小説《silence for a flower》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ…世界の果ての恋愛小説(改訂版・全)









silence for a flower

…そして、48の散文。









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ













熱帯の町の湿気を含んだ熱気が肌を汗ばませた。

明け放たれた観音開きの木製のドアの群れが、フロアに静かに翳をうつ。見あげられた空は、日差しを投げているばかりだった。背中には御影石の床の、すぐに肌の温度に染まって仕舞うしかない冷たさの、かすかなその名残だけは感じられた。

結局は、子供をつくる気もないから、途中でやめて仕舞うにすぎないのに、なんども愛し合ってみる。

私たち以外にはだれもいなくなって仕舞ったが故に、ただ広く、古いだけで、まるで廃墟か何かのようにしか見えない家屋。

ナム、という名前の電力開発技師の友人は、ここがいい家だと言った。大袈裟に嘆息してみせながら。そういうものなのだろうか。ベトナムにおいては。たとえ、私の眼差しにとっては単なに、いまだ朽ちざる廃墟にしかすぎなくとも。

無様な、雑な、崩れかけの、今にも倒壊して仕舞いそうな、とは言え、要所要所には、…例えば仏間の天井組みなどには、確かにいい木が使われているらしいことは、私にもわかった。

その鑑定眼のようなものは、田舎の建築屋だった父親が、不可抗力のようにいつの間にか教えた感性だった。

フエの唇が、私のみぞおちに触れた。馬乗りになって、身を横たえた彼女の体温と、でたらめに覆い被せられた髪の毛の匂いたった湿気が、私の皮膚をいよいよ汗ばませて、そして広いだけの仏間の、床の上に投げ捨てられて、散乱していたのは私たちの衣服の群れ。

どうせ、だれもいないし、だれも来ないし、だれが覗き込むというわけでもなかった。広い庭の尽きた向こうの、細い専用道路の先には、川沿いの主幹道路が無数のバイクを走らせる。彼らの眼差しに通り過ぎた、買収されて放置されたままの更地の真ん中に残った、その何本もの椰子の木と、ブーゲンビリアの木の先の、日陰に沈黙する古い家屋の、その先の日陰の暗がりに、誰が何をしていようとも眼差しを向けるすべなどない。

更地に、何かのレジャー施設でも立って仕舞えばそうではなくなるのかも知れず、今のままなのかもしれない。あるいは、私たちが…正確に言うならば、所有者のフエが、売り飛ばしてくれるのを待ち続ける気なのかもしれない。

世界中が、やがてベトナムを見棄てて仕舞ったら、どうするのだろう?

買い上げた土地を、喜んで投げ棄てるように、棄てられた現地の人間に返してやるのだろうか?あるいは、罵詈雑言と共にでも。

頽廃と、おだやかさには、容赦のない相似が在る気がする。身を焦がすような頽廃、あるいは、焼け付くようなおだやかさなど、存在し獲るのだろうか?

不意に、フエは声を立てて笑い、身を起こした。

猫が獲物を終に見出したかのように、そして跳ね起きて庭に、そのまま駆け出すのだが、日曜日の正午。

熱帯の光がじかに彼女の素肌に触れた。あるいは、すでに十分すぎるほどに褐色なのだから、もはや、太陽の光など、その上っ面しかなぞれはしない、…のだろうか?

自分が容赦もなく、染め上げて仕舞ったそれをは。

行かないで、と、一瞬、私は想ったものだった。

なぜ、だった、…の、だろう。それは?そんなはずもないのに、なぜ、フエが、私を見棄てて庭の先、あの、細い土の短い道路の向こう、泥色のハン河の、光に直射された真っ白いきらめきの中にでも、ひとりで彷徨いだして仕舞うなどと、なぜ。

私だけを置き去りにして。

…なぜ。

そんな事が、考えられて仕舞ったのだろう?

あり獲るはずもなかった。私のそば以外に、彼女に生息できる場所などありはしない。

むらさきを感じさせる赤の、花をいっぱいに咲かせたブーゲンビリアの木の下に立ち止まって、フエが振り向く。

庭は、日差しがきらめきに染める。無数に。

無際限にさえ、想われるほどに。

きらめきの散乱。

フエが声を立てて笑う。…見て、と、その言葉も発されないうちに、…花々。

鉄門の側で、ハン川の方に眼差しを投げていた Mỹ ミーは、驚いて振り向いて、フエに眼差しを投げた。声を立てて笑う。

花々。

錆びた白塗りの鉄の門の、その両脇のブーゲンビリアの樹木、のたうち回りながら、図太く、空間を制圧した、とは言えどこかに瀟洒で華奢な気配を蓄えた、ささくれ立った樹木は、茂った葉を覆い尽くして仕舞うがまでに、一杯にむらさきがかった紅彩を無造作に咲かせ、乱れさせ、空間に点在し、ただ、色彩にちりばめられている。

いつが盛りとも、よくはわからない、その芳醇な花々。

熱帯の。

野放図なまでに咲いていて、花。あるいは、野生の樹木。だれも手入などしないままに、結局のところ、樹木は家畜のようには飼育などされはしないのだった。それらは常に、たとえ、誰にどのように保護されていようとも、たとえ、だれかに植林されたに過ぎなかろうとも、あるいは庭師が手をいれたところでもなんでも、最終的には野生の生命に過ぎない。

生まれ、自分勝手に棲息し、空間をうがち、野放図な繁殖をみせ、やがては朽ちて果てる。

その朽ちた先を見返るものなどだれもいない。倒れ臥したそれは、降り止まない雨の中、直射しない日陰の湿地に腐っていくか、日差しに灼かれて、そのまま渇ききっていつか風化して仕舞うか。その屍に何かを巣食わせるか、何となるか、いずれにしても、迎えるただの野生の死。

ひたすらの野生の崩壊と壊滅と破滅。

なにほどのことでもなく、為すすべもありはしない。

こっちに来てみなさいよ、と。フエの、はしゃいで見せながら手招きする姿を、私は目で追って、笑う。家屋のつくった日陰を出れば、あるいは灼熱の?…確実で、強烈な、鮮明で、どこかであからさまに破壊的な日差しが、私の肌を焼く。その、フエの褐色の肌を焼いているのと同じ光が。

まばたく。

だれかが見たら、だれもが、頭がおかしくなって仕舞ったのだと、私たちに哀れみをさえくれるに違いない。

晒された全身の素肌が光の熱気に倦む。このまま、すべて焼き尽くして仕舞えばいいのに、と、そう想う前からすでに、そんな事がありえないことなど私たちは確信していた。あるいは、単純に、それを知っている。

いかなる熱帯の日差しであろうとも、私たちを焼き尽くすことなどできはしなかった。肉体は潤う。

むせ返るほどの水分を湛えて、瑞々しくしかいられないそれふたりが、足を上げて樹木を蹴るが、寧ろ跳ね返されるのはフエ自身に過ぎない。反動でふらついたフエをミーは後ろから抱きしめてやり、汗ばんだ皮膚。一緒に、ふらついて倒れ掛かり、嬌声が上がる。じゃれて、たわむれる。

やがてミーが想い切り蹴ると、ブーゲンビリアの花々のいくつかは散った。ふたりのからだの上に、そして、庭の、ブーゲンビリアそれ自体が作った日陰の青い色彩の中に。

乱れる。

散乱した、むらさきを秘め込んだ紅彩、その。フエのかみの毛に絡まった花を、ミーはそのかみの毛に丁寧に差してやり、フエが微笑む。

花の色彩が、ただ、匂う。

私はうすく目を閉じる。

日差しは照る。

まぶたの上から。








眠りに落ちて、やがては再び堕ちる。

覚醒。…目覚め。

朝の。

その、終に堕ちて仕舞ったような感覚。

いずれにしても。



#0

感じられたのはノイズ。

こすれあうような。

どうしようもなく、ナイーブな。

ひそかに、慎重に、お互いを壊して仕舞わないように。秘められて。

やさしくふれるのと同じ強度でこすれあった、それ。

奇妙な、どこかで聴いたことのある懐かしささえ

記憶を

伴って。聴こえないほどの。

なにも

いつの?

喚起しないままに

そして、その、現在のノイズ。…いつから?

聴く。耳を澄ます必要もなく、それはそこに存在していた。

音のしたほうの空間に、もはや、あからさますぎてふしだらなほどに、打ち棄てられてただそこに、存在しているしかない、その、…不意に。

不意にたった鋭い金属音が、私を目覚めさせたのだった。

その瞬間には、すべてがもう手遅れになっていた気がしていた。

どうしようもなく。何の根拠もないままに。その、鋭いかたい何かが落下して、立てたに違いない音響。それなりの高さからの。

私は瞬く。

急速に、醒めかけの意識のまどろみの中の経験の、そのリアルな鮮度は、記憶としてのぼやけた、味気のない気配を身にまとうしかなかった。

風化を推し留めるすべはない。



#1

目覚めた私のからだの傍らに、静かに立てられるフエの寝息。

眠ること、それ自体が、もはや身体的な苦痛に他ならないのだ、…と。

そう言っているとでも解釈しなければ済まされない、フエの。

剥き出しの、無言の苦悶。

私の体を拒絶するかのように向こうを向いて、複雑に折り曲げられた腕、足、そして、苦しげにねじられた腹部。

たとえば、密着された裸の皮膚と皮膚の温度に倦んで。熱帯の、日中ほどではないにしても絡みつくような部厚い暑さの中に、ただ、温度に飽き果てたに違いない、フエの褐色の身体のあきらかな拒否。

容赦もなく。

…嫌

その身体自体にとっては、明確な根拠が存在しているに違いないどこかの、なにかへの、明確で…鮮明な?

…嫌なの。とにかく

あるいは。

拒否。

いずれにせよ、フエのからだは拒否していた。

その腰を撫ぜると、汗ばんでべたついた触感が手のひらに残った。気付く。その同じべたつきが、もはやあざやかな触感となって私の皮膚にもへばりついて、完全に、私が自分自身の温度にさえ倦んでいたのを。

そんな意識もないままに。

ふたたび、唐突に想い出されたように、そして開け放たれたままのドアの向こう、そのどこかに気配がある。生き物の気配。

彼女の父親が帰ってきたかのような、そんな違和感があった。



#2

…まさか、と、その違和感そのものに笑いかけて仕舞いながら。娘に殺されて仕舞った彼が戻ってくるはずもないのに。あるいは、であるが故の、その違和感だったのだろうか?

ベトナムにも亡霊だとか、なんだとか、そういったものが存在しているのどうか、私は知らない。存在しているには違いない。いずれにせよ、どこででも、どんな形ででも、生きている人間たちは彼らを存在させるのだ。そして、そんな事に私は興味もない。ベトナムで彼らがどんな風に棲息させられていようが、ベトナム人ではない私の知ったことではない。どこからかはわからない。聴こえ続ける、ナイーブな音。記憶の中に、木魂し続ける、その音響の名残り。

気配。

生き生きとした、それ。

鉄に、細い残りのこぎりのぎざついた刃を当てたような。こすり合わせ、掻き続けるそれ。

息をひそめて。私は、そっと。

忍び込むように部屋を出れば、右手の奥の二番目の居間兼ガレージのほうに、存在するのはその、生きた気配。明らかに生きている人間の息遣いがあった。

生の、温度を持った、ただただ明確なそれ。フエを起こすべきだったろうか?

むしろ、あんなにも苦しそうにしか寝られないのなら、こんなきっかけをでもいいことに、彼女を苦痛そのものにほかならない眠りから覚ましてあげて、…フエを。

彼女を解放して遣るべきだったのだろうか?

あの、朝から晩まで、休みの日には、まともな家事さえもせずに、むしろ、むさぼるように眠りたがる、フエ。そのフエがもとめて止まないのかも知れない、執拗な眠りから?

彼女が曝し続ける苦しみから?

眠るたびに。

苦しいの

救ってやるために。

苦しくて

…私は。

仕方ないの

たぶん、午前5時半前。目の前の壁の、二時間早い、遅れがちの時計が目の前で、6時数分前を指していたから。日本は、

と、そう、…だって。言った。だって…

ね?…二時間早いんでしょ?

フエは。

日本の東京は、二時間早いのよ。

笑って、彼女は、

…知ってた?

私にその高いところに吊るされた時計を苦労して取らせたが、…ね?

知ってるよ。

…ねぇ。つぶやく。嫌いなの?

私に、伺うような(あるいは、)眼差しを(むしろ)くれて(いたわるような?)。

何が?

東京が。…そこから、来たんでしょ?

あなたは。…私は、

「…好きです。」振り向いてフエに言った。

私は微笑む。見つめられた微笑はしばらく、

東京が嫌いなの?

ややあって、そして

あなたは

頬にキスをくれて、フエは無防備な不意の戸惑いを曝したままに、とはいえ、私は。

フエが言った。

「好きです。」

すばやく。

しゅきでっ

日本語で。フエの、わずかに知っている日本語の、いくつかのそのひとつ。

「愛します。」…その、ふたつめ。

そう…と。つぶやく。口付けに、

あぃまっ

フエは想いあぐねて、

…Anh à

…ただ口籠って。

普通、誰もが、外国語は愛の言葉から覚える。ごくごく最初のうちに。

何故だろう?例え手もとの教科書に載っていなかったとしても、どこからか探し出して。…なぜだろう?

なぜ、フエは、戸惑いの表情をだけ、晒したのだろう?

たかが時計の時間のために?あるいは私がつぶやいた、たかがひとつの、ありふれた動詞に過ぎないその音声に。



#3

一瞬にして、降って沸く。

その、あからさまな殺意の明確な感情。

私を包んで仕舞った容赦ない歯軋りするような感情の冷たい沸騰、ただ、それに自ら戸惑う。

おびえる。

熱狂する。

少しだけ開いたシャッターの傍らに、明け方侵入したひとりの小柄な盗賊を背後から殴りつけ、そして後ろから腕に首を締め上げて後ろ手に、にもかかわらず彼、その、まだ十八歳ぐらいに過ぎないだろうベトナム人があくまでも躊躇いがちな抵抗を試みようとしたときに。

このまま殺して仕舞えばいいと、そんな猶予もないリアルな欲望と、それを禁じようとする微妙な葛藤?…の、ような。

そんな感情の不意の通過が戸惑わせて仕舞ったその隙を、少年は見逃さなかったのだった。

首を抜いて、ガレージの方に逃げて行った少年は、痩せた少女のように華奢なシルエットを曝して、不意に。

何かを想いなおした彼は、そこに立ち止まった。振り向いて、その、午前5時。

朝の光は、まだシャッターの脇の彼をも差さない。まだ、フエは寝ている。いずれにしても。

起きている人間は、私と、少年以外には誰もいない。そして生きている人間は、私と、少年と、眠るフエ以外には。

何とかするしかなく、そしてそれはた易いことに想われた。事実、そうだった。彼を、殺して仕舞ってそれでよいと言うのなら。猫をつかんで首をひねるようなもの。とはいえ、と、意識の浅い部分でとりとめもなく戸惑い続ける私の眼差しの中になぜか、少年は私を見つめて離さない。私を振り向き見たまま立ち尽くして、ただおびえた眼差しだけをためらいがならも曝す。少年を私は見つめる。

二つ目の居間兼ガレージの、ただっ広い、収納されたバイクの向こう、シャッターのこちら側。少年の荒くふるえる息遣い。まだ、夜は明けきらない。

すぐ側の、彼が縋るように左手につかんだ半開きのシャッターの、その内側からかけられていた南京錠を鋸で切って入ったに違いなかった。

目醒めたのは、直接的には南京錠が床に撥ねて立てた、鮮やかなまでに破壊的なちいさな音響のせい、そして、目醒めてみれば私は記憶していたのだった。その、差し込まれた鋸の、静かで執拗なノイズが鳴り続けていた隠しようもない事実を。

まるで遠い、忘れなければならない記憶のような、そんなぎこちない鮮明さをもったその記憶。起きぬけの耳元に、鳴り続けた鮮明な。想い出そうとしたわけではないそれの、もはや記憶ではなった響き続ける生き生きとした鮮度。

部屋を出た私が見つけた少年は、その時、なぜかバイクのメーターを首を突っ込むようにして確認していたものの、なぜ、そんなものが気になったのかは、私にはわからない。尻を突き出して突っ立って、逆立ち、毛羽立った彼の短髪。

後頭部を殴りつけた瞬間に彼は息を詰まらせたのだった。同時に鼻水を散らして。少年は驚いたに違いない。不意に素っ裸の男に、後ろから殴りつけられたのだから。冗談にもならない。

少年は脆弱だった。私のなすがままに、殴りつけられ、蹴り上げられ、とっくに戦意など喪失した、その哀れみを乞いもしないうつろな眼差しで、何をも見留めないままに、からだをふらつかせるしかなかった。

…そうだった。まるで立ったまま、彼はいつのまにか失心していたかのように。にもかかわらず、決してひざだけは床につこうとはしない少年の、それは矜持だったのか。

間違っても美しいところなど存在しない、穢らしい顔立ちをあるいは、貧富の問題ではなくて、貧弱で貧しく、朽ちかけたような、そんな、惨めなだけの存在そのものを、やせて小さな少女じみたからだ全体で晒していたその少年の。

まさに、穢れた劣等民としか想えない。その差別的な言葉にもっとも深刻で、穢らしい差別を加えて腐らせたような、そんな意味での、存在論的に穢れた唾棄すべき不可触の劣等民。…あわれみ?



#4

哀れみ。

そんなものなど必要ない、と、私はその、シャッターの前に立ち尽くして、私に泣きそうな眼差しをくれている少年を、ふたたび殴る。もう一度。なんどでも容赦もなく、破壊してやりたくなる。…たく、なって、もはや、仕方がない。もっと。…と。想った。もっと、と。完璧な、理不尽なほどに完成された破壊を。

もっとも、人体に加えられ獲るそれなどたかが知れている。ただ血まみれにして殺して仕舞う以外に、ほかの展開のしようなどないのだった。訪れるのは、単なるひ弱な人体の死。それ以上に、破壊などできようもない。



#5

ようやく人一人入れるだけに開かれたシャッターは、まだ、夜のままの外の明るさをしか差し込ませはしない。そしてほんの数分の後には、急激に、訪れれた夜の破滅、その日の朝の到来、それ、太陽の、破壊的な光の色彩が染めた鮮やかな、夕暮れのような朝焼けが空を染めあげて仕舞うのをは知っている。

私は。…私だって、しずれにしても。

知っていた。もう少しの時間の先に、確実に、やがては訪れなければならない夜の破綻。そして、にもかかわらず、終にもたらされた朝のあの留保もない鮮度など、ものの三十分もすればどうしようもなく穢く古びて、色褪せた、見苦しさにただ染まって仕舞うしかないことも。いつものように。



#6

少年が、今にも泣き出しそうに眼差しの正面に、横顔のまま私を見つめ、その、ひんまげられて、ねじられたような眼差し。

伺い、おそれ、おびえ、許しを乞い、訪れる恐怖のときの遅延をだけ、祈るその。

私は殴った。ふたたび。…なんどめかに、ふたたび。数度目に、ふたたび。幾度目にも繰り返して、ふたたび。ためらいもなく。

そのまま、シャッターに叩き付ける。

拳ごと。



#7

自分でも、想わず鼻白んで仕舞うような、そんな、なぶるような容赦のない暴力。まさに、残酷で、衝動的で、喉の奥に温度を。

温度だけを。

強烈で、際限もなくさえ想わされる発熱を、とげとげしく、ぎざぎざと、抱え込んでぐらぐらと煮込んだような、その。

暴力。目の前で、私に殴られて、戦意さえとっくに喪失しているに関わらず、それでも加えられ続ける拳。

腕。

足。

ひざ。

すね。

身をまげて、体を小さくして、そのかろうじて取った防御の姿勢らしき、おびえた身体の湾曲を、いどむがばかりにつかみかかった手が、壁に投げつけ叩き付ける。

罅割れるに似た騒音が立った。

少年の跳ね上げた足がテーブルにあたって、そのざわついた硬いだけの音。

やや鈍く。

上の Wifi が倒れた音が、平べったく鳴る。

壁の。音。たたきつけられたそれ。そして少年の伸ばされた腕が縋るようにふたたび触れたシャッターが、バラバラの騒音を響かせるしかない。

いつか、少年は鼻血を、…鼻水も含めて、垂れ流して、ただ、痛ましく、そして悲しくてしかたがないと、そう何度も自分につぶやいているような眼差しを、上目遣いに、やがては、その眼差しは、私を見上げさえしなくなるのだった。

貧しい少年であるに違いない。ベトナム。根拠もない愛国者たちの群れ。

みんなが言う。ベトナムは美しい。そう。

…もう飽きた。

食べ物もおいしいし、景色もきれいだし、人は親切で、優しく、そして美しく、そして終にはいたたまれなくなって、不意に同意をくれた私が、彼らへの気遣いの果てに、いま、日本ではヘルシーだといわれて、ベトナム料理は人気です。

その私の言葉を聴いた瞬間に、彼らの曝す、まるでサイゴンで雪を見たと言ったのを聴いたかのような、そんな、嘲笑うような驚嘆の表情。

あなたはベトナムを何も知らない。…健康的だなんて、そんな…。あんなもの…。

笑うしかない、混乱した愛国心。

自分自身にまで嘘を突き通して仕舞うこともなく、不意に、むしろ唐突な客観性を無防備に曝して仕舞う。彼らにとっては遠い日本で、中国人の次に不評に塗れた、単純に、世界の中での田舎者に他ならない人たち。

たぶん、彼らをそのまま容認して仕舞えるのは、自分勝手な亡命者気取りの海外移住者にすぎない。たとえば私のような。そんな気がする。

日本人もそんなに代わり映えのするものではない。

いずれにしても、私にこの国へのわずかでもの愛着などあるとは思えない。確実に、どこでも良かったに過ぎない。日本以外であれば。

日本人たち。あの、高速で発話される連なりあい途切れ眼のないささやきの日本語を、無際限に重ならせる、退屈を極めた未来のないささやき声の帝国。

世界でも類を見ないほどに難解な言語に閉ざされた、それら、ささやきの群れ。

暴力が、私の身の回りに散乱している気がして、舞い散っている気がして、いたたまれなくなって目の前に、これ以上は不可能だというほどに、小さく丸まって内股に立った少年が、それでも床にひざをつかずにうつむいて、垂らす。

血の混じった、よだれ、…の、ような、その、唾液らしき粘液の線。

なぜだろう?

室内の空気それ自体に倦んで仕舞った私が、一気にシャッターを引き開けると、その、背骨を手づかみに爪で掻くような騒音、見上げられた、朝焼けの色彩。

ちょうど、眼差しの向こうの東の空に、…日本。

そこのあるほう。

朱、オレンジ、黄色、むらさき、それら。破滅の色彩。

あの、ここより二時間早い場所。



#8

…それら、色彩がお互いに染まりきらないグラデーションを曝す、夜の物静かな、…完全で、鮮明な単彩が自己破壊を起こしたそれ。

鮮明な何かを、不意に突破させて仕舞ったあざやかな現状を刻むそれ、朝焼け。

その色彩。

くだらない。

唾棄すべき、容赦もなく叩き潰してその存在そのものを愚弄しなければならないほどの、そんなただ野放しの暴力だけを駆る、くだらなさ。

もはや、笑うしかない。

少年が突き出して無様に向けた尻を蹴り飛ばしたら、よろめいた少年は壁に頭をぶつけて、ぐ、と、お、と、で、と、その混ざり合ったノイズを喉に立てた。

聴いた。

耳の近くに響いた、変声期前のような、その少女じみた彼の声を。



#9

そんな必要などなかった。とはいえ、私は現実としてそうしたのだから、その必要があったには違いない。その時の私の衝動にとっては。

まるで大切な腕を守らなければならないように、馬鹿正直に頭から壁にぶつかった少年は、体に腕を仕舞いこんだまま、相変わらず肉の付いていない尻だけを突き出して、そうするほかないのだとでも言うように、頭を打ち付けたばかりの壁に擦り付けていた。肉の付いていない尻を上下にゆらめかせながら。額で、必死になって壁にすがり付いている気なのかも知れなかった。それが、留保もなく、なまなましい認識として、私の肌にじかに触れた。その、想い、のようなもの、…気配?

細胞の息遣い。

その、実在が。

この少年も、言うのだろうか?

ベトナムについて、私が問うたならば。美しくて、すばらしい国だと。

Tシャツの首をつかんで少年を引き剥がしたときに、少年の額が割れて、血が流れていたことに気付いた。

壁の、薄く剥げ罹った緑白色のペンキを血が穢して、そのざらついた粗い表面が黒ずむ。

透明感を持った、澱んだ赤い色彩に縁取られて。死にはしない。この程度では。ほうっておけば、皮と皮はくっついて仕舞うに違いない。

少年の、日灼けしない真っ白い肌は。

血が垂れる。床にも。

居間の床も緑白色の御影石タイル。光を鈍く、表面に浮かび上がらせるように反射する。…ものの、白い単なる反射に過ぎない、あくまで残像に他ならない、いわば形態の名残りとして。

私は、フエにそうしたのと同じように、あの父親の部屋のバスルームに、少年を投げ込んだのだった。

フエが彼を殺して仕舞ったときに。

シャワーをひねって、丸まったまま立つ少年に噴き出した水流を浴びせる。ノズルに乱れた水流ごとその額を殴りつけてやれば、血は一瞬だけ水流の中に乱れる。そのまま背中に投げつけて、ノズルが床に撥ねた音を聴く。



#10

噴き上げられた水流が、私ごと少年を濡らし、殴りつけるように空間を水浸しにする。

壁にかけられたフエと私のタオルをさえも。

彼女は怒るだろうか。この惨状を確認したら?…水浸しの。

ドアを閉めて、息をつくでもなく、バスルームの外に立ちずさむ。

どうして、と、想う。閉じ込めて仕舞ったのだろう?外から鍵などかからない、閉じ込めることさえできはしないバスルームに。

いずれにしても、ベトナム風に、無意味に高い天井のバスルームには、そのてっぺん近くの幾何学的な通風工の並列しかないのだから、あるいは、私は少年を閉じ込めて仕舞ったのかもしれない。



#11

口付けようとして、不意に戸惑った。

寝室に戻ってきたときに。寝ていると想ったフエが起きているいるに違いないことが、たぶん、しかし、明らかに悟られたから。

眠った振りをしているわけでもなくて。ただ、まぶたが閉じられていたに過ぎない。嘘は何もなく、ただ、擬態だけがある。

やわらかく、ただ、ふれあっているにすぎないまぶたの皮膚の、繊細なふれあいの気配があって、私がそれに唇を当てると、フエは開く。唇と同時に、その両のまぶたを。

ふれあいの、そして、それが奏でた気配の音もない無残な破壊。閉じられてあることの、留保なき破滅。…開かれた眼差し。

まぶたのふるえる微細な動きが私の唇にふれ、私はまつげの触感を感じる。驚くほどの至近距離に、唇の触れた先端に、二三度しばたたかれたそれを。

眼差しは、なにをも明確には捉えることなく、空間を眺めるにすぎない。まだ、フエが眠っている気さえした。

どうしたの?

声には出しもせずに。

どうしたの、と。不意に首をもたげかけたフエの眼差しが、そのつぶやきの息吹きだけを曝し、私はただ、言葉に惑う。私が何をしていたのか、彼女の閉じられていた眼差しの向こうで、何が起こっていたのか。それには、ながい、ながい、ながい、とてもとてもながい説明が必要な気がした。くどくどしく、たどたどしくて、だらだらとするばかりのぐちゃぐちゃで、むちゃくちゃの、しどろもどろな説明の果てに、結局は、泥棒を捕まえたんだ、と、私にとっては何の説明をしたことにもならない短い言葉に要約してわからせるほかなく、そして、フエにとっては、そうやって理解するしか、すべもないのだった。

言い澱み、無意味に彼女を見つめ、私は、そしてフエは、かすかにだけ、ほんのわずかな悲しみを湛えた眼差しをくれる。もういいわ、と、諦めをだけ、やがては捨て鉢につぶやき棄てたような、そんな、どうしようもないいたたまれなさを伴った、その。

私は彼女のかみの毛を撫ぜた。いつものように。

いつも、キスの後、キスの前、あるいはその行為の最中、あるいは朝の挨拶のように、あるいは冗談に、そしてときには、フエのおどけた冗談への返答に、なんどもなんども繰り返される、幾度ものいつもの惰性のその。

愛撫、とさえいえない、けれども確実になされた、彼女への愛撫。なんで、あんなことをしたの?…と。

Tai sao ? 、なぜ、というベトナム語が彼女の唇からこぼれた瞬間に、

Tai sao ?

私はその意味を了解した。

ことば。

殆ど、最期まで聴き取られることさえなく、すぐさま、了解されて仕舞うもの。

たとえ、殆ど理解できない未知の言語であっても。例えば、フエがタガログ語で話し始めたとしても、彼女が口付けのあとにやわらかく開いた瞳孔を曝して、なにかにひそかに、かつ、鮮明に飢えた音色で何か言ったのなら、いずれにしても、私はその言葉の意味をたちどころに捉えて仕舞うのに違いなかった。あるいは、愛している、

Em yêu anh

と。

Ti amo

どうして?

Gihigugma tika

…ねぇ、

Saya sayang awak


i


love


you



#12

どうして?

と。そう、私をななめに見あげて、見つめたフエの眼差しがつぶやいていた。

そんな事は知ってる。とはいえ、私は。

何を?…想う。フエが、何に対して、

かならずしも非議の声としてではなくて、単純な

シンプルな?

単なる疑問形として …Tai sao ? その表情を晒すのか、私には

…Tai sao ?

わからない。

どうして?

フエの眼差しはつぶやき続け、瞬く。私は。…ねぇ、

なんで、と。

そんな眼差しをくれるの?

なんで?私は、戸惑い、いずれにしても、彼女の

彼女の周囲の間近の空気をだけふるわせたその。

どうして?

その眼差しを見つめる。沈黙を、そっと

Tai sao ?

破らないままに

フエは、歎くような眼差しのうちに、口付けをくれた。

私に。

まぶたを、いつものようには、閉じても見せないままに。



#13

確かに、あの物音が誰かを起こさないわけもなかった。フエは

起きだして、覗き見したに違いなかった。とめてくれればよかったのに、と、私はフエをなじってやりたい衝動に駆られたが、フエには為すすべもなかった気もして、結局は、私の眼差しは、明確な表情さえ作れないままに、惑う。

私は。

どうしようもなかった気がする。

あの少年が、悪いという気さえしない。いずれにしても、どんな境遇にあるのか知らないが、そうでもしなければ生きていけないというのならば、彼の窃盗にそこまでの非倫理性があるとも、私には、終には、想えなかったのだった。好きにすればいい、とさえ私は想った。

持って行きたければ持って行けばいい。

どうしても必要で、それがなければ私たち自身が生きてさえいけないというのなら、彼を追いかけて奪い返すに決まっている。

いかんともなれば、殺して仕舞うかも?

間違いなく、殺してでも。

あるいは、フエが彼女の父親を殺して仕舞ったように?

私は、父親殺しのフエを、罰する気などさらさらなかった。それが倫理にもとろうがなんだろうが、そんな事は知ったことではない。私には、あの男に比べればはるかにフエのほうが重要で、そして、あの男を彼女の人生そのものから排除しなければならないと、フエがそう言うのならば、それはそれであって、そうなるしかない。

私は、終には、容認して仕舞うに違いない。

例え、なんど繰り返されたとしても。それが、あるいは、いつか目の前で繰り広げられたとしても。事実、私は容認した。いささかの葛藤さえもなく。

…葛藤。

フエが私を排除しようとしたときに以外、本当の葛藤など始まりはしない。そんな気がした。なら、どうするのだろう?

例えばあの少年と、フエが愛するようになって、私を排除しようとしたならば。

葛藤の、その結論はどうなるのだろう?あるいは、刃物を向けて襲い掛かるフエを、その、かよわく、か細いフエを、逆に刺し殺して仕舞うのは私にとってはた易かった。あの少年がそうしてきたとしても。だから、フエが、私を殺すことは、そのまま、私が彼女に殺されることを、容認したことを意味するに違いなかった。

不意に、目舞いと共に、気付く。

私は。…ならば、あの男は、なぜ、殺されて仕舞ったのだろう?

瞬く。

目舞いはしない。目舞いそうな、気がしただけだ。

服を着なさいよ、とフエが言った。いつまでそんな、素っ裸でうろうろしているの?

もう…と、眼差し。

…ほら

夜は終わったのよ。微笑みに

ちゃんと

うすく、とはいえ鮮明に染めあげられた、フエの、

着なさい

その

服くらい

眼差し。自分だって、まだ、昨日のままに、ベッドの上で剥き出しの素肌をを持て余しているというのに。

飢えていると言うわけでさえないのに。

もはや。

フエに従う私を、彼女はベッドに横たわったままに、眺めた。何も言わないままに。表情さえなく。自分で服を着て、あるいは服を脱ぐ、その行為が人の目に触れたとき、否応なくまとう奇妙な惨めさ、そして無様さは、何故なのだろう。…フエ。

彼女に、老いさらばえたとはいえ、老いさらばえきっているわけではない60代の、健常な男を無傷で殺せるわけがない。長い間、20世紀の後半のすべてを戦争に費やしていた国の、いわば、ほんの十数年前まで戦争の生き残りしか生存してはいなかった国の、その、60代の男、すくなくとも、曲りなりにでも戦争経験があって、人を一人や二人くらいは?殺したことくらいはあるに違いない男を、華奢なフエが、どうしてたやすく殺せて仕舞ったのだろう?あるいは、かならずしもた易くはなかったとはしても、無傷なままで。男は、フエに、承認をくれたのだろうか。…どうぞ。

殺してください。



#14

…どうぞ。私を。

あなたがそれを望むというなら。

…と。

そうだったのだろうか?

意図的に、寝込みを殺したのなら、あんなにも部屋が乱れているわけもないのだった。賢いフエなら、もっとスマートな殺し方が出来そうなものだった。まるででたらめな乱闘。

その隠しようのない痕跡。

あの、憤怒の表情を曝したままに死んだ男は、同時に、自分への殺害を承認していたのだろうか?

決定的に。

そして、寝込みを襲って殺さなければならないほどの、殺意の存在は私には、フエに、決して感じられはせず、その日にそれが為されなければならなかった必然性も感じられ獲はしなかったのだった。

何かの記念日であったわけでもない、ありふれた一日に過ぎなかったはずの、その日に。

フエは、いま、起き上がることも、むしろ息することそれ自体さえもがけだるいのだとさえ言いたげに、ただ、ベッドの上に体を折り曲げて、たたずむ。私を、上目に見つめたままで。投げ棄てるような、眼差しの表情を曝して。



#15

寝室から出て、あの、少年を閉じ込めた浴室に戻る。

彼に会いたかったわけではない。そこしか、足を向ける場所がなかったのだ。とりあえずは。

ドアを開けた瞬間に、飛び散るのはあのままに、出しっぱなしのシャワーの水流。

噴き乱れる騒音。水の。

跳ねる。

水滴。

噴出し、飛び散り、通風孔から差し降ろされた早朝の、朝焼けの色彩を失ったただただ透明な光がかすかに、流れ出す表面をだけふれて、それはきらめく。

こまかく。

止め処もなく。

その散乱。

おびただしい、その。

私はぬれる。

少年はいじけたように、あるいは、そこ以外には居場所など在り獲もしないとでも言いたげに、ひざを抱えて壁際に座り込んでいた。

びしょぬれになって。止まらない自分の流した血に穢れながら。

私を振り返って、見上げた眼差しにおびえた家畜の眼差しがあった。最低限の誇りさえ、もとから、これっぽっちも存在などしないかのように。…唾棄すべき、と。

軽蔑に軽蔑を重ねた上で、そして唾棄すべき、穢い存在。人間の、あるいは存在のクズ。そんな風に、私は想うしかなかった。

容赦もなく。

私は水を止めた。薄穢れている、とは言獲ない、むしろ意外なほどにこざっぱりしたTシャツとショートパンツ、ぬれて、色彩を濃く混濁させて仕舞っているところの、少年が纏ったそれ。

その清潔さは、この穢い少年の、あるいは矜持のようなものだったのだろうか?決して床にひざをはついたりはしないことと、それと等しく、彼のなにかを支える、その。

矜持。

単にそれが、不当な盗難の果てに入手されたに過ぎなかったとしても。

頭部の血はまだ止まる気配さえない。水びたしだったのだから、傷が閉じる暇さえなかったに違いない。それでも生き残ろうとしているのか、それともむしろ、このまま死んで仕舞いたいと想っているのか、それさえ私にはわからない。

少年の眼差しは私をだけ見つめた。

それともその瞬間、彼の頭の中には、そんな問題系など

存在しなかっただけなのかもしれない。選択されたのは

ただ、そこにいること。

そのまま。

ひざを抱えて。

彼の服を引っ付かんで脱がせるのにさえ、少年は、抵抗などしなかった。違和感がある。

盗難に盗難を、あるいは人殺しまで?いずれにしても犯罪に犯罪をかさねて生きてきたはずの、いわば野性の、そして、牙を抜かれた家畜。

うすらべったい、何の凹凸もない身体。

貧弱な、そして、息づく筋肉さえも感じられはしない。

放し飼いの牛の、おびえた眼差しを思い出す。

いじめないでください、と、むしろその巨体に面食らって仕舞っている私の眼差しの前にでも、ベトナムの田舎の牛は草を食むことだけは中断しないままに、あくまで被害者の眼差しをくれる。

向こうに広がっていたのは、山岳の緑。

機械仕掛けの鉄骨製で出来ているかのような、見事な無骨な巨体を晒しながら。

例えば山際の牧草地くずれの尽きかけた市街地の、その日差しの中に。

廃墟のような、点在する家屋。

日に焼けた人々。

草を食む。

基本的に平らな土地の

わずかな隆起。

昼間から、どこかで誰かが酒を飲み、どんなに気取って端整に化粧した女も、テーブルの下には容赦なく蟹股を広げてみせる。それでここでは女が何人であるかわかる。すくなくとも外国人にとっては。同じ国の人間にとってそれは美しい足、あるいはやや太りすぎの足の存在であってふしだらさをは存在させないに違いない。

荒れた、市街地。すでにもとから崩壊していたようにさえ見える。

単純に、そこから人間を排除して仕舞えば、見事に絵に描いたような廃墟になって仕舞う町。ベトナム。

大金を積んで渡った日本で、後進国の飢えた出稼ぎの無法者として見出され、見つめられる、彼ら。考えてみれば、彼らがベトナム以外で生きていけるはずもない。無理やり、生存領域を、あの貨幣経済の必然が、いつか拡大し、彼らをそうであるべきではないところにまで連れ出して仕舞った。

そんな気がする。

他者との共存に、彼らはまだ馴れてはいない。

あるいは、それは、経済市場における滑稽な茶番なのか。悲劇なのか?

対向車線に乗り出して、平気で追い越しを駆けるトラック。二車線道路の真ん中を車が走る。バイクの群れ。まるで、映画の中にいるようだ。

まるで。

好き勝手にバイクを駆ることが出来る。まるで映画の中のように。時には違法になる。機嫌の悪い警官の目に留まって仕舞ったならば。金をつかませるか、日本語で、つまりは意味不明な外国語でまくし立てさえすればいい。金か、言語の魔力で、…好きにしろよ。

舌打ちをくれながら、私は…いつでも。

放擲される。まるで、ならず者のように。あるいは、事実、ならず者に過ぎない。彼らの大半と同じように、交通ルールなど一切、もとから守ろうともしてはいないのだから。

人々は言う。ベトナムは美しい…と、ベトナム人たちは。

口をそろえて。

歩道に無造作に投げ出されたレンガの瓦礫。積み上げられた粗大ごみのような陳列をみせる家電店舗。雑貨屋の主は上半身裸で店の軒先で煙草をすい、飲食店の床は食い棄てられた豚肉の骨が散乱し、猫が駆ける。

鉄筋がなぜか公園にうずたかく積まれて雨にそのまま打たれ、町の歩道とはそのままゴミ箱にしかならない。

荒れた風景。結局のところ、私はだからこそ、ここにいるには違いない。とはいえ、そこは地の果てではない。所詮は。

そこにも、結局は人間たちが、人間たちの固有の生存環境を確保し、声の群れ、その音響の連なりで満たしているのだから。



#16

もっと、強烈な光が差せばいい。

血まみれの少年は死んで仕舞うだろうか?それでもかまわなかった。深夜、庭のどこか、ココナッツの木の下でも深く掘って、埋めて仕舞えば誰にも発見などされないに違いない。あとはただ、

大いなる自然のなすがままに。

昆虫と小動物と細菌たちが、すべてを処理してくれる。

大通りに面してはいながら、その広大さと茂った樹木のせいで、この敷地の内部は決して人の目には触れない奥地に過ぎなかった。大通沿いの奥地。

だれにとっても、知ったことではないのかも知れない。…美しい国。

人々が言う。美しい国、と。ベトナム人たちは。にも拘らず、という逆説をは決して用いずに。あるいは、日本。あの、殺戮と破壊を繰り返す、血も涙も容赦もない稀に見る暴力的な自然を、美しい豊かな自然と留保なく断言している日本人たち、…私、…たち。彼らも、結局は同じ事をしているのかもしれない。

彼らと。愚かなベトナム人たちと、まったく同じ倒錯を。

素っ裸に剥いた少年を、足で転がして、床を汚す血。シャワーをひねってもう一度洗い流してやる。羞恥を知った少年は身を縮めて丸まり溺れそうな息遣いを立てる。唇が床を舐める。流れ出し続ける水流のせいで、床がいつまで経ってもきれいになりはしない必然の当然の存在に、不意に、気付いた私は微笑んだ。

おかしくて仕方ない気がした。少年が、ではなくて、自分の無意味な行為が。水を止め、吊るされたままのフエの弟が使っていたバスタオルを、少年に投げつけた。

足で蹴飛ばして、シャワールームの外に連れ出す私に、少年は抵抗しない。女のように体中を両手で隠し、ときに後ろ向きに洗濯籠や、ベッドや、放り出されたままの衣類の山に躓き、あるいは足を取られながら、上目のおびえた眼差しをくれる。

ちいさく、ただただ丸くまるまって。

真っ白いタオルを血が汚す。すぐに、血は止まって仕舞うに違いない。

そのまま、皮膚さえ渇いて仕舞えば。



#17

片手に着替えをぶら下げて、何も気にせずにふらふらと裸のフエが寝室から出てきて、彼女は目を留めた。

立ち止まりもせずに、床に転がされた素っ裸の貧弱な少年に。私に微笑みかけ、そして、シャワールームに消えていく。

…どうでもいいことよ。

と。

眼差しがつぶやく。どうでもいいから、…ね?

あなたの好きにしなさいよ。

事実、そうするほかない。少年が、なぜ、逃げて行かないのか、私には理解できなかったが、頭を抱えるほどの切迫感もない。逃げていかない。たぶん、このままここに住み続けるつもりなのかも知れない。どこかに盗みを働きに行ったりしながら?

わからない。

ここにいれば、彼は家猫同然の半野生の家畜でいられるわけで、それに何らかの趣味性でない限り、危険を冒す必然性などないのかもしれない。

家猫が、自分の趣味としか鼠を狩らなくなるように。

父親のものだったクローゼットを空けて、いくつか衣類を出してやり、少年に放り投げてやった。

バスルームから出てきたフエは、殆ど鼻歌でも歌いそうになりながら、ぬれた髪の毛を拭き取って、…ねぇ、

Đói chưa

と。

おなかは空きましたか?

Anh...

ソファーに座って、私はパソコンで、意味もなくインターネットを開いていた。グーグルの、そして、なにも検索するべき言葉が見つからない以上、そのままに放置されているに過ぎない画面。



#18

少年は胡坐をかいて、シャッターの向こう、日差しのほうを見るでもなく見ていた。

私のひざの上に座ると、拭き乱されるフエの髪の毛は水滴を散らす。

Ngọc ゴックさん…知っていますか?

だれ?

Gần nhà

近くの…あなたも一度お酒を飲んだことあるわよ、と。

Anh uống bia vơi Ngọc

横向きの眼差し。ぬれた体温。ぬれた匂い。かすかに、皮膚が甘ったるく醗酵したようなそれ。

日本人、というだけで、現地に住み込んでいる私のような希少人種を珍しがった、現地の人間たちが私を酒に誘った。だから、無数の《現地人》たちの、だれがだれなのか、私はいつまで経っても覚えられないのだった。

死んだでしょう?

死んだの?

ひどい。

フエが笑う。

...Xấu

声を立てて、やがて正面に振り向き見て、そして覗き込んで、私の額にキスをくれれば、一緒にお葬式に行ったでしょう?

...vơi em.

わたしと。

…with me.

思い出す。忘れていたとはいえない。一週間ほど前、確かに葬儀に行った。裏道の、小さないかにも雑然とした牛小屋のような家屋の、雑然として派手派手しい葬儀だった。親戚か誰かの葬式なのだとばかり想っていた。結局は小さな町なのだから、誰も彼が、どこかで見たことのある顔だった。

花々。

純白、とは言獲ない、白を晒した。

それら、…花々。

死んだ70代の男を覆い尽くした。

老いさらばえたしわくちゃの灼けた女が床に座りこんで、投げ出した足をじたばたさせた。だれかと目が合うたびに。強烈な非議そのものとして。

フエの父の葬儀と、場所以外には殆ど代わり映えのしない葬儀。鳴らされる太鼓とどら。民族楽器の弦が響かせる、いかにも東アジア風に間延びした音楽が、古びた i -pod から垂れ流させれる。

近所迷惑をも顧みない最大ボリュームで。ベトナムの葬儀に、静寂と沈黙が入り込む余地などない。



#19

無数にかざられた花々の色彩。

白、としか、終には言いようがないのだが、黄色からむらさき、赤、青、それらから発する微細なグラデーションを曝し、結局は白、と、ただそれだけのシンプルな言葉に集約されざるを獲ず、純白の、と、そう言った瞬間に、言った先からその言葉が曝すあざやかな虚偽に気付いて仕舞う、そしてつぶやかれるのは結局は純白と、偽りに他ならなかった言葉にすぎない。

そんな、花々にかざられ、埋め尽くされた、そのNgọc、と、フエが私に教えた80歳近い老人の葬儀。

この子が

Có lẽ...

きっと、

con này giết

殺したのよ。

ông Ngọc.



#20

...ngày trơi mưa

フエは、嘆息交じりにそう言った。かるく耳に

He killed

ふれただけで、後は

Mr. Ngọc

転げ堕ちて消え去っていくしかないと、それをむしろ

in once rainy

悔しみもしなかったその音声を、私はただ

morning

聴くしかない。

フエがときに想いだしたように振り払って撒き散らす髪の毛の水滴に、強制的にぬらされながら。

たぶん、…たぶんね。

めい、びい

どうして?と、

Tai sao ?

私が言う前に、フエが微笑みながら言ったのは、ゴックの死体は、その日の夕方に発見されたのだ、と。刺し殺されたゴックを、近所の学校から帰ってきた彼の曾孫と、その父親が見つけたのだった。いつかの雨の日。…私は覚えてはいない。そんな日の朝の雨のことなど。

ベトナムでは、中学校くらいまで、学校への送り迎えを両親か誰かがバイクでする。甘やかされ放題で、無根拠なまでに自分が愛されてしかるべきものだと確信している、ベトナムの子供たち。

どこかでそこからの挫折にあうことなど、たぶん、外国に留学でもしない限りは殆どなく、そのままその鈍い確信と共に生きていく。

自分の息子をバイクでつれて帰った、そのゴックの孫は、居間にそのまま血まみれで倒れている祖父を発見する。

部屋中は派手に荒らされていて、Bún bồ ブン・ボー という牛肉入りの麵を毎朝、家の前で売っていた、そのつり銭をふくむ売上金が持ち去られていた。

朝になれば軒先に運び出される、アルミを組んだ単なる露店の調理台に過ぎないその引き出しの中に、無造作に束ねられていたそれ。

ほかに、いくつかの貴金属と、そして、なぜか、衣類。慎重に選ばれた形跡があった。

町の周辺の狭い区間で、窃盗は最近多発していたらしかった。集団犯罪だという噂があった。人が殺されたのは、初めてだった。周辺で多発していた以上、この、古いには違いなくとも、周辺で一番広い敷地のこの家屋に、いつか入ってこないわけもなかった。

フエにおびえた気配もなく、そして、その少年に、僅かばかりでも認知を与えるそぶりもない。そこにいるのかいないのか、そんなことには気にも留まらない、ようするにどうでもいい存在としてだけ、フエの眼差しは彼を捉えていた。

いつもは集団で深夜に忍び込んで、そしてバイクや家電製品を丸ごと奪ってにかっさらって行くらしかった。実際、十二時を回って仕舞えば、このあたりに人影などなかった。鍵が閉められるにしても、粗いシャッターを内側から南京錠で止めるくらいが関の山なので、たしかに、その気になれば誰でも盗みくらい働けないわけがない。

少年が、起こした、数少ない単独犯罪の一つが、ゴックの殺害事件と、この日の朝の、侵入だったのかもしれない。

どうして、単独の犯行など企てたのだろう?腹でも減っていたのだろうか?

…Đói bụng quá

いずれにしても、少年は、名を名乗りもせずに、いまや、開け放たれたシャッターにもたれかかって、裏庭の木立を見ていた。

そうするのが当然のように。むしろ、あるいは、それが毎日、いつもそうしているから今日も当然そうしているだけだったようにさえ見えて、中途半端な、いかなる違和感をも許さない。

だれも世話をしなくってから、裏庭は草が伸び放題になっていた。猫がどこかに二匹住んでいるはずだった。

その少年に、草でも枯らせればいいのだった。勝手に茂る、バナナのせめてもの世話でも。そんな指示をくれてやるのも億劫で、私はポケットから何枚か紙幣を出し、テーブルをこぶしの先で叩いて鳴らすと、悪びれもせずに少年は振り向く。

ん?

少年が微笑む。

…なに?…ねぇ。何か用?

そんな眼差しで。用などない。テーブルの上に置かれた紙幣を見ると、それでも犬の、《待て》の眼差しをくれた。…マダですか?

私が指先ではじいて、それを床に散らしたとき、少年はありもしないしっぽをふって、飛び掛るようにひざまづき、それを拾った。フエは興味さえ示さない。

ただ、好きにしろ、と。

少年は紙幣を数えて、…大した金額ではない。一万ドン数枚と、五万ドンと、千ドンだの、二千ドンだのの、半端な、しわだらけの紙幣。あわせて、十万ドンもない。日本円の、500円くらい。それども、ここでは3回か5回くらいは、食事にありつける。

不満を浮かべることもない。むしろ、本当にいいの?…と、にやついた上目遣いを曝したが、喰えよ。…なんか。‘

...Àn đi

私の、彼にとっては聴き取りにくいに違いないベトナム語に、

...Anh đi

顔をしかめながら、同時に、

...Ân lỳ

外国人がベトナム語を話したことへの唐突な喜びを浮かべる。何度か繰り返すと、

...ạn đi

少年はなんとなく了解し、フエは鼻にふれるような笑い声を立てた。

その気があるわけでもなく。少年は、文字通り満面の笑みをくれたが、すぐさま、一瞬の戸惑いに、その活気だった眼差しを昏らませる。

彼は、何も言わない。私たちの分も買って来いと言われたのかどうなのか、その真意を測りかねたに違いない。

私は首を振った。行け、と、手を降る。少年は、声を立てて笑った。…ありがとう。当然のように、何の屈託もなく。

立ちあがりかけた少年に、私は言った。

名前は?

Tên gì ?

振り向いて、少年の言った、…Mỹ ミー、という、その、普通は女性名に使われることが多い言葉に、私は違和感があった。とは言え、女性目と男性名の明確な区別などほとんどない国だった。そんなものなのかもしれない。その言葉、つまりは美、の、単にレアな、ひょっとしたら若干の倒錯美をほのめかした気の効いた用法だったのかもしれない。

少年は、勝手に私のサンダルを履いて、シャッターの隙間から出て行った。私は無意味にフエの頭を撫ぜてやった。

私たちにはまだ、空腹は訪れない。



#21

少年は、なかなか帰ってはこなかった。

どうせ、彼は時間など持て余しているのだった。どこかで時間を潰しているに違いない。

好き放題に、濫費するほかないものを濫費して。

扇風機を回して、それに頭を突っ込むように曝したフエが、いきなり

Bèo ?

言ったので、

…ねぇ、

私は眉をしかめる。

何?

太った?

Anh à...

つぶやく、声。フエの。私は、

Anh yêu à...

声を立てて笑い、彼女の腹部に触れた。何ヶ月?

How many month ?

曝されるしかめ面に、光が差す。ひどい?

Em xấu ?

…ねぇ

詰めるように。

ひどい?

言葉。

…わたし。

聞き取られる言葉。それらのつらなり。消費される、その。あるいはむしろ、消費されさえせずに、終には、ときにはただちに忘れ去られていくそれら、あくまでも刹那的な、そして、どこかで執拗な。

存在。

言葉の。

絡みつくような。

なににも触れさえもしないくせに、ときに、引っ掻くだけ引っ掻いて。

不意に、私は言った。

どうして?

その、言葉を、フエは、覗き込むように、

Tai sao ?

折り曲げられた彼女の上半身は、夥しい豊かな髪の毛を無造作に垂らすしかない。

Tai sao

せめて、梳くくらいすればいいのに。

em

殺したの?

giết

私は言った。

bố ?

お父さんを。



#22

どうして父親を殺したの?

突然に。

言った。

あんなにも、突然に。

Why ?

私でさえ、あの父親も、あの母親をすら、殺しまではしなかったのに。無能で、存在価値のないただの暴力的な家畜。

表情さえ変えないフエは、私に、取り立てて何も語らない倦んだ眼差しをただ投げ棄てて、…知らない。

Không biết

微笑む私を見ているに違いない。

ひどいからよ。

彼女は、その両目で。

Bố xấu

あいつが、ひどいからよ。

彼女がわずかにでも身を動かすたびに、彼女を座らせた私の左のひざが、その尾骶骨の触感を感じ取る。

骨格の形態としての合理性を極めているはずのそれは、むしろ、でたらめで鈍い角ばった痛みにすぎない。

かみの毛を乾かしきらないうちに、それに飽きたフエは、身を捻じ曲げて私の唇にキスをくれた。

まぶたは閉じられない。



#23

やがて、戯れるにすぎない唇は、意味を持った行為へとその身を持ち崩していく。

愛の、行為。

ただ。

ただただ、ひたすら、ただ、それ以外の意味をは持ち獲ない、それら。

おおいかぶさった髪の毛が、匂いを立てた。

乾かされきらなかった、その、いまだに潤いを、むしろ執拗に帯びて放つ匂い。

かみの毛。フエの。

ほとんど、臭気とさえ呼ばなければならないもの。なんども。…なんども繰り返し嗅ぎ取られ続けていたに違いない匂い。

臭気。まったき、無機物の臭気。

ときに芳香にさえ擬態しおおせた、それ。

鼻腔の中に、湿気を好き放題に撒き散らして仕舞うような。

戯れに、フエを腕に抱いてやると、首に回された腕がその高さにおののいたように、暴れてみせる。

おもいわよ

はしゃぐ。

Nặng quá

声を立てる。嬌声?…あるいは。…そんな、どこか毛羽立った色彩のある音声。たった一人で、自分勝手にざわめきだった、その。

私は自分勝手に、加担した。その嬌声に。

行くあてもなく、気の向くままに歩いて仕舞えば、腕に疲れが目醒めて、仏間の床に座り込んだ。

広い空間。巨大な据付の仏壇の、電飾がけばけばしい光を撒き散らす。朝の温度が、次第に暑さを持っていく。

私はそのまま、床に寝転がった。御影石のタイル。それはただ単純にかたい。

木戸を順番に引き上げていくフエの、彼女が立たせるちいさな騒音の群れを聞く。樹木がこすれ、軋る、耳障りなそれ、耳に触れるままに。耳に残るのは、音色の容赦のないかたさ。その記憶。引きあけられた木戸は、奥から順に光を差し込ませていく。

次第に。

一杯に。

外気が侵入して、解放された空気がそよぐ。解き放たれて。その、閉ざされた空間で過ごしたの夜を通した停滞から。

すべて、扉が開け放たれて仕舞えば、日差しは私のからだの上にさえ、自由に侵入する。

…光の温度。



#24

フエが、自分勝手に服を脱いで行った。

想いつくままに、あばずれめいて、好き放題に戯れてみせながら。

床に、ひとつひとつ放り投げて。

少年が帰って来たに違いない。

フエの背後に気配がして、フエに何か話しかけ、笑い声を立てれば、少年は庭に出て行く。正面の庭。広大な敷地に樹木が茂って、向こうに河が見えているはずだった。その見飽きた風景。

はしゃいだ笑い声を立てながら、フエが私の衣服を剥ぎ取っていくのに、私は逆らいはしない。



#25

ミーはココナッツの木の庭先で立ち止まると、何をするでもなくそんな事実などあるはずもないのに、それを生まれて初めて見たかのような眼差しを差し向けた。そのありふれた樹木に。

日差しの中に。…朝の。

何時?

8時にもならない、まだ。…その朝の光は急激にその鮮度を失う。いつものように。私は好きだった。朝の、早い時間。もっと。夜と、朝の、切れ目の。

境界線をまたぎさえした、そしてフエが何か、声を立てた。私のからだの上にまたがって。

自分のからだの褐色の、外側のすべてを洗いざらい曝してみせながら。

仏間。広い、無意味に広いその空間の中に。



#26

フエが微笑む。眼差しは庭に投げ棄てられる。

彼女の、その、笑みを過剰に含んだそれは。

からだに感じられた、彼女の体重。そのまま、私に身をあずけっぱなしにして。

ミーを、その眼差しは捉えていたに違いなかった。不意に家屋に紛れ込んだ猫を見留めた程度の、その、かすかに表面にだけふれるようなそれ。彼女の眼差し。崩壊する。

私の眼差しの中で、私が好きだった、朝の鮮度。

光の。



#27

夜の、さまざまな色彩のグラデーションに引き裂かれながらも、あくまでも単一のものとして統一されてあることを、飽かず

矜持していた色彩が、朝焼けの色彩、…紅?とは、どうやっても言い切れはしないその、無残なまでの色彩の、鮮やかな混濁。それに叩き潰され、

蹂躙され、

破壊され、

惨めな敗北を曝しもはや維持できない自分の固有の色彩を名残として、だけ、そこに。

それは露呈させて仕舞う。眼差しに映るのは、朝の

その、夜を引き裂いた、いずれにせよ二つの時間の共存する無造作な破滅。



#28

それは、無慈悲なまでに残酷な色彩だった。目の前にただ拡がった、その。

朝焼け。

夜の、見事に統一された色彩の無慈悲なまでの崩壊。…朝焼け。私が好きだったそれは、もはや

眼差しの中の地上のどこにもなく、もっと西へ。…もっと。

ただ西へ移動しさえすれば、それは、そして移動しなければならない。その色彩を、いま見出すためには。もっと西に。朝の鮮度を追い求めて?永遠に、西へと移動し続けさえすれば私たちはその鮮度にふれ続けざるを獲ないことになる。笑うだろうか?

フエは。

私がこんなことを言ったならば?



#29

…私が、それを言ったならば。

「行かない?」

Đi

かみの毛が乱れる。

「どこへ?」

Hãy đi

フエが、もがくように乱暴な動きを、曝して。

「西へ。」…どこでもいい。

đi tây

そのたびに。

どこでもいいから、…

からだの上にのった、その

「西へ?」

Go west

フエは、その褐色の皮膚を、もはや朝ではない光に曝す。

「…西へ。」

その、一部、ふれあった腹部の周辺をだけ。

「なんで?」

息遣い。聴く。フエの。

「朝が、見たいから。」いつものように。…朝を求めて。朝を

終らせないために。その

かすかに開かれたフエの唇は、

鮮やかな崩壊を終らせないためだけに。西へと。ただ

なにもつぶやきはしないままに。閉じられさえしなかった

西へと移動し続けたら?

眼差しは見下げられて、捉える。

その、鮮明な崩壊と、壊滅を

私を。

求め続けて。

フエは声を立てて笑った。

…愛。

ミーが、ココナッツの木によじ登ろうとして、そして、ほんの2メートル足らずで失敗して仕舞ったときに。

想い出したように。

フエが、声を立てて笑っていた。



#30

見て。…と。

私を見下ろすフエの眼差しが言う。あの子、

…あの、…

それは、華奢な少年。

何やってるの?…ねぇ。

ね?…と。眼差し、フエの、それが。

少女と言っても、おかしくはない

笑っちゃう。

殆ど筋肉を感じさせないか細い少年。ミー。

なに、するつもり?

明け方の侵入者。

ばかなの?…あいつ

私に傷つけられた、家畜のような盗賊。

笑っちゃう。

フエの笑い声を聴き取った

…ねぇ、

ミーが振り向いて、庭先の光の中でなにかジェスチャーをしたのには気付いた。

私は、彼の事など見もしないままに。その、気配。あるいは微笑んだフエの気配で。匂いたった髪の毛が乱れ、おおいかぶさって、掻き散った。

空間、またはフエの顔、そして、首、あるいは胸元に。

音さえも立てずに、その、空気のふるえだけを残して。



#31

ミーが、止血のために頭に捲いていたバスタオルは、はずれて地面に堕ちている。ひっくり返せば水滴が土をこびりつかせて仕舞っているに違いない。血の赤い色彩を、いまや黒ずませて曝した、その基本的には真っ白のバスタオルは。



#32

ミーという、その、朝のまだ明けないうちのひ弱な盗賊は、結局は飼いならされた子犬のように、もはやそこには明らかに自分の居場所があることを、無言のうちにも容赦なく明かしていた。

立ち尽くしたその木漏れ日の中に。

認識。振って湧いたような。その彼に勝手に認識されて仕舞った確信を、少年は無造作に曝した。



#33

朝と呼ばれるべき必然を失いかけた日差しは、それでもまだミーに、斜めの朝の角度を持って差す。

背後から。

正面西向きの家屋だから。

走り出せ。

そのまま、走って行って仕舞え、と想った。

その眼差しの方に。

走り続ければ、周回後れではあっても

朝の、私に殴りつけられ、蹴り上げられて、なぶりものにさえされた、その時間に回帰することができる。



#34

やがてフエの眼差しが、戸惑った。不意に、…唐突に。

想いあぐねて。

下から、彼女を見つめ続ける私の眼差しに。それにはなんども触れ合っていたにも関わらず、そのとき思い出したように唐突に、まるで生まれてからいままで、そんな眼差しにふれらたことなどなかったのだと。そんな。

曝される、容赦もない、かすかな戸惑い。そして、そらすことさえできずに、フエは私を見つめ、自分勝手に腰を動かして、結局は持て余したように、自分の指先を私の口に押し込んでみる。その、



#35

指先。右の。

いつも、右。右利きの彼女は、頑固なまでに。

何をするのにも。

私の頭を撫ぜるのも。

頬にふれるのも。

髪を掻き上げるのも。

眉をなぜるのも。

自分の顔に化粧を

施すのも。

すべて。

…なぜ?



#36

なぜ、

戸惑うの?

なぜ?

…と。

私の眼差しに。

いまさらながらに。

いままで、なんども。

なんども、こんなことをするときには、なんども、ふれられてこなければならなかったそれ。

なかば強制のように

あるいは私たちの限界そのもののであるかのように、いつも、ふれられ続けていたに過ぎないその、それ。

眼差し。

戸惑い、戸惑いをかくしもせずに、私は咥えてやる。

無造作に差し込まれたフエの指先を。

そのでたらめな、ためらいながら、いじけたような動きを。



#37

いま、何が起きてるの?

フエの、戸惑い続ける眼差しがつぶやく。

いま。

…なにが?

ねぇ。



#38

ココナッツを諦めた少年は、為すすべもなく見つめた。向こう、剥げかけた白ペンキの鉄門、その錆びついて仕舞ってからいつでも開けっ放しのそれにもたれかかって、両脇の更地の先の、主幹道路を越えたところに、静かに流れる泥色の河。

ハン川。

それの静かに流れてさざ浪だった表面が、自在に映した、空の反射光のいっぱいに散った白の。

…散乱。

それらの明滅。

いくつもの。

…それ。

あるいは、それらすべてを。



#39

耳を澄ました。

聴こえるもの。からだの上の、フエの

彼女が立てた音。

細かな。

私のからだの。

擦れ合う。

ココナッツの葉の。

ゆれて、ふれる、その。

Mỹ の眼差しが捉えているに違いない、…ざわめき。

もはや、明確な形態をはなさない、通り過ぎる無数のバイクの音響、それら。

ただ、ただの、ただ、音響。



#40

少年は、なぜ、そんなものを見てるのだろう?

日差しの中で、私たちに背を向けた彼が、愛し合う(しかないように、結局は)私たちから目をそらしたわけでもなくて(お互いに飢えているわけでもない、自堕落な?)その眼差しが捉えていたものはどっちなのだろう?(結局は、重ねられるもの。事実して)通り過ぎる主幹道路のバイクの横向きの残像か。(愛し合っているから、私たちは)ハン川の、光の点在か。(愛し合う。)光。空の光を反射させた、泥色の河のさざ浪を打つ、光の点在。

なぜ?

なぜ、そんなものを



#41

…見るの?

なぜ?

(そんな)

…と。

(どうしようもないものを)

少年にそういったら、少年は答えられるだろうか?

あるいは、微笑みながら?

男か女かも、はっきりとは区別できない惨めな華奢さを曝す少年。

眼差しの先には、たぶん、ただ、泥水の河のひかりの点在。



#42

私の眼差しの中に、薄く汗ばむフエの、そして私の注意を惹こうとしたわけでもなく、雪崩れるように倒れこんだフエが、かみの毛を私に覆い被せる。

匂う。その。

いつもと同じ、渇きながら湿気た臭気のようなもの。

どこかで生物的で、あるいは明らかに無機的な、その。

くすぐったくて、私が身をかすかに捩ったのにフエは気付かなかった振りをした。



#43

人々は目に留めなかったのだろうか?

ミーが食事を求めに行ったときに。

頭を切って、ようやく塞がりかけた頭部の流血痕を無造作にバスタオルでくるんだままの、あきらかに自分の体には大きすぎるTシャツとショート・パンツを身にまっとったその、自分たちが見慣れない、この少年を。

ミー。あるいは、彼自身が言ったのかもしれない。

なんでもないよ。

若干、…ね。

じゃっかん、だけ、トラブっただけだから。

…あるいは。

やー…

微笑みさえして。

まじで。…



#44

美しいといえば、美しい少年。

こんな亜熱帯の町で、どうすればそうなるのかもわからないほどに真っ白い肌を、無造作に陽に曝す。

Mỹ、漢字で書けば、短く、するどく、…《美》、…び、と。

盗賊をして生き残ってきた、その。

短く切りそろえられた髪の毛の下に、大きすぎる目が見開かれ、真正面から垂直にぶった切って、そこにあざやかな顔の凹凸を無造作にたたきつけたような、はっきりとした、堀の深くどこかで平坦な顔。

例えば、モディリアーニの造型した人の顔の形態のような。

あれが、世界で最も美しい、と。

悲しく、詩的で、ただただ静寂をだけ湛えて、静かに目覚めたそんな、比類もない造型の一つだというのなら、少年の顔だって、そうだと言わなければならない。

少女じみた生得的な線の細さ。

もっとも、それは彼が今後、成長の中で急激に失って仕舞うものなのかもしれない。

いずれにしても、

だいじょうぶ

ただ、何も…

まじで

ぜんぶ

ないですよ。なにも。問題なんか、

オッケー

まじ

なんにも。

まじ

オッケー

No problem

ふつうに

全然

…声。

問題ないから

関係ないし

Không sao

…じゃない?

全然

頼まれてもいないのに

ぜんぜん…

ふつうに

だいじょうぶ。

ぜんっぜん

オッケー

そうつぶやき続けるその…声。


だいじょうぶだよ


心配、ないよ


それらのひそひそ声の、連なりあった挙句の最強音のような、そんな顔。



#45

フエのかみの毛にくすぐられて、横に背けた私の眼差しは、いつか振り返って私たちを見ていた、そのMỹ の薄い微笑みを捉らえる。

私が捕らえた少年が曝した、私に捉えられた微笑。

…幸せ?

たとえば、不意に振り向かれた一瞬にそうつぶやいたような。幸せ、なんですか?

目の前で曝される、あるいは反道徳的で、反倫理的で、反社会的で、ただただ退廃的なのかもしれない、その。

目を覆うばかりの。

声を潜めて、白い目を向けなければならないはずの。

彼の目の前で、朝っぱらから、他人の眼差しの先で、野放図に曝される盛りの付いた、犬っころのような?

穢らしい?

愛の。

…幸せ?

なぜ?


愛の


行為



#46

…そこにいるのか。

なぜ。

Mỹ が、なぜ、そこにいて微笑んでいるのか、私はその必然性を

その瞬間忘れていた。私に不意に戸惑いが生じて、フエ。

匂われた彼女の髪の毛の匂い。

匂う。

あるいは、汗ばんだ体臭の。

匂い。



#47

少年はどこかからか帰ってきて、軒先に胡坐を組む。

私たちのすぐそこの。

行為に耽りこむばかりの私たちにはたいして、目もくれないで。

その指先が、ふと、自分の塞がりかかった頭部の傷痕を気にした。

出来上がったばかりのそれを。

フエにも、私にも、かならずしも容認されたわけでもなく、とはいえそこは彼のまったき居場所に過ぎない。居場所など、そこにいさえすれば発生せざるを獲ない。

存在するものは、確保された、あるいは無理やりにでも空間の沈黙をうがって、破壊し、叩き潰して、そこに居場所を獲得しているのでない限り、そもそもそこに存在することなどできはしなかった。居場所のなさとはたんなる言葉尻の無意味な比喩に過ぎず、そんな比喩の生ぬるさなど、いわば留保なき動詞としての《存在・ある》に許されてはいない。

まったき、それ自体の限界として。



#48

違和感が残る。

鼻に。皮膚にも。

感じ取られる、フエ、のそれ。

いつもの、その。

彼女がそこにいることの、まったき違和感。

執拗なほどに。

下から、彼女の背中をだきしめて、指先は

その、やわらかい、背筋が刻んだ窪みのかたさを確認しながらも。



ふれなさい。

ほら

暖かさに。

…温度。

わたしの、それに

抱きしめなさい。

むしろ

飢えたように。

私に。ただ

私だけに

いま



…光に、匂いがある。

温度だけではなく。渇いた、そして、潤った。破壊的でありながら、その無根拠な破壊性を上品に隠し通した、その。


その光が、見あげられた上、天井の組まれた樹木の下、接近したフエの褐色の肌の、腹部にだけ当る。私の腹部にも。

ふれて仕舞った木戸のせいで、ぎざぎざになった翳との境界線を曝して。

フエの胸が、息遣い、ゆらぎ、やわらかく翳った。

からだの上に彼女が動くたびに、光は私たちの触れ合った肌の上を移行し、ゆらぎ、むしろ、皮膚そのものが皮膚感覚として感じ取ったようなその匂い。

光の。

フエは、その間には、決して声を立てない。いつも。鼻からだけ息遣って、その息遣いだけがひしゃげたような乱れかたをする。他のベトナム人たちがどうかは知らない。彼女以外には、知らないから。

床の上に身を投げる。背中が、緑白色の御影石のタイルの触感を、そしてそれが拒絶するように反射して伝えた私の体温の名残を、感じた。

またがったフエの、ふとものの、そして尾骶骨の触感が、皮膚と肉をとおして、明らかに感じられたが、人体。

その骨格と構造。為すがままに任せる。けだるさの中で、もはや、やわらかくなりかけたそれには気付こうともせずに、フエは動く。はっきりと感じ、すでに気付いているはずなのに。

上方に、何の意味もなくもたげられた私の右腕は、なにかに救いを求めたかのように見えたに違いない。それを、誰かが見たとしたならば。そんな人間はだれもいない。あの、少年を除いては。

指先が、不意にフエの唇にふれたとき、それはいつもの愛撫の手つきに意味を変えて仕舞う。あるいは、そんな意味を初めて獲得した指先は、それとして初めてフエの唇に触れる。

留保なき愛撫。

ふれる。

ただ、突き出され、差し出されているに過ぎないそれに、フエの乱れる上半身が、不意にその顔の何かを指先に触れさせるたびに。

ふたたび、唇にふれようとした指先を、フエは、くわえて仕舞おうとして、くわえられないままに、二三度、空中をかむように動いた。






silense for a flower



熱帯の町の湿気を含んだ熱気が肌を汗ばませた。

…光。明け放たれた観音開きの木製のドアの群れ、その翳がフロアに、そして、それらは静かに日差しを受けているばかりだった。背中には御影石の床の、すぐに肌の温度に染まって仕舞うしかない冷たさの、かすかなその名残だけは感じられた。

結局は、子供をつくる気もないから、途中でやめて仕舞うに過ぎないのに、なんども愛し合ってみる。

私たち以外にはだれもいなくなって仕舞ったが故に、ただ、広く、古いだけで、まるで廃墟か何かのようにしか見えない家屋。

ナム、という名前の、私の友人は、ここがいい家だと言った。大袈裟に嘆息してみせながら。そういうものなのだろうか。ベトナムにおいては。たとえ、私の眼差しにとっては単なる朽ちかけの廃墟にしかすぎなくとも。

雑な、今にも倒壊して仕舞いそうな、とは言え、要所要所には、…例えば仏間の天上組みなどには、確かにいい木が使われているらしいのは、私にもわかった。

その鑑定眼のようなものは、田舎の建築屋だった父親が、不可抗力としていつの間にか教えた感性だった。

フエの唇が、私のみぞおちに触れた。馬乗りになって、身を横たえた彼女の体温と、でたらめに覆い被せられた髪の毛が、私の皮膚をいよいよ汗ばませて、そして、広大な仏間の、床の上に投げ捨てられた私たちの衣服の群れは散乱する。

どうせ、だれもいないし、だれも来ないし、だれが覗き込むというわけでもなかった。広い庭の尽きた向こうの、細い専用道路の先には、川沿いの主幹道路が無数のバイクを走らせるが、彼らの眼差しに、通り過ぎた、買収されて放置されたままの更地の真ん中に残ったその何本もの椰子の木と、ブーゲンビリアの木の先の、日陰に沈黙する古い家屋の、その先の日陰の暗がりに、誰が何をしていようとも、眼差しを向ける必然性など一切ない。

更地に、何かのレジャー施設でも立って仕舞えばそうではなくなるのかも知れず、今のままなのかもしれない。あるいは、私たちが…正確に言うならば、所有者のフエが、この土地を売り飛ばしてくれるのを待ち続ける気なのかもしれない。

世界中が、やがてベトナムを見棄てて仕舞ったら、どうするのだろう?

喜んで投げ棄てるように、棄てられた現地の人間に返してやるのだろうか?あるいは、罵詈雑言と共にでも。

頽廃と、おだやかさには、容赦のない相似が在る気がする。身を焦がすような頽廃、あるいは、焼け付くようなおだやかさなど、存在し獲るのだろうか?

不意に、フエは声を立てて笑い、身を起こした。

猫が獲物を終に見出したかのように、そして跳ね起きて庭に、そのまま駆け出すのだが、日曜日の正午。

熱帯の光がじかに彼女の素肌にふれた。あるいは、すでに十分すぎるほどに褐色なのだから、もはや、太陽の光など、その上っ面しかなぞれはしない、…のだろうか?

自分が容赦もなく、染め上げて仕舞ったそれには。

行かないで、と、一瞬、私は想ったものだった。

なぜ、だった、…の、だろう。それは?そんなはずもないのに、なぜ、フエが、私を見棄てて庭の先、あの、細い土の短い道路の向こう、泥色のハン河の、光に直射された真っ白いきらめきの中にでも、ひとりで彷徨いだして仕舞うなどと、なぜ?

私だけを置き去りにして。

…なぜ。

そんな事が、考えられて仕舞ったのだろう?

あり獲るはずもなかった。私のそば以外に、彼女に生息できる場所などありはしない。

むらさきを感じさせる赤の、花をいっぱいに咲かせたブーゲンビリアの木の下に立ち止まって、振り向く。

庭は、日差しがきらめきに染める。無数に。

無際限にさえ、想われるほどに。

きらめきの散乱。

フエが声を立てて笑う。…見て、と、その言葉も発されないうちに。…花々。

鉄門の側で、ハン川の方に眼差しを投げていたミーは、その声に驚いて振り向くと、フエに眼差しを投げた。声を立てて笑う。

花々。

錆びた白塗りの鉄の門の、その両脇のブーゲンビリアの樹木、のたうち回りながら図太く、空間を制圧した、とは言えどこかに瀟洒で華奢な気配を蓄えた、ささくれ立つ樹木は、茂った葉を覆い尽くして仕舞うがまでに、一杯にむらさきがかった紅彩を無造作に咲かせ、乱れさせ、空間に点在し、ただ、色彩にちりばめられている。

いつが盛りとも、よくはわからない、その芳醇な花々。

熱帯の。

野放図なまでに咲いていて、花。あるいは、野生の樹木。だれも手入などしないから。いずれにしても結局のところ、樹木は家畜のようには飼育などされはしないのだった。それは、たとえ、だれにどのように保護されていようとも、たとえ、だれかに植林されたに過ぎなかろうとも、あるいは庭師がなんども手をいれたところでもなんでも、最終的には樹木は野生に過ぎない。

生まれ、自分勝手に棲息し、空間をうがち、野放図な繁殖をみせ、やがては朽ちて果てる。

その朽ちた樹木を見返るものなどだれもいない。倒れ臥したそれは、降り止まない雨の中、直射しない日陰の湿地に腐っていくのか、日差しに灼かれて、そのまま渇ききっていつか風化して仕舞うのか。その屍に何かを巣食わせるか、何となるか、いずれにしても、迎えるのはただの野生の死。

ただひたすらの野生の崩壊と壊滅と破滅。

何ほどのことでもなく、為すすべもありはしない。

こっちに来て見なさいよ、と。フエの、はしゃいで見せながら手招きする姿を、私は目で追って、笑う。家屋がでたらめにつくった日翳を出れば、あるいは灼熱の?…確実で、強烈な、どこかで鮮明にそれが破壊的であることを曝した日差しが、私の肌を焼く。その、フエの褐色の肌を焼いているのと同じ光が。

まばたく。

だれかが見たら、だれもが、頭がおかしくなって仕舞ったのだと、私たちに哀れみをさえくれるに違いない。

晒された全身の素肌が光の熱気に倦む。このまま、すべて焼き尽くして仕舞えばいいのに、と、そう想う前からすでに、そんな事がありえないことなど私たちは確信している。あるいは、単純に、知ってさえいた。

いかなる熱帯の日差しであろうとも、私たちを焼き尽くすことなどできはしない。肉体は潤う。

むせ返るほどの水分を湛えて、瑞々しくしかいられないそれふたりの身体が、交互に足を上げて樹木を蹴ってみせるが、寧ろ跳ね返されるのはフエ自身に過ぎない。反動でふらついたフエをミーは後ろから抱きしめてやり、汗ばんだ皮膚。一緒に、ふらついて倒れ掛かり、嬌声が上がる。ただ、じゃれて、たわむれた。

やがてミーが思い切り蹴ると、ブーゲンビリアの花々のいくつかは散った。ふたりのからだの上に、そして、庭の、ブーゲンビリアそれ自体が作った日翳の青い色彩の中に。

乱れる。

散乱した、むらさきを秘め込んだ紅彩、その。フエのかみの毛に絡まった花を、Mỹ はそのかみの毛に丁寧に差してやり、フエが微笑む。

花の色彩が、ただ、匂う。

私はうすく目を閉じる。

日差しは照る。

まぶたの上から。






2018.08.21.-08.24.

Seno-Lê Ma








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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