小説《silence for a flower》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ…世界の果ての恋愛小説⑦
silence for a flower
…そして、48の散文。
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
#35
指先。右の。
いつも、右。右利きの彼女は、頑固なまでに。
何をするのにも。
私の頭を撫ぜるのも。
頬にふれるのも。
髪を掻き上げるのも。
眉をなぜるのも。
自分の顔に化粧を
施すのも。
すべて。
…なぜ?
#36
なぜ、
戸惑うの?
なぜ?
…と。
私の眼差しに。
いまさらながらに。
いままで、なんども。
なんども、こんなことをするときには、なんども、ふれられてこなければならなかったそれ。
なかば強制のように
あるいは私たちの限界そのもののであるかのように、いつも、ふれられ続けていたに過ぎないその、それ。
眼差し。
戸惑い、戸惑いをかくしもせずに、私は咥えてやる。
無造作に差し込まれたフエの指先を。
そのでたらめな、ためらいながら、いじけたような動きを。
#37
いま、何が起きてるの?
フエの、戸惑い続ける眼差しがつぶやく。
いま。
…なにが?
ねぇ。
#38
ココナッツを諦めた少年は、為すすべもなく見つめた。向こう、剥げかけた白ペンキの鉄門、その錆びついて仕舞ってからいつでも開けっ放しのそれにもたれかかって、両脇の更地の先の、主幹道路を越えたところに、静かに流れる泥色の河。
ハン川。
それの静かに流れてさざ浪だった表面が、自在に映した、空の反射光のいっぱいに散った白の。
…散乱。
それらの明滅。
いくつもの。
…それ。
あるいは、それらすべてを。
#39
耳を澄ました。
聴こえるもの。からだの上の、フエの。
彼女が立てた音。
細かな。
私のからだの。
擦れ合う。
ココナッツの葉の。
ゆれて、ふれる、その。
Mỹ の眼差しが捉えているに違いない、…ざわめき。
もはや、明確な形態をはなさない、通り過ぎる無数のバイクの音響、それら。
ただ、ただの、ただ、音響。
#40
少年は、なぜ、そんなものを見てるのだろう?
日差しの中で、私たちに背を向けた彼が、愛し合う(しかないように、結局は)私たちから目をそらしたわけでもなくて(お互いに飢えているわけでもない、自堕落な?)その眼差しが捉えていたものはどっちなのだろう?(結局は、重ねられるもの。事実して)通り過ぎる主幹道路のバイクの横向きの残像か。(愛し合っているから、私たちは)ハン川の、光の点在か。(愛し合う。)光。空の光を反射させた、泥色の河のさざ浪を打つ、光の点在。
なぜ?
なぜ、そんなものを
#41
…見るの?
なぜ?
(そんな)
…と。
(どうしようもないものを)
少年にそういったら、少年は答えられるだろうか?
あるいは、微笑みながら?
男か女かも、はっきりとは区別できない惨めな華奢さを曝す少年。
眼差しの先には、たぶん、ただ、泥水の河のひかりの点在。
#42
私の眼差しの中に、薄く汗ばむフエの、そして私の注意を惹こうとしたわけでもなく、雪崩れるように倒れこんだフエが、かみの毛を私に覆い被せる。
匂う。その。
いつもと同じ、渇きながら湿気た臭気のようなもの。
どこかで生物的で、あるいは明らかに無機的な、その。
くすぐったくて、私が身をかすかに捩ったのにフエは気付かなかった振りをした。
#43
人々は目に留めなかったのだろうか?
ミーが食事を求めに行ったときに。
頭を切って、ようやく塞がりかけた頭部の流血痕を無造作にバスタオルでくるんだままの、あきらかに自分の体には大きすぎるTシャツとショート・パンツを身にまっとったその、自分たちが見慣れない、この少年を。
ミー。あるいは、彼自身が言ったのかもしれない。
なんでもないよ。
若干、…ね。
じゃっかん、だけ、トラブっただけだから。
…あるいは。
やー…
微笑みさえして。
まじで。…
#44
美しいといえば、美しい少年。
こんな亜熱帯の町で、どうすればそうなるのかもわからないほどに真っ白い肌を、無造作に陽に曝す。
Mỹ、漢字で書けば、短く、するどく、…《美》、…び、と。
盗賊をして生き残ってきた、その。
短く切りそろえられた髪の毛の下に、大きすぎる目が見開かれ、真正面から垂直にぶった切って、そこにあざやかな顔の凹凸を無造作にたたきつけたような、はっきりとした、堀の深くどこかで平坦な顔。
例えば、モディリアーニの造型した人の顔の形態のような。
あれが、世界で最も美しい、と。
悲しく、詩的で、ただただ静寂をだけ湛えて、静かに目覚めたそんな、比類もない造型の一つだというのなら、少年の顔だって、そうだと言わなければならない。
少女じみた生得的な線の細さ。
もっとも、それは彼が今後、成長の中で急激に失って仕舞うものなのかもしれない。
いずれにしても、
だいじょうぶ
ただ、何も…
まじで
ぜんぶ
ないですよ。なにも。問題なんか、
オッケー
まじ
なんにも。
まじ
オッケー
No problem
ふつうに
全然
…声。
問題ないから
関係ないし
Không sao
…じゃない?
全然
頼まれてもいないのに
ぜんぜん…
ふつうに
だいじょうぶ。
ぜんっぜん
オッケー
そうつぶやき続けるその…声。
だいじょうぶだよ
心配、ないよ
それらのひそひそ声の、連なりあった挙句の最強音のような、そんな顔。
#45
フエのかみの毛にくすぐられて、横に背けた私の眼差しは、いつか振り返って私たちを見ていた、そのMỹ の薄い微笑みを捉らえる。
私が捕らえた少年が曝した、私に捉えられた微笑。
…幸せ?
たとえば、不意に振り向かれた一瞬にそうつぶやいたような。幸せ、なんですか?
目の前で曝される、あるいは反道徳的で、反倫理的で、反社会的で、ただただ退廃的なのかもしれない、その。
目を覆うばかりの。
声を潜めて、白い目を向けなければならないはずの。
彼の目の前で、朝っぱらから、他人の眼差しの先で、野放図に曝される盛りの付いた、犬っころのような?
穢らしい?
愛の。
…幸せ?
なぜ?
愛の
行為
#46
…そこにいるのか。
なぜ。
Mỹ が、なぜ、そこにいて微笑んでいるのか、私はその必然性を
その瞬間忘れていた。私に不意に戸惑いが生じて、フエ。
匂われた彼女の髪の毛の匂い。
匂う。
あるいは、汗ばんだ体臭の。
匂い。
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