小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ…世界の果ての恋愛小説⑥
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
激しい嘔吐のために、目に涙を一杯にためて、ときにこぼして仕舞いさえしながらも、華奢な体を骨格ごと揺らしながら声を立てて笑う。日差しが差す。昼間しか会わない。
夜と早朝はいつも、他の男のそれをくわえこみに出勤するのだから。
店がはねたらときに外で待ち合わせて、渋谷のクラブを回ってみる。
時間が過ぎて行く。
渋谷。…早朝が好きだった。夜の時間の留保なき終焉の、あまりにも明晰な兆しが、路面から始まって大気中を満たしていた。希薄なままに。
もう終ったものは取り返すことが出来ない。悔恨?
そんな感情さえ追いつかない、時間など流れている気さえしない単に停滞した、白んだ気配に満たされて、私たちは笑うしかなかった。理沙と、私と、ときに松枝圭輔や、北浦茂史や、かれらとつるんだ時間の終わりの、味気ない、…のではなくて。
笑うしかないから、私たちは笑うのだった。かならずしもおかしくもないままに。
出会ったばかりの頃、その春の昼下がりに、不意に理沙は起き出して、化粧ポーチをひっくり返した騒音が私を目覚めさせたのだった。不審な、そして揺らいでさわぐ不安感が私の喉もとを襲って、…壊れるの?瞬き、それを背中で察したに違いない理沙の振り向いて微笑んだ、…壊すの?笑っている、と、そう言うしかない笑顔は私を半分癒しきってしまう。
どうして
とはいえ、そう。
君は私を癒して仕舞うのだろう
もう、完全に壊れきっているのに?
君の悲惨を、そして惨状を
半分の癒しきれない騒がしさを取り残して仕舞ったままに。そして、
ただ見せ付けるだけなのに
まだ、何も壊れてさえいなかったのに。私は笑ってやるのだった。彼女のために。
その、不意のいたずら心のために。
困り果てて、ふてくされたような顔をして、どうせ途中までしかしないくせに、いつも逢えば重ねるほかない肌と肌の、そのせいで理沙も私も裸のままだったが、光。差し込む、大学にはもうほとんど通いもしないままに入り浸った、渋谷の高層の建物の中の、それは上空だったからなのか、まだ、なににもべたべたと触れられてはいない静かで、どこかで凛としたたたずまいさえ曝していたのだが、その光、空気も含めて、冴えた、その。
たとえ、夏であったとしても。春の、まだ桜さえ沖縄で咲き始めたばかりの、その浅い春が、醒めない冷気を持って、空気は私たちの皮膚に触れた。為すすべもないあたりさわりのない自然さしか持たずに。
花。匂う。花々が。理沙は、いずれにしてもやがて片っ端から枯らして仕舞うにしても、買い込んでは部屋のいたるところを埋め尽くさずには置かない花々の匂い、そして、微笑みに飽きたに違いない理沙が、フロアに胡坐をかいて座って、化粧品の山をまさぐり、探す。何を探しているというあてがあるわけでもないことには、お互いにもう気付いていた。
過ごされあうお互いの時間。その交錯。その只中で、にもかかわらず指先に触れたピンク色のリップを取って、何も見ずに唇にぬってみる理沙を見る。
私を捉えたままの眼差しは、ふるえさえもしなかった。
絶えないのは私の微笑み。耐えがたいほどに、愛すべきもの。美しい、いわば社会そのものの汚物。理沙。穢い廃棄物。くそ以下の残骸。あるいは私も?かならずしも、あるいはまさに、私こそは。
不意に声を立てて笑ったので、理沙は、そしてふたたび私の眼差しははっきりと合わさったその焦点の中にくっきりと理沙の姿を捉えるのだが、日差し。斜めに差して、おどろくほど褐色に染まりきった肌に陰影を刻む。
何が?と。
何がおかしいの?
その問いかけを吐く余地さえ与えないままに、理沙も笑いながらリップで、その体にでたらめな線を引いた。
もう一本の赤いリップと。重ねあわせさえしながら。
指先に挟まれたそれらが、肌に色彩を与え、色彩。人種の問題?褐色の、…いずれにしても、太陽の光そのものを、他のいかなる存在よりもいっぱいに吸収して、みずからの破綻すれすれまでに自分の、本来、黒くはなかったはずの皮膚を染めきらないではいられないような、むしろ飢えたような貪欲な褐色に、瞬き、意図もないままに引かれていく線のなぞる色彩が、私は、その息づいた皮膚の上に息遣うのを、見る。
…ほら。
理沙が言う。ベッドまで這ってきて、匂い。横たわった私に嗅ぎ取られた、かすかな。混濁した、その、「…ね?」聞く。
じゃない?…
耳元の、彼女の、嗅ぐ。におい。
香り。
匂われたもの。花々の、そして人より豊かなかみの毛の、肌の、体臭、それら、まざりあって、漂って、鼻を撃ち、…ほら。
そう言って、覆いかぶさった理沙は私の唇に、そしてやがてはからだ中に線を引くのに、…ね?任せる。
笑う。くすぐったくて、優しい抵抗を私は曝して、戯れられる時間の濫費。
君と居ると、時間などすぐに経って仕舞うのはなぜだろう?そう、私は想って、指を伸ばせば。それ。指先がふれたのは、理沙の唇。好き?
見えますか?
言った。
匂いたち
「…ね?」
散乱して
なにが?
見えますか?
「好き?」と、理沙が言って、何が、と、そう問い返すしかない私に理沙は
見えているものが
ふてくされた顔を曝して見せるが、すぐに笑みに崩れて仕舞い、
その
「…わたし」
眼差しが
「お前?」
ときに
「好き?」
ひそめられた
「好き。」
気配を
「嘘。」
嗅いで
甲高い、理沙のわざと立てた笑い声を聞く。なんで、と、理沙は「なんで、あんた、嘘しか言わないの?」口走る。私の腹部に、「…ねぇ、むしろ」でたらめな曲線を描いて、「死んだら?」口づけた。
理沙の指先がつまんだそれに当てられたリップが、それにピンクと、赤の色彩を与える。体内に入り込むしか能のないもの。それが、リップの油じみた、ぬれたような触感を感じて、声を立てて笑い、私は馬乗りになった理沙の首に手のひらを当てる。
綺麗でいたい。理沙は言う。誰よりも、なによりも、と、彼女はくちずさむように言って、瞬き、短いキスを額にくれて、温度。感じられた、「誰よりも穢いから。」体温。「わたし、さ。」知ってるでしょ?
「誰よりも穢いから、」彼女の「だから、」発熱したような「誰よりも綺麗でないと駄目なの。」あたたかな体温が肌に触れる。
自分の体温など、誰も自分では感じられない。自分の体臭でさえも。そこに息づいてさえいるのに。
そんなことは、もう知っているはずなのに、むしろ私はおびえて。
高校のとき、恵子という名の、もはや苗字も忘れためがねをかけた女が言った。いい匂いがする、と。
どこに?
何が?
皮膚から?…だれの?
見えますか?
体温も体臭もまるで嗅ぎ取られない自分の肉体は、いわばまるで、死体としてしか自分自身にとっては認知されない気さえした。
綺麗?
やがてはひざを立てて、理沙は立ち上がって、ベッドの上の、その理沙のからだを下から見上げれば、逆光の、柔らかい陰影が彼女の形態を浮かび上がらせた。…ね。
またぐられた眼差しの向こうに、いつもよりも遠く。
綺麗?と理沙は言った。「…どう?」むちゃくちゃに引かれた赤いラインが、彼女が息遣うたびに皮膚の上にこまやかに踊る。
震える。
ゆらぐ。
痙攣を刻む。
わななく。
母親が死んだ後の、一応の後見人になっていたのは、そのフィリピン・パブの経営者だったが、理沙は結局は彼の慰み者になっていただけだった。あてがわれた店の寮には週に二三度、様子見と当座の食事と当座の小遣いと、その見返りを求めに男は来たし、その、北見俊介という50近い離婚歴のある男が理沙に教えたのは、軽度の《合法ドラッグ》と、男に抱かれるすべだった。
十三歳の理沙が魅力的だったのかどうかは知らないし、単に北見という男の趣向に過ぎなかったのか、あるいは、何らかの見返るくらいはもらってしかるべきだと想われた、その見返りとしてそれしか当然、なにも持たない少女にはありもしなかったからだけなのか、そんな事はわからない。
中学校には殆ど通わなかったし、そこで彼女が教わったのは同級生に****ときの身の処し方に過ぎない。要するに、冗談のように、受け入れてやるしかない。店に出て自分で稼ぐには見かけが幼すぎれば、誰かの***にでもなるほかない。
いずれにしても、唐突な家出は繰り返されて、過呼吸と嘔吐の発作に襲われながら、十六歳になったときに、本気の家出をして東京に出てきた、と言った。
歌舞伎町を皮切りに、複数の風俗街で働いて、それから渋谷にながれて、そして、私の皮膚に口紅をぬって遊ぶようになった。何度も堕したから、もうボロボロのはずなのに、相変わらず妊娠を繰り返すのだと言った。生命力。強靭なそれ。
壊れないんだよ。言った。しつこいくらいに。下腹部をなぜて。
死のうにも、なかなか死に切れないもの。
途方もない時間と労力をかけなければ、死に絶えてはくれないもの。
死んで仕舞ったように、理沙は身を横たえたのだった。仰向けに。遊びつかれ、はしゃぎ飽きて仕舞った後で。口紅を、落としさえせずに。
彼女の傍らにひじをついて、私の肌と並べると、それは、白と黒の鮮やかな対比をつくっていたはずだった。自分の視界がかろうじて捕らえた、自分の腕の白さが、そして、彼女の腹部に這わされる指先の、その、白さがピンクの線に穢された褐色のうえに、私は見惚れてやる。
あるいは、見惚れるほどに綺麗だった。事実として。荒稼ぎをして、ほとんど使い切りもできないままに、ほかにしようがないから口座の中に溜まっていくしかない金銭の束。
時間を気にし始めるにはまだ早かった。
午後3時半過ぎ。
もうすぐ、今日も陽が暮れて行って、*******店に行く。くだらないスタッフに愛想を言われて、数をこなしていく。潤んだ目で、不意に、「…わたしみたいなの、穢ないって想うよね。」そう言ったら、「ガイジンだし…」男は食いついてくる、と言った。
その一面において本気の甘い言葉がかけられて、そして理沙は男の頬に口付ける。ためらいがちに、臆病で、想いきれないままに。何も誓いはしない、誓いの口付けのようなもの。
活けられた花。
想いあぐねたように、重なったままの私の体を払いのけて、立ち上がって、そのままバルコニーに出たとき、その素肌を、その春にまだ若干遠いはずの冴えた、冴えきった上空の大気は、風になって触れて行ったはずだった。
バケツ一杯に張られた水の中になげこまれた花々を、手に触れるものを気まぐれに抜取ったにすぎないようにして選んで、振り向いた理沙は、窓ガラスの向こう、私に微笑をくれた。
ここにいます
誰も見ているものなど
わたしは
いない。
そこに、裸の、体中に口紅を塗りたくった頭のおかしな女が、綺麗に、美しい花を持ってたたずんでいたとしても。それを見留め獲る眼差しなどは。その、光に貪欲すぎる肌をじかに容赦もなく、音さえ立てない暮れ始めの執拗な日の光がしずかに灼いていっているのだとしても。
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