小説《underworld is rainy》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅰ…世界の果ての恋愛小説②/オイディプス
...underworld is rainy
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅰ
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
彼女が何をしたのか、私にはすでにわかっていた。言葉以前の、明確ではないが、鮮明な認識として。
部屋の中は荒れていた。
突き当たりの壁に、吊り下げらたハンガーを引きずり倒して仕舞いながらぶつかって、フエが息を詰める。凭れた。背中ですがりつくように。
ベッドは二つ。今は使われていない彼女の弟のそれ、その上には、ハンガーが通されたままの衣類が散乱していて、扇風機が床に倒されていた。ファンが上を向いて、未だに回り続け、音を立てて、そしてフエは壁にぴったりと背中をつけて、私を見る。顎を突き出して、微笑み続けながら。
向って左側、ちょうどその手間で、窓越しのななめの陽光が切れてしまっているその先の壁際のベッドの、自分の父の惨殺死体には、フエは、目線をくれようともしない。
一瞬、私は残酷な気がしたのだった。たしか Ngọc ゴック という名の彼が殺され、首を変なほうによじってこちらを向き、それでも、しがみつけるはずのない壁にしがみつこうとしたかのように腕と足ををひん曲げて、向けた背中には果物ナイフと、日本の包丁が突き刺してあった。
果物ナイフのほうは私が彼女にやった、日本で買ったイタリア製のもので、日本製の方は、結婚する前、彼女が自分で買ったものだった。一緒に行ったデパートの中で、必死に、私に色目を使って見せながら。
日本人の奥様になるんだもん。
日本製の包丁くらい使わなくちゃね。
そんな、意識されないままの、全く無意味で無根拠な媚態。
その死体は、その、ひん剥いた眼と口の、あまりにもこれ見よがしな憤怒の表情もあって、むしろ、私を一瞬笑って仕舞いそうにしたのだった。そして、私はいまさらながらに、戦慄、といしか言いようのないもの…恐怖とはいえない、どこか透明で、研ぎ澄まされた、冷たい鋭い感情にさいなまれつづけててた。
彼女が、父親を殺したのは、もう、気付いていた。寝室の中で血まみれの彼女の姿を眼差しが確認した瞬間には。それは、彼女の目が大粒の涙を噴き出させたときに、容赦のない強度で確信されさえしていたのだった。
まさかこんなことが、と、私は、目の前の風景が、いまだかつて見たこともない風景であることの実感に、おののいてさえいた。今この瞬間は、…と、初めて体験する一瞬なのだ。
その実感が、なぜ、あんなにも圧倒的でなければならなかったのか?
それ以上その感覚に関わっていたなら、やがて失心さえしてしまいそうな気がしたほどに。
意識さえ、むしろ鮮明にくらんでいく。
土砂降りの雨だ、と、そう母は言った。
舌を咬みそうなほどの早口で、もう大変だ、と。
母親は自分からは無料通話を鳴らすことはない。使い方がわからないのではない。無駄な金をかけるかもしれないことが、嫌なのだった。無料、と聞いて知っているにもかかわらず。
その日、日本語学校から帰ってきた私に、見ろ、とフエはつけっぱなしのインターネットの画面を指差した。私も知っていないこともなかった。日本で、大雨が降って、土砂災害が多発している、と。
西日本をほぼ横断する、大規模なそれ。崩れ堕ちる山肌、なぎ倒される樹木の群れ、流れ出しあふれかえる泥色の濁流、崩壊する村落、家屋、破綻した市街地。
学校で、生徒からさえ言われた。先生の実家は大丈夫ですか?
ベトナムのテレビのニュースでも見た。あざやかな泥色の濁流が山を削る画像。それなりの時間を割いて、取り上げていたから、誰にでも、いやでも目に付いたはずだった。その前に、かなりの規模の地震があったことも知っていた。その前は記録的な渇水だった。母親が言っていた。今年は、全部が、変だ。
去年もそんな事を言っていた。その前も。子どものときから、そう言っていた。今年は異常気象だ。そして、いつだったか、子どものときに、いたずらな眼差しを作って、そのうち、世界は滅びるかもね…耐え切れずに母は声を立てて笑い、私は彼女を喜ばせるために、わざと怖がって見せた。
派手に。これみよがしなほどに。
泣き叫んでやる。お母さん、…世界が終る日は、僕と一緒に死んでくれる?
そうだね、それだったら、…ね?…みんな一緒だったら、…ね?さびしくはない…ね。
約束してくれる?…お願い、約束してくれる?
やがては、その演技の結果、本当に私は世界が崩壊する恐怖と、一緒に十羽一絡げに死んで行くしかない、とても安らぎになどなれようもない安らかさを、実感さえし始めるのだった。
もはや、私は嘘の涙を流していたのではなかった。
いずれにしても、ベトナムのテレビ画面を見ながら、日本の自然災害のニュースが世界中で大きく報道される理由がわかる気がした。たぶん、日本が世界にとってそれほどまでに重要な国だから、ではなくて、親日国が多くて、誰もが日本に興味をもっているから、ではなくて、災害が日本ほどには多くない日本以外の国にとって、それは、驚くほど刺激的な映像なのだった。そして、安全な映像でもあった。そこは、日本ではないのだから。
日本を襲う巨大な津波も、大陸にまでは到達し獲ず、太平洋を渡ることなどありもしない。
どの時間帯のニュースでも、山が崩れて、濁流が家屋を飲み込んでいく映像が流された。
人々はそれに見入った。文字通り、目を点にして。比喩でないほどに釘付けになって。
大変だよ。
一応は心配して、一日おかずにかけた通話の向うで母親が言った。母親は家にいた。脳梗塞で半身不随になった父親は、介護ベッドの上で陽気に手を振る。
ひどいものだ、と、微笑み、そして、嘆いた。町の地図が変わっちゃうよ、大変なことだよ。
母親の家はなだらかな高台のてっぺんにあったから、山崩れも何も、心配はなかった。数百メートル先の山が崩れない限りは。とは言え、その山は、あくまでもなだらかに一度傾斜してさがり、その上でゆっくりと隆起していく、高くもない山なので、普通に考えて、彼女のうちが何かに飲まれることも、崩れて仕舞うこともありえない。
地震で、地面がひび割れるか、陥没でもしない限りは。
いずれにしても、その周囲は惨状を広げた。どこもかしこも、土砂に埋もれるか、濁流に浸りこむか、無傷な土地は、母親たちのその高台の、わずかな三世帯だけだった。
…君が?
…You ?
フエを見なおした私が言ったのは、ただ、その短い言葉だけだった。
Em làm … …làm …vậy… làm…
ベトナム語を、口につぶやきかけたとき、とっさに、文法をすべて忘れた。君がしたの?
私にも話せた、もっと、慣用句程度の簡単な文法だったはずだった。
君が?
私は、言った。
お前が?
フエはなにも反応をしないままに、
…ねぇ。
私を見つめ、めりこんでしまいそうなほどに壁に背をぴったりつけて、泣きながら笑っている。
ずっと。
彼女に近づいて、抱きしめてやろうとした瞬間に、眼差し。彼女の。
涙に輝く、その。
それがまばたいて。
私は彼女を殴った。容赦なく。力の限りに。
からだがへし折れたようにくの字に曲がり、私は蹴り上げる。失心しかかった汗まみれの横っ面をもたげようとし、頭を上から踏んづける。突き出された尻は蹴り上げられ、つかんだ髪の毛ごと、壁にたたきつけた。
涙と一緒に、鼻水さえ、フエが吐き出したことは知っている。わたしはその触感をさえ、感じる。触れてもいないそれを。
彼女の身体は、まさに、汗ばんでいて、私は見つめた。
まるで穢いものを見るように。
フエは声をさえ立てない。息遣い、そして私のひざが、立ち上がりかけた彼女の腰を蹴った。そのとき、両手を挙げて、まるで何かに降伏したかのように、体を反対側に折り曲げるのを、私は見た。
体温。彼女の発熱する体温を感じた。折りたたむようにして、床に倒れ臥して、フエは、そのつかんだ手が吊り下げられた蚊帳を引きちぎった。
蚊帳をかぶった、その身体を、私は踏みつけた。のどから声が立った。
フエの首根っこをつかんだ私が、彼女をその部屋のバスルームに連れ込むのを、彼女は、何の抵抗もしなかった。フエは、ただ涙を流して、その表情はもはや、ただ、無意味な悲嘆にくれていた。
何かを嘆いていたが、何を嘆いているのか、自分自身、わかってさえいないはずだった。もはや、何も考えてはいない。それが、はっきりとわかる。体にもつれた蚊帳を剥ぎ取って、髪の毛が乱れ、汗と血で、彼女の額に、首に、張り付く。私は頬をひっぱたく。白目を剥いて、白熱した、白濁した意識の中で、ただ、何をと言うわけでもなく、明晰にすべてを嘆く。
眼差しが。
嘆いた。
首筋が。
汗が。
息遣いが。
逆立った耳の横のかみの毛が。
指先が。
私の手がつかんだ、その皮膚が。
体温が。
体臭が。
もつれる足が。
私は彼女を、バスルームの壁になげつけて、しがみつくようにその指は壁を掻く。
しがみつけるものは何もない。
くずおれて、私の眼差しのそこで壁を舐めながらひざまづくしかない。痙攣じみて、からだをふるわせて仕舞いながら。
ベトナムの家屋に、バスタブなどはない。
私がコックを全開にして、冷水を浴びせるのを、彼女は見上げた。水流に激しくまばたき、待ち望んでいたように、おびえた表情を曝しながら首をへし折りそうなほどに顔を上げて、そして、吊り上げられた魚のように口をパクパクさせながら。
私がひざまづいて、彼女を抱きしめるのに、フエはまかせた。
私は、母が送ってきた画像を見た。実家…と言うべきなのだろうか?私が二、三度しか行った事がない、広島の外れの小さな町の、どこもかしこも崩壊した、小さい画面に映し出されたちいさでささやかにすぎない画像が、5枚くらい、私のLINEの画面に並んだ。それが、大きな破壊を捉えた画像であることくらいは知っている。
他人事のように、私は興味を持って、その見慣れない風景を見た。大雨と、土砂災害の、決して見慣れたわけではないが、インターネットで見慣れていると言えないわけでもない凄惨な、と言ってしかるべきと解釈されざるを獲ない風景が広がっていた。そして、いずれにせよ二、三度しか行った事がないそこは、実際、見慣れない場所には違いなかった。
父親の自営した建築会社が二十年近く前に倒産してから、実際には、彼らは借家を転々としていた。
だから、そこで生まれ育った経験はなく、両親の居住地を持って実家と言うべきなら、そこは間違いなく、私の実家であるほかはなかった。
そんなことはどうでもいい。私にとって、実家と言うものはそういうものだったし、そういうもの以外のものでは、もはや、なかった。
まだ雨が降っています。…そう、母親は、画像から一分後れて、メッセージを送信してよこした。
記憶があった。
単純な記憶だった。まだ小さい頃、小学校の三年生とか、四年生くらい?宇宙の写真。広大な、その、たぶんNASAか何かの提供によるところの、その。子供用の宇宙図鑑の、それ。世界がここにあるのだったら、いずれにしてもそれは始まったのだった。例えば、それが時間と存在そのものの始まりであって、存在と時間のうちには、その起点をさえ持ちえず、その意味では始まりの《時》さえもたなかったとしても。
それは、結局は、いつか終るのかもしれなかった。その、存在と時間の終わりの、想像もつかない明瞭さに、私は恐怖した。
実感できない以上、その明確な実感さえなく。
フエのからだを洗ってやった。
誰が?
…Ai
私は、
…Who
言った。
Dare ga ...
誰が、殺したの?
私よ。
Là em
言った。
Me
…そう。
言葉もないままに、私はうなづいて、彼女の髪を洗った。濡れた、血を染み付かせた寝巻きを剥ぎ取って、そして、彼女は私の寝巻きも剥ぎ取った。
簡単な作業だった。私はショートパンツだけで寝ていたのだから。
私たちは、冷たい水の流れに自分たちの体を洗い、慰めあうしかなかったかのように、やがて体温は、冷やされていく。私の皮膚が感じる彼女の体温は。
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