小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ…世界の果ての恋愛小説④
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、
モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ
Prelude
in A mainor, 1913,
Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
やがては唇の葛藤らしき停滞の次に、容赦なく差し込まれ始める理沙の舌を、ときに歯と歯を触れ合わせながら私は許した。
お互いの体内に、侵入させることを。お互いの、そして、お互いに侵入させあい、感じ取られていたもの。
何を?
愛を?
むしろ
そうとでも呼ばなければならず、絶望的で、無慈悲なまでにそれ以外にはそう呼びようがなく、ときには逡巡し、いつもの、変わり映えのない執拗な葛藤にさえあいながらも、結局は再びそう呼ばれて仕舞うに違いないもの。
悲しみ
…愛。
身を引き裂くような
す、…る。
て。…し、て。
し、た、…愛。
す、
れ、えー、…ば。
した、ら、
す、…るうー、と。
せ、る。
せ、…た。…ら、…せ、たあー、…ら。
し、よう。
愛。
し、よう…
…と、する。す、…れ、えー…、ば。
せ。
…せ。
せよ、し、な、さい。て。
…よ。
て。…し、て、…ください。す、
…る、うー、…な。
な。
せ。
せよ。せ。
て。し、て、
いる?
る?
る。
いる。
よ。る、よ。と、愛して
…る、よ、と。
空間に
そんなもはや唾棄すべき言葉など、吐かれるすべさえなかった。
散乱さするしかない
吐かれる、その。
悲しみ
嘔吐する。汗に塗れて。理沙は力尽きたように、やがて前のめりに、便器にそのまま頭を突っ込んでふらつきながら両足は立ち上がってみようとしたが、ようとするばかりのそれはいよいよ彼女の体のラインをひん曲げるばかりで、汗は伝う。
伝って堕ちる。その、鈍い色彩を曝す、極彩色であるべきその、タトゥー、彼女の肌の色に染まって仕舞ったそれ。
…龍。
...long
一瞬震え、急速に、そして耐えられずに流れる。
堕ちる。
そして、流した。彼女はコックをひねって、あるいは、吐き出されたままのビールと胃液の中に突っ込まれて仕舞った自分の顔ごと、洗い流そうとしたのだろうか?
あるいは。
きっと。
たぶん。
…かも。
水を流して、直接鼻を、そして口を穢して洗い流すその水流の激しさに咳き込んで、いきなりのけぞった身体は、勢いそのままに背後の壁に、その後頭部を打ちつけて仕舞うのだった。
脳細胞の細かないくつかが破壊された音がした気さえした。
彼女の内部で
荒れた呼吸。
乱れ、そして、みだれる。
行われるのは
綺麗な曲線。
喉の華奢な逆カーブのかすかな流線が、肩に当ってその突き出した鎖骨にだけ名残をのこして一気の広がりを経験する。
闘争に似た、不確かな葛藤
丸みを帯びた肩越しは糸をたらしたようなか細い二の腕から下に、そのまま垂れ下がっていく。
震える。荒く、震える腹部が、息遣って、あららいで、揺らす。おおげさに上下する乳房のいかにもおおままかなふくらみの上の、その浮き出した肋骨のラインが、皮膚を食い破って仕舞いそうな痛々しさで、苦痛に震えながら、震える。
痛みを伴う視覚上の対比として。
激しい上下に、わなないて。
水が、そして油汗が濡らした水滴だらけの身体が、彼女が立てたひざを互いに打ち鳴らして、それに何の意味があったのだろう?
骨をさえ砕いて仕舞うことをもくろんだに違いない、そして。
**していく、彼女のそのあたりの床が、その水分を水平に広げていく。壊れたもの。
壊れていくもの。
壊れているもの。
壊れるもの。
どれなのだろう?もしも、そのすべてではないのだとしたら?
理沙の活けた花に、至近距離まで、その触れて仕舞う寸前にまで鼻を寄せて、匂い。その、それら。それらの束なった、潤って、潤んだ臭気に似た芳香をかいで見たとき、背後で理沙は笑ったものだった。
生け花は母親の趣味だった、と言った。
フィリピン人の、その。
理沙の乱れた息はなかなか止まない。呼吸器自体が、壊れて、破綻して仕舞ったような、その、荒れた、暴力的に、その肉体そのもを内側からへし折ってしまいそうなそれを、見るでもなく私は見て、不意に。
見た?
不意に、そして私は涙を流したのだった。
咲いていた花
悲しいわけでもなくて。むしろ、泣きじゃくりさえしながら、私は彼女をただ見やって、バスタブの中で身を丸め、あの、逆光の中で。
色彩のない空間への裏切りと鮮明な
破壊行為そのものとしての
窓越しの逆光の中で。理沙をクラブから連れ出したときに、あの、十分近いキスの後で。
気付いた?
開いたままの目が、理沙の男が私たちを認めたのには気付いていた。男は、小柄な私がまっすぐに立ったら、見あげなければならないその男は、
いつか立てたその花の
私をひきはなそうとしたが、理沙が
微香に
目を閉じたままなのには気づいていた。何を見ていたのだろうか?その、閉じられたくらい眼差しの中で。
男は二度三度試みた後で、聞こえよがしの舌打ちだけを残して立ち去って仕舞うのだったが、その、長すぎた口付けのあとで、私にとっては、結局は、目を開けたままのそれは、接近した彼女の閉じられたまぶたのこまかな震えを捉えたにすぎず、そのまま理沙に連れ出されたクラブの外で、…こっち。
そう言ったのは彼女だった。飢えた眼差しをくれた理沙。
何に?
キスの後、一瞬だけ目を伏せた後で、クラブの外に私を外に連れ出そうとしたのも、そしてそれを請けがった私が彼女を無理やり羽交い絞めにしたようにして、彼女を
抱擁に
連れ出すのを許したのも、そして、こっち、という若干低めのアルトを耳に確認しきらない内には、その理沙は私の手を引くのだった。
確認しあうことに
円山町の坂を上がって、道玄坂の上に。連れ込まれた彼女の部屋の中で、私は彼女に衣服を剥ぎ取られるに任せるのだし、いずれにしても、そうなる以外に、
なにを?…すでに
選択の余地などあってはならなかった。私たちは、破壊的で、壊滅的なまでに愛し合わなければならなかった。例えば、すでに私たちが愛し合っていることを、もはや
確認されて仕舞ったにすぎないものを
なすすべもなく追認してやらんがために、ただそれだけに、その、気の抜けた、すでに飽き果てられた、どうしようもない、くだらない、子供を生産する以外には何の役にもたたない、何の意味さえもない、そして、愛し合う。
愛し合う私たちは愛し合って、やがては朝。
その、逆光の光に。
眠っては居なかった。まだ、私は目を閉じていた。朝であることには気付いた。体が、そしてまぶたは、そこに朝が存在していることを感じてはいた。カーテンさえ閉じられてはいなかった窓から、野放図に侵入するしかない光の、その、正確な時間などわかりもしないままに。
髪の毛の先で、私の鼻をくすぐって、からだの上にのっかった理沙は声を立てて笑うが、そして目を開けた私は、聴く、その、耳元に彼女の低い、鼻にかかった笑い声。
見ていた。覆いかぶさった彼女の、逆光の中のくらい、微笑んだ顔の、そして、あざやかに匂っていたことに気付く。彼女の体臭が、その、鼻先に、あるいは胸に、おおいかぶせられたかみの毛の、かたくななまでの芳香とともに。「…お母さん。」
おかーさん、と、その音だけを耳繰り返して、背後に立てられた笑い声の尽きた先に、発されたその声。活けられたばかりの花が匂う。聞いた。理沙の声を、耳の中を指の腹でしっかりと撫で付けるようなアルトの、絹の音色。
まま、と、不意に繰り返して、振り向き見た私を見ようともせずに、おかーさま、その、ママ。無為にすぐされているに過ぎない活けられた花の形態にだけ注がれた眼差しは、りー、ざ。何を捉えていたのだろう?
その時には。
だれ?
りー、ざ。
おかあさん?
りーざ、さん。「りー、」と、
りー、
「…ざ」繰り返した私の「りー、…」
「…ざ。」唇の動きを、理沙は諦めたような眼差しに、見つめていた。理沙、という彼女の名前の必然性が、なんとなくわかったような気がした。
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