小説《silence for a flower》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ…世界の果ての恋愛小説⑧
silence for a flower
…そして、48の散文。
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
なぜ?
愛の
行為
#46
…そこにいるのか。
なぜ。
ミーが、なぜ、そこにいて微笑んでいるのか、私はその必然性を
その瞬間忘れていた。私に不意に戸惑いが生じて、フエ。
匂われた彼女の髪の毛の匂い。
匂う。
あるいは、汗ばんだ体臭の。
匂い。
#47
少年はどこかからか帰ってきて、軒先に胡坐を組む。
私たちのすぐそこの。
行為に耽りこむばかりの私たちにはたいして、目もくれないで。
その指先が、ふと、自分の塞がりかかった頭部の傷痕を気にした。
出来上がったばかりのそれを。
フエにも、私にも、かならずしも容認されたわけでもなく、とはいえそこは彼のまったき居場所に過ぎない。居場所など、そこにいさえすれば発生せざるを獲ない。
存在するものは、確保された、あるいは無理やりにでも空間の沈黙をうがって、破壊し、叩き潰して、そこに居場所を獲得しているのでない限り、そもそもそこに存在することなどできはしなかった。居場所のなさとはたんなる言葉尻の無意味な比喩に過ぎず、そんな比喩の生ぬるさなど、いわば留保なき動詞としての《存在》あるいは《ある》に許されてはいない。
まったき、それ自体の限界として。
#48
違和感が残る。
鼻に。皮膚にも。
感じ取られる、フエ、のそれ。
いつもの、その。
彼女がそこにいることの、まったき違和感。
執拗なほどに。
下から、彼女の背中をだきしめて、指先は
その、やわらかい、背筋が刻んだ窪みのかたさを確認しながらも。
ふれなさい。
ほら
暖かさに。
…温度。
わたしの、それに
抱きしめなさい。
むしろ
飢えたように。
私に。ただ
私だけに
いま
…光に、匂いがある。
温度だけではなく。渇いた、そして、潤った。破壊的でありながら、その無根拠な破壊性を上品に隠し通した、その。
その光が、見あげられた上、天井の組まれた樹木の下、接近したフエの褐色の肌の、腹部にだけ当る。私の腹部にも。
ふれて仕舞った木戸のせいで、ぎざぎざになった翳との境界線を曝して。
フエの胸が、息遣い、ゆらぎ、やわらかく翳った。
からだの上に彼女が動くたびに、光は私たちの触れ合った肌の上を移行し、ゆらぎ、むしろ、皮膚そのものが皮膚感覚として感じ取ったようなその匂い。
光の。
フエは、その間には、決して声を立てない。いつも。鼻からだけ息遣って、その息遣いだけがひしゃげたような乱れかたをする。他のベトナム人たちがどうかは知らない。彼女以外には、知らないから。
床の上に身を投げる。背中が、緑白色の御影石のタイルの触感を、そしてそれが拒絶するように反射して伝えた私の体温の名残を、感じた。
またがったフエの、ふとものの、そして尾骶骨の触感が、皮膚と肉をとおして、明らかに感じられたが、人体。
その骨格と構造。為すがままに任せる。けだるさの中で、もはや、やわらかくなりかけたそれには気付こうともせずに、フエは動く。はっきりと感じ、すでに気付いているはずなのに。
上方に、何の意味もなくもたげられた私の右腕は、なにかに救いを求めたかのように見えたに違いない。それを、誰かが見たとしたならば。そんな人間はだれもいない。あの、少年を除いては。
指先が、不意にフエの唇にふれたとき、それはいつもの愛撫の手つきに意味を変えて仕舞う。あるいは、そんな意味を初めて獲得した指先は、それとして初めてフエの唇に触れる。
留保なき愛撫。
ふれる。
ただ、突き出され、差し出されているに過ぎないそれに、フエの乱れる上半身が、不意にその顔の何かを指先に触れさせるたびに。
ふたたび、唇にふれようとした指先を、フエは、くわえて仕舞おうとして、くわえられないままに、二三度、空中をかむように動いた。
silense for a flower
熱帯の町の湿気を含んだ熱気が肌を汗ばませた。
…光。明け放たれた観音開きの木製のドアの群れ、その翳がフロアに、そして、それらは静かに日差しを受けているばかりだった。背中には御影石の床の、すぐに肌の温度に染まって仕舞うしかない冷たさの、かすかなその名残だけは感じられた。
結局は、子供をつくる気もないから、途中でやめて仕舞うに過ぎないのに、なんども愛し合ってみる。
私たち以外にはだれもいなくなって仕舞ったが故に、ただ、広く、古いだけで、まるで廃墟か何かのようにしか見えない家屋。
ナム、という名前の、私の友人は、ここがいい家だと言った。大袈裟に嘆息してみせながら。そういうものなのだろうか。ベトナムにおいては。たとえ、私の眼差しにとっては単なる朽ちかけの廃墟にしかすぎなくとも。
雑な、今にも倒壊して仕舞いそうな、とは言え、要所要所には、…例えば仏間の天上組みなどには、確かにいい木が使われているらしいのは、私にもわかった。
その鑑定眼のようなものは、田舎の建築屋だった父親が、不可抗力としていつの間にか教えた感性だった。
フエの唇が、私のみぞおちに触れた。馬乗りになって、身を横たえた彼女の体温と、でたらめに覆い被せられた髪の毛が、私の皮膚をいよいよ汗ばませて、そして、広大な仏間の、床の上に投げ捨てられた私たちの衣服の群れは散乱する。
どうせ、だれもいないし、だれも来ないし、だれが覗き込むというわけでもなかった。広い庭の尽きた向こうの、細い専用道路の先には、川沿いの主幹道路が無数のバイクを走らせるが、彼らの眼差しに、通り過ぎた、買収されて放置されたままの更地の真ん中に残ったその何本もの椰子の木と、ブーゲンビリアの木の先の、日陰に沈黙する古い家屋の、その先の日陰の暗がりに、誰が何をしていようとも、眼差しを向ける必然性など一切ない。
更地に、何かのレジャー施設でも立って仕舞えばそうではなくなるのかも知れず、今のままなのかもしれない。あるいは、私たちが…正確に言うならば、所有者のフエが、この土地を売り飛ばしてくれるのを待ち続ける気なのかもしれない。
世界中が、やがてベトナムを見棄てて仕舞ったら、どうするのだろう?
喜んで投げ棄てるように、棄てられた現地の人間に返してやるのだろうか?あるいは、罵詈雑言と共にでも。
頽廃と、おだやかさには、容赦のない相似が在る気がする。身を焦がすような頽廃、あるいは、焼け付くようなおだやかさなど、存在し獲るのだろうか?
不意に、フエは声を立てて笑い、身を起こした。
猫が獲物を終に見出したかのように、そして跳ね起きて庭に、そのまま駆け出すのだが、日曜日の正午。
熱帯の光がじかに彼女の素肌にふれた。あるいは、すでに十分すぎるほどに褐色なのだから、もはや、太陽の光など、その上っ面しかなぞれはしない、…のだろうか?
自分が容赦もなく、染め上げて仕舞ったそれには。
行かないで、と、一瞬、私は想ったものだった。
なぜ、だった、…の、だろう。それは?そんなはずもないのに、なぜ、フエが、私を見棄てて庭の先、あの、細い土の短い道路の向こう、泥色のハン河の、光に直射された真っ白いきらめきの中にでも、ひとりで彷徨いだして仕舞うなどと、なぜ?
私だけを置き去りにして。
…なぜ。
そんな事が、考えられて仕舞ったのだろう?
あり獲るはずもなかった。私のそば以外に、彼女に生息できる場所などありはしない。
むらさきを感じさせる赤の、花をいっぱいに咲かせたブーゲンビリアの木の下に立ち止まって、振り向く。
庭は、日差しがきらめきに染める。無数に。
無際限にさえ、想われるほどに。
きらめきの散乱。
フエが声を立てて笑う。…見て、と、その言葉も発されないうちに。…花々。
鉄門の側で、ハン川の方に眼差しを投げていたミーは、その声に驚いて振り向くと、フエに眼差しを投げた。声を立てて笑う。
花々。
錆びた白塗りの鉄の門の、その両脇のブーゲンビリアの樹木、のたうち回りながら図太く、空間を制圧した、とは言えどこかに瀟洒で華奢な気配を蓄えた、ささくれ立つ樹木は、茂った葉を覆い尽くして仕舞うがまでに、一杯にむらさきがかった紅彩を無造作に咲かせ、乱れさせ、空間に点在し、ただ、色彩にちりばめられている。
いつが盛りとも、よくはわからない、その芳醇な花々。
熱帯の。
野放図なまでに咲いていて、花。あるいは、野生の樹木。だれも手入などしないから。いずれにしても結局のところ、樹木は家畜のようには飼育などされはしないのだった。それは、たとえ、だれにどのように保護されていようとも、たとえ、だれかに植林されたに過ぎなかろうとも、あるいは庭師がなんども手をいれたところでもなんでも、最終的には樹木は野生に過ぎない。
生まれ、自分勝手に棲息し、空間をうがち、野放図な繁殖をみせ、やがては朽ちて果てる。
その朽ちた樹木を見返るものなどだれもいない。倒れ臥したそれは、降り止まない雨の中、直射しない日陰の湿地に腐っていくのか、日差しに灼かれて、そのまま渇ききっていつか風化して仕舞うのか。その屍に何かを巣食わせるか、何となるか、いずれにしても、迎えるのはただの野生の死。
ただひたすらの野生の崩壊と壊滅と破滅。
何ほどのことでもなく、為すすべもありはしない。
こっちに来て見なさいよ、と。フエの、はしゃいで見せながら手招きする姿を、私は目で追って、笑う。家屋がでたらめにつくった日翳を出れば、あるいは灼熱の?…確実で、強烈な、どこかで鮮明にそれが破壊的であることを曝した日差しが、私の肌を焼く。その、フエの褐色の肌を焼いているのと同じ光が。
まばたく。
だれかが見たら、だれもが、頭がおかしくなって仕舞ったのだと、私たちに哀れみをさえくれるに違いない。
晒された全身の素肌が光の熱気に倦む。このまま、すべて焼き尽くして仕舞えばいいのに、と、そう想う前からすでに、そんな事がありえないことなど私たちは確信している。あるいは、単純に、知ってさえいた。
いかなる熱帯の日差しであろうとも、私たちを焼き尽くすことなどできはしない。肉体は潤う。
むせ返るほどの水分を湛えて、瑞々しくしかいられないそれふたりの身体が、交互に足を上げて樹木を蹴ってみせるが、寧ろ跳ね返されるのはフエ自身に過ぎない。反動でふらついたフエをミーは後ろから抱きしめてやり、汗ばんだ皮膚。一緒に、ふらついて倒れ掛かり、嬌声が上がる。ただ、じゃれて、たわむれた。
やがてミーが思い切り蹴ると、ブーゲンビリアの花々のいくつかは散った。ふたりのからだの上に、そして、庭の、ブーゲンビリアそれ自体が作った日翳の青い色彩の中に。
乱れる。
散乱した、むらさきを秘め込んだ紅彩、その。フエのかみの毛に絡まった花を、Mỹ はそのかみの毛に丁寧に差してやり、フエが微笑む。
花の色彩が、ただ、匂う。
私はうすく目を閉じる。
日差しは照る。
まぶたの上から。
2018.08.21.-08.24.
Seno-Lê Ma
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