小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅳ…世界の果ての恋愛小説②
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅳ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
指先が脇にのけた破片は水溜りの中に浸かりこみ、水溜りは静かに波紋を広げているばかりだった。理沙の、彼女の太ももを伝った失禁が、フーリングの水の停滞を壊して仕舞って、呼び覚まされた波紋状のふるえ。
震えてるの?
君は、と。つぶやく暇もなく、彼女を腕に抱くと、彼女が絡みけた腕に首を、ふと窒息させて仕舞いそうになりながら、二人でななめに倒れこんだベッドの上に、ベッドは派手に軋んだ。
私は声を立てて笑った。…ほら。
ほら。
…ね?笑う。理沙はおびえたまま、困り果て顔を曝して、
傷付いてないから。
首から腕を放さない。
なにも。
背中はマットレスの柔らかい質感、そして
ほら。
体重に押しつぶされた屈曲を
傷付いてないから。
鮮やかにさえ感じていたはずなのに
なにも。
いまだに。
元のとおりだから。
未だに、彼女のからだは
なかったから。
空中に泳いでさえいるかのように
なにも、なかった。
しがみついて。…大丈夫。笑いながら
起こりさえしなかった。
そう言った私を、執拗に見つめ、その
なにも。
思いつめて仕舞った眼差しは
ただ、きらめきが。
私の笑顔を捉えた。
きらめきが無数に、散乱しただけ。
無言のうちに、息だけ乱して。泣き声でも立てているかのように。流される涙もなく。
夢を見た事がある
いつ?
巨大な廃墟群が目の前に拡がる
いつの?
無際限な、と
だれと?
そう想って仕舞うほどに、広大な
どこの?
その廃墟
どこに?
ある、記憶のある都市の
君は?
そこに住んでいたに違いない
あるいはそこに住んでいるに違いない
すくなくともそこに、いつの時代には
たたずむしかない
記憶を鮮明に残しながらも、無縁の都市
廃墟の、そこにただ佇んで
夢の中でさえも、私の姿が私に見留められないのは、なぜなのか
所詮、夢に過ぎないならば、見て仕舞えばいいのに
自分の姿など
堕ちる
目の前の、斜めに崩れかかった高層ビルが、ゆっくりと
堕ちて行った
腐りもせずに風化したコンクリート鉄筋の構造物
遠い先に、それは
見あげるばかりの巨大建築だったはずのそれは
いま、眼差しには、かわいらしいミニチュアのようにしか見えないままに
だから、音もなく
聴こえるわけはない
遠いから
私は瞬きもせずに見るが…可能だろうか?
夢の中でさえも、瞬いてみることが?
その想い付きなど、いまだ鮮明に記憶されながらすでに
忘れられて仕舞っていた
何の痕跡さえ残さずに
曝すのだろうか?
ビルが完全に崩れ去った後に、あとに残った空間は
かつてそこにあった廃墟の痕跡さえも残さずに
ただ
空間を
たとえば、青
…だから、
空の青さを
私は、理沙に口付けるしかなかった。
むさぼるように。
おさまらない笑い声を、何とか押し殺そうとしながらも、掻き乱すように唇をかさねて、唇に、それはもはや何の反応を示そうとはしない理沙の唇。差し込まれた舌は、やがては結局理沙の唇に触れた。
いつものように。
半開きのまま、震えもせずに放置された、その、私の舌が歯にふれる。
感じられた。
かたい、その触感に、ぬれた質感があった。
ふれられたものよりも、ふれたもののほうがより大量の水分に潤んでいるに違いないくせに。
だいじょうぶ?
訴えかける私の眼差しは、理沙にはたぶん届かない。複雑に、執拗に絡み付けられる腕が、ときに、彼女の呼吸を困難にさえさせながら。
終らせてあげればよかったの?
眼差しは私の眼差しを捉えてはなさない。打っては
綺麗に、すぐに
いないときには理沙は目を閉じる。その
僕の手で
口付けのときには。いつも。けれども、
破壊してあげればよかったの?
打ったときには目を閉じない。彼女は
ただちに、このときに
やわらかく瞳孔の開いた、理沙の眼差し。
最期の抱擁として、その中で
普通ではない声をさえあげながら。
完成させてあげればよかったの?
のた打ち回るような。
壊滅した君のその壊滅を
おびえた眼差しは、いまだに、その救いを求めて止まない
その最後にまで
気配をだけ。ただそれだけ曝して。
手の施しようがないくらいに
救われたのに。
もはや
腕の中に。
もう、私の腕の中に。
いつもの長い、長い、長い、長い、そして、長いキス。なんとかして、無理やり時間を埋めようとしたような。濫費されるにすぎない時間の中で、何とか息をするために。お互いの唇を塞いで。感じ取られる片方だけの体温と、嗅ぎ取られた片方だけの体臭、それらに塗れて。匂う。理沙の髪の毛の匂い。豊かに、黒く、そして肌は汗ばむしかない。接触した皮膚が与える温度が、皮膚にしずかでためらいがちな発汗を与えていく。肌を、離さない限りそれとは気付かれないそれ。
髪を撫ぜる。指先に、手のひらに、それは触れ、撫ぜた。理沙の頭を、感じ取られた頭部の丸さを、あまりにも小さく、壊れやすい、繊細で、頼りないものに感じて仕舞いながらも。
腕の中に。もはや固着して仕舞ったおびえた眼差しをとめ、やさしく崩壊させて仕舞うことさえ出来ない理沙のために、やがて、唇を離した後に、私はまぶたを閉じてやった。
彼女の眼差しが、何も見なくてすむように。私をさえ、その視界から奪って仕舞いながら。
唇は、いいまだにそこに私の唇があるかのように開かれて、閉じられない。口を尖らすような、その形態に、そしてあいかわらずの光が差す。
首に絡んだ腕を解きほぐして、それでも力ない抵抗を試みて、もう一度私の首に絡まりつこうとするそれを、まるで拷問じみてベッドに押さえつけた。手のひらがつかんだ手首は、それをへし折って仕舞うのは容易でさえあるように想われた。胸に、私は顔をうずめ、甘えるように、そして、聞いた。
耳を当てて、あおむけた理沙の胸の曝した、垂れ下がり、押しつぶされた、それでも残ったあざやかなふくらみの向こうに、感じ取れもする骨格の向こう、静かに、なぜか至近距離に響いて、聴こえるもの。
ただ、心臓の鼓動。…聴く。
午後、その浅い時間。もう、寝なければならないはずだった。夜7時の出勤までのいつかに。
たとえまどろみであっても、どれほどかの間は。
目を閉じたままの理沙は息遣うばかりで、すでに眠っていたのだろうか?すでに、おぼろげなまどろみとしてであっても。
私の冴えた眼差しは、彼女の心臓の音を聴き続けながら、向こうに、壁に、小さく水溜りが反射させた光の透明な屈曲の、色彩のない模様が、見つめなければわからないか弱さで、とはいえ、あきらかにそこに存在しているのを見ていた。
リズムを刻む。
鼓動。
そして、いつも、かすかな乱れがあるような気さえする。
その、かすかな乱れのようないたずらさを持った、正確とは言獲ないリズムが、むしろ彼女のその生存の、固有性をだけ感じさせて、私は戸惑った。
…どうして?
時間さえも、取り返しようもなく過ぎ去って、失われていくしかない容赦ない実感に、
戸惑ったりしたの?
感じられたかすかなおびえを忘れられない。あるいは、なんども、思い出す。
私は
つまりは、覚えている。
不意に、わたしは想った。
その、壁に描かれた水の、ちいさな停滞した反射の渦は、フローリングの水溜りのそれだったのだろうか?
活け花の、その、一杯にためられた水の描いた、反射光だったのだろうか?
ブーゲンビリア。紫を秘めた紅の花
いつか、夢を見たことが在った。
廃墟の中で、花を育てたその
子供のときか、いつか。
少年を知っていた
何度か繰り返して、水が撥ねる。…なんども繰り返して
その少年が
思い出されたそれは、最早私自身の創作に過ぎない。水が、
理沙であることは
たぶん。もう、その記憶に、あの夢見られたいくつかの
懐かしくはない
瞬間の、その時にはあった明確な鮮度など、一切、
彼は
存在しない。
理沙ではないから
それは残骸のようなものなのだろうか?醒めた瞬間にから、
似ても似つかない
急激に失われていくその鮮度。…堕ちる。
まったく、なにも
水滴が落ちていることは知っている。その
見渡す限りの空間、ただ、純白の、たぶん内側からにぶく、しずかに
発光さえしながらも。何も。
まるで、その鮮度そのものが立ち去ってでも行くかのように、あっという間に、そして。
なにもありはしない空間。ただ
無数に刻まれた水の波紋の反射光の群れが、あざやかに
彩る。空間を、ただ、それらだけが。
手を触れることさえできない、容赦のない、未だに覚えられ、あるいは存在し続けているがままに、消滅していく。
音はしているのに、その、水滴の、無数の水滴が堕ちて、水に
おびただしくも溜まっているに違いない水に、波紋を無際限なまでに広げながら
いくつもの、それら。
そうなって仕舞うしかない、夢の。いくつもの夢の、一様な鮮度の、あきらかななまなましさの、変わり映えもしないいつもの喪失。
決して、見られ獲はしなかった水滴の、向こうにまで広がっているはずの
重なりあう音。音響。戯れる光。反射。波紋。…雨?想った。
雨が降っていたのだろうか?ただ、
為すすべもなく。
名残をだけ残して
私はやがて目を閉じるのだった。
少しだけ、悲しい気がした。とはいえ
たぶん、少年は
理沙が私の頭を撫ぜて、そして、息を乱すこともない。
振り向きもしないだろう
悲しみは私を浸らせない。
何の言葉もないままに、ただ、心臓の音を、そのまま
私を?…転生
なぜなら、悲しいとは決して
私に聴き取られて仕舞いながら、私に、その体内の
理沙の転生
想ってなどいなかったから。むしろ
静寂とは程遠い音響の生々しい群れを
なぜ?そんな、まったく
見つめる。ただ、美しいと
その連なり。あるいは混濁を。
意味もない事を?なんど
あるいは、美しいと、そう言う意味深くなって仕舞う
聴き取られて仕舞いながら、理沙の、頭を撫ぜる手のひらの
生まれ変わっても、失われた記憶が
いくつもの、比喩や暗喩や、それら。
触感。私に
取り戻されない以上
それらを生産してしまうかもしれない、そんな。
その時、感じられていたもの。汗ばんだ皮膚。
出会いもしなかったに等しい
そうではなくて、ただ。…綺麗?
お互いの。
私たちは
きれいだ、と。
シャワーさえ浴びれば。そうすれば、と。
お互いに、なんども
それへの何のあがいも、違和感も、感興も、感情さえもなくて。
想う。全部、綺麗に、
永遠に
きれいだ、と。
洗い流して仕舞えるのに。
肌を
かさねあいながらも
…ほら。
くりかえし
壁に反射光が、
ずっと
いま、しずかに、泳ぎもせずに
私たちは
停滞している。
永遠に
それをは、理沙には教えなかった。
…花。
午前中に活けられた花が、そのまま、午後になっても捨て置かれたままに、フローリングの上にあった。白い、その、私が名前を知らない花、そして、いつだったかその名前は理沙が教えてくれていた。
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