いかにも色気づいた、そんな。眼差しは、ミーたちを捉えていた。私のそれは。…BGM、カフェの。ベトナム語の、韓国のそれのようなそれ。つんのめった、腰の重いビートの。興味があったわけではない。ミーに。気になっただけだ。
たぶん、その二つの言表には決定的な意味上の違いがある。自信は無い。
嬌声まじりに、わざと戯れたような二十秒とすこしのあとで、カフェの女は、やっと言葉を聞き取った。察する、と言うことはない。わかるか、わからないか、それだけしか。この国には。
必要なのは、ただ、それだけ。
間違いではないから、間違いではない。
暴力。あざやかな。
ミーが、明らかに年上のその男に、無造作な拳をくれた。自分の目の前に、地べたに膝をつかせて立たせた、その。
男。二十三、四くらいの、珍しく髪を伸ばし、韓国のシンガーかなにかの模倣に、金色に染め上げている長身の男は、でたらめに想いのままに留められたバイクの羅列の向こう、彼らに無造作に囲まれたままに、草地にそのまま、もはやすべてをあなたに、と。
あなたにだけ、すべてを捧げてさえいるんです。
私は。
…そう言いたげに、そして、何も言わずに顔をかすかにあげて、彼の眼差しは、ただミーをだけ見つめていた。殴られた後も、何の反応も示そうとはしない。もう、…と。
もう、死んでいるんです。
私は。
…今。
そんなふうに、彼がつぶやいた気がした。立て膝のふとももだけが、かすかに震えているのがわかる。そんなふるえなど、見取れはしないのに。だれかが声を立てて笑った。見下ろす、《盗賊たち》の集団の中の。その笑い声は連鎖しなかった。すぐに、私はその意味に気付いた。ひざまづいた男は、失禁したのだった。両手を垂れ下げたまま、男は、あるいは、その眼差しは、至近距離においては、明らかに彼の恍惚を曝していたのかも知れない。
私には見獲ない。すこしだけ遠く引き裂かれた距離の中で。
コーヒーが、差し出され、におう。香水の。女の肌から。さっきとは、あきらかに違う匂い。たったいま、乱暴に吹きかけられたのに違いなかった。
男は、眼差しをそらさない。ひざまづいたままで。
振り返ると、真近かに女の横顔が見えた。カフェの、その女の。まるで、女ならすべてそうしなければならないと、誰もいないとこであってもだれかを教え諭さなければ気がすまないと、そんなふうに明確に、尻を突き出すようにして上半身だけを折り曲げて、私の顔のすれすれに顔を差し出し、垂れ下がるのは髪の毛。
その先端が、たとえコーヒーの表面に触れて仕舞っていたとしても、そんな事はどうでもいいこと、らしい。
肉体の存在、として、ただ、眼差しを占領する。太りかけた肉体が、豊満といえば豊満な肉体をこれみよがしに暗示し、匂うがばかりに、文字通り真新しい香水のこなれない匂いをばら撒き湧き上がらせながら、そして、張り付いたTシャツと、ショートパンツに曝された太ももは、彼女が女であることだけをあからさまに明示させる。
ミーが、何か言った。
女も、何か、
…音。
え?
あるいは声。
と、私がどちらかにつぶやいて仕舞いそうになった瞬間に、ミーの承諾が終に下ったに違いなかった。一気に取り囲んだ男たちはその、失禁した男に制裁を加えはじめたが、《…砂糖は、ここにあるわ。》
そう言ったに違いない。留保なき暴力。露骨な媚を曝して、息がかかる至近距離に頬を近付けたまま、振り下ろされた拳が頭部を上から撃って、ベトナム語を耳元に喋り散らしながら、蹴り上げられる顎、微笑んだ女はコーヒーシュガーの袋を千切って、そして吹き飛ぶ。
鼻血。
男の体が、終に横だおしに、なぎ倒されるように地に崩れ落ちたのは、小柄な男が思い切り後頭部にけりを入れて、鼻血を吹き飛ばさせた直後だった。
ひざまづいた姿勢のままに、無数のこぶしと、足と、膝と、時には投げつけられるヘルメットと。それらに耐えていたにもかかわらず、一度うつぶせに倒れ臥して仕舞えば、もともとそうでしかなかったかのように、もはや何の反応も見せはしない。音を立てて、派手に女はコーヒーを書き混ぜた。指先につかんだ小さな銀のスプーンで。《しっかり、…ね。》すべての挙動にこめられる、《…ほら、よっく》うざったらしいほどの媚。《かき混ぜないと、》色気づいた媚態。《…ね?》…ください。
そう言っている以外の何物でもない気配だけを、わたしに、ください。それとは全くつながりをもたない動作の一切がただ鮮明に明示して、…ねぇ。
お願い。
…です。
ください。
…ねぇ、
あなたを。
ね?
ぜんぶ。
いますぐ。
何を?想う。お前は何をしているのか、と。私は、ミー。無残なほどの制裁は、突っ立ったままのミーの足元で繰り返される。なぜ?背後のバイクには、あのサングラスの女がまたがったままだった。なにを?ヘルメットと、サングラスのせいで、…いま、彼女の表情などは、なにを?わからない。倒れ臥した男に加えられ続ける、もはや死体をなぶるようなものでしかない制裁から、容赦もなく、目をは離さない…ように見える。ミーは。目をそらす。
私は、傍らの女から。その、露骨過ぎる媚が鼻について仕方ない。匂いさえする気がした。たとえば彼女のからだのなかの匂いさえ。《ほら、…》ミーは制裁を見下ろし続ける。何を、《もう、》想いながら?《いいわ。…ね?》何をしたのだろう?《飲んで。》その男は。みんなの前で《おいしいから、…ね?》失禁して、許しさえ乞わずに、ただ、彼が加えるに違いない制裁をすべて受け入れることを願った男。…恐怖?
むしろ、恍惚のための、失禁だったのだろうか。ぼろくずのように破壊されていく男。
まるで、いびつな宗教画かなにかのような?女が両手のひらをつつむように添えて、差し出したコーヒーに手を伸ばす。指先に、コーヒーのグラスの淵を撫ぜる。
その触感がある。
…悲しみ。
ふいに、私が襲われた感情。《飲んで》女は媚びて、言う。意図された、高めのソプラノ。
...Uống đi
むしろ、私はグラスに添えられた女の手ごとつかんで、を口に運んだ。女は
Anh à...
かすかに鼻からだけ笑い声を立てる。《おいしい?》言う。至近距離に、身を折り曲げながら。
ミーは、笑わない。
私は悲しい。私は一気に飲み干す。女が耳元で、声を立てて笑う。《もう、飲んだの?》悲しい。《…もう?》泣き伏したくなるほどに。《…じゃった?》私は《ねぇ、》なぜ?…こんなにも《おいしい?》悲しいのだろう?
おいしかった?…怒りの表情さえ浮かべているわけではない。ミーは、ただ、ほんの少しの目の前の、その眼差しの下の、凄惨な暴力を、ただ、見ていた。見つめている、と言ったら、その言葉のあまりにも大袈裟な使い方であるか、あるいは、新しい意味を付け加えることにしかならない。
ただ、うち棄てられただけの眼差し。
目の前の暴力に対して、そのまま、何の気もなく。背後の、警報音が鳴った。電子音。なにかの、家電のタイマー。耳障りなほどではない。いずれにしても、それは空間を壊した。
女は、あわてて奥に引き込んだ。私の手の中から、飲み干されたグラスごと、女の手がすべり抜けていく。ふと、気付いた。
その制裁は、たぶん、ミーがやめろというまで続けられることになっているに違いない。規律として、なのかどうかはしらない。いずれにしても、ミーが満足し、それを制止するまで、それは続けられて仕舞うしかないのだった。
男たちは事実、自分たちの暴力に、明らかに飽きていた。戸惑いはない。しかし、興奮ももはやない。男が例えこのまま死んだとしても、それがミーの望みなら、それでいいと言うことなのだろう。気にするな。なにも。
どうでもいいことだ。
そんな事は。だれが死んだところで。殴ること。ける事。壊すこと。そいれだけに彼らは飽き果てたままに無理やり集中し、ときにミーに流し目をくれる。
すべてを、あなたに
壊れていく肉体。
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