小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ…世界の果ての恋愛小説③
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
私は、裏面の二つめのリビング・スペースのシャッターを開いた。掻き毟るような音を立てて、そして一気に光が、朝の、その、流れ込んでくるそれに瞬いて仕舞いそうになるものの、切り開かれた視野の向こうには誰もいないなにかの廟が、細い道路の向こうに誰も訪れるひとさえもなくて、ただ、静まり返っているほかない。
外から見たときの、この部屋の開口のつくりがたまたまそうなっているのかも知れない。時々バイクが目の前、むき出しに曝されたほんの十数メートル先を通っていくのだが、結局は誰もこっちを振り向きはしない。バナナの突き刺さるような葉の群れのそこに、そんな家屋が存在していることなど認識されていないかのように。
だから、わたしたちは、そこで、もはや好き勝手に振舞うことも自由だった。たとえば、そこで反道徳的で、いかがわしくて、若干、あるいはあからさまにエロティックな映画じみて、愛し合ってみたとしても。
近所の人間が、折悪しくシンチャオと、顔を覗かせればお互いにバツの悪そうな顔を晒して仕舞えばいいだけに違いない。
後から、フエが声を立てて私を非難する。
何を遣ってるの?
Are you
振り向いて、そして
Crazy ?
…ねぇ、あなたは、何を?
...Anh à
私は声を立てて笑う。フエ、その、取り憑かれたような必死の非難を曝してみせる、その、顔の、フエ。
いまさらに
褐色の肌が、そこまでは届かない日差しの切れた薄い影の中に、しずかに浮かび上がって曝された。自分だって、と、
あの古臭いゴーギャンの
私は想うのだった。まだ、なにも着ないでのこのこと、這い出して来たに過ぎないくせに。
色彩を曝すしかない熱帯の
…退廃?あるいは。
人間はすでに
たぶん、そして、恥ずかしげをもって体のどこかを隠そうとするわけでもなくて、そのまま立ってるに過ぎないフエを手招きして、
「なにしてるの?」
退廃していたのだろうか?
笑う。
Anh làm gì ?
眉間をしかめる。
あなたは、
しかめる。
Anh à...
フエは
なにを?
眉間を。
たやすくも、手招きされるままに近づいてくるフエを、そのまま抱きしめてやった。口付け、…ねぇ、と。
その光の中で?
「…ねぇ」と腕の中で、腕ごと震わせながらビール缶をつかんで。そして私を見上げる眼差しを、ただ、半開きの唇のままに、(そして)言葉を(それをさえ)一瞬(細かく震わせながら。)飲み込んでしまって、理沙。
まばたきもせずに
なに?と私が彼女に言葉をかけてやる前に、もはや理沙は自分が何を言おうとしているのか、忘れて仕舞っていたに違いなかった。
なに?
理沙は、ただ微笑しかなかった。
どうしたの?
そのとき、水流はもう留めていたし、一度洗い流した水の、その水滴のだらしない集合、つまりは乱雑なだけの皮膚のうえの散乱が、お互いの重ねあった皮膚に、水滴のふるえ。
…細かな。
結局はそれが、どっちがどっちのものであるかの意味性をさえ感知せずに、そんな事は無視してさえ、ただ、高いところにあけられた換気窓から差し込む斜めの光に照っていた。眼差しの中の、そして、寒くもない彼女の体の震えが、…それら。細かな振動をあたえて、…あ、と、その予知の隙もなく彼女のひざの頂点に震えていた水滴は、いくつかのそれらをも巻き込んで仕舞いながらも流れ落ちていき、やがては接した私の胸の皮膚にも触れ、水溜まりを作った水滴。…ねぇ、と。
…ねぇ
そう訴える眼差しを見る。フエ、の、その。
外は、晴れ
もっと。キスは熱くて、飢えていて、渇望していて、もっと、悩ましいほどに、飽き足らなくて、さらに、ただ、空しくて、そのうえ、でも、重ねあわさなければ気がすまない、そういうものでしょう?
…ねぇ、と。
…ねぇ
唇を、そしてもう一度かさねて、私は、その私の指先がフエの背中に這うに、任せる。そのまま。
…飢えてるの?
眼差し、まだ、目を、そしてやがては閉じてしまうには違いなくとも、いまだに閉じてやりさえしないその、
…渇望してるの?
フエの眼差しを、光。
…欲しい?
その黒、と呼ばれるべき色彩と
…欲しくて仕方ない?
茶色、その色彩の狭間にゆれるしかない
…泣き伏したいほどに?
色づいた無機質なグラデーションが、フエの、そして、私が
…あんなにした******
見てもいない私の黒目にも存在していることなど。
…その朝にまで?
知っている。私は、
…欲しくもないのに、
見た。フエの、その、
…でも、求めるの。
きらめきの存在。
…なぜ?
細かな、
…どうして、そんなに
点在。それら、
…渇望することしか出来なかったのだろう?
反射した光の粒は、留まることなくかたちを崩して雪崩れ、崩壊し、発生して、きらびやかでさえもなくて、しかも、執拗なほどに、ただ
愛し合うしかない私たちは
…もはやつつましやかさも
きらめいて。
ただ獣じみて?
…はじらいさえもなく
瞬く。
…なにが
フエが、そして。
欲しいの?
その瞬間に、私は彼女の頭を撫ぜてやる。愛し合う、重なり合った身体は、
…私は
結局はそのまま愛し合うしかなく出来ている。…ねぇ、と、その。
ねぇ、という、終には、理沙が現実的にはたてもしなかったその音声が、耳の、浅い近くで聞こえた気がした。
私の指先が、私がそれを意志するよりも前に彼女のかみの毛を撫ぜようとするのに、私は自分の意志を確認した。彼女のぬれた髪の毛の触感が、指先に、確かにある。
何度も、吐いたものだった。
体の中の何か、暗くて、重くて、穢らしいものを吐き出さなければ気がすまないかのように、切実で、すこしだけ飽き果てたような眼差しとともに。
見えていますか?
私に振り向いて、そのたびに、その眼差しの意味を確認させようとする。
わたしが
…ね?と。私は空のバスタブの中に、そのまま身を横たえたままに、彼女に眼差しをくれて、理沙は21歳だったはずだった。あるいは、20歳だったのか、22歳だったのか。出会ったとき、私の年齢を聴くと、二つ上だ、と、まるでそれが驚くべき発見であるかのように、そう言ったのだった。
それは、18歳のときに、だった。東京に出てきて、すぐに。浪人して大学に入ったのだという、予備校二年生上がりの年上の友人に連れられていったクラブの中で、その薄暗く、かつ、まばゆい店内の中でも、空気をただ振動させるしかない轟音のなかに、際立って見えるほどに、美しかった。あるいは、綺麗だった。
綺麗、と。
身を屈めてトイレの丸のなかに顔を突っ込んでいた理沙は、やがて、汗ばんだ顔を持ち上げる。
綺麗、と、その言葉に、ある種の鋭い質感があるとするならば、突き刺すような、その。そして。
理沙。便器に片ひじを突いて、息遣って、荒く、そのかみの毛、乱れ、ぬれたままのそれに、光が差す。
フロアに入って、その体を揺らす人体の断片の無数のごちゃごちゃの集合のなかに、光に照らされたわけでもなくて、その震える空気の振動の中に彼女の後姿の小柄さを見留めた瞬間には、私は、はっきりと感じていた。…結局は。
見る。その、乱れた、聞く、息遣われる、彼女の。理沙は身をまげて、唾を吐き、目を剥いてうずいた瞬間に、むき出しの乳房が震えて便器にこすれる。
結局は、彼女と私は愛し合って仕舞うに違いないと。意味もなく。そして、振り向かせた彼女はたぶん美しく、私を彼女は愛するに違いないのだった。…悲鳴さえない。
なにも。
鮮明な苦しみ。…痛み?眼差しに感じられているもの。喉の、灼けつくような、助けてよ、と。彼女はそう言っていたかもしれなかった。そこに。…ねぇ。
お願いだから。
秀雄という名前だったはずの、もはやその苗字など私にさえ忘れられて仕舞った友人に引かれて、フロアの前のほうへ、むしろ通り抜けるために彼女の身体の至近距離に接近して、私は。
そこにそんな風に、時間を持て余してばかりいないで、その、と、そして、あるいは、いずれにしても彼女は、次の瞬間に、指を突っ込んで、背中。
へし折れそうなほどに丸まって。
彼女の揺らしたひじが、私の腹部を打った。回転する証明の逆光が差す。打った瞬間には、感じたはずだった。彼女のひじは、その。
吐く。丸められた、その背中はまだ水滴を這わせたままだったし、
私のやわらかい腹部の息遣い。
そして、彼女の発汗が、さらに皮膚に密集する水滴の群れを油立たせては、震えさえ、そして、理沙の内側に発熱しているに違いないその。
力を入れられているわけではないそのままの。私の、萎えた腹筋に覆われたに過ぎない腹部の、か弱いほどの柔らかさと、不意に、意識さえないがままに押し返した腹筋の蘇生。感じる?
体温?
肉体。生き生きとして、壊れかけの、愛された、私に、ただ、愛され、そして、いつか彼女を救わなければならないと想いながらも、その手立てのなさに、結局はそれをただ見てるだけに過ぎない自分自身をも含めて、丸ごと許してしまったもの。
…何を。
感じた?
何を?…私を?理解する前に、…そして振り向いた、感じられきったもの。彼女の眼差しが不意に行方を失って彷徨って、…存在。やや見あげた眼差しは私を捉えた。
許す。私は許した。何の権限を持って?そう、するしか。そう。そう、して、そう、するしか、なかった、…から?
…見る。
手をこまねいて?
彼女を。
胃液。
聞く。
吐かれた、胃液が唾液の線を引く。便器に突っ込まれた顔が、そしてかみの毛がその縁の白に覆いかぶさって、へばりついて、そして、時には無造作に垂れ堕ちる。
音響、クラブの、そして、女は戸惑った眼差しをくれるが、美しい、と。
堕ちる。
想っただろうか?
堕ちる人。
彼女も。
堕ちる女、その、あるいは、天使。
理沙。…という、その。
ほら
すくなくとも私にとっては、その時に、どうしようもなくかけがえのなかった、それは、その。
見える?
彼女を、私は見つめ、彼女を綺麗だ、と、認識する前に私は理沙の腕を引っ張った。もはや、
君が愛さなければならないもの
悲鳴さえも上げようとしない。ただ、息遣うばかりで。
君は
まだ、たぶん、軽度の《合法ドラッグ》の経験しか持って居なかったはずの。
私を
彼女は。
愛するほかなかった
彼女の。…その、戸惑うばかりのおびえた眼差しは、結局はすでに彼女が私を許していることを証明していた。
私は君の愛を許す
友人にはぐれるがままに任せて、無理やり理沙を引っ張って後ろに引き下がっていくのを、たぶんそこにいたはずの彼女の男は見逃して仕舞う。理沙が、声さえ立てなかったから。男が、いくつかの頭の揺らぎの向こうで体を、そしてその頭部を揺らして、ふとした瞬間に、彼女の不在に気付いて首をぐるぐる回すのには気付いていた。眼差しの、端のほう、思い出せば、視界の中に確認されていたに他ならないもの。
そのときには見逃されて仕舞った、その。
つぶやく。
理沙がなにかつぶやいて、私の腕を解こうとしたので、私はそのまま彼女を抱きしめて、口付けた。無理やり、そして、すでに彼女によって許されているに違いなかったのは、それ。不意の口付け。暴力的な。一瞬の、反射反応のような激しい拒絶と、とりあえずの拒否と、やがては唇の葛藤らしき停滞の次に、容赦なく差し込まれ始める理沙の舌を、ときに歯と歯を触れ合わせながら私は許した。
お互いの体内に、侵入させることを。お互いの、そして、お互いに侵入させあい、感じ取られていたもの。
何を?
愛を?
むしろ
そうとでも呼ばなければならず、絶望的で、無慈悲なまでにそれ以外にはそう呼びようがなく、ときには逡巡し、いつもの、変わり映えのない執拗な葛藤にさえあいながらも、結局は再びそう呼ばれて仕舞うに違いないもの。
悲しみ
…愛。
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