小説《silence for a flower》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ…世界の果ての恋愛小説②
silence for a flower
…そして、48の散文。
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
#2
…まさか、と、その違和感そのものに笑いかけて仕舞いながら。娘に殺されて仕舞った彼が戻ってくるはずもないのに。あるいは、であるが故の、その違和感だったのだろうか?
ベトナムにも亡霊だとか、なんだとか、そういったものが存在しているのどうか、私は知らない。存在しているには違いない。いずれにせよ、どこででも、どんな形ででも、生きている人間たちは彼らを存在させるのだ。そして、そんな事に私は興味もない。ベトナムで彼らがどんな風に棲息させられていようが、ベトナム人ではない私の知ったことではない。どこからかはわからない。聴こえ続ける、ナイーブな音。記憶の中に、木魂し続ける、その音響の名残り。
気配。
生き生きとした、それ。
鉄に、細い残りのこぎりのぎざついた刃を当てたような。こすり合わせ、掻き続けるそれ。
息をひそめて。私は、そっと。
忍び込むように部屋を出れば、右手の奥の二番目の居間兼ガレージのほうに、存在するのはその、生きた気配。明らかに生きている人間の息遣いがあった。
生の、温度を持った、ただただ明確なそれ。フエを起こすべきだったろうか?
むしろ、あんなにも苦しそうにしか寝られないのなら、こんなきっかけをでもいいことに、彼女を苦痛そのものにほかならない眠りから覚ましてあげて、…フエを。
彼女を解放して遣るべきだったのだろうか?
あの、朝から晩まで、休みの日には、まともな家事さえもせずに、むしろ、むさぼるように眠りたがる、フエ。そのフエがもとめて止まないのかも知れない、執拗な眠りから?
彼女が曝し続ける苦しみから?
眠るたびに。
苦しいの
救ってやるために。
苦しくて
…私は。
仕方ないの
たぶん、午前5時半前。目の前の壁の、二時間早い、遅れがちの時計が目の前で、6時数分前を指していたから。日本は、
と、そう、…だって。言った。だって…
ね?…二時間早いんでしょ?
フエは。
日本の東京は、二時間早いのよ。
笑って、彼女は、
…知ってた?
私にその高いところに吊るされた時計を苦労して取らせたが、…ね?
知ってるよ。
…ねぇ。つぶやく。嫌いなの?
私に、伺うような(あるいは、)眼差しを(むしろ)くれて(いたわるような?)。
何が?
東京が。…そこから、来たんでしょ?
あなたは。…私は、
「…好きです。」振り向いてフエに言った。
私は微笑む。見つめられた微笑はしばらく、
東京が嫌いなの?
ややあって、そして
あなたは
頬にキスをくれて、フエは無防備な不意の戸惑いを曝したままに、とはいえ、私は。
フエが言った。
「好きです。」
すばやく。
しゅきでっ
日本語で。フエの、わずかに知っている日本語の、いくつかのそのひとつ。
「愛します。」…その、ふたつめ。
そう…と。つぶやく。口付けに、
あぃしまっ
フエは想いあぐねて、
…Anh à
…ただ口籠って。
普通、誰もが、外国語は愛の言葉から覚える。ごくごく最初のうちに。
何故だろう?例え手もとの教科書に載っていなかったとしても、どこからか探し出して。…なぜだろう?
なぜ、フエは、戸惑いの表情をだけ、晒したのだろう?
たかが時計の時間のために?あるいは私がつぶやいた、たかがひとつの、ありふれた動詞に過ぎないその音声に。
#3
一瞬にして、降って沸く。
その、あからさまな殺意の明確な感情。
私を包んで仕舞った容赦ない歯軋りするような感情の冷たい沸騰、ただ、それに自ら戸惑う。
おびえる。
熱狂する。
少しだけ開いたシャッターの傍らに、明け方侵入したひとりの小柄な盗賊を背後から殴りつけ、そして後ろから腕に首を締め上げて後ろ手に、にもかかわらず彼、その、まだ十八歳ぐらいに過ぎないだろうベトナム人があくまでも躊躇いがちな抵抗を試みようとしたときに。
このまま殺して仕舞えばいいと、そんな猶予もないリアルな欲望と、それを禁じようとする微妙な葛藤?…の、ような。
そんな感情の不意の通過が戸惑わせて仕舞ったその隙を、少年は見逃さなかったのだった。
首を抜いて、ガレージの方に逃げて行った少年は、痩せた少女のように華奢なシルエットを曝して、不意に。
何かを想いなおした彼は、そこに立ち止まった。振り向いて、その、午前5時。
朝の光は、まだシャッターの脇の彼をも差さない。まだ、フエは寝ている。いずれにしても。
起きている人間は、私と、少年以外には誰もいない。そして生きている人間は、私と、少年と、眠るフエ以外には。
何とかするしかなく、そしてそれはた易いことに想われた。事実、そうだった。彼を、殺して仕舞ってそれでよいと言うのなら。猫をつかんで首をひねるようなもの。とはいえ、と、意識の浅い部分でとりとめもなく戸惑い続ける私の眼差しの中になぜか、少年は私を見つめて離さない。私を振り向き見たまま立ち尽くして、ただおびえた眼差しだけをためらいがならも曝す。少年を私は見つめる。
二つ目の居間兼ガレージの、ただっ広い、収納されたバイクの向こう、シャッターのこちら側。少年の荒くふるえる息遣い。まだ、夜は明けきらない。
すぐ側の、彼が縋るように左手につかんだ半開きのシャッターの、その内側からかけられていた南京錠を鋸で切って入ったに違いなかった。
目醒めたのは、直接的には南京錠が床に撥ねて立てた、鮮やかなまでに破壊的なちいさな音響のせい、そして、目醒めてみれば私は記憶していたのだった。その、差し込まれた鋸の、静かで執拗なノイズが鳴り続けていた隠しようもない事実を。
まるで遠い、忘れなければならない記憶のような、そんなぎこちない鮮明さをもったその記憶。起きぬけの耳元に、鳴り続けた鮮明な。想い出そうとしたわけではないそれの、もはや記憶ではなった響き続ける生き生きとした鮮度。
部屋を出た私が見つけた少年は、その時、なぜかバイクのメーターを首を突っ込むようにして確認していたものの、なぜ、そんなものが気になったのかは、私にはわからない。尻を突き出して突っ立って、逆立ち、毛羽立った彼の短髪。
後頭部を殴りつけた瞬間に彼は息を詰まらせたのだった。同時に鼻水を散らして。少年は驚いたに違いない。不意に素っ裸の男に、後ろから殴りつけられたのだから。冗談にもならない。
少年は脆弱だった。私のなすがままに、殴りつけられ、蹴り上げられ、とっくに戦意など喪失した、その哀れみを乞いもしないうつろな眼差しで、何をも見留めないままに、からだをふらつかせるしかなかった。
…そうだった。まるで立ったまま、彼はいつのまにか失心していたかのように。にもかかわらず、決してひざだけは床につこうとはしない少年の、それは矜持だったのか。
間違っても美しいところなど存在しない、穢らしい顔立ちをあるいは、貧富の問題ではなくて、貧弱で貧しく、朽ちかけたような、そんな、惨めなだけの存在そのものを、やせて小さな少女じみたからだ全体で晒していたその少年の。
まさに、穢れた劣等民としか想えない。その差別的な言葉にもっとも深刻で、穢らしい差別を加えて腐らせたような、そんな意味での、存在論的に穢れた唾棄すべき不可触の劣等民。…あわれみ?
#4
哀れみ。
そんなものなど必要ない、と、私はその、シャッターの前に立ち尽くして、私に泣きそうな眼差しをくれている少年を、ふたたび殴る。もう一度。なんどでも容赦もなく、破壊してやりたくなる。…たく、なって、もはや、仕方がない。もっと。…と。想った。もっと、と。完璧な、理不尽なほどに完成された破壊を。
もっとも、人体に加えられ獲るそれなどたかが知れている。ただ血まみれにして殺して仕舞う以外に、ほかの展開のしようなどないのだった。訪れるのは、単なるひ弱な人体の死。それ以上に、破壊などできようもない。
#5
ようやく人一人入れるだけに開かれたシャッターは、まだ、夜のままの外の明るさをしか差し込ませはしない。そしてほんの数分の後には、急激に、訪れれた夜の破滅、その日の朝の到来、それ、太陽の、破壊的な光の色彩が染めた鮮やかな、夕暮れのような朝焼けが空を染めあげて仕舞うのをは知っている。
私は。…私だって、しずれにしても。
知っていた。もう少しの時間の先に、確実に、やがては訪れなければならない夜の破綻。そして、にもかかわらず、終にもたらされた朝のあの留保もない鮮度など、ものの三十分もすればどうしようもなく穢く古びて、色褪せた、見苦しさにただ染まって仕舞うしかないことも。いつものように。
#6
少年が、今にも泣き出しそうに眼差しの正面に、横顔のまま私を見つめ、その、ひんまげられて、ねじられたような眼差し。
伺い、おそれ、おびえ、許しを乞い、訪れる恐怖のときの遅延をだけ、祈るその。
私は殴った。ふたたび。…なんどめかに、ふたたび。数度目に、ふたたび。幾度目にも繰り返して、ふたたび。ためらいもなく。
そのまま、シャッターに叩き付ける。
拳ごと。
#7
自分でも、想わず鼻白んで仕舞うような、そんな、なぶるような容赦のない暴力。まさに、残酷で、衝動的で、喉の奥に温度を。
温度だけを。
強烈で、際限もなくさえ想わされる発熱を、とげとげしく、ぎざぎざと、抱え込んでぐらぐらと煮込んだような、その。
暴力。目の前で、私に殴られて、戦意さえとっくに喪失しているに関わらず、それでも加えられ続ける拳。
腕。
足。
ひざ。
すね。
身をまげて、体を小さくして、そのかろうじて取った防御の姿勢らしき、おびえた身体の湾曲を、いどむがばかりにつかみかかった手が、壁に投げつけ叩き付ける。
罅割れるに似た騒音が立った。
少年の跳ね上げた足がテーブルにあたって、そのざわついた硬いだけの音。
やや鈍く。
上の Wifi が倒れた音が、平べったく鳴る。
壁の。音。たたきつけられたそれ。そして少年の伸ばされた腕が縋るようにふたたび触れたシャッターが、バラバラの騒音を響かせるしかない。
いつか、少年は鼻血を、…鼻水も含めて、垂れ流して、ただ、痛ましく、そして悲しくてしかたがないと、そう何度も自分につぶやいているような眼差しを、上目遣いに、やがては、その眼差しは、私を見上げさえしなくなるのだった。
貧しい少年であるに違いない。ベトナム。根拠もない愛国者たちの群れ。
みんなが言う。ベトナムは美しい。そう。
…もう飽きた。
食べ物もおいしいし、景色もきれいだし、人は親切で、優しく、そして美しく、そして終にはいたたまれなくなって、不意に同意をくれた私が、彼らへの気遣いの果てに、いま、日本ではヘルシーだといわれて、ベトナム料理は人気です。
その私の言葉を聴いた瞬間に、彼らの曝す、まるでサイゴンで雪を見たと言ったのを聴いたかのような、そんな、嘲笑うような驚嘆の表情。
あなたはベトナムを何も知らない。…健康的だなんて、そんな…。あんなもの…。
笑うしかない、混乱した愛国心。
自分自身にまで嘘を突き通して仕舞うこともなく、不意に、むしろ唐突な客観性を無防備に曝して仕舞う。彼らにとっては遠い日本で、中国人の次に不評に塗れた、単純に、世界の中での田舎者に他ならない人たち。
たぶん、彼らをそのまま容認して仕舞えるのは、自分勝手な亡命者気取りの海外移住者にすぎない。たとえば私のような。そんな気がする。
日本人もそんなに代わり映えのするものではない。
いずれにしても、私にこの国へのわずかでもの愛着などあるとは思えない。確実に、どこでも良かったに過ぎない。日本以外であれば。
日本人たち。あの、高速で発話される連なりあい途切れ眼のないささやきの日本語を、無際限に重ならせる、退屈を極めた未来のないささやき声の帝国。
世界でも類を見ないほどに難解な言語に閉ざされた、それら、ささやきの群れ。
暴力が、私の身の回りに散乱している気がして、舞い散っている気がして、いたたまれなくなって目の前に、これ以上は不可能だというほどに、小さく丸まって内股に立った少年が、それでも床にひざをつかずにうつむいて、垂らす。
血の混じった、よだれ、…の、ような、その、唾液らしき粘液の線。
なぜだろう?
室内の空気それ自体に倦んで仕舞った私が、一気にシャッターを引き開けると、その、背骨を手づかみに爪で掻くような騒音、見上げられた、朝焼けの色彩。
ちょうど、眼差しの向こうの東の空に、…日本。
そこのあるほう。
朱、オレンジ、黄色、むらさき、それら。破滅の色彩。
あの、ここより二時間早い場所。
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