小説 op.5-02《シュニトケ、その色彩》中(三帖) ⑨…地の果てで、君と。
シュニトケ、その色彩
中
三帖
ダナン市。
亜熱帯の、そして海沿いの、かつ、(日本人にとっては)巨大な川の濁流に真っ二つに分断されたこの町は、夜になると、一気に肌寒い、生暖かなままの冷気に襲われる。
空は、地上が明るすぎるために暗く、寧ろ、地上の照明に彩色されて、ぼんやりと確認できる雲は、さまざまな着色を曝した。
一緒に食事に言ったときの義人は悲惨だった。
事あるごとに加奈子に罵られ、結局は何も言わずに、存在を消すことそれだけに専念し始めるのだった。
ただ、お手上げだ、と、このふしだらさを絵に描いたような、理不尽な女への苛立ちをかみ殺して、ときに、なんども私に流し目をよこす。
私は微笑むか、気付かなかった振りをするか、それ以外にはない。
昨日、Trang は言った。明日、どこへ行きますか?
明日?
うなずき、もはや、疑っているのでも責めているもでもなくて、単に確信を。
自分がいだききった確信を、彼女は、「明日?」
…俺? …わたし、ですか? 言いなおす。教科書どおりに、そして、彼女が知っているはずの、その限りの日本語は、しかし、頭の中に羅列されるわけでもない、それら、語彙の群れ。
むしろ、塊りになって、結局は、私に口を開かせないで仕舞う、それらの。
夜、ベッドの上で、いつものように Trang は私の服を脱がせた後で、それが、凄まじく苦痛を伴う行為であるかのように、吊り下げられた蚊帳の向うに、手を伸ばせば触れ獲るその距離、至近距離、と言っていいほどの、Trang、その身体。発熱体の存在。
自分の服を脱ぎ捨てると、疲れた息の音が、私は聴く。目を閉じたままで、その、彼女の存在が、立てる気配を感じるのだった。
子どもは寝ている。
もはや、死んでさえいるかのように、すぐそばのベッドの上のそれは、気配さえたてなかった。
苦痛と共に、供犠にふされるかのような。
重ったるい物腰のままに、蚊帳をあけて身を滑り込ませた Trang が、しがみつくように私の体の上、皮膚に、皮膚を重ねた。
息遣われる音を聞き、その音が、それと重なり合わないままに立てられ続けていた自分自身の呼吸音に気付かせる。
唐突に振り出した雨が、壁の向こうに鳴っていた。
光。通風孔、壁の、高いところに幾何学的に配置された開口。
差し込む、とは、最早いえないかすかな、おぼろげなその、光の群れ。開かれた眼は、しがみついた Trang の身体をは捉えない。
彼女も聴くのだろうか?
私の呼吸の音、そして、その向うに聞こえ始める、自分の、その。
音。
雨の。
屋根、その。トタンを打つしずかな音響が、樹木。
庭の樹木の群れは、いま、雨に濡れているに違いなかった。細い、霞むような静かな雨に。
かなこ、言った。ニア、よしと。ニア、…あした、行きます。
言った私の、それらの音声はもはや無視されて、知っていた。私は。彼女は、私がすべてを、やがて壊してしまうことを確信していた。
愛は?
どう言うだろう?
未来が見える、と言った、その、愛は。
Trang が匂いをかいだ音がした。
体臭。わたしの、その。彼女はにおいはしない。そこに、当然混ざっているはずの自分の体臭をは。
私と同じように。
誰もが。
指先が、彼女の背中をなぜ、指の腹が、つややかなその触感に、いつものように軽い驚きを感じた瞬間に、想いだす。
それが、まさに私の指先に他ならないことに。
息遣う彼女の腹部、そして、胸部の上下を、私は感じていた。
「どう?」
…どう?
振り向いた愛に。私が声をかける前に、振り向いた愛に、遅れて声をかけた私は、「ね。」
「…ん?」
片目だけ、わずかに吊り上げた愛の、鼻から立った音声を聴く。
「どう?」
「未来?」
私の微笑んだ顔を見向きもしないで、眼をそらしたままに、この十二歳の少女。
初めて知った。
加奈子に子どもがいたことを。
自分の母親の影に、身をすり寄せるようにして、世界の、そのすべてを、加害者だとして明らかに認定してしまっている眼差しを、いつも曝した。
海鮮飲み屋の中は、混んではいなかった。
疎らに席が、転々と埋まって、…雨。
古に違いなかった。
大量の雲に埋め尽くされた空が、かすかな白さを持って、ただ、暗かった。
何か言いかけたが、愛は口籠り、「…何?」
え?
問い返した私に、一瞬、眼差しを投げるが、「知りたい?」
「何を?」
「何か。」
「どんな?」…未来なんか見えません。ただ、「見えるの?」でも、…ね?「未来が。…」知ってるだけ。なんか、「って、…ね?」知ってるだけだから「どうやって?」だから、何か「見たりするの?」見たりとか、そういう「夢とかで?」ん、…ね?「…例えば、」…なの。
なんで…、と言った私に、「はかないですよ。」
「え?」
「吐かない。」はかない。
履かない…吐かない…儚い…掃かない、それら。「もう、…」
曖昧な、その発音的な差異を迂回した中間の音声が、一瞬だけ私を混乱させたが、なんで、吐いちゃうの?
たしかに、私が言おうとした言葉を、「大丈夫、」
もう、…「慣れなかったの?」
「何に?」
「ん、…」
「食べ物?」
「そう。…もう、」
母親の声とは似ても似つかない。顔も。確かに、汪に似ているといえば似ていた。
確信を持たせるほどの類似ではなくて。
Trang は、嫉妬か、あるいは崩壊の予感、その確信を、何度も噛み砕きながら味わっているのだろうか?
いま、あの、広い、私と、彼女と、その子どもと、数匹の猫しかいない家で。
「辛かった?」
「なに?」
「あわなかったんでしょ?」
「あう?」
「…食べ物。」
ん、と。愛はつぶやく。
曖昧なままに。
流れた目線が床に転がったビールの空き瓶に撥ね、不意に、彼女は天井を見やった。
コーヒーを飲み干しても、出てくる気配のないその親子を捨て置くことにした。
雨はやんでいた。或いは、その、小康状態を曝すのだった。
路面も、樹木も、街路樹、ココナッツ、それらの葉の群れが濡れて、鈍い光沢を持って、風。
ハン川の流域を、義人とバイクで走った。
湿気を含んだ風。
風が枝と葉をざわつかせて、振り落とされた水滴は、雨上がりの空間に、細やかな雨のようなものを、降らせてみせる。
遠くに、山が雲をかぶって、その形態を崩壊させながら、降っているだろうか?
雨は、その、山の樹木と雲が触れ合った、その接点で。
「ずっと吐いてた」
「誰?」
「愛」
「ずっと?」
「げーって、」げーげーって、もう、「その音でさ、」そればっか。「目、醒めたの」ずうっと、「今日」そう。「今朝、」もう、ほんとに、「こもりっぱなし」
「愛?」
「トイレに、朝から、…で、」
「…ん?」
「寝てる。いま、」吐きつかれて、と、加奈子は言う。私の耳元に唇を寄せて。
ホテルの前で、待ち合わせ、バイクで着いたとき、加奈子はすでに外に立っていた。
私を持っているそぶりさえなく。
そうでなければならない必然でもあるかのように、ホテルの前の果断の、紫の歯を指先にいじる。
何気なく見上げた先の、十階に、窓を開けた愛が手をふっていた。「起きたの?」
「誰?」
愛に気付かないままの加奈子は、私の言葉の意味を理解できない。…飛び降りなければ、と。
そこから飛び降りなければいいけど。
わたしは想う。確信のように、彼女が、次の瞬間、そこから飛び降りる姿を、目の前に見た気がした。
愛が微笑む。
そこで、手を振りながら。
鼻の周囲に、加奈子の髪の毛と、香水の匂いが混濁する。
暮れかかった空が、優しい光線と、けばけばしいまでの色彩を、ホテルの先端の向うに曝した。
…昨日、新しいプランがありますよ、と皇紀が言ったときにも。「…何の?」海辺に日が沈み始めていた。愛はまだ、失心したまま、目を覚まさない。
「ひどいな…」
大気の温度が沈静化し、肌寒ささえ感られ始めて、背後の、車道のバイクの音響の群れを聴く。
「忘れました?」
意識さえしないままに。
なに?「占拠しようかなって」
「選挙?」…出馬するの?と言った私を皇紀は笑い、国会議事堂、占領しようかなって。微笑み。皇紀の。
夕日に照らされ、彼女の白い肌は桃色に近い、暗く茶ばんだ色彩を、「結構、簡単にやれちゃう気がする…」空はまだくらまない。
かろうじて。
色彩だけが濃く、沈殿した。
青が。
青いまま、空が。
夕焼けが上空、果てたそこで。
2018.06.06.-06.07.
Seno-Lê Ma
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