小説《ラルゴのスケルツォ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ…世界の果ての恋愛小説⑥/オイディプス
ラルゴのスケルツォ
Scherzo; Largo
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
ホア、あの、失われたばかりの私たちの子供の死体と同じような、そして、それとはまったく差異する生き生きと、生々しい生の実在をただ刻むフエの、息遣い。
腹部が波打ち、こぼされる涙、どうしてなのか、それを。どうして、あんな日、子供が奪われた日にまで、お互いにそれを望まれ、求められ、渇望されたわけでもなくて愛し合いって仕舞ったのか、その行為の終わった後にまで、泣き止まないフエの涙は、いつかれることになるのだろう?
明日の朝には?
あるいは、永遠の尽き果てた、その先の果ての尽きたその先には。添い寝してやる私にかすかに生成し始めたまどろみが、ゆっくりと空間をやわらかく、何の刺激もなく、その、照明の消された通風孔からの夜の光だけが照らし出したに過ぎない、雑然とした空間の中に。ただ、残像のように眼差しは捉えて。
何もかもが、目を凝らさなければ見えない空間の明るさの中に沈黙するしかないのなら、結局は、目を凝らすことをやめてしまえば、あとはただ、やさしい、やわらかい、もはや忘れかけの映像の痕跡と同じものに過ぎない存在の、その眼差しに忘れられかかった息吹きの痕跡だけが残る。指先に痛みがあった。…風景。決定的に崩壊した身体が、もはやその名残りをだけ、私にかろうじて感じさせた。
その風景。
そこはどこですか?
気付かれ、見出されていく、崩壊した風景。
君が壊れた場所は
誰もいない、崩れかかったビル群の廃墟に、雪が降る。
どこですか?
春に違いない。
私が壊れた、その
私が知っているのは、今が。
鮮明な
まさに、今が春に他ならないことで、氷河期を迎えた世界に、静かに。
いつかの記憶
渋谷かどこかの廃墟。
ほとんど
あるいは、渋谷とか、新宿とか、そんなようなどこかの街。
想いだされもしない
雪に、指先をさしだして、その温度を確認しようとしたのだが、
どこですか
私には指先などなかった。
空中に
たぶん。
雪が生まれた、その
なにもかも、たぶん。
場所は
腐ってしまって?
あの、水滴が
あるいは、風化してしまって?
凍り付いて、結晶を
腕も。
曝す
最早存在などしなかった。
その
どこにも。
場所は
肩も。
どこですか?
首も。
紛れ込んだ場所
足も。
君が
腹部も、胸も。
息をひそめて
唇も。
不意に
鼻も。
微笑みをくれながら
そして、眼差しさえも、もはや朽ちているに違いない。
紛れ込んだ場所。私を
なにも、見てなどいないのだから。
連れて
雪が降る。
やがて舞い上がった大気がなにもない空中に
それに、私は触れる事ができないのだった。
その衝動の痕跡を残して
もはや、存在などしてはいない私は。
誰ですか?
ただ、痛みとして。
ふれたのは
たんに、癒されない痛みとして、私は。
君に。私の指先を
たぶん、この世界が物理学的な崩壊を迎えてしまったその後でさえも、目覚め続けているに違いないのだった。
装って
痛みは。
ただの。その。
最早、私でさえもなく。
私のものでさえもない、その。
痛み。
…痛い。
君は?
痛い?
痛い。
私は。
痛み。
涙を流せばいいのだろうか?
そうすれば、流された涙は結局は虚空の中に、やがては雪に変わるのだろうかと、雪。
それが降った。
見渡す向こうまで、降り積もって、そしてすべてを埋め尽くしてしまうに違いない。
その、純白の中に、そして私は目醒めた意識の白濁を、次第に、あの夜の空間のやさしい暗さに染めさせて仕舞うのだが、それに、為すすべもなくて。
フエを、揺り動かしたりはしない。
彼女は眠っているに違いない。…と、私は不意にそう想ったのだった。なにかの僥倖のように、とつぜん降ってきた鋭利で逃れがたい認識そのものとして、…彼女は。
眠っていたに違いない。黒目をふだんに、かすかにだけ震わせて、留められない涙を、止める意志さえ持たずにただこぼれさせながら、もう。
すでに。
フエに、見た夢の印象を何とかして伝えてみたい衝動があったが、その、夢の鮮度はみるみる、意識が思い出そうとすればするほどに、色あせていくしかない。
ちいさな、為すすべもなく決定的な、その崩壊。
手も触れる事が出来ない、その。とどめようとすればする程に。
鮮やか過ぎる、音も気配もない、単なる。
眠っていたに違いない。彼女も。
しずかに、何の反応も見せない理沙は、眼差しをやさしく見開いて、そして、たぶん何も直視してはいないままに、彼女は、眠っていたに。
一瞬だけ、慮るようにかさねあわされた私の唇を咥えようとした、その唇が次第に力を失って、その条件反射に過ぎなかったかのようなわずかな反応の名残りを唇は、言葉さえないままに愉しむ。
やがては離されるに違いない唇を、息をひそめて無意味にかさねたまま、何の欲望があったわけでもなかった。
何を求めたわけでも。
唇に、理沙の、彼女の唇の触感があって、当然のように、私の唇は私の唇自体の触感をは捉えない。からだが重ねあわされるときに。
感じられざるを獲ないその。…感。
じ、られ、ざる。
を、獲。…なかった、その。唇も、肉体。
そのもの。肉体も、…そのもの、それ。
それさえも、あるいは、かさねねあわされるたびに感じられるしかない、そこに、あなたの存在をしか感じられないどうしようもない孤独感にさえ、私の存在をは決して感じ取ろうとはしない肉体の限界の痛さ。
かさねあわされたものの、その事実など実感をだに抱かれないままに、放置される私の肉体の。
魂の?
瞬く。そのたびに、涙がこぼれるのは知っている。
ただ、眠そうな理沙の。
眠って仕舞ったに違いない。
フエは。
泣きつかれて?
開かれた、何をも捉えない眼差しに、かけられるべき言葉さえなかったので、添い寝に身を横たえて、彼女も眠って仕舞ったに違いない。
そのフエの寝息さえ立ててはいないからだに添う。
やがて、いつか、眠りが私に訪れたには違いないが、いつ?
その、明確な記憶さえないままに、柔らかな朝の光が目に触れた瞬間に、終には目覚めた私が、すでに目をあけていたことにようやく気付く。
私は夜をすごしたに違いなかった。
明けて仕舞った夜。
数時間で、常に明けてゆくしかない、それ。
長い夜?
意識されない、その。だから、そこに長さなど存在しない。それには。
一瞬でさえなかったのだった。
…だから。
存在さえ出来なかったその長さは、私にはすでに喪失されていた。
瞬かれた眼差しは、向かいの壁の高い位置にある通風孔を、その、漏れこむ光の光が教えたのは、朝。
白ずんだ、かすかな、白濁。かすかに。
白濁したかすむ光の色彩を、一つの気配にすぎないものとして鮮明に知覚すれば、雨?
と。
そう想って、…雨。
…それが、降って、雨?
雨が降っているのだろうか。
想いあぐねる私はいまだまどろみながら、となりにフエがいないことには気付いていた。
首の内側に痛みがあった。いつものように。
いつからだったのか、目覚めるたびに、かすかにそこに存在して、肉体が完全に目覚めていくままに、やがて馴れられたのか、消滅するのか、それとも忘れ去られて仕舞うのか、いずれにせよ感じられなくなっていく、その。
痛み。鈍い、…首に。
手を突いて、ゆっくりと上半身を起こせば、朝が来て、私が再び目覚めた事実だけがふたたび留保なく自覚された。
振り向かなくてもすでに知っている、傍らのフエの不在を振り向いて確認すれば、探すべきなのだろうか?
想いあぐねて、私は自分の指と指とを重ね合わせた。
眼差しが空間を泳ぎだしもせずに、ただ、停滞した。
誰が悪いというわけでもなかったはずだった。ホアが死んだという、その残酷な事実に対しては。そして、その、あのちいさな愛すべき生命体の、可愛そうな死も、何のとがめだてもされるべきではなかった。
向けられるべき感情の対象を完全に失って仕舞った、…とはいえ。
その、誰にもむけられえはしない灼けつくような憎悪が、歯の生え際の柔らかい部分に、執拗に目覚め続けていた。
噛み切ることさえ出来ない、その、鮮やかな息吹きを。憎悪が、無理やり押し広げられた口の中から差し込まれて、喉を、内臓を内側から引き裂きながら、図太い鉄柱のように、そして、温度もなく発熱する。
感じられるのは、その。
憎しみ?
感じられた。今、すべてを。
何千回破壊しても、満足することなどありえはしない。私は憎んだ。憎しみの、留保なき鮮度を。
眼もそらせない鮮明さを。
起き上がる力さえないようにも感じられながら、私は誰の力添えも必要とせずに立ち上がるが、はぐられた蚊帳の色彩。その白い蚊帳がかすかな震えを持ちながら私の素肌に触れた。ためらいがちにふれて堕ちる。
そのまま、木製の古びたドアを開けても、その、いまだにシャッターさえ開けられていない向こうは暗い。
夜の名残りなどどこにもない、明らかに夜にあった暗さとは異質の、単にあるべき光の届いていないだけの暗さ。
眼差しが確認したのは、それ。
彼女の名前を呼ぼうとした。
その日、あの、やがてはフエに殺されて仕舞う父親が昨日、帰ってはこなかったのは、単に、いたたまれなかったからに違いない。
事実、病院の中からさえ、心をではなく肉体そのもを破壊されて仕舞ったかのように泣きじゃくるしかなかったフエから、逃げるようにどこかへ行って仕舞ったのだから。遠巻きに目で確認して、慰めもせずに。
一人だけ、私の許可さえも取らずに大袈裟にひととおり歎き悲しんで見せて。大声で、泣き叫んで。
その、すべてが嘘っぽかった心からの涙を、あの男が流すだけ流してどこかへ行って仕舞ったきり帰ってこなかったのは、彼のバイクがないことが明示していた。
私と妻のバイクに、ふと手のひらで触れて見ながら、そこに感じられたのはシートの、ビニールの粗い触感。
誰も不在のシャワールームには、濡れた形跡さえもない。
フエの父親の物置き部屋は、南京錠が外側からかけられていて、触れた指先に、錆びかけたそれの重量と、ざらついた触感をだけ残す。
その隣の、彼と息子の共有の部屋には鍵さえかけられないままに、彼らのいくつもの衣類や、そこでの生活の痕跡をこれ見よがしなほどに残して、そして、だれもいない。
放置されたままに、そして、閉じられた木窓の隙間からの漏れ光の強烈な線が暗く照らしだす。
もう一度、ふたつめの居間に彷徨ってみて、猫が立ち止まって、私に目線を投げて、短いひと鳴きで挨拶をくれて、そして、やがては目をそらす。
こんにちは
いまだに、美しく瀟洒な猫の野生を失わない、
きみは、だれ?
単なる
わたしは
家猫。
わたし
彼女は白い。
私の存在そのものに飽きたように、音もなく、そして顔を背けたままにゆっくりと立ち去っていく。キッチンの方に。
猫を追って入ったキッチンには、その、猫の姿さえもない。
誰も。
気配も。
その痕跡も。
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