小説《…散乱。》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説・短編
これは、ごくごく短い掌編小説です。
連作全体の中で、どんな意味を果たすとか、そういうものではなくて、ただ、書いてしまったのです。
読んでいただければ幸いです。
2018.09.19 Seno-Le Ma
ただ、空気だけが疾走する気配で目醒めた。
…親しい、何か、その名残りのようなものが。もっとも、そんなものなどありはしない。眼差しのさきには。あおむけの私を覗き込んで、微笑んでいた理沙の、うつむいた眼差し。
視界を覆った彼女の皮膚に、うつむかれた、かすかな重力の気配があった。
感じ取れないほどの。そして、明白な。
理沙は声を立てて笑った。
どうしたの?
と、言うまもなく私が感じたのは、覆いかぶさった彼女が一杯に垂らしたかみの毛の、ただただ適当に乱れさせられたその意味もなく、ふれて堕ちるだけの触感と、匂い。
執拗なまでの。
いつでも、彼女が近づけば感じられるには違いない、その。
…ばか。
理沙が言った。いたずらじみて、企んだ笑みを大量に、その眼差しに散らして。
…ば、ぁー…、っか。
笑う。声を立てて。その息がふれる。顔に。私の、それ。彼女を、見上げたそれ。
正午。
まだ、食事はしていない。そもそも、理沙は殆ど食べはしない。薬物の影響なのか、そうではなくて、それには無関係に、彼女が持っている精神的な、なにか、…それ、…障害?
あるいは、障壁、そのような?
そんな、困難なもの。その、困難さが、白い薬物がたとえ彼女のその血管の中を駆け巡ろうが、それとも誰か他の誰かの血管の中を駆け巡ることになって仕舞おうが、なんだろうが。
いずれにしても、理沙は殆ど食べはしない。あるいは、唐突に食べ始めては、大量に食べて、結局はすべて吐いて仕舞う。涙さえ、涙。…殆ど、滂沱の?そんな涙でさえ、アイ・ラインを引かれた自分のまぶたを穢して仕舞って。
私は気付いていた。
終ってもいないうちに、私がまぶれもなく眠って(…不意に)仕舞ったことに、(…眠りの穴に)理沙が(…堕ちこんで仕舞った)怒りを(…かのように)曝そうとしてみせていることには。
かみの毛先は、彼女が立てられる笑い声のせいで、そのからだを細かく震わせるたびに、私の胸元から上のいたるところをくすぐって仕舞う。意図さえもしないままに。
結局は笑い声をおさめきれなくて、窓際の花瓶に手を伸ばす。私のからだの上から、転がって落ちそうにさえなりながら、、息を詰めて、ときに、二の腕を、あるいは指先、…伸ばされたそれ。
ただ、二本の。
…を、神経質にふるわせて仕舞いながら。
伸ばす。
後悔。
その花。
心に、
活ける、とまでも言獲なくて、ただ
私の心に
透けた青いガラスの花瓶に
浮かんだもの
ただ突き刺されて水を吸い、たっぷりとした、まだ新鮮なはずの、水。昨日の、理沙が出掛ける前に換えた、
後悔。…なぜ?
どうして…
水。花のための。
目の前の、生き生きとした、そして、もはやそのやわらかくはない茎で断ち切られている以上、その完全に正しい意味では生きているとは言えないはずの、にもかかわらずそこにただその生存だけを曝す花。
なんで、忘れて仕舞ったのだろう?
理沙は唇を尖らして、試みる。片手で。
その、花の名前を
何も支えずに、ただ
二日前に、坂の上の頭上の高速道路、
指先がつかんだ花びらを一枚だけ、きれいに
それを渡ったその先の
轢き千切って仕舞おうと、その、
花屋でそれを選んだときに、不意に
私にはたぶん不可能に想われた彼女の
振り向いた理沙が、唇が
試み。…ん、…んー、ん、…と。
触れそうなほどに耳元に
唇を寄せてつぶやいた、その
声。
彼女の鼻から立てられた、もはや息のような、かすかに力んだ、その。
花の名前。
…花。
聴く。
…なんだっけ?
理沙の、息遣い。
白い花弁。基本的には、もはや純白。もっとも、かすかに、黄色い下塗りを感じさせる、そんな曖昧な、とは言え、純粋に白くしかない、花。
縁を、あざ笑うようにむらさきが乱す。これみよがしに縁取って、やがては一瞬で白の中に消え去っていく。
たちどころに。
ただの一度も、はむかいもせずに。
百合に似た形態の、そしてその紫の密集のさなかだけを、轢き千切ったような複雑で、気まぐれなきざきざに、乱してみせる。
なぜ?
訝る。
なぜ?
不意に。…
そんな、必然が、…なぜ?
私は、訝った。息さえひそめて。
失敗して、花瓶ごとひっくり返されて仕舞って、ベッドの、白いシーツと私を、(あるいは、彼女自身をさえ)ぬらして騒ぐはずだった理沙の指先が、花びらを根元から綺麗に千切りとりおおせて仕舞って、その時に。
私は花びらが、その根元に、ただ、ぷちっ…と、そんな音を聴こえないほどに
聴こえはしない。
立てた気がした。
そんな音など。
理沙は笑わない。笑い声さえもなく、私を見つめて、ただ、若干の無理をして作っただけの微笑を曝した。
ほら、と、たぶん、そう彼女は言いかけて、その唇が音声の形態をなぞるのだが、あくまで声帯はふるえない。
諦め、疲れ果てたように。花びらの、むらさきを私の花に当てて、くすぐってみせるその仕草は、あらかじめ意図されていたものではないことは、私は気付かれていた。
もっと、他のもの。
他のなにか。
彼女がしようとした、そして、すでにほんの十秒足らずの悪戦苦闘の中で、終には(…はかなく?)忘れられて仕舞ったその、それ。
それのために、理沙はわざわざそれを求めていたわけでもない花びらを千切り取って仕舞うという暴力を、その、すでに死んでいることをはかたくなに隠し通した美しい花に、不意に加えたのには違いなかったのだが、もはや。
理沙には、もう、何の埋め合せようもないのだった。
Introduction & Allegro for harp, flute, clarinet & string quartet,
Joseph-Maurice Ravel, 1905
…散乱。
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
#1
理沙が鼻先に差し出した、その花が匂う。後悔した。私は。いつか彼女が教えてくれた、その名前を忘れて仕舞ったことを。
一回だけ、短く、するどくまばたいた、理沙のまぶた。
至近距離の。
花。純白、と、さえ、そう言って仕舞うべきかすかに黄ばんだ白を曝した、嘲笑うような紫に縁取られたその。
なにものにも笑いかけもしない色彩。
そして、形態。
しわみひとつなく、無造作に轢き千切られたような。
花は匂う。
2018.08.26.
Seno-Lê Ma
0コメント