小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅳ…世界の果ての恋愛小説①
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅳ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
序
目の前で、砕け散る破裂音を見る。
きらめきのの揺らめき。水が水滴になって割れ、飛び散り、窓越しの陽光。斜めに差したそれが与えるきらめきは、やわらかい水とグラスの破片。その差異さえもすでに抹消して仕舞っている。
飛び散る。撥ねて、舞う。
水のたっぷり入った、その水面を揺らしていたグラスを不意に、叩き付けるようにして落として仕舞った理沙は無数の、水滴を飛び散らせたみずからの下半身とフローリングを、そして、足元に砕けたガラスの破片は、ただ呆然として理沙に見つめられていたにすぎなかった。半開きにされたまままの、口紅さえぬられなかった唇は、ややあって、自分を見つめる私の眼差しに気付いて晒された戸惑い。終には、…痛い。
不意に、そう言った。ふとに、やっとそれに気付くことができたかのように、
…ね。
自分の両方の手首を胸に押し付けて、こぶしを握って。
痛い。
まだ、ガラスの破片も、なにも、彼女を傷つけてはいなかったというのに。
聴いた。私は
戸惑い、おびえるしかない彼女に、私は何の表情を曝すこともできないまま、終ったばかりの汗ばんだ皮膚が感じつづけるべたついた触感、のようなもの。
つぶやかれた、彼女の声を。
皮膚に執拗に張り付いた、その。
なにかが触れているわけでもないくせに、感じ続けられた遁れ難いほどの、その。触感。それが、私を倦ませていた。
不意に、おびえ切った無造作に細かくゆれる感情以前の心の波立ちに苛立ちさえして、そのあげくに、どこかに逃げ出そうとしたのかもしれない理沙が、そのとき、動こうとすれば、待って、と、聞く。言った私の、
まって?
声を。理沙は。聴く。私は。あきらかに戸惑って、今、目の前にいて、自分を見つめている、ベッドの上の、日差しの中の、裸の男。自分の最愛の、そして、彼が、結局、今、何を言ったのか。聴く。
まって
舞う。目が。
その。
不意に目舞って、理沙は、その、そして私は彼女が想いつめた、明らかに救いを求める眼差しをだけ曝すのを、ただ、いとおしくしか感じられない。
さっきまでの、そして、いまだに薬物の抜けていなかった彼女の、そのせいで、それを打ってもいない私にとっては、あきらかに異常な、たとえば子供じみたポルノ・フィルムの妄想のような彼女の反応に、ぃにゅー。戸惑いさえしても、ややいぃ。ぬぅ いつも繰り返されるそんな ややぁんやぃ 反応ばかりに、ぁえやぁや 戸惑いさえもがすでに飽きられていても、相変わらず感じられ続けたのは、戸惑い。
そして、おののき。
恐怖。
未来への。
ほんの一瞬の、その先の。
痛み。
破綻への。
悔しさ。
自分をもふくめた、何かへの。
自分も、と、想った。
彼女と一緒に堕ちて仕舞えばいいのかも知れなかった。その、いかにも壊れた、穢らしい、音声の群れの中に。動物的なと言って仕舞えば、動物たちの尊厳への蹂躙にほかならない、
待って
あるいは、その夢を見るような眼差しの中に。簡単なことだった。彼女が打とうとした注射を、戯れに奪って、血管にあててみればいい。やがて、と、理沙は言った。結局は、一回目の、最初のキスで、もう最期まで壊されてたことに気付くの。
バスタブの中で、血を吐いた日に。
「待って」…いい子だから。
理沙は、泣きそうになるのを、明らかに堪えていた。泣いて仕舞うのは、それだけは違うと、かたくなに想っていたらしかった。どこか虚弱な肩から堕ちた線が、奇形種じみて突然豊かにふくらみ、その性別をあざやかに曝す。腹部は静かに、何事もなかったようにくびれていたが、今、その褐色の腹部は、まるで子供のそれのようにだらしなく膨らまされて、心の痙攣につれて、かすかなわななきを見せた。
日差しの中に。
窓の向きうに、私が振り向けば、空が見える。正午をとっくに過ぎた、その。青い。そんな事は知っている。
理沙の素足のすぐそこに無数に散らばったガラスの破片と水滴の散乱は、どれがどちらなのか、その区別さえも持たないままに、そして水溜りの乱れた透明なきらめきは、ただ、震えもせずにしずかにそこに停滞しているほかない。
いい子だから、じっとしていて。…と。
怪我なんか、しないで。
僕の、
私の
俺の、見てる前で。
そして
ゆっくりと、私はベッドから
君が
自分の足の先の着地するべきところを探した。
見ている前で
フローリングの上に。
花が咲いている
砕けたガラスのその
君の活けた
ちいさなきらめきを
すでに殺されていた花が
踏ん付けて
生き生きと
仕舞わないように。あるいは。
水を吸って
理沙の眼差しが、彼女の左手の向こうの床の上に、置かれたままの花、彼女が活けた花の上に、立ち止まる。
まるで忌避するように破片の散乱から、そして、やがては見つめられていた私からもそらされたその。
理沙。彼女は、褐色の皮膚をただ、意味さえなく曝したままに、注射を恐れる子供のように、胸に手を当てて、その、かたく緊張させられた腕の子供じみたいたいけもなさが押しつぶした、あからさまに大人の女の胸かたちを変形させさせて、ゆがめ、笑う。私は、あるいは、いびつかも知れない、目の前の不似合いな対比に。
…そっと。
這うようにして、フローリングの上に、自分に接近していく私をは、理沙の眼差しは捉えなかった。…怖がらないで。
言葉にはしない。
だいじょうぶ。
そして。
わかるでしょう?
破片なのか、水滴なのか。
つぶやかれるべき言葉
目の前のきらめきの点在を嗅ぎ取るように、ゆっくりとした
言われる前にはすでに
緩慢な、それはまるで、と、いうよりももはや
了解されてしまうに違いない
単なる戯れに過ぎなかった。
誰にとってももはや、すでに、使い古されているに過ぎない
怖がらないで、と。僕が
つぶやかれなかった言葉の群れ
守って、…君を、
わかるでしょう?
俺、守るから、だから、私は、
私のものでさえない言葉
理沙を守るために。けっして
誰のものでさえもなかった、すでに
彼女が傷付いて、そして
誰かがつぶやいたが故に了解され獲るに過ぎない
血を流したりはしないですむように。私は。気付いていた。
本質的に固有ではありえない言葉の群れ
聴く。失禁した理沙の、その、ぬらされていく音。
それらが刻んだ私の
水が流れて、匂う。
君の
その音が小さく立つ中に。…この、
固有の時間が
壊れて仕舞ったもの。
そしていつかは
なにも、もはや
いつも
自分ではまともにコントロールできない、この。
すでに
伸ばされた私の指先が、砕けたグラスの
あるいは
その底の破片に触れる。
私たちを引き裂く
つかんで、握りつぶせば、確実に
切り裂いて
知っている。私の手のひらが
押し潰して
血を流して仕舞うだろう事くらいは。
窒息させ
切り裂いてあげれば?
破壊して仕舞う
つかんだそれで、眼差しの先に、震えているしかない美しい存在を。壊れた、いよいよ壊れるしかない、その、愛すべき存在。彼女を。
終には、救ってやるために?
例えば、首を?…心臓を。
指先が脇にのけた破片は水溜りの中に浸かりこみ、水溜りは静かに波紋を広げているばかりだった。理沙の、彼女の太ももを伝った失禁が、フーリングの水の停滞を壊して仕舞って、呼び覚まされた波紋状のふるえ。
震えてるの?
君は、と。つぶやく暇もなく、彼女を腕に抱くと、彼女が絡みけた腕に首を、ふと窒息させて仕舞いそうになりながら、二人でななめに倒れこんだベッドの上に、ベッドは派手に軋んだ。
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