小説《silence for a flower》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ…世界の果ての恋愛小説④
silence for a flower
…そして、48の散文。
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
…フエ。
彼女に、老いさらばえたとはいえ、老いさらばえきっているわけではない60代の、健常な男を無傷で殺せるわけがない。長い間、20世紀の後半のすべてを戦争に費やしていた国の、いわば、ほんの十数年前まで戦争の生き残りしか生存してはいなかった国の、その、60代の男、すくなくとも、曲りなりにでも戦争経験があって、人を一人や二人くらいは?殺したことくらいはあるに違いない男を、華奢なフエが、どうしてたやすく殺せて仕舞ったのだろう?あるいは、かならずしもた易くはなかったとはしても、無傷なままで。男は、フエに、承認をくれたのだろうか。…どうぞ。
殺してください。
#14
…どうぞ。私を。
あなたがそれを望むというなら。
…と。
そうだったのだろうか?
意図的に、寝込みを殺したのなら、あんなにも部屋が乱れているわけもないのだった。賢いフエなら、もっとスマートな殺し方が出来そうなものだった。まるででたらめな乱闘。
その隠しようのない痕跡。
あの、憤怒の表情を曝したままに死んだ男は、同時に、自分への殺害を承認していたのだろうか?
決定的に。
そして、寝込みを襲って殺さなければならないほどの、殺意の存在は私には、フエに、決して感じられはせず、その日にそれが為されなければならなかった必然性も感じられ獲はしなかったのだった。
何かの記念日であったわけでもない、ありふれた一日に過ぎなかったはずの、その日に。
フエは、いま、起き上がることも、むしろ息することそれ自体さえもがけだるいのだとさえ言いたげに、ただ、ベッドの上に体を折り曲げて、たたずむ。私を、上目に見つめたままで。投げ棄てるような、眼差しの表情を曝して。
#15
寝室から出て、あの、少年を閉じ込めた浴室に戻る。
彼に会いたかったわけではない。そこしか、足を向ける場所がなかったのだ。とりあえずは。
ドアを開けた瞬間に、飛び散るのはあのままに、出しっぱなしのシャワーの水流。
噴き乱れる騒音。水の。
跳ねる。
水滴。
噴出し、飛び散り、通風孔から差し降ろされた早朝の、朝焼けの色彩を失ったただただ透明な光がかすかに、流れ出す表面をだけふれて、それはきらめく。
こまかく。
止め処もなく。
その散乱。
おびただしい、その。
私はぬれる。
少年はいじけたように、あるいは、そこ以外には居場所など在り獲もしないとでも言いたげに、ひざを抱えて壁際に座り込んでいた。
びしょぬれになって。止まらない自分の流した血に穢れながら。
私を振り返って、見上げた眼差しにおびえた家畜の眼差しがあった。最低限の誇りさえ、もとから、これっぽっちも存在などしないかのように。…唾棄すべき、と。
軽蔑に軽蔑を重ねた上で、そして唾棄すべき、穢い存在。人間の、あるいは存在のクズ。そんな風に、私は想うしかなかった。
容赦もなく。
私は水を止めた。薄穢れている、とは言獲ない、むしろ意外なほどにこざっぱりしたTシャツとショートパンツ、ぬれて、色彩を濃く混濁させて仕舞っているところの、少年が纏ったそれ。
その清潔さは、この穢い少年の、あるいは矜持のようなものだったのだろうか?決して床にひざをはついたりはしないことと、それと等しく、彼のなにかを支える、その。
矜持。
単にそれが、不当な盗難の果てに入手されたに過ぎなかったとしても。
頭部の血はまだ止まる気配さえない。水びたしだったのだから、傷が閉じる暇さえなかったに違いない。それでも生き残ろうとしているのか、それともむしろ、このまま死んで仕舞いたいと想っているのか、それさえ私にはわからない。
少年の眼差しは私をだけ見つめた。
それともその瞬間、彼の頭の中には、そんな問題系など
存在しなかっただけなのかもしれない。選択されたのは
ただ、そこにいること。
そのまま。
ひざを抱えて。
彼の服を引っ付かんで脱がせるのにさえ、少年は、抵抗などしなかった。違和感がある。
盗難に盗難を、あるいは人殺しまで?いずれにしても犯罪に犯罪をかさねて生きてきたはずの、いわば野性の、そして、牙を抜かれた家畜。
うすらべったい、何の凹凸もない身体。
貧弱な、そして、息づく筋肉さえも感じられはしない。
放し飼いの牛の、おびえた眼差しを思い出す。
いじめないでください、と、むしろその巨体に面食らって仕舞っている私の眼差しの前にでも、ベトナムの田舎の牛は草を食むことだけは中断しないままに、あくまで被害者の眼差しをくれる。
向こうに広がっていたのは、山岳の緑。
機械仕掛けの鉄骨製で出来ているかのような、見事な無骨な巨体を晒しながら。
例えば山際の牧草地くずれの尽きかけた市街地の、その日差しの中に。
廃墟のような、点在する家屋。
日に焼けた人々。
草を食む。
基本的に平らな土地の
わずかな隆起。
昼間から、どこかで誰かが酒を飲み、どんなに気取って端整に化粧した女も、テーブルの下には容赦なく蟹股を広げてみせる。それでここでは女が何人であるかわかる。すくなくとも外国人にとっては。同じ国の人間にとってそれは美しい足、あるいはやや太りすぎの足の存在であってふしだらさをは存在させないに違いない。
荒れた、市街地。すでにもとから崩壊していたようにさえ見える。
単純に、そこから人間を排除して仕舞えば、見事に絵に描いたような廃墟になって仕舞う町。ベトナム。
大金を積んで渡った日本で、後進国の飢えた出稼ぎの無法者として見出され、見つめられる、彼ら。考えてみれば、彼らがベトナム以外で生きていけるはずもない。無理やり、生存領域を、あの貨幣経済の必然が、いつか拡大し、彼らをそうであるべきではないところにまで連れ出して仕舞った。
そんな気がする。
他者との共存に、彼らはまだ馴れてはいない。
あるいは、それは、経済市場における滑稽な茶番なのか。悲劇なのか?
対向車線に乗り出して、平気で追い越しを駆けるトラック。二車線道路の真ん中を車が走る。バイクの群れ。まるで、映画の中にいるようだ。
まるで。
好き勝手にバイクを駆ることが出来る。まるで映画の中のように。時には違法になる。機嫌の悪い警官の目に留まって仕舞ったならば。金をつかませるか、日本語で、つまりは意味不明な外国語でまくし立てさえすればいい。金か、言語の魔力で、…好きにしろよ。
舌打ちをくれながら、私は…いつでも。
放擲される。まるで、ならず者のように。あるいは、事実、ならず者に過ぎない。彼らの大半と同じように、交通ルールなど一切、もとから守ろうともしてはいないのだから。
人々は言う。ベトナムは美しい…と、ベトナム人たちは。
口をそろえて。
歩道に無造作に投げ出されたレンガの瓦礫。積み上げられた粗大ごみのような陳列をみせる家電店舗。雑貨屋の主は上半身裸で店の軒先で煙草をすい、飲食店の床は食い棄てられた豚肉の骨が散乱し、猫が駆ける。
鉄筋がなぜか公園にうずたかく積まれて雨にそのまま打たれ、町の歩道とはそのままゴミ箱にしかならない。
荒れた風景。結局のところ、私はだからこそ、ここにいるには違いない。とはいえ、そこは地の果てではない。所詮は。
そこにも、結局は人間たちが、人間たちの固有の生存環境を確保し、声の群れ、その音響の連なりで満たしているのだから。
#16
もっと、強烈な光が差せばいい。
血まみれの少年は死んで仕舞うだろうか?それでもかまわなかった。深夜、庭のどこか、ココナッツの木の下でも深く掘って、埋めて仕舞えば誰にも発見などされないに違いない。あとはただ、
大いなる自然のなすがままに。
昆虫と小動物と細菌たちが、すべてを処理してくれる。
大通りに面してはいながら、その広大さと茂った樹木のせいで、この敷地の内部は決して人の目には触れない奥地に過ぎなかった。大通沿いの奥地。
だれにとっても、知ったことではないのかも知れない。…美しい国。
人々が言う。美しい国、と。ベトナム人たちは。にも拘らず、という逆説をは決して用いずに。あるいは、日本。あの、殺戮と破壊を繰り返す、血も涙も容赦もない稀に見る暴力的な自然を、美しい豊かな自然と留保なく断言している日本人たち、…私、…たち。彼らも、結局は同じ事をしているのかもしれない。
彼らと。愚かなベトナム人たちと、まったく同じ倒錯を。
素っ裸に剥いた少年を、足で転がして、床を汚す血。シャワーをひねってもう一度洗い流してやる。羞恥を知った少年は身を縮めて丸まり溺れそうな息遣いを立てる。唇が床を舐める。流れ出し続ける水流のせいで、床がいつまで経ってもきれいになりはしない必然の当然の存在に、不意に、気付いた私は微笑んだ。
おかしくて仕方ない気がした。少年が、ではなくて、自分の無意味な行為が。水を止め、吊るされたままのフエの弟が使っていたバスタオルを、少年に投げつけた。
足で蹴飛ばして、シャワールームの外に連れ出す私に、少年は抵抗しない。女のように体中を両手で隠し、ときに後ろ向きに洗濯籠や、ベッドや、放り出されたままの衣類の山に躓き、あるいは足を取られながら、上目のおびえた眼差しをくれる。
ちいさく、ただただ丸くまるまって。
真っ白いタオルを血が汚す。すぐに、血は止まって仕舞うに違いない。
そのまま、皮膚さえ渇いて仕舞えば。
#17
片手に着替えをぶら下げて、何も気にせずにふらふらと裸のフエが寝室から出てきて、彼女は目を留めた。
立ち止まりもせずに、床に転がされた素っ裸の貧弱な少年に。私に微笑みかけ、そして、シャワールームに消えていく。
…どうでもいいことよ。
と。
眼差しがつぶやく。どうでもいいから、…ね?
あなたの好きにしなさいよ。
事実、そうするほかない。少年が、なぜ、逃げて行かないのか、私には理解できなかったが、頭を抱えるほどの切迫感もない。逃げていかない。たぶん、このままここに住み続けるつもりなのかも知れない。どこかに盗みを働きに行ったりしながら?
わからない。
ここにいれば、彼は家猫同然の半野生の家畜でいられるわけで、それに何らかの趣味性でない限り、危険を冒す必然性などないのかもしれない。
家猫が、自分の趣味としか鼠を狩らなくなるように。
父親のものだったクローゼットを空けて、いくつか衣類を出してやり、少年に放り投げてやった。
バスルームから出てきたフエは、殆ど鼻歌でも歌いそうになりながら、ぬれた髪の毛を拭き取って、…ねぇ、
Đói chưa
と。
おなかは空きましたか?
Anh...
ソファーに座って、私はパソコンで、意味もなくインターネットを開いていた。グーグルの、そして、なにも検索するべき言葉が見つからない以上、そのままに放置されているに過ぎない画面。
#18
少年は胡坐をかいて、シャッターの向こう、日差しのほうを見るでもなく見ていた。
私のひざの上に座ると、拭き乱されるフエの髪の毛は水滴を散らす。
Ngọc ゴックさん…知っていますか?
だれ?
Gần nhà
近くの…あなたも一度お酒を飲んだことあるわよ、と。
Anh uống bia vơi Ngọc
横向きの眼差し。ぬれた体温。ぬれた匂い。かすかに、皮膚が甘ったるく醗酵したようなそれ。
日本人、というだけで、現地に住み込んでいる私のような希少人種を珍しがった、現地の人間たちが私を酒に誘った。だから、無数の《現地人》たちの、だれがだれなのか、私はいつまで経っても覚えられないのだった。
死んだでしょう?
死んだの?
ひどい。
フエが笑う。
...Xấu
声を立てて、やがて正面に振り向き見て、そして覗き込んで、私の額にキスをくれれば、一緒にお葬式に行ったでしょう?
...vơi em.
わたしと。
…with me.
思い出す。忘れていたとはいえない。一週間ほど前、確かに葬儀に行った。裏道の、小さないかにも雑然とした牛小屋のような家屋の、雑然として派手派手しい葬儀だった。親戚か誰かの葬式なのだとばかり想っていた。結局は小さな町なのだから、誰も彼が、どこかで見たことのある顔だった。
花々。
純白、とは言獲ない、白を晒した。
それら、…花々。
死んだ70代の男を覆い尽くした。
老いさらばえたしわくちゃの灼けた女が床に座りこんで、投げ出した足をじたばたさせた。だれかと目が合うたびに。強烈な非議そのものとして。
フエの父の葬儀と、場所以外には殆ど代わり映えのしない葬儀。鳴らされる太鼓とどら。民族楽器の弦が響かせる、いかにも東アジア風に間延びした音楽が、古びた i -pod から垂れ流させれる。
近所迷惑をも顧みない最大ボリュームで。ベトナムの葬儀に、静寂と沈黙が入り込む余地などない。
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