小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ…世界の果ての恋愛小説②
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
あの、空間の一番上で微笑んでいた彼女のその身体は、そのとき、立ち囲んでざわめく人々のつま先の狭間に、数十メートルの眼差しの先で、しずかに動きもなく、曝されていたのはその褐色に灼かれた肌に過ぎない。
至近距離に彼女の死体を取り巻いて、人々は見たのだろうか?右足の先から始まって、太ももを這ったあと、腹部に一度とぐろを捲いて左の乳房を横断して、そして終にはその背中の肩越しに振り向いて牙を剥いた、花を体中に巻きつかせた龍のタトゥーを。
けばけばしい、極彩色の、そして、その、肌の褐色に自然にくすんで仕舞った、その。
人々は、そして、私は彼らの声を聞くしかなかった。嬌声のような、甲高い、興奮した、どこか狂って感じられるそれらの音響。どこかで冷静を確保している、密かに冷淡なそれ。彼らはみんな、おびえていた。
見えたのは散乱
恐怖し、ささやくように怒号を上げて、悲鳴?…の、ようなその、それら。連なる声の、なぜ?
たとえば色彩の無際限の
なぜ、彼らはおびえるのだろう?もはや破壊されて、死んで仕舞って、生き物として留保もなく破綻して仕舞っているにすぎないその、単なる残骸を取り囲んで。
殺意を持って、ささやきあうな
それは、おびえさせ獲るなんらの力も…その生命さえも、いまや持っては居ないはずだった。
ときにつぶやかれた無意味な
音声と時間とお互いの存在そのものを持て余し
重ねるしかなかったのは唇と
肌と心とは
呼び獲ないその冴えた意識の鮮度だけ
私は立ち尽くしていた。
彼女は、と、想う?どこへ行った?あの。
あの、理沙は?
どの?
無際限の色彩の散乱に過ぎなかったたとえば愛と
呼ばれた私たちの時間
思考。
考え。そして感情。
聴こえた?
さざ浪のように、それらはかすかにささやかれつづけて波紋をさえ広げながら反響しあい、重なり合ったその挙句の、どうしようもない大音響を。
聴いた?
私は大音響に包まれていた。怒号のような、その。叫び声と、怒号。図書館で借りて、呼んだことがある。…フォークナー。
響きと
沈黙に等しい。
怒り
私は知っていた。その時に、私は単に沈黙していたに過ぎず、何も聴いてなどいなかった。なにも、私をつつんではいなかったのだった。
葛藤も、逡巡もなかった。
そうするより他なくて、私は単に背を向けて、道元坂を降りた。「飛び降り?」その男声と摺れ違った。
「…まじ?」歩く。
…やばっ
まじかよ
彼らと、逆の方向に。
若干うざくね?
駅のほう。
理沙は死んだかもしれない。
確実に
とは言え、私は生きているのだった。その留保ない事実を、私は頭の中に咀嚼しながら、そこからなんらかの結論じみたものを引き出そうとさえするのだが、
何の留保なく
いずれにしても、駅を通り過ぎて、その、駅前の。
私が愛していたのは彼女だった
青山から宮益坂でくだって、そして公園通りと道玄坂に上がっていくその盆地の、一番下の底までたどり着けば、理沙のあの事件の、起きたばかりのあの墜落の、その名残さえも残っては居ない。なにも。
綺麗に。もはや、完全に。
なにもなかった。何も知られてはいない。
それは事実に過ぎない。
…何の?
宮下公園の階段を上がって、一番年季の入っている、つまりは私だって顔くらいは知ってるホームレスに、そのままコンビニの袋を遣った。
その男は
地べたに座り込んで、ひなたの日差しをもろに浴びているホームレスは、私を見上げて微笑みもしないままに、
私の顔など記憶してさえいなかったに違いない
何か言った。わたしにはそれは聞き取れなかった。方言なのか、その知能に深刻な問題を発生させているのか、日本語であるに違いないこと以外、私は理解できなかった。
想いなおして、私はビールを一缶だけ引き出したが、それを詰る男に、私は笑い声をくれるしかなかった。たぶん、もはやその、一ダース近いビールのロング缶を詰め込んだそれは、彼自身の私有財産になっているに違いなかった。
男の、明らかにボロボロの、破れかぶれの、異臭を放つ衣類に、そして、日に焼けたのか、あるいは穢れているだけなのか、その黒ずんだ肌に、そして、日差しはそそぐ。やわらかく。
朝の。やさしく。
無際限の癒しを与えたように。
夏の、とは言え、まだ、光は強烈な力を持ち獲ない。ふれて、やさしく、灼きもしないままに肌に浸透していくしかないかのような、完璧に無音の、その。
午前9時。
私はブランコに座り込んで、ビールを開けた。
理沙は私がビールをあけて遣らなければ、それをあけることさえ出来なかった。白ずんで青く、あざやかで清楚な、派手めの短いネイルのせいばかりではなかった。単に指が、そして腕そのものが震えて、あけるまでには大量にこぼして仕舞うのだった。踊るように、細かい超人的なステップを刻むような、力まれた腕の。
指先の。
爪の。
私たちは、殆どの時間を、彼女の部屋の、浴室で過ごした。
築の古いマンションのその、建築当時そのままの名残を留めた、タイル張りの、それはそして、むき出しのバスタブを据えて見せた、バランスを欠いてちいさなバスタブの中の奇妙な狭さ。ぶち込まれた洗濯物かボロ布かのように身を丸めて抱き合いながら。
裸の皮膚に、こぼれ続けるビールがかかって、濡らし、やがては匂いを立てる。甘やいで腐ったような、そして、それが鼻に面倒くさくなったら、ノズルを捩ればよかった。あたまから降って注ぐ冷たい水流が、すべてを流して仕舞うに違いないのだった。いつも。いつものように。
水流の中で、口をおおげさにぱくつかせながら、目を閉じて、ビールを口に運ぶ理沙を見る。
破壊されたもの。
廃棄されたもの。
くず。
ごみ。
こわれもの。
**。
どうしようもないもの。
**以下の。
完璧に資格のないもの。
***資格の。
**資格さえも。
壊れるしかないもの。
それ以外には、いかなる帰結も獲ることの出来ないもの。
生き生きとした、まさに、この目の前で生きていてる、なまなましい、その、生き生きとして、まさに、その目の前で生きていたものだったところの、留保もなく生々しかった、その。
…それら、その、記憶。
救われたの?
私は不意に想った。理沙は。あるいは?
すくなくとも、もはやこれ以上破壊されない以上は。
…色彩
私はビールにもう一度口をつけたとき、泣きそうになった。
そして、諦めた。泣くことを。
禁じた、のでは、確実に、なかった。ただ、あのとき、私はたぶん諦めただけに過ぎない。…涙が、すでに、こぼれそうだったのに。
足元の低空を飛び散った脳漿の
いずれにせよ、自分の悲惨な死の惨状を見せ付けてもなお、泣きもしなかった私を、笑うのだろうか、彼女は。…あるいは。
*
* *
午前9時。
声を立てて笑いながら、それでもフエを半ば跳ね除けるようにさえして身を起こし、部屋をでて、声。
「どうしましたか?」
...Làm gì ?
背後の。それは、単純に暑苦しくなってきたからだが、そのときに、私がまだ素っ裸のままだったことに気付くものの、どうでもいいことだった。フエが父親を殺して仕舞ってから、どうせ、私たちのほかに誰もいないのだった。フエの弟、その Thanh タン という名の長身の男は、どこかの女の家と、親戚の、殺された父親のいとこに当る Anh アン のうちを行ったり来たりしていた。
アンのうちでは、その子供たちの世代としては、タンが一番の年上だったから、彼としてもわけのわからない日本人とかならずしも仲がよいわけでもない姉の夫と同居するよりは、そっちのほうが気兼ねもなくて、そして、自分の自由に振舞獲るには違いなかった。
私は、裏面の二つめのリビング・スペースのシャッターを開いた。掻き毟るような音を立てて、そして一気に光が、朝の、その、流れ込んでくるそれに瞬いて仕舞いそうになるものの、切り開かれた視野の向こうには誰もいないなにかの廟が、細い道路の向こうに誰も訪れるひとさえもなくて、ただ、静まり返っているほかない。
外から見たときの、この部屋の開口のつくりがたまたまそうなっているのかも知れない。時々バイクが目の前、むき出しに曝されたほんの十数メートル先を通っていくのだが、結局は誰もこっちを振り向きはしない。バナナの突き刺さるような葉の群れのそこに、そんな家屋が存在していることなど認識されていないかのように。
だから、わたしたちは、そこで、もはや好き勝手に振舞うことも自由だった。たとえば、そこで反道徳的で、いかがわしくて、若干、あるいはあからさまにエロティックな映画じみて、愛し合ってみたとしても。
近所の人間が、折悪しくシンチャオと、顔を覗かせればお互いにバツの悪そうな顔を晒して仕舞えばいいだけに違いない。
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