ユキマヒチル、燦濫 ...for Arkhip Ivanovich Kuindzhi // ほ。舞い散る。…ほ/ほ、ほ、ほ、ほ、/ほ。舞い散る。…ほ/ほ、ほ、ほ、ほ、//散文と詩;36
以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
また、たとえ作品を構成する文章として暴力的・破壊的な表現があったとしても、そのような行為を容認ましてや称揚する意図など一切ないことを、ここにお断りしておきます。またもしそうした一部表現によってわずかにでも傷つけてしまったなら、お詫び申し下げる以外にありません。ただ、ここで試みるのはあくまでもそうした行為、事象のあり得べき可能性自体を破壊しようとするものです。
たかあき、と。声。男の。だから高明は立ち止まり、その自由が丘。駅前をやや北に入ったあたり。振り向いたそこにはその、いつものまばらと謂うべき人と、人々と、その日々と。基本、無害な無関係をだけすれ違わせかけた散漫。…だれ?と。思いながらも既視感が、と、もう深刻な惑いはなかった。眼はすでにまなざしの向こうのほうに壬生正則をさがしていた。「久しぶりだね。」そうささやかれた声が意外な至近、すこし右ななめの脇から響いて、見ればカフェらしい店を背景に、正則が歩み寄っていた。その、1月の終わり。2005年の。そして正則は声を立てて「お前、」笑った。「見違えた」
「おれ?」…なんだ?と。「そのお絵描き。…薔薇?」思い出す。高明は、いまじぶんがもう全身をタトゥーに染めあげていたことを。よく普通に接していられるものだと高明はそこ、正則の根本的な冷淡を見た。意外に、正則は町で目立たなかった。桜木町で見たときのいびつと、ここでの自然と、高明はふと理由を詮索しないでもない。会話がうまくない正則のために、「元気だった?」とりえずそう言葉を差し出してやると、…ん、と。「ね?」
「お前は、」正則「いま、どこにいるの?どうせまだ家出したままなんだろ?」
「って、ことでもない。渋谷で、いま、友達と」
「友達?」
「駄目?」
「べつに、」
「そこは?」と。ささやいて、高明。ただ無意味にやさしい笑みを送っている彼を、正則はなぜかやや茫然として見た。正気付き、「なに?」その「なにが、そこ?」じぶんのことばをさえ信じきれないふうの、…散った。だから、自信なさげな脆弱の気配が、散った。笑った。高明は。それはあざけりのようにしか聞こえなかったに違いなかった。なにもなかった。そんな気は。まして悪意は。むしろ「…おじさんって、」親しみ。留保なく、「なんか、」親しさ。笑う。ふたたび、高明。「…ん?」
「うしろのカフェ。話すでしょ。どうせおれら、たぶん。…ね、そんな感じじゃん?いま。どっか、…そこ。入ろうよ」正則は「いいよね?」抗わなかった。カフェは大型車のタイヤを加工してテーブルにしていた。アイボリーの、無謀に広くそのくせ瀟洒なソファの清潔が、それなりに対比の中であやうく調和した。おしゃれと感じろ、と。耳打ちするような程度の押しつけがましさがあって、それが、あるいは好みをわけるかもしれない。壁。基本白に、深いオレンジの暖色系のワンポイントが、突き出す構造体の武骨を綺麗に飾って、無難な品の良さを見せた。店内は基本、閑散としている。とはいえ鉢植え等の配置のおかげか、ちょうどいい込み方をしているようにだけ見える。入り口近く、あかる席に座ろうとした高明は、ふと、
てぃたた
た、てぃ
耳。思い出せない。
たたた、てぃ
た、た
なに?この
てぃたた
た、てぃ
音楽、…と、
たたた、たてぃ
てぃ、た
ピアノ。独奏。ただゆらぐだけで行き場所も、落ち着き場所も提示しない彷徨。…って、と。「なんだっけ?」振り向きざま、正則に「これ、…」笑いかけた。正彦は、その笑みのあまりにもの邪気のない快活と、和解しようのないその顔のタトゥーの、謂って仕舞えばけばけばしい攻撃性が、あるいは、ここちよくにも見えた。「これって、」まばたく。「なに?」遅れて正則は、上質な笑みを高明に「これ、」くれた「…この曲って、さ」
「曲?…BGM?」
「知らない?これ、…詳しくなかった?音楽、こういう、…」
「ヒーリング系?」
「クラシックだよ。たぶん、…小難しい顔して聞く系…ラヴェル、じゃ、なくて」と、壁際のほうのソファに身を投げ出すとともに、「元気?」思い出したかに云った高明を正則は笑った。「なに?」
「って、お前、」…いま、「何で笑った?」いま、なにが「さっき、お前、」可笑しい?「そういう話し、したばっかじゃなかったか?」…ちがうよ、と。高明も「それ、」笑い返す。「違くて、…云ってなかった?前、宮島に行ったとかどうとか、じゃん?そっちのほう、」
「元気だよ。」正則が「基本…」ふかい眼をしてじぶんをみつめたのに、高明は気づいた。と、「どう思う?」正則。…って、「なにが?」
「たとえば、じぶんが所属してた家族があって、そのかれらがいま、じぶんのいないところで充分元気にやってる、って、そういうの。…たとえば、お前、そういうの、どう?」
たたた、てぃ
た、た
「って、」
「どう感じる?」
てぃたた
た、てぃ
「どうって、」
「どんな、」
たたた、てぃ
た、た
「って、さ、別に」
「どんな感じ」と、「する?」言葉を切って、そして正則はすでに疑っていた。なぜ、いま自分はこの身の前のけばけばしい薔薇の少年を追い詰めるのだろう、と。「いいよ、…」嗜虐?「お前が、」自虐?「言えないなら、」失笑。むしろ、高明がひとり。「秋子さんも?」うなづく。正則は「みんな…」と、「高子さんも?」
「だからみんな元気だよ」そう云いかけ、正彦は気づく。この少年、…と、思えばこの外貌のうつくさだけはもてあましつづけていた少年は、その女のことをお母さんとは呼びもしなかった。いちども、かならずそうだった。いつでも、だからいつからだったのか。結局、彼にとって高子はなんだったのだろう?かならずしも憎悪も嫌悪も匂わさないまま、すでにたた軽蔑している。「なにかあった?」高明。「なにも。基本的に、…」
「だれか死んだとか?」
「生きてるよ。お母さんも」と。あえて、「あれから」正則。「普通に恢復して…」…云ったよね?「なに?」お前に、「子供が、ってやつ?」
「入水」正則は、言葉を切った。じぶんの投げた沈黙が、むしろ正則に違和感を「入水して、」与えた。「助けられて。べつに意識朦朧とか?譫妄状態とか半狂乱とか、そういうんじゃなかったらしい。いまじゃ、あれは事故あつかいに、」
「莫迦?」高明。その「みんな、」赤裸々な嘲笑。「事故でひとひとり朝の海に浮かんでたりするもんだって想えるの?」
「あいつらはあいつらでいま元気でやってて、でも、」と。そこまで云って正則は高明をいまさら「心配してる」思いやった。「お前を、だから、お前のこと…しっかりした子だから大丈夫だろうが、いま元気かなって。そういう、心配。べつに、おまえのこと見捨てたとかそういうのは、」
「それは、」
「ない」
「嘘だよ」高明はその日、いちばん甲高いわらい声をあげた。周囲に、返り見を送らせたほどに。「なんか、おじさん無理やり取り作っ、…ろう、と。してない?嘘云ってる?いま、ぜんぶ嘘?どうなの?結局、かれら、生きてる?」と、「死んでる?」高明はおもわず身を乗り出した。かならずしも、その挙動に見合う昂りがあったわけではない。じぶんの吐いた言葉にはめられた、と。そんな違和感を、高明。ひとり、不快に思う。と、さらに違和感。もうひとつ、匂い。鉢植え。その観葉植物が咲かせた花…なに?と。この木の「教えて。」名前は。「云って。おれに、」正則は「ほんとのこと。」焦燥のある高明の顔を「生きてるよ」見た。「嘘」
「元気。ぴんぴん、」
「まだ?」
「ふつうに」
「…そ」…さびいしいの?正則。彼はふと、そう思い、…なぜ?笑った。「なんだよ」と、あかるく笑い飛ばす正則に高明は顔を…え?あげた。「なに?」
「おまえ、さっきからあいつに死んでほしかったみたいないいかたするね」
「高子さん?」
「死ねばよかった?…そんなに親子関係が、思えないな。おまえが、あいつをたとえば憎んでる、」
「それは、」
「とは」
「だって、さ。それは、彼女、死にたかったわけでしょ。」
「だろうね。海にはいったんだから。夜。じぶんで、」
「だったら」
「なに?」
「死ねなかったら、おれだったらもう一度やっちゃうよね」
「入水?」
「じゃ、ないの。失敗繰り返すのは莫迦ですよ。違う?だから、変える。方法を、違うやりかたで、もっと」
「それは、さ。その」
「確実なの。…絶対」
「時々のこころの、」
「太陽が水星に落っこちても成功する方法。たとえば、飛び降りちゃう」見た、「とか?」と。いつ?高明は、大口を開けて落ちてくる女の絶望を、見た。…と。だから地上に立ちつくして。いつ?そんなはずは…だれ?なかった。しかし、あまりにも明確な印象だった。気温さえ想起された気が…ずいぶ、した。「ん。かわいい顔して、お前やったら残酷だな。」苦笑。「おまえも」正則。スプーンの音が、ななめうしろに立った。席はないはずだった。気になって返り見た。鉢植え。ゼラニウム。反響?「だってそうじゃん…て、」耳には「いうか」いま、その「あきらめたとか?」高明の声。じぶんがたてたみじかく簡素な…その、笑い声も。…諦めって、正則。思う。「なにを?」ささやく。「失敗だったってことに気づいたら、おれはすぐにやりなおすけどな。頃合い見て…」匂った。正則に、「ただ、その」高明のあの「おれが、本気で」体臭が。やや、「ほんとに死にたかったんなら、」ななめ下のほうから。「だけど。」
「事故だったんだよ、」
「そうしないとなんかもう、…わかる?」
「突発的な、」
「死にさえできない。つまりさ、生まれてきたこと自体失敗だった感じ、しない?自殺にさえ、じゃん?それ、そのみじめさ、おれ、容認できないよね。最低、せめて最低のつじつまあわせしようとすると、」と。「思う」と、覚えた。つづけてその2音を発話しかけた喉がふと、唐突な渇きを、覚えまだ?と。まだかな?思う。高明。コーヒー、ま。たんだよね?ま、さっき。ま「残酷」正則はつぶやく。そして、「か、ないし、」高明のひたいにふれた「残酷なふりをしてる。か、」ひかり。綺羅めきを、「ないし残酷でいたい」
「そうでもないよ。意外に、おれ、」
「責めてないよ」
「おれも。べつに高子さんを、」
「ただ、」
「論理的に、さ」
「…いや、わるいことしたなって」
「完全な失敗とか…不幸?」
「おもわなくもないかな。…ちょっと」
「認めたくない、自分」
「すこしくらい。だから」
「みたいな、って。ときどき」
「母親、自殺未遂して、それ」
「わかんなくなる。まわりの、」
「おれのせい?みたいな」
「だから、ほら、そこにいるひとたち、とか?」
「思い悩む、じゃないけど、」
「いま、幸せなの?」…おれ?と。その高明の問があまりに唐突だったので、正則おもわずゆびさきに、白い木製のテーブルのその表面を「…って、」なぜた。「あのひと。」正則は、「それは、」笑った。「その人の感性によるんじゃない?その判断は」と。給仕した、それでも20代なかばにはちがいないバイトの女に、愛想わらいを投げたあとその立ち去る後ろ姿をみていた。いかにも尻の重そうな歩き方をする。あるいは、ヒールそのものか踵かに、なにか問題がある気がする。股関節の、しかしとるにたらない程度の障害かも「たとえ、」知れない。「そこが地獄の底で、たとえ、いくつもの刃に、さ。刺しつらぬかれて、さ。たとえば炎に焼きつくされ眼球くりぬかれ舌ひきぬかれ、て。口からケツの孔まで棍棒ぶっ込まれたって、単純に超ドMだったら」高明は「しあわせなんじゃないって?」早口にそう云って、そして、息を吸い込むと、正則にあらためてやさしい眼を「そういう、」した。「こと、言いたいの?」
「しあわせだよ」正則。砂糖を「きれいさっぱり、」と、すべて黒い液体に「わすれちゃったかな。」流し込んだ。「だから、お前のこと。まるで、海に入って、さっぱりして、レ、リフ、レ、レフレッ。…シュ?生まれ変わって、きれいにすっかり忘れちゃったみたい、に、」
「…そう」相槌?正則。気のない、それとも…まばたき、歎き?落胆?と、正則。彼はその眼。見えた高明の姿にただ、歎きを「…みそ、」きざした。「ぎ?禊。…みたいな。」高明が、「…なにそれ?」笑った。正則は問う、…禊って、「なに?」まるで、と。高明。あなたはすべて仕込みと仕組みのうえにしか生きられないかのぎこちなさで、と。正則に、もう一度笑った。「なんかね。…」高明。「がっかりする時、あるんだよ」
「なに?」
「だって、」正則は「そうじゃん。だって、」じぶんの前髮にゆびさきで「あんな、」ふれ、…だから、ささやく「禊を?」
「…死」高明。見て、みやった正則の顔を見て、ふと、妙に稀薄な空疎を感じた。正則にといわけではなくて。それが鏡のじぶんだったら、じぶんにこそそれを見ていたに違いなかったから。まどごし。その曖昧なひかりが、かすかにのけぞりかけた正則の半分を、やや複雑に「だって、」ふれた。高明「謂っちゃえばすっさまじい情熱、と、いうか。熱情。熱狂。——発狂?たとえそれが発作的でもなんでも、狂気?一瞬の、…すくなくも思い詰め、思い詰め、思い詰めて思い詰めた、ね?こう、…ね。情念みたいな?そういうこころのもう最後のどんづまりの燃焼があったはずじゃない?」
「俺に対して?」
「死。だから、…に。対して、」…ねぇ、と。「じぶんの、」正則は、「…死。死ぬって、すっごい事だよ。…たぶん。だから、」おまえ今自分でいってること、すこしでも本気でそうで思ってるか?と、正則は高明の眼の前でそう「自分で」思っていた。「自分を殺しちゃうって、さ。そんな
おかしくない?
てぃたた
腕に。だ、
た、てぃ
自殺ってもの、
あの人が、おれを
たたた、てぃ
だれの?
た、た
すごく、すごく、すごっ、…思い詰めないと
愛してたって、
てぃたた
腕に。だ、
た、てぃ
ね?
そうなの?
たたた、てぃ
抱かれて。…た?
た、た
できはしないはずなのに、
だれが?
てぃたた
だれの?
た、てぃ
いまはもう
だれが云った?
たたた、てぃ
腕を。思っ
た、た
そんな過去さえどこにもないみたいに
愛の言葉など
てぃたた
思って、…た?
た、てぃ
きれいに、もう
いちども、
たたた、てぃ
だれの?
た、た
さっぱりと」
だれも、……いや、
てぃたた
ことだけを思っ
た、てぃ
と。もはや糾弾するかに聞こえた口調に高明は、じぶんでなにか陰湿な居心地のわるさに「お前は、」苛まれた。「勘違いしてる。なんか、お前。勘ちが、」
「なに?」
「みんな、」
「だれ?」
「ぜんぶ、なんか時々お前のせいになったりしてるけどな。ただ、あいつの自殺未遂はお前のせいじゃないんだよ。たぶん、」
「なんで?…なんでそう思うの?じゃ、」
「だって、」
「だれの?」
「だれも知らないどこかのだれかの」
「あなたの?」独り語散るように思わず高明がそう口走った時に、正則。そこに口を閉ざし、そして高明をいまさらに見た。目を細め、それでも見えにくくてしかたがないとでも謂うような、知っている。しかし、高明は、その正則がいま、高明になどなんの興味を抱いてはいないことを。と、ふいに正気付いて、活気づいた正則はついには声をあげて「なに、」笑った。「なにそれ?…な、」
「あなたが夜な夜な押したおしてたからじゃないの?たとえば、麻布台で、」…ちがう?微笑。高明の。ただ、冴えたやさしい、しかも感情を表現しないそれ。どんなときにでも、と。壬生正彦は思った。この少年は、仮にそれが憎悪にまみれた最期の呪詛の言葉だったとして、結局はなめらかな慈しみしと歎きしかないかのやさしい声でささやくにちがいない、と。いま、正則の耳にだにここちよい。蠱惑的でさえも、…でしょ?と、「図星でしょ?」高明。正則の知性をなくしたふいの失語に、もういちどしっかり微笑みなおした。まなざしが一瞬、口もとの硬直に縦に…なんで、ゆらいだ。「なんで、そんなふうに思うの?」
「事実でしょ?」
「云ったの、だれ?」
「高子さん」
「あいつ…」…おれも、と。高明。彼女を抱いたから、と、…ね?喉の奧にその…知ってるよね?言葉をは流し込んでおく。「違う?」
正則は、ふいに。まばたきもしなかった眼差しをそっと一度とじた。とはいえ、それはただの一瞬だったにすぎない。ふたたびひらいまなざしには、高明。感じら、その眼には。だからたしかに潤みが感じられ、あざやかに。と、泣きたい?思わず高明は、正則に手を差し伸べそうになる。ふいの、正則。さらした網膜。そのみずみずしさに、涙。には、いまだかろうじていたらないあやうい霑。の、充血。かすかなほそい赤が、もう白目いっぱいに散らばって、しかも黒眼はゆらぎもしない。高明に向けた眼が、通り過ぎてゆくそのままにあの女の裸身をでも見ているのか、と。ふと、高明は鼻でみじかく笑った。こぼした。涙を。いきなり、双渺は。ひとすじ。それだけだった。それ以上の昂りは正則にはなかった。鼻の奧に、あまやいだ温度の不穏が咬みついているに違いない、湿気を陰鬱に散らしながら、と。その感覚があまりに鮮明で、むしろ高明がじぶんの涙腺ちかくを指先で押す。…慥かに、と。正則。その、「そう、」唐突なつぶやきと、「慥かに」
「でしょ?」
「そのとおり。愛してた、…る、よ。あいつが愛したのは俺。俺が愛したのも」正則が「あいつ。」云い終わらないうちに、「…莫迦」高明は吹いた。その場違いを正則がいぶかるのに一瞬以上の遅れが必要だった。いま、ようやく高明は眼の前に、正則の懐疑を眼にしていた。笑いにゆらぐ視野のブレのあちこちに、…嘘だよ。高明。「嘘。ひっかかっちゃったね。高子さん、そんな、べつにそんな、あなたとのことなんかなんにも、おれにはすこしだって言ってない」
「じゃ、…」
「匂わせてもいな、…でたらめ。だから、おれがいま云ったの完璧なでたらめ。…なんか、いや。いままでそんな疑い感じたことなかった。けど、さっき、でも、おじさん、だからおじさん、意外にそんな感じだったりするかなって。…莫迦。なんか間がぬけてる。…いや、叔父さんだけじゃなくて。おれも。なにも、なんかぜんぶ馬鹿っぽい。でも、すっごい簡単にひっかっちゃったね?」正則。彼は高明の声が途切れて、枯れて行くのを待った。血の褪めてゆく感覚が皮下に冴えつつも、高明の声はかならずしも不快ではない。…ね。と。
「なにもない?」ささやく。そっと、…て、「なに?」みみうちするようにも。…ほかに、と、さ。高明。…云いたいこと、「言い訳?みたいな」高明の微笑が、急速にさらにだに稀薄になるのを正則は見かねた。「というか、」正則。いたたまれず、「さ。なんでそんなふうにおもったの?」
「だってさ」
「変だろ?なんでいきなり思いつく?秋子さん?彼女がほのめかした?雅秀さんとか、」…そ、と。か。高明。息をつき、「かれらもみんな、知ってたんだね」…あれ、あなたの子供でしょ?とは、高明はあえて「わかるよ。…」云わなかった。「なんで?」
「だって、正則さんの話、基本、正則さんがぜんぶ見知った話だよ。部外者のはずなのに。基本、あれはあなたと高子さんとの物語で、そもそもおれなんか脇役程度にさえ絡んでない、そんな…だからふたりの、ふたりだけの物語。と、すくなくとも正則さんはそう思ってるし、思いたがってるし、…って、ことは、つまり、そういうことだよ。」
「純粋だったよ。」つぶやいた。高明にかぶせ、正則は。「おれたちは、」と。まなざしは、しかも如何なる歎きも悔恨もさらさずに。…ね?「だれが何と云おうが。」
「同意なんかなかったんじゃない?」
「同意?」
「高子さん的には、」
「あいつは、」
「どうだったの?」
「うたがってる?」
「じゃなくて、…ほんとに、彼女も正則さんが?」
「想いあがってる」笑った。正則は。「自分が、…なに?ちょっと、人よりきれいな顔してることに。だれよりも、だれも見蕩れるくらいに、だれよりも、…だから誰でも彼でも自分を中心にまわってるとしか」聞いたな、と。「思ってない」高明は思った。だから、高子に涙ながらの告白をでも?…そうでも、高明。「ない。それは、ないよ。たとえ」
「いつでもだれでも」
「それが事実だったとしても、おれがそこまで嫌な奴だっていうのが事実だったとして、おれ的には」
「いつも、女も男も」
「だって、」
「たやすく自分に惚れちゃうもんだと、」
「関係ないよ。他人だよ。しょせん」
「…ね?お前は、」
「他人の感情。関係ない。だから時々うざったいんだ」
「愛されるために生まれてきた、って。愛され恋焦がれられるために。そう思ってるでしょ?」正則。ふと、息を…ま、ついた。「そうかもね。そうだったかもね。おれは、でも、ただ」座りなおす。「そこまで謂うほど不快な奴じゃないよ。」不意に壬生正彦は一度だけちいさく喉をならした。「だいじょぶ?」
「知ってる?」
「なに?」
「同意するとか、承諾するとか、誓うとか契るとか?そんな、そういう言葉にならない深いふれあいみたいなものがあるんだよ」吹き出して、高明は、「わかれとは謂わない。ただ、こころとこころが、無造作に、素っ裸で、だから裸形の魂が、」失笑。高明。「…あるんだよ。おまえに、…皮膚感覺レベルで、だからお前にはまだわからないことだって、」
「それ、でもそれ如何にも」
「なに?」
「あまたのおかしな強姦魔がまっさきに云い出しそう。」…いつから?高明に「いつから、ふたりは?」通り過ぎるひとびとの翳りが落ちてゆく。「おれたち?」うなづきもしない。そこに「だから、」高明は。「おまえの生まれるまえ…」と、集積。「存在の」光の。壬生は「かけらさえない頃、だから、いつからっていうか。…いつだろ?ものごころついたときにはもう、あたりまえだけど、あいつ、おれのとなりにいたからね。ずっと。…じゃない?だから。すくなくとも俺はこころとこころが、想いと想いが?…なんだろ?ほとんど謂っちゃえば素粒子レベルでかさなりあう、みたいな?そんなあいあまいで明確な時があるのを」…おれは、ほんとに「知ってたよ。」フィリピン人の子?高明はただ、沈黙をくれていた。と、「ロマンティックだね、それは。すくなくと云い方だけは。なんか…」
「あやういくらいすれすれに、こう、ふれあって、すれちがって、ふれあいかけて、」
「薬でも喰ってる?いま、」
「おれたち、」
「もはや」失笑。高明の「莫迦すぎてやばい」口もとのゆがみを、正則は「でも、」直視した。「もう距離感ゼロでふれあいつづけてた感じ。はじめてあいつに手を出したのは12歳の時だよ。あいつが、…はやすぎたかもしれない。ただ、おれたちのその現在進行形ではもう猶予がなかった。けど、耐えようとしたよ。たぶんどっちも。諦めようと、ただ、なんか、…あいつ、実際かわいかったじゃない?だから、…」
「我慢できなかった?」
「いや。すでに、生まれた時から愛してたよ。あいつが。たぶん。本当に、…むしろ、あぶないとおもったんだよ」
「自分の正気が?」
「あいつにむらがる男たち。しょうもない餓鬼どもなんだけど、おれも所詮おなじ餓鬼じゃない?ってことはやっぱり、おれと同じ風景見てるし、そうして、餓えて、…あいつに。求めて、…あいつを。狂暴に見えるわけ。あぶなく見えるわけ。俺には、ね。だから、正直、ただ焦ってた」
「とられちゃうって?他の奴に」
「よごされる。あいつが。それが。おれはそれがあやういと思った。あいつは無垢で、だから莫迦で、だから不幸にされる。どうせ、壊される。証明しとかなきゃいけない。だれにって、…ましてあいつにって。そういうわけじゃなく、自分にって謂うわけでもなくて。…なんだろう?とにかく、証明して、なんだろう?…なにが事実なのかって謂うことをはっきりと…これ、もうなに云ってるかわかんないよな?」
「嫌がらなかった?高子さんは」
「おびえてた。多分ね。おれだって、おれこそ、ほんと、怖かったもん。」
「拒絶されるかもって?」
「じゃなくて、もう、ひきかえせなくこと。その現実。証明したいのに、しなきゃならないって焦ってるのに、証明すること自体が怖かった」
「単に、あのひと的にはあなたの発情した目つきが怖かったんじゃない?」…せつないんだよ。と。正則はゆびさきでじぶんのひたいを撫ぜた。「ただただひたすら。それこそ、謂っちゃえば犬かなんかみたいにケツふってるだけだろ?つまり、そういう行為は。愛だの心だのなんだの謂って。あくまで動物みたくね、お尻をぐちゃぐちゃと。あいつの部屋のベッドの上で。明け方。おわったときカーテンのあわせ目から朝日が漏れ込んでた。忘れない。覚えてる。はっきり、あざやかに、あんなにきれいな部屋なのに、ひかりがさすと反射して、いっぱいまいちった塵がゆらゆらゆらゆらうごめくの。わかる?…せつなかった。なにもないんだ。あいつと、あんなことしながら、息きらせて、汗にじませて、それから、…でも、できることはなにもないんだ。おれにも。おれたちにも。ふたりこころをかさねて切実に求めても。せつなくて、もう壊れそうだと思った」
「壊れちゃえば、」と、もう「よかったのに。」高明は、その正則にも高子にも興味をうしなってしまった。そう、じぶんで実感しはじめていた。「それから、はじめて」ただ、いつのまにか「抱き合って、むすばれて、」退屈に、「それから、」倦んだ。「あいつ。ずっと、あいつは抵抗なんかしたことない。いちども、ただ、そのくせいつも泣きそうな顔を、顔だけ、そんな顔だけしてる。いつも。せつないんだよ。わかるんだよ。おれ。悲しいんだよ。ただ、切実すぎるくらい純粋だと、ただ澄み切って、ただ、もう、ただ、」…あ、と。故意に高明は思い出したように正則を見直し、沈黙。一瞬の。そして、ややあって、ふと、「おれ、」ささやいた。「ひょっとして、おれ、あなたの子供だったりする?」…違うでしょ。即座に、「ないよ。それは」否定した正則に、ふと高明は憤りじみた不快を「だから、」感じた。「…安心しときなよ」
「なんで?どうしてそんなことわかる?やったんでしょ?やりまくってたんでしょ?事実として、」
「できなかったもん」正則はほほ笑みを「なんどしても」崩さない。「できちゃったらそれはそれだと思ってた。おれはね。それでいいんだよ。もう、ほんとうに周りもなにも、…いや、糾弾するだろうけど。認めざるを得ない。すくなくともおれたちが愛しあってる事実をは、容認しないまでも、引き裂いたとして、でも、…後悔なんてなかったはずだったよ。あいつも。もしそうなっても。いいチャンスじゃない?一緒に逃げるのか。それとも死んじゃうか。それこそ、ふたり手をつないで厳島神社にでも身を投げるか。…あそこ、たしか祀ってるの、女神さまじゃなかったっけ?」
「水に入ってうかんでただけじゃん。入水なんて。あれ、」
「なにもこわいともおもわなかった。だから、最初からなにも…でも」
「狂言でしょ?」
「あいつには問題ない。たぶん、というか、あきらかに。事実お前がいるもんな。よせばいいのにフィリピンなんか行って妊娠させられて帰ってきた。あのときの子だろ?あいつ、なにも云わなかったけど、直接、おれには。家族にも。雅秀さん引率だったんだよ。の、下のほうの奴からかかってきたの。電話が、うちに。知らないでしょ?これ。云わなかったでしょ。だれも。電話口でおびえながら、その下っぱ、言ったらしいよ。なんか御宅のお壤さん血まみれで靑タンつくって返ってきたんですが、どうしましょうって。雅秀さん、シカトしたからな。あのとき、関係ないよ、知らないよ、あれ、高子ちゃんフィリピン来たの?…くらい。それから何年か絶対にうちに顔、出さなかった。どうしましょって、…な?お前ら責任とれよなって、思うよね?普通。で、十か月後にお前がうまれた。なにも謂わなかった。あいつ自身は。輪姦されたらしいじゃん。あっちで。雅秀さんからそれ、はっきり聞いたのは最近だよ。10年近く経ってから、…あの時、お前が生まれた時、生まれる前から、問い詰めても、だれが。慰め声とか?そういういろいろやってみても、云わないんだ。あいつ。強姦されたとも、男がいる友、父親がだれ、いつの子、これからどうする、…とか?あいつなにも。親父に殴られても」
「殴ったの?」
「あの性格だぜ?裏切られたって思ったんじゃない?あげくのはてにはお前のこどもさえ生んじゃった。」…違うでしょ、と。高明は思った。もう、あきらかにじぶんは無関係の余所にいた。そうとしか思えなかった。…元気なの?と、だから押し黙ったじぶんこそが、あるいは拡げさせてしまったのかも知れない気抜けした、稀薄な気配に、高明はふとつぶやいた。「どっちが?子供?…高子?」
「どっちかというと、」と、「どっちでもいい。」思わず、高明はそこにじぶんを笑った。…時間だ、と。不意に壬生まさひこはさゝやきかけた。「もう、行かないと。」
「仕事?」
「いや、…久しぶりに大学のときの友達の、…お前は?なんで自由が丘なんか、」
「いたんだ」はぐらかし、「正則さんに友達なんか、」云って笑った高明に…じゃなくて、正則。「死んだ。」云った。「お前が家から逃げ出してから、すぐ。流産したよ。そりゃそうだろ。一晩中つめたい潮水に浮かんでたんだぜ。…流れちゃうって。どうやったって」立ち上がりかけた。さきに正則が。高明。ひざしが、それにあわせて翳りをゆらがせたのに気づいた。だから、視界の横、端の外のほう、ふいに耳に、音響のむれ。騒音とは、絶対に謂えないささやかな、声。したしみあう人々。身じろぎ。それら、それぞれに関わり合いの稀薄なささやきの群れ。衣擦れ。あるいは陶器のうつわがたてた、澄んだ、ややするどい、…散乱。音。ちいさな、と、BGM。それはいつかキース・ジャレットのケルン・コンサートに代わっていて、壬生は趣味を疑った。他人の自慰を見せつけられるかの演奏。陰慘。発情。ここにいる人々はすべてその趣味のレベルで決定的な鈍感に墜ち入っている、と。あるいは、結果的にここにいるおれ自身をも含め、「人殺し?」高明。ななめまえ、高明が立ち上がるのを待っている正則は、ただ、その唐突に呆気に取られるしかない。どこかの席のコーヒーが、なぜか正則に匂った。「おれ、」高明は「ひと殺しなのかな?」正則の眼の前に独り言散る。「なんで?」
「死んじゃったんでしょ。子供」…おれだよ。ふと、その「おれのせい。」微笑の正則。「全部、…責任は負う。ぜんぶ、というか、もう負ってる。」
「なにを?」
「愛。」正則の、「時間。」微笑がすみやかに「時間さえ、あれから」自虐に落ちて行くのを、「なにも、」高明は不可解に想いながら見上げていた。「一秒もながれなかったくらいに、何にからも取り残されて、ただせつない傷みだけをかかえて、救われようも遁れようもなくて、ただ傷み。苛むんだ。傷み。と、どうしようもないせつなさに咬みつかれままずっと、立ち止まりつづけてる」まばたく。高明は「死んでるより切実に、もう滅びてる。」ふと、ひかりがまぶしく感じられたから。まなざしの横のほうの、…いならんっ。あやういそれが。「いならんっけぇふ」…え?と。その聞き逃した高明の迷いない発話に、正則はまばたいた。なに?と。ひかりのせい?高明の顔は、あまりにもあの、ただひとり愛した少女にに過ぎている。いまの、高子とはあやうく差異しながらも。「イン、」と、「ア、」高明。「ランドスケープ。…」笑みを、そのin a landscape…戸惑いの「ケージ。」正則に。「ジョン・ケージだよ。初期の曲」
「なに?」
「ほら」
「この曲?」
「まさか。ここ入って来た時、鳴ってたでしょ?」高明は無邪気に笑った。「…あれ。つぎはラヴェル。モーリス・ラヴェル、…ちがうか。あれ。ドビュッシー?たしか。ちがうかな。なんか、そんな感じだよ。で、つぎがこれ。やめたほうがいいよ。こんな店。頭が悪すぎる。店のやつら、たぶんジンジャーエールとビールと炭酸入りのおしっこの区別もつかないはずだよ」はるか奧。そのカウンターのオーナーらしき男のほうを顎でしゃくり、「…大丈夫」ささやく。高明は、「おれ、かならずしも」…てか、て、「あなたを糾弾しない。」たのしかったよ。なんか「別に…ね。むしろ」ほんと。マジ、ひっさしぶりに逢えて。とりたてて「グッド・ラック・マイ・フレンドな感じ。」なんてこともないけど。逢ったからって、「ともだちなんかにはならないけどね。所詮うわっつらで。」でも、「…ね。」正則の耳に、もう聞き狎れはじめていたささやき声が消え失せ、そして高明はただひとり納得したかにほほ笑み直した。…おれは、と。正則。「行くよ。金は払っとく」やがてその席にひとりになって、立ったまま。サイレント・モードの携帯にユイ‐シュエンの着信が数度入っていたことに気づいた。…なぜ?と。思う、いまさら、なぜ自由が丘などに。高明。窓のそとを見れば、ただ稀薄な翳りと綺羅めきがゆらいだ。街路樹。その翳りが路上に踏まれた。知らない、と。高明。想った。じぶんを愛してはいない、というその側面の、高子。感情が散った。木の葉の厖大が、ふと一気に風に煽られたかにも、と。感情。なに?これは、それはたとえば屈辱?辱められ、ふみにじられたのだ。高子の沈黙と嘘に。歎き?あるいは、生みの母さえもが真摯に素顔を見せることがなかったのだった。喪失感?なにを?かならずしも、うしなわれたものをは一切明確にせずに。傷み?高子。その懊悩と焦燥を想って、と、同じくに嫌悪?結局は無抵抗を良しとしたいわば家畜にすぎない。または、…と。恋。恋?そう想った。そして、そうとしか思わずそれ以外にはありえなかった。それは恋だった。たしかに、はじめて高子に恋した、と。高明は想った。しかもたしかに、いままでだれにも感じなった感情だった。いたいたしい皮下すぐに微熱とうずきの微妙が温度を奪う、そんなあやうい感覚。ないし、体内に、粘膜にさえうずきがにじみ、昏く、ただやわらかな華やぎ。これが、と。女たち、その無数の眼に思い当たり、抱きたい、と。ふと。あの女、だから高子をいまこそ抱きたいと、高明はひとり焦燥にちかい動揺を咬んだ。
恋、と。それを
名づけた。わたしを
襲った。傷みが
散乱。突然の
恋、と。それを
しかたがないのだ
名づけた。わたしを
赦せない、と
襲った。傷みが
くやしくて、なぜ?
散乱。突然の
恋、と。それを
いまこそ。わたしは
たえられないのだ
好きです。ぼくは
名づけた。わたしを
ささやこう、か。その
ほしい、と
あなたが。あなた、
襲った。傷みが
耳もとで
なにを?じぶんでも知らずに
あなただけが、好きです
散乱。突然の
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