小説《silence for a flower》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ…世界の果ての恋愛小説⑤
silence for a flower
…そして、48の散文。
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
フエの父の葬儀と、場所以外には殆ど代わり映えのしない葬儀。鳴らされる太鼓とどら。民族楽器の弦が響かせる、いかにも東アジア風に間延びした音楽が、古びた i -pod から垂れ流させれる。
近所迷惑をも顧みない最大ボリュームで。ベトナムの葬儀に、静寂と沈黙が入り込む余地などない。
#19
無数にかざられた花々の色彩。
白、としか、終には言いようがないのだが、黄色からむらさき、赤、青、それらから発する微細なグラデーションを曝し、結局は白、と、ただそれだけのシンプルな言葉に集約されざるを獲ず、純白の、と、そう言った瞬間に、言った先からその言葉が曝すあざやかな虚偽に気付いて仕舞う、そしてつぶやかれるのは結局は純白と、偽りに他ならなかった言葉にすぎない。
そんな、花々にかざられ、埋め尽くされた、そのNgọc、と、フエが私に教えた80歳近い老人の葬儀。
この子が
Có lẽ...
きっと、
con này giết
殺したのよ。
ông Ngọc.
#20
...ngày trơi mưa
フエは、嘆息交じりにそう言った。かるく耳に
He killed
ふれただけで、後は
Mr. Ngọc
転げ堕ちて消え去っていくしかないと、それをむしろ
in once rainy
悔しみもしなかったその音声を、私はただ
morning
聴くしかない。
フエがときに想いだしたように振り払って撒き散らす髪の毛の水滴に、強制的にぬらされながら。
たぶん、…たぶんね。
めい、びい
どうして?と、
Tai sao ?
私が言う前に、フエが微笑みながら言ったのは、ゴックの死体は、その日の夕方に発見されたのだ、と。刺し殺されたゴックを、近所の学校から帰ってきた彼の曾孫と、その父親が見つけたのだった。いつかの雨の日。…私は覚えてはいない。そんな日の朝の雨のことなど。
ベトナムでは、中学校くらいまで、学校への送り迎えを両親か誰かがバイクでする。甘やかされ放題で、無根拠なまでに自分が愛されてしかるべきものだと確信している、ベトナムの子供たち。
どこかでそこからの挫折にあうことなど、たぶん、外国に留学でもしない限りは殆どなく、そのままその鈍い確信と共に生きていく。
自分の息子をバイクでつれて帰った、そのゴックの孫は、居間にそのまま血まみれで倒れている祖父を発見する。
部屋中は派手に荒らされていて、Bún bồ ブン・ボー という牛肉入りの麵を毎朝、家の前で売っていた、そのつり銭をふくむ売上金が持ち去られていた。
朝になれば軒先に運び出される、アルミを組んだ単なる露店の調理台に過ぎないその引き出しの中に、無造作に束ねられていたそれ。
ほかに、いくつかの貴金属と、そして、なぜか、衣類。慎重に選ばれた形跡があった。
町の周辺の狭い区間で、窃盗は最近多発していたらしかった。集団犯罪だという噂があった。人が殺されたのは、初めてだった。周辺で多発していた以上、この、古いには違いなくとも、周辺で一番広い敷地のこの家屋に、いつか入ってこないわけもなかった。
フエにおびえた気配もなく、そして、その少年に、僅かばかりでも認知を与えるそぶりもない。そこにいるのかいないのか、そんなことには気にも留まらない、ようするにどうでもいい存在としてだけ、フエの眼差しは彼を捉えていた。
いつもは集団で深夜に忍び込んで、そしてバイクや家電製品を丸ごと奪ってにかっさらって行くらしかった。実際、十二時を回って仕舞えば、このあたりに人影などなかった。鍵が閉められるにしても、粗いシャッターを内側から南京錠で止めるくらいが関の山なので、たしかに、その気になれば誰でも盗みくらい働けないわけがない。
少年が、起こした、数少ない単独犯罪の一つが、ゴックの殺害事件と、この日の朝の、侵入だったのかもしれない。
どうして、単独の犯行など企てたのだろう?腹でも減っていたのだろうか?
…Đói bụng quá
いずれにしても、少年は、名を名乗りもせずに、いまや、開け放たれたシャッターにもたれかかって、裏庭の木立を見ていた。
そうするのが当然のように。むしろ、あるいは、それが毎日、いつもそうしているから今日も当然そうしているだけだったようにさえ見えて、中途半端な、いかなる違和感をも許さない。
だれも世話をしなくってから、裏庭は草が伸び放題になっていた。猫がどこかに二匹住んでいるはずだった。
その少年に、草でも枯らせればいいのだった。勝手に茂る、バナナのせめてもの世話でも。そんな指示をくれてやるのも億劫で、私はポケットから何枚か紙幣を出し、テーブルをこぶしの先で叩いて鳴らすと、悪びれもせずに少年は振り向く。
ん?
少年が微笑む。
…なに?…ねぇ。何か用?
そんな眼差しで。用などない。テーブルの上に置かれた紙幣を見ると、それでも犬の、《待て》の眼差しをくれた。…マダですか?
私が指先ではじいて、それを床に散らしたとき、少年はありもしないしっぽをふって、飛び掛るようにひざまづき、それを拾った。フエは興味さえ示さない。
ただ、好きにしろ、と。
少年は紙幣を数えて、…大した金額ではない。一万ドン数枚と、五万ドンと、千ドンだの、二千ドンだのの、半端な、しわだらけの紙幣。あわせて、十万ドンもない。日本円の、500円くらい。それども、ここでは3回か5回くらいは、食事にありつける。
不満を浮かべることもない。むしろ、本当にいいの?…と、にやついた上目遣いを曝したが、喰えよ。…なんか。‘
...Àn đi
私の、彼にとっては聴き取りにくいに違いないベトナム語に、
...Anh đi
顔をしかめながら、同時に、
...Ân lỳ
外国人がベトナム語を話したことへの唐突な喜びを浮かべる。何度か繰り返すと、
...ạn đi
少年はなんとなく了解し、フエは鼻にふれるような笑い声を立てた。
その気があるわけでもなく。少年は、文字通り満面の笑みをくれたが、すぐさま、一瞬の戸惑いに、その活気だった眼差しを昏らませる。
彼は、何も言わない。私たちの分も買って来いと言われたのかどうなのか、その真意を測りかねたに違いない。
私は首を振った。行け、と、手を降る。少年は、声を立てて笑った。…ありがとう。当然のように、何の屈託もなく。
立ちあがりかけた少年に、私は言った。
名前は?
Tên gì ?
振り向いて、少年の言った、…Mỹ ミー、という、その、普通は女性名に使われることが多い言葉に、私は違和感があった。とは言え、女性目と男性名の明確な区別などほとんどない国だった。そんなものなのかもしれない。その言葉、つまりは美、の、単にレアな、ひょっとしたら若干の倒錯美をほのめかした気の効いた用法だったのかもしれない。
少年は、勝手に私のサンダルを履いて、シャッターの隙間から出て行った。私は無意味にフエの頭を撫ぜてやった。
私たちにはまだ、空腹は訪れない。
#21
少年は、なかなか帰ってはこなかった。
どうせ、彼は時間など持て余しているのだった。どこかで時間を潰しているに違いない。
好き放題に、濫費するほかないものを濫費して。
扇風機を回して、それに頭を突っ込むように曝したフエが、いきなり
Bèo ?
言ったので、
…ねぇ、
私は眉をしかめる。
何?
太った?
Anh à...
つぶやく、声。フエの。私は、
Anh yêu à...
声を立てて笑い、彼女の腹部に触れた。何ヶ月?
How many month ?
曝されるしかめ面に、光が差す。ひどい?
Em xấu ?
…ねぇ
詰めるように。
ひどい?
言葉。
…わたし。
聞き取られる言葉。それらのつらなり。消費される、その。あるいはむしろ、消費されさえせずに、終には、ときにはただちに忘れ去られていくそれら、あくまでも刹那的な、そして、どこかで執拗な。
存在。
言葉の。
絡みつくような。
なににも触れさえもしないくせに、ときに、引っ掻くだけ引っ掻いて。
不意に、私は言った。
どうして?
その、言葉を、フエは、覗き込むように、
Tai sao ?
折り曲げられた彼女の上半身は、夥しい豊かな髪の毛を無造作に垂らすしかない。
Tai sao
せめて、梳くくらいすればいいのに。
Em
殺したの?
giết
私は言った。
bố ?
お父さんを。
#22
どうして父親を殺したの?
突然に。
言った。
あんなにも、突然に。
Why ?
私でさえ、あの父親も、あの母親をすら、殺しまではしなかったのに。無能で、存在価値のないただの暴力的な家畜。
表情さえ変えないフエは、私に、取り立てて何も語らない倦んだ眼差しをただ投げ棄てて、…知らない。
Không biết
微笑む私を見ているに違いない。
ひどいからよ。
彼女は、その両目で。
Bố xấu
あいつが、ひどいからよ。
彼女がわずかにでも身を動かすたびに、彼女を座らせた私の左のひざが、その尾骶骨の触感を感じ取る。
骨格の形態としての合理性を極めているはずのそれは、むしろ、でたらめで鈍い角ばった痛みにすぎない。
かみの毛を乾かしきらないうちに、それに飽きたフエは、身を捻じ曲げて私の唇にキスをくれた。
まぶたは閉じられない。
#23
やがて、戯れるにすぎない唇は、意味を持った行為へとその身を持ち崩していく。
愛の、行為。
ただ。
ただただ、ひたすら、ただ、それ以外の意味をは持ち獲ない、それら。
おおいかぶさった髪の毛が、匂いを立てた。
乾かされきらなかった、その、いまだに潤いを、むしろ執拗に帯びて放つ匂い。
かみの毛。フエの。
ほとんど、臭気とさえ呼ばなければならないもの。なんども。…なんども繰り返し嗅ぎ取られ続けていたに違いない匂い。
臭気。まったき、無機物の臭気。
ときに芳香にさえ擬態しおおせた、それ。
鼻腔の中に、湿気を好き放題に撒き散らして仕舞うような。
戯れに、フエを腕に抱いてやると、首に回された腕がその高さにおののいたように、暴れてみせる。
おもいわよ
はしゃぐ。
Nặng quá
声を立てる。嬌声?…あるいは。…そんな、どこか毛羽立った色彩のある音声。たった一人で、自分勝手にざわめきだった、その。
私は自分勝手に、加担した。その嬌声に。
行くあてもなく、気の向くままに歩いて仕舞えば、腕に疲れが目醒めて、仏間の床に座り込んだ。
広い空間。巨大な据付の仏壇の、電飾がけばけばしい光を撒き散らす。朝の温度が、次第に暑さを持っていく。
私はそのまま、床に寝転がった。御影石のタイル。それはただ単純にかたい。
木戸を順番に引き上げていくフエの、彼女が立たせるちいさな騒音の群れを聞く。樹木がこすれ、軋る、耳障りなそれ、耳に触れるままに。耳に残るのは、音色の容赦のないかたさ。その記憶。引きあけられた木戸は、奥から順に光を差し込ませていく。
次第に。
一杯に。
外気が侵入して、解放された空気がそよぐ。解き放たれて。その、閉ざされた空間で過ごしたの夜を通した停滞から。
すべて、扉が開け放たれて仕舞えば、日差しは私のからだの上にさえ、自由に侵入する。
…光の温度。
0コメント