小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説①
以下からが、この長い小説の本編になります。
ようするに、転生と存在論の救いようのない美しい物語、…だ、と、私は想っています。
《それら花々は恍惚をさえ曝さない》、《ブルレスケ》、《私を描く女》という三つの、それほど長くない長編小説と、《プルート》という中篇連作で構成されます。
モティーフは、《浜松中納言物語》と、ギリシャ神話の一部、ディオニュソスとオルフェウス、あるいは、オルフェウス教団が構築した神話物語です。
読んでいただければありがたいです。
Seno-Le Ma
それら花々は恍惚をさえ曝さない
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
空が明けを知っていく。
崩壊の風景。夜の。…朝、午前5時半。…たぶん。
ただ翳りの色彩にだけ、留保もない統一を見せていた空のどこか懐かしい昏さが、ただ影として存在していたビルの形態の向こうに陽の上昇をいただけば、すでに、名残りさえなくすべては壊れ始めていた。
あざやかに、色に乱れた、と、美しいといって仕舞いそうになるたびに、その暴力的な言葉を封印して、ただ、いろ、
…色
と、むしろあえて、そうつぶやきなおしておこうとする、美しいなどとは言って片付けたくは無いむしろ無機的で冷たい色彩、その乱れの散乱。
崩壊する。それまでのいつくしまれた空間のやわらかさが、光に。いわば、留保もなく見事な破壊。
空がいつでも見せて仕舞う、そうなるのだからそうなるしかない、為すすべもない、その。
大陸の南の熱帯、ベトナムの中部の都市、ダナン市。いかにも田舎者じみた、陽気なだけの垢抜けない人々の群れ。
その、妻の所有のただっ広い家屋の中で、みんなまだ寝ている。妻の名はフエ、...Huệ、ゆりの花。あの、盗賊の少年も。Mỹ、ミー、漢字で書けば、シンプルにただ《美》、と。
越南漢字の名残り。日本と同じ、中華圏特有の、いわば二重言語の痕跡。美しい人とも言えば、美人とも言うように、Đẹp という語とMỹ という同じ意味の語をもつ。
日本語のようには、そのこまかなニュアンスの違いをもてあそんだりはしない。
時々にそうするように、いつもより早く起きて仕舞った日の私は、ふたつめの、ガレージを兼ねた居間のバイクに腰をかけて、シャッターを半ばあけた。
朝のあざやかな崩壊の色彩を見る。服さえ着ないで。どうせ家屋の中に、私たち以外には人はいなく、妻は私の裸など見飽きてさえいるのだった。
バナナの葉とブーゲンビリアの枝と花の向こうに奥まった、家屋の中を覗き込むものなどだれも居はしない。居たところで、どうと言うことでもない。ここは日本ではない。
台風が、四国のどこかの町を崩壊させたことはネットで知った。名前など忘れた。行ったことも無い。その前にはどこかの町のを地震が壊滅させた。死者の総数などすでに忘れた。それほどではなかった。
ほんの数秒だけ、空を見ていた。飽きたわけでもなくて、ただ眼差しを外せば、私はそして、シャワーを浴びる。
ミーが、理沙の生まれ変わりに違いないことを確信したのは、彼がうちにやってきて三日ばかり立った日のことだった。
その日の夜、私とフエは、いつものように服を脱ぐ。暗がりの中に。ただただ、脱がれるためだけに身につけられる衣類。フエはいつも、私の服を自分で脱がしたがった。死んで、今は居ない、私たちの子どもにそうしてやるはずだったことの代理のように。
ほら。
微笑む。いつでもあざやかなほどに、無意味にたくらみの笑顔をただ
ちゃんと脱ぎなさい。
その眼差しにだけに曝して、フエが
もう、
わざと苦労してみせながら私の服を脱がすのを私は、
夜だから。
当然のように邪魔してやる。駄々っ子のようなそれを、彼女が求めているに違いないのだから、私はフエの前で駄々をこねてやる。精一杯梃子摺らせてやって、そして、声を立てて笑い、私が脱がそうとすれば、フエがいつでもそれを拒絶することは知っている。
そんな、
振り返った私が声を立てて
はしたないこと
笑いながらひざまづき、彼女の胸に
どこで覚えたの?
顔をうずめて、いっぱいに、音さえ立てて
だれがあなたに
嗅いでやる。彼女の
教えたの?
匂いを。
…女を抱く、なんて
くれるのは、ただ、丁寧に装われたなじるような眼差し。
体臭。鮮明な、彼女の生き生きとした臭気。髪の毛が匂う。長く、おびただしく、光沢をもって。なにを求めていたわけではなくとも、肌と肌がふれあえば、そこにいつかは飢えた渇望らしきものが芽生える。いつも。ふたりのうち、そのどちらともが、たぶんお互いのからだをなど、かならずしも求め渇き飢えているわけでさえなく、鈍い、ひたすら鈍重な、やさしい、昏さ。空間を停滞させた昏さだけが目にふれる。ミーが、いまどこで何をしているのかなど知りはしない。誰にもつげずに出かけて行っては帰ってくる。どこで偸みを働いているに違いない。あの、去勢された家畜のような表情を曝した年上のお仲間たちと。…せめてもの動物程度の知性のかけらさえ感じさせない彼ら。
寝室の照明はすでに、消されていた。
あの、ふたつめの居間の証明だけは、つけっぱなしにされていた。泥棒に入られないようにだ、とフエは言う。それは、あの少年がこの家屋に盗難に入った日から、彼女に生まれた真新しい習慣だった。
その、向こうに漏れる光を差し入れるために、私は寝室のドアをいっぱいに開けた。なんで?と、最初の日にフエは首をかしげた。
どうしたの?
Why ?
君の裸を、よく見たいから。
笑いながら言う私に、不意に一瞬だけ眼差しに薄い恍惚を曝して、戸惑い、やがてはやさしい平手うちをくれる。
Ba-ka...
と、その、彼女が知っているわずかな日本語の一つ、
ばか
馬鹿。その言葉は、フエの唇のうえで、ただその意味を認識させるだけで、いかなるニュアンスをも曝さない。彼女にとって、音として乱用されるだけの、所詮は異語にすぎない。
光が、しずかに、彼女の褐色の皮膚の上に這う。彼女が身じろぎするたびに、あるいは息遣うたびにかたちを崩して。
途中やめで終わっても、もはやそれに馴れて仕舞ったフエは文句も言わない。無言の、静かな容認と共に、私に足を絡めてしがみついてみせる。
汗の触感。まるで、本当にたったいまからだの中で終って仕舞ったように、あざやかな充足と倦怠を曝してみる。目を閉じてみても、眠れはしない。最後にまではいたらなかった私のそれは、まだひそかに何かへの飢えを、皮膚の表面のすぐ下にだけ気付かないほどに感じていて、私はその異物感に苛まれる。
どうして、最期までしないのだろう?もうすこし、その気になれば、できないはずはないだろうに、と、想うでもなく想ってみせ、フエの頭を撫ぜて遣っていた手のひらの動きさえいつか停滞しはじめれば、もはやとまり、言葉にさえふれはしないもやついた冴えた感覚だけが暗さのなかに漂うしかない。いつか、いつだったのか、その記憶もないままに、眼差しはおぼろげな光を捉えた。
ブーゲンビリアの花々。
その、紫がかった紅の、その、乱れた色彩の散乱。まるで、それらは内側からその色彩を、光として放っているかのように。
花々はなにもない空間に、宙ぶらりんに泳ぐでもなく停滞していた。視界の向こうの果てにまで。
戸惑うことさえなくて、私は彼女に手を伸ばす。
見たこともない女。美しい、ともいえなければ、醜い、ともいえない。
全裸なのに違いない。私にはわからない。その、眼差しの中でさえも。なにも身につけてなどいるはずもないと、それだけは容赦もなく確信されていた。
見つめられていてさえも彼女は、彼女がいわば生まれたままの姿であることをだけは証明しない。
生まれてもいないのだから。まだ。
ブーゲンビリアの花びらが目の前にあって、それらはただ花弁を曝すだけで、私にはふれようともしない。私と同じように。私も、それにふれようとはしなかった。
決して。
訝った。いつだろう?
いつ
彼女は、いつ生まれるのだろう?
ぼくに
目の前に、
ふれるの?
上空からアスファルトにたたきつけられたままの、粉砕された頭部をさらして、静かに血を流す。
見つめる。見えない。
目にも、ふれようとはしない。いずれにしても、彼女はまだ生まれてはいないのだから。
理沙。かわいそうな理沙。どうして、と想った。何度目かで、…無際限に繰り返された何度目かで、自分で望んで生まれてきたのにどうしてあんなにも壊れて仕舞ったのだろう。
未生の空間の中に、さまざまな命の光が点在していた。その姿、光の瞬きさえも曝さないままに。
それらはすべて、望んでいた。
堕ちること。
唯一瞬のうちに、堕ちる。…ように、消えていく。
生のうちに。
その鮮明な消滅が感じられた瞬間に、誰かがどこかで、それの望みをかなえて生まれたことを知る。
ブーゲンビリアが、匂う。夢の中に、匂いなど立ったはずもないのに。私は思わず笑って、私が立て声が、私の耳の至近距離に明らかに聴こえた。
理沙は、血をただ流しながら微笑んでいるはずだった。未生の、まだ、その姿さえみせない理沙は、目の前で、そして私たちは、見つめあいながら、無言のうちに涙を流した。
その、女。生まれたままの姿を曝しているはずの、まだ、生まれてはいない、その。
感じられたのはただ、その、温度。
いつか、流される涙に温度があったことに気付いたとき、私は自分が目を開けていたことに気付いた。
ふたたび。
眼差しは、ただ、天井の暗さをだけ捉えていた。剥げかけた、薄い緑彩のペンキに彩色されたコンクリート。フエの指先が、まだ、気まぐれに私のそれをもてあそんでいた。
ねむいわ
いまにも、眠りに落ちそうな、そんなけだるさだけを、彼女はひとつの皮膚感覚として、私に伝えた。
もう、
理沙。
ねむいの
なぜ、あんな昔の女のことなど想いだしたのだろうと、私は訝る。私は、そして、ふいに堕ちこんだわずかのうたた寝から醒めたばかりの私は、むしろ、視界と感覚だけを冴えさせて仕舞う。限界などない気がしたばかりに。いま。
…もう、
いま、すべてが冴え渡っている、と、私は私の何の曇りも無い感覚に、たじろぐ。身動きさえもせずに。やがては、そして、そのあとのいつに眠って仕舞ったのか、その記憶もないままにふたたび目覚める。月曜日。祝日。4月30日。
この国、ベトナムの記念日には違いない。45年くらい前の、あの、《サイゴン陥落》の記念日。
Fall of Saigon
ベトナムでは、もちろんサイゴン解放、ないし南部解放という。
Giải phóng Sài Gòn
のどに執拗な渇きと、重く澱んだ吐き気のような気持ちの悪さが、
Giải phóng miền nam
胸の中の方にある。いつものように。目覚めて10分くらい、ずっと、からだに冴えつづけるその鈍い感覚。
…毎朝の通過儀礼。たかが数分の。
0コメント