血まみれのオイディプス王たち。…日本古代史と万葉集および人麻呂について 一帖:山背大兄王、ある絶望。①
血まみれのオイディプス王たち。
…日本古代史と万葉集および人麻呂について
Oedipus Tyrannus
注:《オイディプス王Oedipus Tyrannus》
テーバイの王、オイディプスをモティーフとする、ソフォクレスによる悲劇。
いうまでもなく、フロイトのエディプス・コンプレックスは、ここから取ったものである。
かつて、テーバイの王に神託が下った。それによると、王の子は、やがて父親を殺し、
母親(イオカステ)と結婚することになる、という。
神託の実現を恐れた王は、生まれた子をコリントの王に、その素性を隠して、託す。
その子はコリントにおいてオイディプスと名付けられた。オイディプスは、
もちろん自分の出自などしらない。
オイディプスとは、爛れた足という意味である。コリントにおいて、
優秀な若者に成長したが、ここにも神託が下る。
オイディプスは、父親を殺して母親を妻とすることになる、というのだ。
神託の実現を恐れた正義の人=オイディプスはコリントを後にする。
放浪の旅に出た彼はある日、三叉路で三人の老人たちと争う。結果、
一人を除く二人の老人を殺してしまうのだった。
その後、オイディプスはスフィンクスに対峙する。
スフィンクスの謎賭けを見事解いたオイディプスはテーバイの王になる。
テーバイの王は素性のわからない盗賊に殺されてしまって、
空位に陥っていたからである。そして、その盗賊はいまだに捕まっていない。
オイディプスは、先王の妻を自分の妻とする。
神託が下る。現在テーバイに荒れ狂っている疫病は、
先王殺害の穢れが引き起こしたものである。
疫病を鎮めるためには、真犯人を見つけ出し、罪を清めなければならない。
正義の人=オイディプスは、真犯人究明に追われる。
そんな中、連れ込まれたある預言者は、真犯人がオイディプスであると言う。
心当たりなど在るはずもないオイディプスは、預言者たちを言い争う。
仲裁に入った妻も、オイディプスを擁護する。
現王オイディプスの仕業であるわけがない。先王は、
三叉路で盗賊に襲われたのだから。そのときの生き残りが呼びにやられる。
オイディプスは、不安に駆られる。三叉路、という言葉に、
たしかな記憶があったからである。
コリントから使者が到着し、コリントの王の死去を伝える。…つまり、
オイディプスの父親殺しの神託は外れたのである。オイディプスは安堵する。
帰国を命じられるが、もう一つの神託、母親を妻とする、という神託が
引っかかっているオイディプスは帰ろうとしない。
使者は、初めてオイディプスに、
オイディプスが先王と后の実子ではないことを伝える。
かつて、テーバイの使者から預かった、素性のわからない赤ん坊が、
オイディプスであったという事実を。
このとき、オイディプスの妻は真実を悟って自決する。彼女の名は
イオカステ、…つまり、オイディプスの実母、であった。
呼び出されたたった一人の生き残りが到着する。
彼は、あの日オイディプスが見逃してやった老人その人であり、そして、
彼こそが、オイディプスをコリント人に託した当の人物である事が判明する。
オイディプスは、すでに父親を殺し、母親を妻としてしまっていたのである。
すべてを知ったオイディプスは部屋に篭る。ややあって、部屋から出てきたオイディプスは、自分で自分の目をくりぬき、血まみれで、どこへともなく絶望のうちに、立ち去っていた…。
一帖:山背大兄王、ある絶望。
万葉集には、聖徳太子の手によるとされる短歌が一つだけ収録されている。
それは晩歌であり、《珂怜(あはれ)》を歌った鋭く、硬質な短歌である。
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
家有者(いへならば)
妹之手将纏む(いもがてまかむ)
草枕(くさまくら)
客迩臥有(たびにこやせる)
此旅人珂怜(このたびとあはれ)
上宮聖徳(かみつのみやしょうとく)、ようするに聖徳太子が、龍田山に登ったとき、野垂れ死んだ?死人を見て泣き叫びながら詠んだ歌。
君の家ならば、その妻が添い寝して温めただろうその身体を、今は野ざらしの草が濡らす、客死し果てたこの旅人よ、お前こそ《あはれ》。
これが名歌なのかどうか、わたしは知らない。わたしは和歌の専門家ではない。しかし、最後、思いっきり歌のリズムをむしろ口語に破綻させてしまう、この歌は技巧的でさえある、と、想う。破綻の果てに《あはれ!》と叫ぶように吐き棄てるのだ。
...破綻の美、と言うべきか。
もし、これが本当に上宮聖徳の歌であるなら、これはたぶん、《あはれ》と言う言葉が、歌として初めて詠みこまれた、少なくとも現存する最古の歌、なのではないか?
もちろん、現存する最古、と言うだけであって、本当に《あはれ》と言う概念の嚆矢であったかどうかは、知らない。
ともかく、少なくとも、我々が読みうる最古の《あはれ》として、ここに現存している。
もちろん、現在日本人が云々する概念としての《あはれ》とは、例えば本居宣長等の時代、つまりは《あはれ》という日常言葉自体が滅びた後に、概念として発見されたものに過ぎない、という考え方もある。
すくなくとも、《あはれ》なる平安時代、例えば《源氏物語》において、それは深い嘆息を表す言葉として、頻繁に、多義的に、例えば、今で言う《やばい》などの言葉のように、口癖のように乱用されているからである。
《やばい》などと同列にあつかってしまうと、仮にも日本文化の根幹たる概念に対するあつかいとしてはものすごい違和感を感じられる方が多いと想うが、少なくとも《源氏物語》などに出てくる《…あはれなり。》は、ほぼ、《…やばい。》で訳せてしまう。と、いうよりも、極端に多義的な《あはれ》を一つの訳語で統一しようとしたら、現代語で代用できるのは、他でもない、《やばい》しかない。
《御君は紫の上の華麗に琴など弾いて差し上げるのを、なんてヤバイ女なんだ…と嘆息されるのだった。いまだに御心に残っている昨夜逢引きした女の、つれなかったその心を苦々しく想いもされるが、その住まいがひどく荒れていたことを想い出されて、御君、貧しいには違いないその生活を想い遣るに、ヤバイな…と想われる。庭の花を雨が静かに打っているのも、また、ヤバイ。》
日本文化の概念としての《あはれ》を言う論考に僕が個人的に感じる胡散臭さは、ここらへんに端を発するのだが、それはさておいて。
いずれにせよ、我々にとって、書物空間の中にあって、《あはれ》とは、不意の無残な死との遭遇、その悲傷とともに始まった概念である、ということになる。
もっとも、僕だって、この伝上宮聖徳作という歌が、ほんとうに上宮聖徳本人の真作だなどと思っているほどナイーヴなわけではないし、本当に、「記・紀」に書かれたとおりに上宮聖徳という男がその通りにいたとも思ってはいない。
ちなみに、山背大兄王(やましろのおおえのおう)こそが、伝説として残っている《上宮聖徳》のモデルなのではないか、と、個人的には想っている。確証はない。
文書が残した、上宮王家(かみつのみやおうけ)の顛末を、見ていこう。それは、血塗られた、凄惨な物語である。
まず、上宮聖徳といえば、推古天皇の摂政である。
では、推古天皇とは、どんな女帝だったのか?
物部氏と蘇我馬子の権力闘争については、省略しよう。排仏派の物部氏と推進派の蘇我氏の抗争だが、それは宗教戦争ではない。単なる支配権闘争に過ぎない。そもそも、その戦争の直接の契機は、ある蘇我氏系の天皇の即位によって起こったに過ぎないのである。
いずれにしても、物部氏は戦争によって滅ぼされる。そして、この戦争に、もちろん上宮聖徳も蘇我氏方として参加している。
なぜなら、彼の実母は蘇我の女であり、蘇我氏直系の皇族だったからである。
蘇我/物部の戦争の直接的な契機は、崇峻天皇の即位である。彼を天皇にしたのは、もちろん馬子だ。これに、物部守屋が叛旗をひるがえした。
崇峻帝は推古帝の異母兄弟であり、弟である。二人とも、蘇我氏系の母から生まれた。
馬子が政治的実権を握っていたのだが、崇峻帝自体はそれを良しとしなかった。あくまでも、自分自身が権力を掌握することを望んだのである。
そして、天皇暗殺という異常事態が起こる。
馬子主導による崇峻帝暗殺だ。それは、まるで映画のような…あるいは、後の乙巳の変(645年、入鹿暗殺)を想わせるような、強烈な暗殺劇だった。
592年、崇峻天皇に猪が献上される。
太ってたくましいその屍を見た崇峻天皇は、何を想ったか刀を抜き、その目をくりぬくのである。
つぶやく。
あの憎っくき奴めも、このようにしてやりたいものだ、と。まさに、吐き棄てるように。
それを耳にした馬子は即座に、その、憎っくき奴は自分に他ならないと判断、暗殺を指示する。
これに関して、朝廷に一切の動乱は起きていない。仮にも天皇たる存在の死でさえ、馬子の威光の前ではどうでも良い話に過ぎなかったのである。
殺したのは東漢駒(やまとのあやのこま)。
暗殺の舞台は、崇峻帝を殺すためだけに用意した、偽りの儀式の場である。儀式には何の実体もない。ただ、崇峻帝を呼び出すための口実に過ぎない。
東漢駒は時の天皇を叩き切る。その日のうちに死体は埋葬され、弔いの儀式さえない。
ついでに言っておくと、《切り捨てる》と言えば、刀で切ればすぐに人など死んでしまうかのように感じるが、そんなわけはない。例えば戦国時代の戦争において、戦死の原因の90%近くは弓や槍によるものだという。基本的に、刀では人は殺せない。
もちろん最終的には殺せるのだが、直接的な死因としては出血多量で死ぬのだ、という。そもそも、しかも狩衣でもなんでも、それなりの生地の服を着て、動いている人間を、一刀でずばっと致命傷を与えるなど、基本的には出来ない。あるいは深くつき刺して、掻き毟って、内臓を破壊してしまわなければならない。
映画やドラマのように、とてもではないが、あんなに綺麗に人は、刀では死ねない。
言葉にしてしまうと一行で終る表現が、現実にどれだけ凄惨だったかは、察するよりない。
いずれにせよ、これは、大和朝廷始まって以来の王殺しだった。
そして、後釜に座るのが推古帝、朝廷初の女帝である。初の王殺しの後、初の女帝が誕生するのだ。そのあたりは、系図上、他に兄弟が残っていなかったからかも知れないし、推古帝(当時額田部皇女)が、異母兄弟でありながら敏達帝の皇后だったからかも知れないし、単純にもう男の天皇を立てるのはいいや、と想ったのかも知れない。
崇峻帝も、推古帝も、父親は欽明天皇である。
欽明帝の子孫たちとしては、 敏達天皇が在位期間14年、その弟、用明天皇が2年足らず(病死、らしい。蘇我氏系。物部氏との抗争真っ盛りの時期である。)、そして崇峻帝が5年である。
矢継ぎ早の皇位交代だった事がわかる。
用明帝の2年足らずの崩御も、普通に考えて怪しい。病死とはいえ、暗殺とはなにも刀だけでするものではない。
そして、物部氏にとって、蘇我氏系の天皇など到底許せないに違いないのである。
また、一番長持ちした 敏達帝には、こんなエピソードがある。
さっきちょろっと書いたが、この人には皇后が二人いる。
息長真手王の娘、広姫という女と、推古帝(額田部皇女)である。最初の皇后は広姫であり、それが皇后の死によって排されたその後釜が敏達(額田部皇女)である。
これには奇妙な経緯がある。
実は、571年に、一度、推古帝(額田部皇女)を后にしている。にもかかわらず、その翌年、572年2月、血統上の上位者たる推古帝を差し置いて、広姫が皇后となっているのである。
そして、その同年11月に、広姫は死んでしまう。翌年5月、推古帝(額田部皇女)が皇后の座に復帰する。
普通に考えれば、明らかな権力闘争の形跡が、透けて見える。繰返すが、推古帝(額田部皇女)は蘇我氏直系である。
そして、天皇自体は、蘇我氏系とは言えない。
考えようによっては、馬子の権力増大を恐れた敏達帝が、一度は承認せざるを得なかった縁組を、最終的に拒否した、ともとれる。縁組は受けてやる。が、皇后にはしない、と。結果、その防波堤たる皇后は蘇我氏の差し金によって、暗殺されるのである。もちろん、これはあくまで仮説である。
もはや、自分の身の危険をさえ感じた敏達天皇としては、一度拒否した縁組を復活させるしかない。
相当熾烈な葛藤が、この、皇后交代の1年間にあったに違いない。
帝、物部氏、蘇我氏、この三者の中での葛藤である。
逆に言えば、天皇とはまだこの時期、蘇我氏との間で葛藤しえるほどの主体性を確保できていた、とも言える。
崇峻帝の時代、もはや蘇我氏とは葛藤の対象でさえない。従うか、殺されるか。二つに一つである。
上宮聖徳は、権力が止め処もなく蘇我氏に集中していく時期に、生まれ、育った。
ちなみに、崇峻帝の暗殺時、上宮聖徳は推定18歳。
中大兄が入鹿を暗殺し、朝廷をひっくり返したのが20歳。
二人とも、もう、なにもかもわかっている年齢である。
さて、この暗殺者、東漢駒には、こんなエピソードがある。この男は、暗殺後、馬子の娘、河上娘(かわかみのいつらめ)を奪って、勝手に自分の妻としてしまうのである。
もちろん、激怒した馬子によって、東漢駒は殺され、河上娘は奪い返される。
そして、この女こそは、上宮聖徳の妻にして山背大兄王の母、刀自古郎女そのひとである、という説がある。
考えられなくもない。河上娘という《名》は東漢駒に奪われて穢された時点で死んだ。故に、その名を清め=殺して、刀自古郎女という《名》が与えられた、のである。もちろん、肉体的には同じ女にすぎない。とはいえ、例えば言霊(ことだま)が町の中を実体として飛び交い、星は運命を表現し、方位にしたがって無数の龍が空を飛んでいた時代である。《名》を変えるとは、ある固有の肉体を、文字通り生まれ変わらせる行為だったかもしれない。すくなくとも、形式上は。
もし、河上娘=刀自古郎女説が正しいのであれば、いかに上宮聖徳が馬子の傀儡摂政だったかと言う事がよくわかる。
上宮聖徳ごとき、馬子にとってはいわくつきの娘を片付ける先でしかなかったのだから。
Seno-Le Ma
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