小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅳ…世界の果ての恋愛小説③
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅳ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
…花。
午前中に活けられた花が、そのまま、午後になっても捨て置かれたままに、フローリングの上にあった。白い、その、私が名前を知らない花、そして、いつだったかその名前は理沙が教えてくれていた。
すでに。
微笑み、こんな花の名前も知らないの?
笑った。理沙は、笑って、…ね。
好きじゃないの?
どうして、…ん?
花。
好きじゃないの?こんなに、
好きじゃないの?
綺麗なのに。
花は… Hoa
いつも、何にも興味なさそうにして。どうせ、
Hoa の事が、好きじゃないの?
忘れるよね。…おしえてあげても。私が
フエは言った。やがて、ベトナム
名前、教えてあげても、たぶん、
あの、熱帯の国
忘れるでしょ。また。…そして、
だれもが、幼児的なほどに、自分の国が
何度目かに教えてくれるその
いい国だと確信し、無根拠に
名前。…私が忘れてしまった、その、
野放図なまでに、ベトナム人たちは
白い、細長い花弁。百合とは違う、その。
いい人間たちなのだと確信している
二輪のその花の周辺に散らされた霞草の
そんな国。そんな
空間を乱した気配に過ぎなかった霧だつ色彩が、
国の中部の町で。…好きじゃないの?
花の周囲の低空を彩りさえせずにただ
Hoa が…なんで?
静かな沈黙をだけ描いて、空間に
なぜ、そんな事、言うの?
存在している掻き乱れるような緑の
悲しそうじゃ…だって
活けられた葉の、どこかで沈痛な色彩を
…ね。ちっとも
何事もなく邪魔してしまう。雪崩を起こしたように
悲しそうじゃないから
花と、茎と、葉
そんなことないよ
直線的に延びる葉とのたうつように気まぐれにくねる細い葉
…嘘でしょう
それらはただ
嘘じゃない
崩れ落ちそうな瞬間をだけ
本当に
空間に刻んで
嘘じゃない
静止するしかない。むしろその、すでに切り落とされて、殺されて仕舞っているはずの、それらの瑞々しいがまでの生存。
嘘よ、と、そんな意味のベトナム語だったか、英語だったか
それを口走ったフエは、とはいえ
花にとって、死とは何なのだろう?あるいは、植物にとって。切り落とされてさえ、瑞々しくその存在を、枯れ果て、朽ちて仕舞うまで、生き残り続けるというのなら。
つめよるわけでもなくて、のんきで、許しを
私への、その許しをだけ与えたような、そんな、希薄な
いずれにしても、その、花々に固有の、私にとってはわずかに過ぎない数日の間に。
微笑をくれた
花。
やがてはその放置される時間の果てに、朽ちる花は、いつ死んだのだろう?
…ねぇ
いつ死んでいたのだろう?
いつ?あなたは
いつ?
本当の涙を流すの?
いまや、想いだされもしない、かつて大量にもつぶやかれ、叫ばれ、ささやかれ、口走られ、聴き取られて棄てられて仕舞った、それら、濫費されたにすぎない時間を埋めて行った言葉の群れは、どこへ消えて行ったのだろう?
…そして。
放置されたままの水溜りはいまだ、渇きもしない。
午後の時間が深くなるほどに、そのきらめきを濃くしていくガラスの破片は、もはや、夕方に近い時間の中に、そして、やがては失われた窓の外の光源のために、うす暗く、沈んでしまう室内の中に、そのきらめきをなくて、輪郭をさえ、失って仕舞うに違いない。
眼の間に、痛いほど、色彩のない鮮やかなきらめきを晒していたそれらは。
身を起こそうとした理沙が不意に、よろめいて、私の足の上に背中から倒れこめば、ベッドが軋む。
マットレス、そのスプリングも。そして理沙は一瞬息を詰めて、私は声を立てて笑った。小さく。
ささやかれたように。
力尽きたようにそこに身を横たえて、私の足は理沙の体重を感じるしかない。その、皮膚の触覚の上に、もはや断片的にしか感じ取れない、彼女の体の線の形態。
私の皮膚に張り付く、かすかに汗ばんだ皮膚の触感。
ね?
そう言った。…ね。
ほら。
右足の先に覆いかぶさったかみの毛の触感があって、身をのけぞらせるようにして、向こう、壁のほうを見やっていた理沙の眼差しが、結局は何を捉えているのか、私にはわからない。
「どうしたの?」
聴いてる?と、…ねぇ。そう言いかけて仕舞いそうになるほどに、引き伸ばされた沈黙の後で、肌。
褐色の、曝されて、日の光を間接的に浴びて。
肌。きらめきもせずに、その太陽の光に対しての容赦もない貪欲さだけを感じさせる、色彩。
その。褐色。その上に這うタトゥー。私に見つめられるもの。
「…なんでなんだろ?」
理沙は言った。
なにが?
私は、そうは言わなかった。そう、心の中に言われたことは、理沙はすでに気付いていた気がした。
…ならば、ささやかれる必然性さえない。
皮膚は息遣う。
呼吸。それにあわせて、ただ、その腹部はふくらみ、しぼみ、いよいよその色彩は、間接的にしか当らない穏かな日陰の色彩に濃く、はっきりと、鮮明に、浮かび上がらせられるほかない。
ややあって、立ち上がろうとする私を理沙は引き止めない。体中を虚脱して、立ち上がるすべさえ知らないように。横たえられて息遣う理沙の身体に、私は眼差しをくれる。
何度も、何度も、くりかえし私に眼差しによって、見つめられ、そして、その形態を認識されながらも、目を閉じて仕舞えば必ずしも正確には、思い描かれ獲はしないその。
投げ出された腕は、ベッドの上に、反対にくの字に曲がって静止していた。
私は、グラスの破片を片付けて仕舞おうとしたのだった。理沙のために。彼女の柔らかいはずの足の裏の皮膚を、食い込まれたガラスの先端によって、傷つけられないですむように。
ベッドの脇に立ちずさんで、そらされた眼差しは、普通より大きく一面に開かれた、窓の向こうの渋谷の、その果ての、新宿の、それらの風景を見る。
はっきりと、眼差しは捉えながらも、その、鮮明に見えているはずの形態と色彩は、結局はそれが明確ななんであるのか、樹木だとか、ビルだとか、そんな、もはやなにも言っていないに等しい言葉に堕して仕舞うよりほかない。
穢い。
理沙は言った。身じろぎさえしないままに。
聴く。私は、彼女の口から吐れる言葉。…なんか、…。
ね。…
「穢いんだよ」
なにが?
声にはしなかったはずの、その、私の言葉は彼女に聞き取れただろうか?
単純に、空気の震えのような、気配そのものとして。
「どうしようもなく穢い」…んー
美しい。身を横たえて、完全に
…ね。「毎日、なんか」うまく、
理沙。何の力さえ入れられることさえできなくて
うまく、さ。「時間が、」なんか、「…埋まらないから」…言えないけど
身を投げ出して、理沙は。
「…埋まるけど」うまく、
美しい。あるいは、綺麗、…と?
「結局は埋まるけど、でも、」
ただただ綺麗だと、そういえばいいのだろうか?
うまく、…は。…言えない、「…けど、ね?」
私は、半ば息をひそめて
「毎日、時間を」
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