小説《underworld is rainy》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅰ…世界の果ての恋愛小説③/オイディプス









...underworld is rainy









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅰ

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ









私たちは、冷たい水の流れに自分たちの体を洗い、慰めあうしかなかったかのように、やがて体温は、冷やされていく。私の皮膚が感じる彼女の体温は。

冗談のように、フエは私のそれを手のひらでつかんで、

なに?

言った。

これは、

微笑む。

何ですか?

声を立てて笑い、

Cai gi ?

その瞬間に、水流は彼女の唇の中をまで濡らす。









君のだよ。

ぬるい水流にぬれたはずの粘膜。

答える。

…口の中の。

Của em

その瞬間に、そのどうしようもない無意味なその冗談に私は声を立てて笑って、戯れあい、為すすべもない。

壁の向こうには、当たり前だが、まだ、あの男の滑稽で、凄惨な死体が、死んだまま放置されているに違いなかった。

私たちが始末しないかぎり、他には誰もいないのだから、放置されていざるを獲なく、そして、私たちはいまだにいかなる始末をもくだしてはいない。

涙を流し続けているのには、気付いていた。その水流に洗いながらされながらも。

フエが、私の、そして腕の中で戯れてもがいてみせながらも。

声を立てて笑い、じゃれて私にしがみつき、私は額にキスをする。

…ね?

シャワーの水の、かすかな錆びた味が、唇にだけ広がった。

好き?

外は雨が降りつづいていた違いない。...yêu không ? この時期にはめずらしい、かすかな、細かい、繊細な、雨が。

わたしの、からだ。

目に触れるものすべてを白濁させた、その雨の色彩を広げながらも。

好き?

眼差し。それは、

…すべて。

涙を湛えたままに、さらに、水をかぶって。

ね?

ぬれて、ぬらし、

わたしの、

ほら。…ね?

心?

拭いて。…と、

すべて。わたしの…ん、

言葉にもせずに、拭いて御覧、涙を。…私は。

好き?…

まつげを撫ぜる。その。

…すべて。

指先で。

...Anh yêu em

愛してるよ。


ひざまづくようにして体を拭いてやると、フエは上半身を折り曲げて、私の頬にキスをくれた。

私たちは、眼差しをあの男の死体に横目にくれながら、寝室に帰って、警察を呼ぶ前に、もう一度愛し合った。

日本は、どんなところですか?

フエが言った。

英語で。

How about Japanese nature.

ベトナム語で。

Nhật bản thế nào ?

...life, ...and,

日本語で

culture

にほんわどでっか?

...Sống, ...văn hóa

綺麗だよ、と私は言う。

Là đẹp

いつだったか、なんどか、きまぐれに、話されるべきことがもはやなくなって仕舞ったときにも。

Tuyệt vời

例えば、出会ってすぐのころにも。…あなたは、...anh à 日本に帰ってしまいますね?

Thật

帰りませんよ。

南部の町、サイゴンで。夜になっても温度が冷え切りはしない、部厚い熱気の張った、あの。

あなたは嘘つきです。

…サイゴン。おびただしいモーター・サイクルの騒音。

嘘つきではありません。

南部の、あの雨期と乾期しかない都市で、その、雨期の毎日の数十分の土砂降りの雨の中でさえも。

日本は、どうですか?

美しいですか?

ええ、美しいです。

私は嘘をつく。私はすでに知っていたのだった。地震と、大雨と、土砂崩れと、津波と、川の氾濫と、不意の熱波、熱帯の町をさえ越えた夏の強烈な暑さと、雪の寒さの容赦ない破壊性と、火山の噴火と、地崩れ、地割れ、そこに、そもそもの逃げ場所さえなくて、結局は、その瀟洒で小さい、大陸の人間にとっては単なるミニチュアのようであるにすぎない島に住む人々は、その、巨大な破壊と破壊の生起の狭間に生息して、生き残った人々、死ななかった、あるいはまだ死んではいない人々であるというに過ぎない。

明日の保障は、本質として一切ない。

まばたく。

出会ったばかりのころ、そして今も、私の顔が至近距離に近づくたびに、フエはまばたいたものだった。まるで、はじめて見る風景に戸惑ったように。体温を、触れ合う寸前の距離で立てながら、まだたき、まるで、ただ戸惑う以外には為すべきことなどないかのように。

唇が触れ合うまでのその数秒に満たない一瞬の間に、一度か二、三度。

私はその、いわば祖国と言うべきもの。あるいは、その場所を、棄てたのだった。フエが、私の裏切りを確信していたから?…あなたは、日本に帰って仕舞います。或いは、その裏切りの確信を裏切ってやるために?…あなたは、わたしを棄てて仕舞います。私はフエを愛していたのだろうか?彼女が、おそらくは私を愛している程度には?









愛。

何をすれば、それを愛と呼びうるのか、結局は私は知らない。

フエの唇に指先で触れてやり、彼女がまばたくのを待つ。不意にまばたく。その、至近距離に、ぼやけてゆがんだ褐色の形態が、そして彼女を見つめる。

息をさえひそめずに。

フエが鼻に息を立てて、私がふとかすかな笑い声を立ててしまった意味を、フエは知らない。

彼女は、思いあぐねたように、再び言うのだった。《日本はどうですか?》沈黙を、あるいは、波だった疑問形以前のクエスチョンマークの残像と戸惑いの気配の無意味な連鎖を打ち消すために、波紋の広がりにあがなって、その答え。

いつもと同じ、その、《…美しい》と、それを聞くことになることをは、すでにふたりとも知っている。

私たちは、確信していた。何も口に出されることもなく。私は警察にフエを突き出したりはしないし、フエは自分を法などに売ったりもしない。結局は、誰かが殺してしまったことにして仕舞うに違いなった。

望まれない不意の侵入者が。

あの男の死体をは。

男は、男があったこともない、誰も、一瞬たりとも会ったことがなく、聞いたことがなく、見たこともない、顔のない男が、何の気配さえないままに殺して仕舞った。

フエと私は、もう一度シャワーを浴びた後で、二人で、ベッドの上の汗に塗れた体を流し合った。フエが警察に電話をかけたのはその後だった。


土砂がひどい、と母が言った。朝、うちでカーテンを開けて、土砂降りの雨の中に、向うの山が白く霞んでいるのを見ていたら、いきなりその斜面が崩れたと言った。数キロ、あるいは1キロとちょっとの距離の、それ。

「なんにも、聴こえなかったけどね。」

遅れて、彼女はその遠い轟音が鳴っていたことに、耳の中のどこかで気付いた。目の前のそれは、ミニチュアの山の模型が壊れてしまったような、ちいさな、雨に白濁した瀟洒な風景に過ぎなかった。

もちろん、それが、その触れ合いかけた近くにおいて、すさまじく暴力的な現実に他ならないことには気付いている。

すごいものだよ、と、母はあきれたように言った。

暇つぶしのように、母親は、毎日電話をくれた。彼女は、もはや暇な時間を持て余すだけだった。いたるところの土地が、そして道路が氾濫した穢水や土砂に埋まっているので、外に出るのも大変だし町の地図自体が変わっているし、開いている店に行っても、結局は何も売っていないのだから。

でもね、…と。行ったコンビニの、ミャンマー人のアルバイトの日本語がとても上手だったのよ。

母は大袈裟に驚嘆してみせたのだった。

ミャンマー人、すごいのね。

私は笑った。


警察が来る前に、私はフエの、血に塗れた衣類を丸めてバイクのシートの下にしまって仕舞ったし、彼女は鼻歌さえ歌いながら、私のそんな献身的な協力に、じゃれつてみせた。

Cám ơn anh

私は彼女の頬を軽く叩いた。

ありがとう。…わたしの

バイクに乗ってきた警察官は、

わたしだけのために

私をはほとんど尋問しなかった。私の代理は、フエだった。

私はその尋問の間中、彼女の近くに座って、警官とフエの唇の動きと、眼差しの動きの繊細さだけを、ただ、追った。

学校の方も、フエの会社のほうも、問題などない。かりに、私とフエがこの世界に存在しなくなったとしても、何の問題もなく、無理やりにでも誰かが処理して仕舞うに違いない。私たちがかけがえもなくも重要な存在だったとしても。あるいは、であるならであるほど、むしろ迅速に。そうするより他に、なすすべなどないのだから。

警官が、不意に、想い出したようにフエを問い詰めた。私はその仕草にあきらかな演技を感じた。

カマをかけたに違いない。私は、声を立てて笑いそうになった。彼らだって、馬鹿で無能なわけではないらしかった。一応は、私たちをも疑ってはいるのだった。

いわゆる完璧な密室殺人だったから。ドアは内側から鍵が閉められていた。警察が来るまで、私たちは鍵さえ開けていなかった。単純に、忘れていたのだった。そんな事など。

警官は、水浸しのシャワールームについて、聴いたに違いなかった。何度も、そっちの方を指さして、そして、フエは沈黙し、しかめ面を曝し、そして、何度も私を見返して、思いあぐねたように、顔を伏せ、警官に何か言った。

警官は声を立てて笑った。

私を見つめ、そしてにこやかに私の肩をたたき、早口のベトナム語で私にまくし立て、手のひらと手のひらをなんども叩いて見せた。

要するに、お盛んなんだね、と。

フエは言ったに違いない。死体を発見したときに、動転して、私たちはお互いの体を洗いあった。何の意味があったのかわからない。そして私たちはとても激しく愛し合った。とても、とても、とても、激しく。

だって、動転していたのだもの。まるで、死にあがなおうとするかのように、…本能的に?

…ねぇ、わかるでしょ?それに、彼は男なのよ。

男なの。…わかる?

そんな。媚びいるような眼差しで、ときに呆然とて嘆息するような意図的な眼差しをさえ私に投げつけて見せながら。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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