小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説②
それら花々は恍惚をさえ曝さない
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
いま、すべてが冴え渡っている、と、私は私の何の曇りも無い感覚に、たじろぐ。身動きさえもせずに。やがては、そして、そのあとのいつに眠って仕舞ったのか、その記憶もないままにふたたび目覚める。月曜日。祝日。4月30日。
この国、ベトナムの記念日には違いない。45年くらい前の、あの、《サイゴン陥落》の記念日。
Fall of Saigon
ベトナムでは、もちろんサイゴン解放、ないし南部解放という。
Giải phóng Sài Gòn
のどに執拗な渇きと、重く澱んだ吐き気のような気持ちの悪さが、
Giải phóng miền nam
胸の中の方にある。いつものように。目覚めて10分くらい、ずっと、からだに冴えつづけるその鈍い感覚。
…毎朝の通過儀礼。たかが数分の。
フエは、私のそれを口に含んでいた。それは、ミーが、彼が来たその日の夜に、フエに教えたものらしかった。私には聴き取れないベトナム語の会話をその気も無く繰り返しているフエとミーが、そういう類の話に戯れていることは明白だった。色づいた気配が、否応無く察知させた。すぐに飽きて仕舞うくせに、ときに、想い出したような嬌声をみじかく立てて。
フエの厭きれた眼差しの目の前で、あきらかにそれを暗示する口の動きをミーは曝して見せた。自分の女に、そんなふうなことでも無理やりさせているのかもしれない。普通、それはどこでも一般的な行為とは言えない。
おもしろがって、私に流し目をくれながら、何度もミーがあおるのを、フエはそのたびに大袈裟に声を立てながら拒絶してみせ、
なに言ってるの?
喚声。まるで、女ふたりが立てているような。ミーの
あたま、おかしいの?
その変声期前のようなアルトの声は
変なこと言わないで
まるで声の低い女のようにさえ感じられることがある。若干、鼻にかかったそれ。フエは、大声でののしりながら笑い、ミーの頬をひっぱたくまねをする。手のひらは、やさしくふれる。フエは、そして、何の予告もなく咥えた。その日の、いつもの繰り返しの夜のさなかに。
ふいに、口付けから唇を離した後で。私の、まだやわらかいそれを丸ごと口に含んで、舌に遊んでみせる。いつもしていることのように。伏せられた目。いつも、それをしなければ私が満足してはくれないかのように。恥ずかしがるわけでもなくて、ただ、目は伏せられていた。集中するために?
なにかを見ているわけでもないくせに。
口の中に、唾液があふれて、くわえ込まれたそれを湿らせる。それが触感の中で、不快な湿気となって、どうしてだろう?
どうして、ミーはこんなことを教えて喜んで見せたのだろう?
明けた朝には、バイクのクラクションの音がした。なに?
…と。
フエの眼差しは、横顔のままに私を見つめた。
誰かしら?
飛び起きもせずに。
午前7時くらい。おそらくは。寝室の壁。垂らされた蚊帳の網の目の白の向こう、壁の高くの通風孔からの漏れ日と、隙間見える曇った空の、樹木ごしの色彩の光つよさで、…白濁した、色彩。雨が降り始める前の7時くらいであることを、私は知らせられていた。その空時計が正しかったかどうか、終に知らなかった。外れてはいなかった。ややあって、45分にはきっちり、いつもように私たちは家を出たのだから。それぞれ仕事へ行くために。
私は立ち上がって、はぐった白い蚊帳の柔らかにもたれかかる触感に肌をふれられながら、そしてショートパンツをだけ穿いた。
開け放たれたままのドアをくぐれば、正面の仏間の、6面の木の開き戸はすでに開け放たれていた。フエの父親のもののはずの、シャツを着込んでミーは、庭の真ん中にたたずんでいる。
門を囲んだブーゲンビリアの樹木、その花々の赤の密集の先に、7台ばかりのバイクの集団が止まっていた。
若いという以外に、年齢もなにもばらばらの、でこぼこした集団。
バイクにまたがったまま、口々に何かささやきあいながら、そして彼らの向こうには主幹道路と、その先のハン川の白い水面のさざ浪が見える。真っ白い、空の色彩を丁寧に反射させてその身に這わせた、それ。
美しい、とは、想わない。…大陸の、海辺の町の泥の河。海との接合面で、海の色彩は泥の色彩と交じり合うことなく衝突する。
色彩の分裂。
とはいえ、た易く河の色彩は、海の色彩のうちに、四散して飲み込まれて、跡形も無くその色彩に染め上げられるしかないのだった。いわば、その分裂は、河の真水がいまだに真水でありえている、一瞬の猶予が潮に飲み込まれて果てる不断の過程の、その名残りが曝した残像に過ぎない。
結局は、何をも引き裂けはしない分裂。
庭のまんなかに立ったまま、ミーは私の気配に振り返った。頭部の傷はまだ癒えてはいない。その前の夕方に、フエが捲きなおしてやった包帯は、いまだ取り替えられてもいなかった。
バイクはエンジンを落としてもいない。ひくい、うなり声だけを静かに立てつづけて、そして、一台がふかして見せた。ミーは、私にただ手を振って、指をそっちに差してみる。
いってきます。
…と?
笑う。
不意に、私を見つめたままミーが声を立てて笑った。唐突に駆け出すミーの後姿を私の眼差しは為すすべもなく追う。ひとり、取り残されて。
その、横並びのバイクのすべてが出鱈目に、それぞれにクラクションを鳴らしてミーを歓迎した。バイクの上に並ぶ顔。老いさらばえた、老け込んだ若者。ガキくさいだけの、何かが足りない顔を曝した少年。それら。サイズの合わないヘルメットを、風圧にさえ飛ばして仕舞いそうに、小さすぎる頭に乗せている男。無理やり自分のハンサムな表情を作ろうとして失敗する若者。それら。笑めば笑むほど知性をなくしてしまう、生まれてから死ぬまで愚鈍であるに違いない太った大柄な男。鍛え上げられたボディビルの筋肉の大柄を、ヤマハの小柄なスクーターに乗せた男。あるいは、いわば何かの出来損ないの残骸の群れ、と。
固まりになった彼らはもはや、十羽一伽羅外に、そんなふうにしか見えない。女が一人いる。サングラスをかけて、いかにも東南アジア、熱帯風に、キャミソールだかなんだかわからない露出ばかりの高いドレスを着込んで、ホンダのバイクにまたがった、その。大柄で、グラマーと肥満の危うい狭間にたゆたう。二十代半ばの、あばずれじみたメイクが、サングラスを隔ててさえ見苦しい。彼女がそのまま、当然のようにミーを後ろに乗せて、ヘルメットを廻す。馴れきった手つきで。ミーが、まるで公然の前に趣味的に曝して遣ろうとしたかのように、露骨な愛撫として、胸をつかみながら彼女の体にしがみつくが、年上には違いない彼女の、くずれかけたただただ豊満な身体にまとわりついたミーの身体の華奢なラインは、まるで女の弟、あるいは、見ようによっては妹のようにしか見えない。
みだらなほどにお色気たっぷりの、男好きのするお姉さんと、トランスジェンダーなのかと気を使って仕舞うほどに、色気を存在させないその気の無い妹。むしろ、そう見て遣ったほうが目にはなじみ易いかもしれない。
いっせいにバイクが長いクラクションを鳴らした。十数秒の。ミーが振り向いて、私に手を振った。…盗賊。
盗人のミーとつるんでいるのだから、彼らだって盗賊なのに違いない。10人足らず。彼らは、つるんで、盗みを働き、時には人を傷つけ、それでもどこかでどうにかして生きている、そんな半分野生の少年たち、なのにはちがいない。
虫も殺せないような、それぞれに何かが決定的に足りない顔をみんなで揃って曝しながら。
旋回して、一台一台立ち去っていくバイクの群れを最後まで見送りもせずに、寝室に入った私に
だれ?
...Ai ?
と言った、フエが、
...Who came ?
答えなど求めては居ないことなど見なくてもわかる。彼女だって、何がどうなったのかの予測くらいすでについているのだった。
ミー。
Mỹ
つぶやく、私の声を聞き取りもしないうちに、フエは
美
鼻にかかった笑い声を立てたのだったが、…咥える。
くわえ込んで、そのままじっとしている。
その、口の中の唾液がしだいにゆっくりと、すぐさま急激に、大量にあふれて、にぶく苛むように濡らしつづける。
一秒、二秒、三秒、数えて、かえならず十二まできたら、一度口を離して、息をする。唾液の糸の白い反射光をさえ引きながら。至近距離で、私のそれに吹きかかるのは彼女の息。
かすかにあらい、その。
口をはなされてみれば濡れている気はしなくなるそれが、吹きかけられた息が冷やした水分の冷たさに、それの、明らかにぬれてある事実を伝えた。
繰り返す。もう一度。一秒目から。二、三、四、…
ただくわえ込んで、それ以外には何もせずに。
どうして、そんな教わり方をしたのだろう?ミーが教えたままなのだろうか?それとも、フエの独自アレンジなのか、あるいは、彼女が許容し獲る最大の変質性なのだろうか。
いかがわしい行為の、いかがわしさの許容上限。ただ、くわえこんでみること。息もせずに。ずっと。じっと、息をひそめて。鼻からさえ、息をしないで。私は声を忍ばせて笑いながら、フエの頭をなぜた。
いずれにしても、不可解な少年だ、とは言えた。ミーは。ありていにいえば、謎めいている、と言ってもいいのだった。もちろん、彼をそう想うか思わないかは、捉えるものの勝手に過ぎない。事実、私にとっては彼は彼に過ぎない。
とはいえ、一般的に言えば、たしかに、普通ではないには違いない。にもかかわらず、私が彼をそのまま受け入れて仕舞うのは、私の人格のせいではなくて、すでに、あの最初のときに、彼と、彼そのものとして、日常の延長どころか只中で、触れ合って仕舞ったからだ、という気がする。いわば、暴力的なキスのようなもの。舌まで絡めた。
シャワーの生暖かい水流に、散り千離にタイルに拡散して行った、ミーの、額からの血。その、色彩と、あるいは匂い。
私はあの時、シャワールームのドアを閉めた跡で、指先に匂いを感じてみた。鼻のすれすれに指をちかずけて。背後に、ドア越しのシャワーの騒音。
遠く、にぶく、かすかに、ただ、耳にふれて
かすかに
文字通り流れさるだけの。
感じられたもの
想ったのだった。感じられるかもしれない、と。
風の触感
なにが?…たとえば
ブーゲンビリアの下に
血の匂い。洗い流されても
ミーがフエと
あるいは指先の柔らかい皮膚のうえに
遊んでいたときに。
いまだに、執拗に
それは花の簪
こびりついたままの、それ。
ミーがフエの
匂い。
夥しい髪の毛の黒い氾濫の中に
血の。…ミーが
差し込んでやったその
流した、赤い
ブーゲンビリアの色彩は
血。
紫ががった
…いや、と。
紅
気付いた。私は。その時に。
指先に、彼の血の匂いなど、こびりついてなどいなかった。
そのときに、
私はすでに、いわば
此処にいますよ、と、なぜかその瞬間に
あの女の女声が聞こえた気がした。頭の中で、ではなくて
予兆のような、想起として
不意に思い出された、たとえばいつか聴いた音楽の質感
その想起された音のおぼろげな頭で考えられた
情報としての記憶、ではなくて
実際に、みみできいたかのような、リアルなてざわり。その
ざらっ、…と。
誰の声?
ざら、っ…
それは、
ざ、…ら
分からなかった。
…らっ
と、…した、そんな、触感を持った音声
理沙の声。私は
ここにいますよ。…なぜ?
そう想った。いまさら、そんな、二十年近く昔の女が、想い出されて仕舞わねばならないのか、私には理解できないままに、その眼差しにはたわむれるフエのむき出しの皮膚の褐色と、乱れる髪の、そしてきれいに身なりを整えた、ミーのその、抜けるような白い皮膚の色彩を躍らせる。ブーゲンビリア。…花。…フィリピンにも、咲くのだろうか?沖縄にだって咲くのだから、フィリピンの島々にも、ブーゲンビリア。乱れ狂うように、あるいは、その花。あまりにも当たり前すぎて、ブーゲン、…だれも眼差しなどくれもしない孤立のなかに、
ブーゲンビリア。
咲くのだろうか?
いわばミーと
それは。いずれにしても、その
無距離でじかに
周辺の鈍い色彩の氾濫を無造作に引き裂いて
触れ合って仕舞っていたのだった。
みずからの色彩を無言に散らしたそれは
すでに。
ブーゲンビリア
…花々。
朝早くに、ミーが彼の《盗賊たち》に連れられて、バイクで出かけて言って仕舞ったあとに、私は日本語学校へ行く道すがらにミーたちを見かけたのだった。
ダナン市。
観光都市として、政府によって急激に整備が整えられ始められたここは、華やかにイルミネーションで飾られた開発済みの商業圏と、暴力的なまでに荒れた、広大な更地になった、買い上げられたばかりで何も手付かずのむき出しの土地とを、無造作に並存させた。そしてその合間に、もとから住んでいる人々の、まるで廃墟か何かのようにしか見えない家屋が並ぶ。居住区。それらのむちゃくちゃな共存はお互いに混ざり合って区分不可能に、町にただ混乱した印象をだけ与えて笑わせる。
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