血まみれのオイディプス王たち。…日本古代史と万葉集および人麻呂について 序:悲劇の誕生
以下は、実は以前、アメブロのほうで書いたもののリライトだったりするのですが、
今、日本の古代史を調べなおしていて、その自分用のまとめをかねて、
アップしておきます。
これから書こうとしている古代史に取材した小説のための
シノプシスのようなもの、でもあります。…
血まみれのオイディプス王たち。
日本古代史と万葉集および人麻呂について
序:悲劇の誕生
Oἰδίπoυς τύραννoς
柿本人麻呂、という詩人がいる。
だれでも名前くらいは知っている。「万葉集」に出てくる、日本太古の歌人だ。
詩聖と今に至るまで讃えられている彼は、うねるような重層的な歌を読んだ。
人生に関しては異説が多い。朝廷の雇われ歌人として長生きしたという説。旅の途中で客死したという説。いや、島流しにあって死んだんだという説。
論者の勝手な妄想が、そんな適当でいい加減な諸説を流布させる、のだが、それを、論者の責任にだけしてしまうことはできない。実際、人麻呂のあの重層的な詩自体が、そんな妄想を書き立てずにはおかないのである。
彼の残した作品を読めば読むほどに、普通の人生を普通におくって、普通に死んでいった人だとは、どうしても想えない過剰な美しさと、過剰で、謎めいた戦慄が、彼の残した歌には、渦巻いている。
僕がこの人に惹かれたのは、もちろん巻二の有名な挽歌などが最初だ。しかし、決定的にうちのめされたのは、巻七、冒頭の、以下の歌である。
詠天(てんをよむ)
天海丹(あまのうみに)
雲之波立(くものなみたち)
月船(つきのふね)
星之林丹(ほしのはやしに)
漕隠所見(こぎかくるみゆ)
右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出
※漢字変換で出てこない漢字は常用漢字で代用。
この、宇宙的なまでの、あるいは神話的なまでの異常なスケール感はどうだろう。どこまでも大きく、壮大なイメージ。
詩人の眼差しの先で、何事が起こってるというのか?
歌っていること自体の内容は簡単だ。
誰にでもわかる。
天の海に、雲の波がたった。月の船が、星々の林に、漕ぎ隠れて行った。
しかし、詳細を追うと、その異常さにすぐに気付く。
見上げた夜の空の、その浮かび上がった白い雲の陰を、海の波立ちだと見立てるのは、…まぁ、いい。
…良くはないが(笑)。
万葉集の、現実に目にした、日常的で写実的な詩句が感情のひだを繊細に描いていく歌の群れの中では、このスケール感は、どうしても異質である。が、何よりも理解不能なのは、月=船が、星=林に漕ぎ隠れる、という、単純な視界の遠近法を無視した表現である。
雲=林に月=船が漕ぎ隠れるならいい。単純に、叙情的な表現である。
が、夜の空を見あげて、小さな星々のまばらな点在に、月が隠れるイメージを抱く人が、いったい、どれだけいるだろう?
月は、星には絶対に隠れない。
どんなに見晴らしの良く晴れた夜空でも、月を隠せるほどの密集をは、星は決して曝しはしない。
どうやっても、星は月を隠せはしないのである。
つまり、ありえないことが、ここでは起こっているのだ。
では、夜空の支配者たる月=船が漕ぎ隠れ得ない小さなものの集合に漕ぎ隠れていく、とは、何を意味するのか?
月=月読命(つくよみのみこと)とは、古事記に従えば、スサノオ(=海、大地、自然)、アマテラス(=太陽)と並ぶ象徴なのであって、その三貴神の一つが、せいぜい天の香々背男というマイナーな神が象徴しているに過ぎないような星ごときに隠れてしまうとは、なにか、この世の倫理を、あるいは、論理さえをも覆す変事が起こっている、ということになる。
もちろん、僕の知らない古代神道の象徴体系にもとづけば、単純に、今日も月がきれいだなくらいの意味だったのかもしれない。
あるいは、現在は失われた当時の呪術的な意味合いで、天皇や上位貴族をたたえたり、安泰を祈ったりしただけの歌、なのかも知れない。
しかし。
僕には、なにか、古代に起こった理不尽で、凄惨で、いかにしても倫理的に肯定できない政変を歌ったのではないか、と思う。
あるいは、誰か、(少なくとも人麻呂にとっては)非常に優れた人材が、不当な島流しにでもあってしまったのか。
ありえない不当な理由で、ありえない人物が殺されてしまったのか。
とにかく、月が星に隠れるほどの変事が、今、まがまがしくもこの世界を満たしているのだ、と言っているのである。
いずれにせよ、この嘆きは深い。そして、どうしようもない理不尽さへの、いたたまれない苦痛を感じる。
そして、これらの個人的な感情が「万葉集」的には異端のスケール感で語り尽くされているのである。
教科書的に、例えばフランスの象徴主義に結び付けて喜んで見たり、比喩の自在さに文学技法論的に驚嘆してみたり、そんなことをする気には、僕は、なれなかった。
僕はただ、言葉を失うしかなかった。
その、戦慄に近い戸惑いは、未だに色あせない。
次に、巻一の、有名な歌を見よう。
これは、当時の女帝、持統天皇をたたえた歌である。
安見知之(やすみしし) 吾大王(わがおおきみ) 神長柄(かんながら)
神佐備世須登(かむさびせすと) 芳野川(よしのがわ)
多芸津河内迩(たぎつかふちに) 高殿乎(たかどのを)
高知座而(たかしりまして) 上立(のぼりたち)
国見乎為勢婆(くにみをせせば)
畳有(たたなはる) 青垣山(あをかきやま)
山神之(やまつみの) 奉御調等(まつるみつきと)
春部者(はるへには) 花挿頭持(はなかざしもち)
秋立者(あきたてば) 黄葉頭刺理(もみちかざせり)
逝副(ゆきそふ) 川之神母(かはのかみも)
大御食迩(おおみけに) 仕奉等(つかえまつると)
上瀬迩(かみつせに) 鵜川乎立(うかわをたち)
下瀬迩(しもつせに) 小網刺渡(さでさしわたす)
山川母(やまかはも) 依弓奉流(よりてつかふる)
神之御代鴨(かみのみよかも)
反歌
山川毛(やまかはも)
因而奉流(よりてつかふる)
神長柄(かむながら)
多芸津河内迩(たぎつかうふに)
船出為加母(ふなですかも)
(以下、大意)
神なる大王が、芳野川の激流に宮殿を築き、そ
の頂上で見下ろせば、
山はひれ伏して、全てをささげる。見よ、
人々は挿し飾る、春には花簪、秋には紅葉の色彩を。川もひれ伏す。見よ、
人々は上流に鵜を放ち、下流に網を張る。自然の全てが、今、
大君にひれ伏すばかりだ。
反歌
自然の全てがひれ伏す神、われらの大君が、今、荒れ狂う激流に船出する…
訳はあくまで大意である。
万葉集、とくに人麻呂は、枕詞が絡み合う重層的なリズムが命なので、基本的に現代語訳に「名訳」は存在しえない。
はっきり言って、全く別の言語だからだ。
まして、外国語訳など、完全に不可能だ。
だから、原文で読まないでは、なにも分からない。
そういう意味で言えば、人麻呂は、日本という島国に存在する、日本語という、極端に習得困難なために基本的にはネイティブ以外にはしゃべれない希少言語の、古文というさらに希少な言語の、しかももっとも古いスタイルを読める人間にしか味わえないという、もう、超絶的にレアな詩だ、ということになる。
こんなにすごいのに。
実際、すごいでしょ?。このすごさは原文を、しっかり読まないかぎり、わからない。
そして反歌。
僕は、この反歌の存在こそが、この長歌にはじめて意味を与えているのだ、と想っている。
しかし、一般的にはまったく注目されないこの反歌、その、真意は何か?
長歌では、帝は山や川を見下ろす高みにいたはずである。
さっきまですべてを見下ろす高所に君臨していたはずの女帝が、いまや地に降りて、川の激流に身を投じていくのだ。
この、すさまじいまでの高低差。
この、視点の一気の下降は、なにを意味しているのか?
そして、川は帝にひれ伏して、自らの豊穣のすべてを彼女にささげていたはずである。しかし、今、川は荒々しい激流として目の前に荒れ狂っている。
この、激変はなにを意味しているのか?
ここには、明らかに不吉な予兆が感じられる。
ないしは、この女帝の栄華そのものの両義性が。
単に女帝をたたえただけではない、なにか、裏に隠された詩人の鋭利な視座の存在を、どうしても嗅ぎ取ってしまうのである。
では、ここで讃えられている帝、その持統天皇とはどんな人物だったのか?
何をした人物だったのか?そして、人麻呂はそこに、どんな風景を見たのか?
次の歌で、今回、問題提起に終始する《序》は最後だ。
東(ひんがしの)
野炎(のにかげろいの)
立所見而(たつみえて)
反見為者(かえりみすれば)
月西渡(つきかたぶきぬ)
これは巻一収録。
東の空が、大地が、朝焼けに燃える。
振り向き見れば、月は堕ちた。
単純にいうと、これは朝焼けの風景を美しく歌った牧歌的な短歌として扱われるのが、…本当にそうだろうか?というより、これのどこが牧歌的、といえるのだろう?
東の空に、ではなくて、野に、なのだから、空も、大地も、見つめられた視界のすべてが、炎(かげろい)に、朱に染まってしまっているのである。
すさまじい燃え上がるような色彩の散乱が、ここには描かれているのであり、ああ綺麗だね、素敵だね、で終る、現代の素人が歌った和歌にありがちな趣味人の箱庭的な風景ではないはずである。
繰返すが、朝焼けは大地をすら、染めきってしまっているのだ。
世界は朱に染まりきっているのである。
ついに、耐えられなくなったのだろうか?
詩人はそっぽを向いてしまう。《かえりみする》のである。その時、詩人は月が西に渡る=堕ちていくのを見た、と言っている。
空も、大地も真っ赤に燃え上がってしまった、いわば世界の終焉の炎の中、その反対側で、悲鳴さえない静寂の中に、何かは失墜した、のだ。
世界の崩壊の予兆なのか、なんなのか。ある現実のメタファーなのか、狂的な幻視なのか。
あるいは、「炎」という漢字を当てている以上、本当に「ほのお」、戦火を予感していた、のかもしれない。実際の戦火あるいはその思い出をつづった、のかもしれない。
東方での戦乱の予感、月さえをも失堕させてしまうような…。
ちなみに、この歌は、ある長歌の、反歌である。
では、その長歌で、人麻呂は何を歌っているのか?誰を歌っているのか?
以下、僕は太古の日本に起きた、さまざまな凄惨な政変の数々を書いていこう。そして、それを見つめたに違いない詩人の残したさまざまな歌に残るその残波を。
それは、まさに、何人もの血まみれのオイディプス王たちの物語なのである。
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