小説《silence for a flower》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ…世界の果ての恋愛小説③
silence for a flower
…そして、48の散文。
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
室内の空気それ自体に倦んで仕舞った私が、一気にシャッターを引き開けると、その、背骨を手づかみに爪で掻くような騒音、見上げられた、朝焼けの色彩。
ちょうど、眼差しの向こうの東の空に、…日本。
そこのあるほう。
朱、オレンジ、黄色、むらさき、それら。破滅の色彩。
あの、ここより二時間早い場所。
#8
…それら、色彩がお互いに染まりきらないグラデーションを曝す、夜の物静かな、…完全で、鮮明な単彩が自己破壊を起こしたそれ。
鮮明な何かを、不意に突破させて仕舞ったあざやかな現状を刻むそれ、朝焼け。
その色彩。
くだらない。
唾棄すべき、容赦もなく叩き潰してその存在そのものを愚弄しなければならないほどの、そんなただ野放しの暴力だけを駆る、くだらなさ。
もはや、笑うしかない。
少年が突き出して無様に向けた尻を蹴り飛ばしたら、よろめいた少年は壁に頭をぶつけて、ぐ、と、お、と、で、と、その混ざり合ったノイズを喉に立てた。
聴いた。
耳の近くに響いた、変声期前のような、その少女じみた彼の声を。
#9
そんな必要などなかった。とはいえ、私は現実としてそうしたのだから、その必要があったには違いない。その時の私の衝動にとっては。
まるで大切な腕を守らなければならないように、馬鹿正直に頭から壁にぶつかった少年は、体に腕を仕舞いこんだまま、相変わらず肉の付いていない尻だけを突き出して、そうするほかないのだとでも言うように、頭を打ち付けたばかりの壁に擦り付けていた。肉の付いていない尻を上下にゆらめかせながら。額で、必死になって壁にすがり付いている気なのかも知れなかった。それが、留保もなく、なまなましい認識として、私の肌にじかに触れた。その、想い、のようなもの、…気配?
細胞の息遣い。
その、実在が。
この少年も、言うのだろうか?
ベトナムについて、私が問うたならば。美しくて、すばらしい国だと。
Tシャツの首をつかんで少年を引き剥がしたときに、少年の額が割れて、血が流れていたことに気付いた。
壁の、薄く剥げ罹った緑白色のペンキを血が穢して、そのざらついた粗い表面が黒ずむ。
透明感を持った、澱んだ赤い色彩に縁取られて。死にはしない。この程度では。ほうっておけば、皮と皮はくっついて仕舞うに違いない。
少年の、日灼けしない真っ白い肌は。
血が垂れる。床にも。
居間の床も緑白色の御影石タイル。光を鈍く、表面に浮かび上がらせるように反射する。…ものの、白い単なる反射に過ぎない、あくまで残像に他ならない、いわば形態の名残りとして。
私は、フエにそうしたのと同じように、あの父親の部屋のバスルームに、少年を投げ込んだのだった。
フエが彼を殺して仕舞ったときに。
シャワーをひねって、丸まったまま立つ少年に噴き出した水流を浴びせる。ノズルに乱れた水流ごとその額を殴りつけてやれば、血は一瞬だけ水流の中に乱れる。そのまま背中に投げつけて、ノズルが床に撥ねた音を聴く。
#10
噴き上げられた水流が、私ごと少年を濡らし、殴りつけるように空間を水浸しにする。
壁にかけられたフエと私のタオルをさえも。
彼女は怒るだろうか。この惨状を確認したら?…水浸しの。
ドアを閉めて、息をつくでもなく、バスルームの外に立ちずさむ。
どうして、と、想う。閉じ込めて仕舞ったのだろう?外から鍵などかからない、閉じ込めることさえできはしないバスルームに。
いずれにしても、ベトナム風に、無意味に高い天井のバスルームには、そのてっぺん近くの幾何学的な通風工の並列しかないのだから、あるいは、私は少年を閉じ込めて仕舞ったのかもしれない。
#11
口付けようとして、不意に戸惑った。
寝室に戻ってきたときに。寝ていると想ったフエが起きているいるに違いないことが、たぶん、しかし、明らかに悟られたから。
眠った振りをしているわけでもなくて。ただ、まぶたが閉じられていたに過ぎない。嘘は何もなく、ただ、擬態だけがある。
やわらかく、ただ、ふれあっているにすぎないまぶたの皮膚の、繊細なふれあいの気配があって、私がそれに唇を当てると、フエは開く。唇と同時に、その両のまぶたを。
ふれあいの、そして、それが奏でた気配の音もない無残な破壊。閉じられてあることの、留保なき破滅。…開かれた眼差し。
まぶたのふるえる微細な動きが私の唇にふれ、私はまつげの触感を感じる。驚くほどの至近距離に、唇の触れた先端に、二三度しばたたかれたそれを。
眼差しは、なにをも明確には捉えることなく、空間を眺めるにすぎない。まだ、フエが眠っている気さえした。
どうしたの?
声には出しもせずに。
どうしたの、と。不意に首をもたげかけたフエの眼差しが、そのつぶやきの息吹きだけを曝し、私はただ、言葉に惑う。私が何をしていたのか、彼女の閉じられていた眼差しの向こうで、何が起こっていたのか。それには、ながい、ながい、ながい、とてもとてもながい説明が必要な気がした。くどくどしく、たどたどしくて、だらだらとするばかりのぐちゃぐちゃで、むちゃくちゃの、しどろもどろな説明の果てに、結局は、泥棒を捕まえたんだ、と、私にとっては何の説明をしたことにもならない短い言葉に要約してわからせるほかなく、そして、フエにとっては、そうやって理解するしか、すべもないのだった。
言い澱み、無意味に彼女を見つめ、私は、そしてフエは、かすかにだけ、ほんのわずかな悲しみを湛えた眼差しをくれる。もういいわ、と、諦めをだけ、やがては捨て鉢につぶやき棄てたような、そんな、どうしようもないいたたまれなさを伴った、その。
私は彼女のかみの毛を撫ぜた。いつものように。
いつも、キスの後、キスの前、あるいはその行為の最中、あるいは朝の挨拶のように、あるいは冗談に、そしてときには、フエのおどけた冗談への返答に、なんどもなんども繰り返される、幾度ものいつもの惰性のその。
愛撫、とさえいえない、けれども確実になされた、彼女への愛撫。なんで、あんなことをしたの?…と。
Tai sao ? 、なぜ、というベトナム語が彼女の唇からこぼれた瞬間に、
Tai sao ?
私はその意味を了解した。
ことば。
殆ど、最期まで聴き取られることさえなく、すぐさま、了解されて仕舞うもの。
たとえ、殆ど理解できない未知の言語であっても。例えば、フエがタガログ語で話し始めたとしても、彼女が口付けのあとにやわらかく開いた瞳孔を曝して、なにかにひそかに、かつ、鮮明に飢えた音色で何か言ったのなら、いずれにしても、私はその言葉の意味をたちどころに捉えて仕舞うのに違いなかった。あるいは、愛している、
Em yêu anh
と。
Ti amo
どうして?
Gihigugma tika
…ねぇ、
Saya sayang awak
i
love
you
#12
どうして?
と。そう、私をななめに見あげて、見つめたフエの眼差しがつぶやいていた。
そんな事は知ってる。とはいえ、私は。
何を?…想う。フエが、何に対して、
かならずしも非議の声としてではなくて、単純な
シンプルな?
単なる疑問形として …Tai sao ? その表情を晒すのか、私には
…Tai sao ?
わからない。
どうして?
フエの眼差しはつぶやき続け、瞬く。私は。…ねぇ、
なんで、と。
そんな眼差しをくれるの?
なんで?私は、戸惑い、いずれにしても、彼女の
彼女の周囲の間近の空気をだけふるわせたその。
どうして?
その眼差しを見つめる。沈黙を、そっと
Tai sao ?
破らないままに
フエは、歎くような眼差しのうちに、口付けをくれた。
私に。
まぶたを、いつものようには、閉じても見せないままに。
#13
確かに、あの物音が誰かを起こさないわけもなかった。フエは
起きだして、覗き見したに違いなかった。とめてくれればよかったのに、と、私はフエをなじってやりたい衝動に駆られたが、フエには為すすべもなかった気もして、結局は、私の眼差しは、明確な表情さえ作れないままに、惑う。
私は。
どうしようもなかった気がする。
あの少年が、悪いという気さえしない。いずれにしても、どんな境遇にあるのか知らないが、そうでもしなければ生きていけないというのならば、彼の窃盗にそこまでの非倫理性があるとも、私には、終には、想えなかったのだった。好きにすればいい、とさえ私は想った。
持って行きたければ持って行けばいい。
どうしても必要で、それがなければ私たち自身が生きてさえいけないというのなら、彼を追いかけて奪い返すに決まっている。
いかんともなれば、殺して仕舞うかも?
間違いなく、殺してでも。
あるいは、フエが彼女の父親を殺して仕舞ったように?
私は、父親殺しのフエを、罰する気などさらさらなかった。それが倫理にもとろうがなんだろうが、そんな事は知ったことではない。私には、あの男に比べればはるかにフエのほうが重要で、そして、あの男を彼女の人生そのものから排除しなければならないと、フエがそう言うのならば、それはそれであって、そうなるしかない。
私は、終には、容認して仕舞うに違いない。
例え、なんど繰り返されたとしても。それが、あるいは、いつか目の前で繰り広げられたとしても。事実、私は容認した。いささかの葛藤さえもなく。
…葛藤。
フエが私を排除しようとしたときに以外、本当の葛藤など始まりはしない。そんな気がした。なら、どうするのだろう?
例えばあの少年と、フエが愛するようになって、私を排除しようとしたならば。
葛藤の、その結論はどうなるのだろう?あるいは、刃物を向けて襲い掛かるフエを、その、かよわく、か細いフエを、逆に刺し殺して仕舞うのは私にとってはた易かった。あの少年がそうしてきたとしても。だから、フエが、私を殺すことは、そのまま、私が彼女に殺されることを、容認したことを意味するに違いなかった。
不意に、目舞いと共に、気付く。
私は。…ならば、あの男は、なぜ、殺されて仕舞ったのだろう?
瞬く。
目舞いはしない。目舞いそうな、気がしただけだ。
服を着なさいよ、とフエが言った。いつまでそんな、素っ裸でうろうろしているの?
もう…と、眼差し。
…ほら
夜は終わったのよ。微笑みに
ちゃんと
うすく、とはいえ鮮明に染めあげられた、フエの、
着なさい
その
服くらい
眼差し。自分だって、まだ、昨日のままに、ベッドの上で剥き出しの素肌をを持て余しているというのに。
飢えていると言うわけでさえないのに。
もはや。
フエに従う私を、彼女はベッドに横たわったままに、眺めた。何も言わないままに。表情さえなく。自分で服を着て、あるいは服を脱ぐ、その行為が人の目に触れたとき、否応なくまとう奇妙な惨めさ、そして無様さは、何故なのだろう。…フエ。
彼女に、老いさらばえたとはいえ、老いさらばえきっているわけではない60代の、健常な男を無傷で殺せるわけがない。長い間、20世紀の後半のすべてを戦争に費やしていた国の、いわば、ほんの十数年前まで戦争の生き残りしか生存してはいなかった国の、その、60代の男、すくなくとも、曲りなりにでも戦争経験があって、人を一人や二人くらいは?殺したことくらいはあるに違いない男を、華奢なフエが、どうしてたやすく殺せて仕舞ったのだろう?あるいは、かならずしもた易くはなかったとはしても、無傷なままで。男は、フエに、承認をくれたのだろうか。…どうぞ。
殺してください。
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