小説《silence for a flower》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ…世界の果ての恋愛小説①/オイディプス
この小説はバージョンがふたつあります。
最初にアップするのはその改定バージョンのほうです。
オリジナル版のほうは、いきなり読んでいただくにはあまりにも読みにくいというか、面倒くさいかな、と。ようするに、時系列をばらばらにして組みなおしてあるのです。
内容は、盗難に入った少年と、《私》との、数時間の物語、です。
この後、転生だとか永劫回帰だとかなんだとか、そういう話に展開していく長編版を用意する部分、でもあります。
2018.09.20. Seno-Le Ma
silence for a flower
…そして、48の散文。
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅴ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
熱帯の町の湿気を含んだ熱気が肌を汗ばませた。
明け放たれた観音開きの木製のドアの群れが、フロアに静かに日差しを投げているばかりだった。背中には御影石の床の、すぐに肌の温度に染まって仕舞うしかない冷たさの、かすかなその名残だけは感じられた。
結局は、子供をつくる気もないから、途中でやめて仕舞うにすぎないのに、なんども愛し合ってみる。
私たち以外にはだれもいなくなって仕舞ったが故に、ただ広く、古いだけで、まるで廃墟か何かのようにしか見えない家屋。
ナム、という名前の電力開発技師の友人は、ここがいい家だと言った。大袈裟に嘆息してみせながら。そういうものなのだろうか。ベトナムにおいては。たとえ、私の眼差しにとっては単なに、いまだ朽ちざる廃墟にしかすぎなくとも。
無様な、雑な、崩れかけの、今にも倒壊して仕舞いそうな、とは言え、要所要所には、…例えば仏間の天上組みなどには、確かにいい木が使われていることは、私にもわかった。
その鑑定眼のようなものは、田舎の建築屋だった父親が、不可抗力のようにいつの間にか教えた感性だった。
フエの唇が、私のみぞおちに触れた。馬乗りになって、身を横たえた彼女の体温と、でたらめに覆い被せられた髪の毛の匂いたつ湿気が、私の皮膚をいよいよ汗ばませて、そして広大な仏間の、床の上に投げ捨てられて、散乱しいていたのは私たちの衣服の群れ。
どうせ、だれもいないし、誰も来ないし、誰が覗き込むというわけでもなかった。広い庭の尽きた向こうの、細い専用道路の先には、川沿いの主幹道路が無数のバイクを走らせるが、彼らの眼差しに通り過ぎた、買収されて放置されたままの更地の真ん中に残った、その何本もの椰子の木と、ブーゲンビリアの木の先の、日陰に沈黙する古い家屋の、その先の日陰の暗がりに、誰が何をしていようとも眼差しを向けるすべなどない。
更地に、何かのレジャー施設でも立って仕舞えばそうではなくなるのかも知れず、今のままなのかもしれない。あるいは、私たちが…正確に言うならば、所有者のフエが、売り飛ばしてくれるのを待ち続ける気なのかもしれない。
世界中が、やがてベトナムを見棄てて仕舞ったら、どうするのだろう?
買い上げた土地を、喜んで投げ棄てるように、棄てられた現地の人間に返してやるのだろうか?あるいは、罵詈雑言と共にでも。
頽廃と、おだやかさには、容赦のない相似が在る気がする。身を焦がすような頽廃、あるいは、焼け付くようなおだやかさなど、存在し獲るのだろうか?
不意に、フエは声を立てて笑い、身を起こした。
猫が獲物を終に見出したかのように、そして跳ね起きて庭に、そのまま駆け出すのだが、日曜日の正午。
熱帯の光がじかに彼女の素肌に触れた。あるいは、すでに十分すぎるほどに褐色なのだから、もはや、太陽の光など、その上っ面しかなぞれはしない、…のだろうか?
自分が容赦もなく、染め上げて仕舞ったそれをは。
行かないで、と、一瞬、私は想ったものだった。
なぜ、だった、…の、だろう。それは?そんなはずもないのに、なぜ、フエが、私を見棄てて庭の先、あの、細い土の短い道路の向こう、泥色のハン河の、光に直射された真っ白いきらめきの中にでも、ひとりで彷徨いだして仕舞うなどと、なぜ。
私だけを置き去りにして。
…なぜ。
そんな事が、考えられて仕舞ったのだろう?
あり獲るはずもなかった。私のそば以外に、彼女に生息できる場所などありはしない。
むらさきを感じさせる赤の、花をいっぱいに咲かせたブーゲンビリアの木の下に立ち止まって、フエが振り向く。
庭は、日差しがきらめきに染める。無数に。
無際限にさえ、想われるほどに。
きらめきの散乱。
フエが声を立てて笑う。…見て、と、その言葉も発されないうちに、…花々。
鉄門の側で、ハン川の方に眼差しを投げていた Mỹ ミーは、驚いて振り向いて、フエに眼差しを投げた。声を立てて笑う。
花々。
錆びた白塗りの鉄の門の、その両脇のブーゲンビリアの樹木、のたうち回りながら、図太く、空間を制圧した、とは言えどこかに瀟洒で華奢な気配を蓄えた、ささくれ立った樹木は、茂った葉を覆い尽くして仕舞うがまでに、一杯にむらさきがかった紅彩を無造作に咲かせ、乱れさせ、空間に点在し、ただ、色彩にちりばめられている。
いつが盛りとも、よくはわからない、その芳醇な花々。
熱帯の。
野放図なまでに咲いていて、花。あるいは、野生の樹木。だれも手入などしないままに、結局のところ、樹木は家畜のようには飼育などされはしないのだった。それらは常に、たとえ、誰にどのように保護されていようとも、たとえ、だれかに植林されたに過ぎなかろうとも、あるいは庭師が手をいれたところでもなんでも、最終的には野生の生命に過ぎない。
生まれ、自分勝手に棲息し、空間をうがち、野放図な繁殖をみせ、やがては朽ちて果てる。
その朽ちた先を見返るものなどだれもいない。倒れ臥したそれは、降り止まない雨の中、直射しない日陰の湿地に腐っていくか、日差しに灼かれて、そのまま渇ききっていつか風化して仕舞うか。その屍に何かを巣食わせるか、何となるか、いずれにしても、迎えるただの野生の死。
ただひたすらの野生の崩壊と壊滅と破滅。
なにほどのことでもなく、為すすべもありはしない。
こっちに来てみなさいよ、と。フエの、はしゃいで見せながら手招きする姿を、私は目で追って、笑う。家屋のつくった日陰を出れば、あるいは灼熱の?…確実で、強烈な、どこかで鮮明に破壊的な日差しが、私の肌を焼く。その、フエの褐色の肌を焼いているのと同じ光が。
まばたく。
だれかが見たら、だれもが、頭がおかしくなって仕舞ったのだと、私たちに哀れみをさえくれるに違いない。
晒された全身の素肌が光の熱気に倦む。このまま、すべて焼き尽くしてしまえばいいのに、と、そう想う前からすでに、そんな事がありえないことなど私たちは確信しているし、あるいは、単純に、それを知っている。
いかなる熱帯の日差しであろうとも、私たちを焼き尽くすことなどできはしなかった。肉体は潤う。
むせ返るほどの水分を湛えて、瑞々しくしかいられないそれふたりが、足を上げて樹木を蹴るが、寧ろ跳ね返されるのはフエ自身に過ぎない。反動でふらついたフエをミーは後ろから抱きしめてやり、汗ばんだ皮膚。一緒に、ふらついて倒れ掛かり、嬌声が上がる。じゃれて、たわむれる。
やがてミーが思い切り蹴ると、ブーゲンビリアの花々のいくつかは散った。ふたりのからだの上に、そして、庭の、ブーゲンビリアそれ自体が作った日陰の青い色彩の中に。
乱れる。
散乱した、むらさきを秘め込んだ紅彩、その。フエのかみの毛に絡まった花を、ミーはそのかみの毛に丁寧に差してやり、フエが微笑む。
花の色彩が、ただ、匂う。
私はうすく目を閉じる。
日差しは照る。
まぶたの上から。
序
眠りに落ちて、やがては再び堕ちる。
覚醒。…目覚め。
朝の。
その、終に堕ちて仕舞ったような感覚。
いずれにしても。
#0
感じられたのはノイズ。
こすれあうような。
どうしようもなく、ナイーブな。
ひそかに、慎重に、お互いを壊して仕舞わないように。秘められて。
やさしくふれるのと同じ強度でこすれあった、それ。
奇妙な、どこかで聴いたことのある懐かしささえ
記憶を
伴って。聴こえないほどの。
なにも
いつの?
喚起しないままに
そして、その、現在のノイズ。…いつから?
聴く。耳を澄ます必要もなく、それはそこに存在していた。
音のしたほうの空間に、もはや、あからさますぎてふしだらなほどに、打ち棄てられてただそこに、存在しているしかない、その、…不意に。
不意にたった鋭い金属音が、私を目覚めさせたのだった。
その瞬間には、すべてがもう手遅れになっていた気がしていた。
どうしようもなく。何の根拠もないままに。その、鋭いかたい何かが落下して、立てたに違いない音響。それなりの高さからの。
私は瞬く。
急速に、醒めかけの意識のまどろみの中の経験の、そのリアルな鮮度は、記憶としてのぼやけた、味気のない気配を身にまとうしかなかった。
風化を推し留めるすべはない。
#1
目覚めた私のからだの傍らに、静かに立てられるフエの寝息。
眠ること、それ自体が、もはや身体的な苦痛に他ならないのだ、…と。
そう言っているとでも解釈しなければ済まされない、フエの。
剥き出しの、無言の苦悶。
私の体を拒絶するかのように向こうを向いて、複雑に折り曲げられた腕、足、そして、苦しげにねじられた腹部。
たとえば、密着された裸の皮膚と皮膚の温度に倦んで。熱帯の、日中ほどではないにしても絡みつくような部厚い暑さの中に、ただ、温度に飽き果てたに違いない、フエの褐色の身体のあきらかな拒否。
容赦もなく。
…嫌
その身体自体にとっては、明確な根拠が存在しているに違いないどこかの、なにかへの、明確で…鮮明な?
…嫌なの。とにかく
あるいは。
拒否。
いずれにせよ、フエのからだは拒否していた。
その腰を撫ぜると、汗ばんでべたついた触感が手のひらに残った。気付く。その同じべたつきが、もはやあざやかな触感となって私の皮膚にもへばりついて、完全に、私が自分自身の温度にさえ倦んでいたのを。
そんな意識もないままに。
ふたたび、唐突に想い出されたように、そして開け放たれたままのドアの向こう、そのどこかに気配がある。生き物の気配。
彼女の父親が帰ってきたかのような、そんな違和感があった。
#2
…まさか、と、その違和感そのものに笑いかけて仕舞いながら。娘に殺されて仕舞った彼が戻ってくるはずもないのに。あるいは、であるが故の、その違和感だったのだろうか?
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