小説《ラルゴのスケルツォ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ…世界の果ての恋愛小説⑦/オイディプス









ラルゴのスケルツォ

Scherzo; Largo









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ














もう一度、ふたつめの居間に彷徨ってみて、猫が立ち止まって、私に目線を投げて、短いひと鳴きで挨拶をくれて、そして、やがては目をそらす。

こんにちは

いまだに、美しく瀟洒な猫の野生を失わない、

きみは、だれ?

単なる

わたしは

家猫。

わたし

彼女は白い。

私の存在そのものに飽きたように、音もなく、そして顔を背けたままにゆっくりと立ち去っていく。キッチンの方に。

猫を追って入ったキッチンには、その、猫の姿さえもない。

誰も。

気配も。

その痕跡も。

ひとつめの居間は、誰も使わなくなったので、もはや単なるヴォイド空間にすぎない。少し前、壁際の椅子の下で猫が子供を産んだ。

黒と、三毛と、三毛ベースの白と、白ベースの三毛と、白。遺伝子によってあざやかに巧まれた配分。

かつて、結果としてフエが追い出して仕舞った彼女の親族夫婦たちの、そして、彼らの子供の部屋だった部屋も二つ。

その向こうにはがらんとした土間。

たぶん、70年代の自家発電装置、のようなものが、ほこりをかぶっている。最近まで、稼動していた。

フエの不在の、空っぽの空間だけをさらした、仏間。

アン・チャイ、…菜食日には、野菜は食わない。

どうして?…言った。いつか。日本だって仏教国だのに、菜食日がないの?

中央の、巨大な据え置きの仏壇。かけられっぱなしのi –pod が、きまぐれにつぶやくような念仏を唱え続ける。

聴き取れないほどの微弱音で。

広い仏間に飾られた観音像の装飾された電飾が、床の緑色のタイルに色彩の、そのけばけばしい模様を描く。

回転させながら。…品位、というものを感じない。

すべての鍵は内側から閉まっているのだから、彼女は家屋の内部にいなければならないはずだったが、その気配さえ存在しない以上、彼女は此処には存在しないのだった。

もはや?

確実に。

子供のなきがらを残して?

病院から連れ帰られた、私たちの寝室のいつも子供用ベッドの上に。

ふたつめの居間に戻って、私は水を飲んだ。

グラスに水をそそげば、透明なグラスのガラスは、その、色彩のないものの翳を、ある種の色彩として刻む。

あくまで無色なままに。

無色透明、とまでは言い切れずに。

そして、明示された、グラスの中の疑いようもない水の存在。

一気に飲み干された水は私の喉を潤すのだが、いずれにしても、彼女を探さなければならないのだった。フエを。

私は。

目を開いたまま涙を流して、そして、その時何の確証もいかなる正当性もなくただ私に、眠って仕舞ったに違いないと、そう確信された、あの、彼女。

ひそかに、その鼻から吐かれつづける息が、その音を静かに刻んでいて、聴いていたのだった。

私は。それを。

例えば理沙は。

彼女も。

私の心臓の鼓動を。戯れに私の胸に耳を当てて見せて、理沙には確かに聴こえていたに違いなかった。

私の、心臓の。

鼓動。

…音。

不意に、理沙が声を立てて笑ったので、私は戸惑いながら理沙の頭を撫ぜてやったそのころ、理沙はまだあれほどまでには壊れていなかった。

あるいは、もともと壊れきって、最早廃墟に等しいものに過ぎなかったのかもしれない。

廃墟は、陽の当り方でさまざまな風景を描くに違いない。

私をも含めて。

何に、いつ、壊されたというのではなくて、気付けばすでに留保もなく壊されていた私は、生き続けていた。

いずれにせよ命は否定しようもなく継続し、心臓は鼓動をきざみつづけていたのだから。

だれもが。

誰も。

私が確信していたのは、誰も。

結局は、誰も私を、いつでも、壊しはしなかった。壊し獲は。あの、美佐子さえも。しなかった。

彼女が触れたのは、私のその廃墟に過ぎない残骸に過ぎない。意味さえもてないその愛撫を。曝した、その、彼女の指先が触れたものは、残骸。

すでに剥き出しになっていた廃墟の、生き生きとしたその。

鼓動する、生々しい、私の。

残骸。

脈打つ。

同じように。…理沙と。…フエ。彼女は、いない。

目線のどこにも発見できないままに、暗がり、その光が喪失されてある暗がりの中に、私は自分を捨て置いて、誰も。

だれもいないし、誰も。

壊せなどしなかったし、傷?

そんなもの、ついたことさえあったのだろうか?

私に。フエ、そして、理沙。結局は、彼女を傷つけえたものなどいない気がした。明確な実感そのものとして。咬む。私はその実感をだけ、咬んで、撫ぜた。

比喩ではなく、奥歯を。

撫ぜ続ける手を、その、自分の頭を髪の毛の上から撫ぜ続けている私の手のひらの触感を、理沙は目を閉じたままに感じ取っているに違いないのだった。

私に見つめられ続けながら。

何も言わないままに、耳を澄まし、痛い。

単に、痛み、それだけが。

傷さえない場所に、たんなる痛みだけが存在していて、覚醒し、息づいて、いかなる消去をも跳ね除けて、そこにいる。

明確な場所さえ持たないそこに。…救けを。

私が、亡き、子どもの沈黙したなきがら以外にはだれもいないその日の古びた家屋の中で求めていたのは、救済を。

たすけてくれと、私は想った。

救済を。

声に出して、訴えてしまいたいほどに。









ただ、救済を。

私が救われなければならないのは事実だった。いますぐに。救済され、救済する必要性があった。何をすれば、というわけではなくて、その空っぽで意味もない、もはや言葉としての存在価値もないそれ。

救済。

私は求めて、そして眼差しはフエを探し出そうとして、救い。首を、ふと。私の想いをすくいとったように首をもたげて眼差しをくれた理沙は、からだの上で、すべて、何の遠慮もなく私に預けられていた重量が、所詮は重力の産物に過ぎないならば、それは彼女の固有の体重とはいえない。

重さによって、明らかにそこに、理沙は自分の存在を刻んでみせながら、なに?と。

なに?

私のその言葉さえ待たずに、不意に鼻にだけ笑い声を立てた理沙は、後れて、「…なに?」

見えるものは

聴く。

なに?

私の言葉を。

聴こえるものは

かすかに、喉の奥に引っかかった、その。

深い水の

…なんでもない。

その中に浮かんで

そう言った理沙の眼差しには、意図されないままのいたずらな表情が浮かんで、…どう?

なに?

私は言った。

それは

「何が?」

感じられたものは

…どう?と、その言葉を言った瞬間に、私は、何が、と、その言葉を理沙が発するよりも早く自分に発して仕舞っていたので、かさねて、二重に響くしかなかった、その。

ほんの数秒間、答えもなく想いあぐねた私の、「幸せ?」と、そのつぶやかれた声は理沙を笑わせた。

そうするしかないように、はっきりと声を立てて、崩壊。

私たちは壊れている。

ずっと、私たちは、そして、おかしくて仕方ないかのような理沙の笑い後に釣られた私の笑い声は、理沙の耳には届いたのだろうか?我が儘なほどに、自分だけで笑っている気になっている理沙には。

なんだよ、と、笑いに乱れた、私の発したその、不安定な発声。

乱れた、それ。

聴く。

「なんだよ」

繰り返して、…幸せ、私は笑う。

馬鹿。

幸せ?

理沙は言った。

馬鹿。

笑い声の狭間に、そして、掻き消えることなく、

幸せ。

しずかに広がり、拡散していって、やがては

馬鹿。

空間に消えうせてしまうそれらの音声の群れ。

重なり合いもしないままの。

声。…ね、と。

私の。

…ね

理沙の。

ん?

声。

ね?

私の理沙の。

…ん。

ん…

その、声。

f…

理沙だけが立てた、…ん?声。

っ、

重なりあいかけてすれ違う、そのこっちに木魂した、声。

っんん…

私の。

っっ

私だけ。

あー

だけが…私。ん。…声。

ん、…っ

私だけが立てた、その。

ぁあ

群れを成して、重なり合いもしない声の。

んぁ

単独のままの、波紋なす声のそれら、…群れ。

あ、っ…

完全に、すべて聴き取られることさえもなく放置されて、投げ棄てられて捨て置かれて、その拡がりの。

空間の、その拡がりの中にいつか果てていく、その。

やがて崩れ去ってしまったように沈黙に堕ちるしかなかった、散乱する笑い声のあとの再びの、あるがままの沈黙。そのなかで、理沙さえも私に目線をくれさえもせずに投げ棄てた眼差しのうちに、…あんたは?

言ったその、声を、私は想い出したように聞いた。

何度も、もうすでに繰り返し、理沙に聴かれ続けていた気さえもして、その、初めて聴く彼女のその音声を、耳の中に回想する。

「あんたは?」幸せ。…と、口に出されないままに棄てられた言葉は、すでに、私には聴き取られて仕舞っていた。

答えようがない私は答えを返そうともせずに、完結しない疑問形が投げ棄てられたままの、その、うつろで、執拗な空間への滞在に、結局は耐えられなくなった私は理沙をひっくり返して下に敷き、無理やり奪ったようなキスをくれる。

愛、…が

彼女の唇に。

、あるいは

触れる、唇は、その無反応なままのフエのそれの、

私たちを

その、かすかな

強姦する

痙攣をだけ感じていたのだった。眠りに落ちる前の、その、まだ目の前にフエがいて、そして涙を流し続けていたときには。

たぶん、愛していると、かさねられる時間の最後には人々が、だれもそうは言わなくなって仕舞うのは、結局は、飽きて仕舞ったわけではなくて、その言葉そのものがもつ空虚さに気付いて仕舞うからではないのか。

褪せてしまった、のではなく。

美紗子は一瞬にして不安げな眼差しにその両目の色彩を曇らせた後で、何も言わずに私を見つめたまま、朝食の目玉焼きをテーブルの私の目の前に置いて、彼女は口を閉ざしたままだった。

何を言ったわけでもなかったが、不意に感じとったに違いない私の何かの心の動きを、美佐子はただ不安としてのみ消費して、十四歳の私にその不安に抗するすべはない。

背後の窓から陽光が、おだやかに差していたはずだった。

午前の、あきらかに朝のそれに過ぎない光は、ただ、かすかな冷たさを持って、外は冬だったに違いない。

ガラスを夥しい結露がぬらして、ときそれが線を引く。みち連れにされて一緒に墜落してひとつの曲がった線分になって、そして。流れ落ちるそれら水滴。

室内に付けらた暖房が、私の苦手だったその不自然な暖気が肌を煽って、私は頬をかすかに上気させてはずだ。

目を合わせたまま離そうともしない、美紗子のその沈黙に、私は耐え難さを感じながらも、十四歳の?

あるいは。

十三。

…3.5

その私はいますぐ学校に行く気にもなれないので、いたたまれなさの中に、気付かない振りをしてただ時間をやり過ごそうとする。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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