小説 op.5-02《シュニトケ、その色彩》中(三帖) ⑧…地の果てで、君と。
シュニトケ、その色彩
中
三帖
なにか、現地の食べ物、食べたいって。言った加奈子に従う。タクシーを捕まえて、Búnブンという現地食を食べに行くのだが、「ほんとの、現地食でいいの?」タクシーの外の風景に「いんじゃん?…喰わないのよ」一瞬たりとも視線を投げないまま、「空港でも、なにも」スマホのゲームが音を「…なーんにも、」鳴らす。「まともな料理、いっぱいあるのに。」…外人向けの、…ね。
Bún の中に入った、骨付きのまま砕かれた豚肉を口に含んだ瞬間に、愛は吐いた。
水着になった愛は、下半身にだけ肉をつけていた。豊満な、いかにも女じみた下半身の上に、痩せぎすの上半身が乗っていた。本人の趣味なのか、加奈子の趣味なのか、或いは邪気があるわけでもないいつもの嫌がらせなのか、真っ平らな胸のビキニに、あからさまなパットが、いびつな曲線を作り上げていた。
すがるような目を、Nhgĩa-義人にだけ投げた。愛はもはや、私を信用などしていなかった。何の事実があるわけでもなく。自分を助けてくれるはずがないことだけ、彼女ははっきりと確信していた。
現地の食べ物を口に入れるたびに吐き、ファーストフードには絶対に入らない。インスタントラーメンさえも。
三日もたてば、すでに、店に連れて入ることなどしなくなっていた。結果はわかっているから。
テイクアウトでホテルに持ち込んだそれらを口にし、何かの機会に、吐く。時にはトイレに間に合い、ときには駆け込もうとし乍ら、床に崩れるようにして倒れこみ、床を汚す。
からだをくの字に曲げて。きれいに、尻だけ突き出して。
胃液を吐く。黄色い、消化液の臭気を大量にまとわせた、それ。
愛の眼差しが、揺らぐ。
愛はその表情いっぱいに、ただ、純粋に恐怖をだけ曝していた。
心情は理解できるのだった。背中を向けた、その背後には海が広がっていた。膨大な量の水が、そこにあふれかえっていた。彼女にとって、それはどんな風景なのだろう?
すくなくとも、視界の中では、すぐに果て、尽きてしまい、空と触れ合って消滅する、惨めな、水溜りのようなこの、慣用句として母なる海、と呼ばれるその青い色彩、その匂いは。
囃し立てるように、義人が笑う。「お兄さんみたい…」加奈子が独り語散た。
…ねぇ。
加奈子が言う。
海にさえ、視線を投げることなく。指の先で自分の髪の毛をいじって。
その毛先が、いじられるままに、癖をもって行く。
なんか、話してよ。
何を?
なんでも。
どんな?
至近距離で、加奈子の息遣いが聴こえた。
声を重ねる。対話?もはや、そうではなくて。何もなかった気がする。語られるべきことなど何も。
日差しが砂を照りつけてきらめかせ、光。
反射光。
光。
それらの。
光、その、それら。
散乱する。
空をまっすぐに見上げたまま、義人に抱きかかえられて、愛は海に入って行くのだが、打ち寄せた波の水滴がそのつま先の周囲を濡らしたときに、聴こえないものの、彼女が声を立てたのが見えた。
海岸にざわめきがあって、無数の人々がそこを埋め尽くす。それらの物音の連なりの上に、波の音がかぶさって、その、リズムさえ刻まないでたらめな音響で耳の中を満たす。日本、どっち?皇紀が言ったことがあった。
海の向うをまっすぐ指して、私は言った。
あっち。
本当ですか?。
…たぶんね。その指先が、東のほうを向いていることは確かだった。
まるで、児童を虐待しているようにしか見えない。
愛は、身をこわばらせ、表情には、最早痙攣しかなかった。大量にいま、その耳の中を侵入した波の音が、彼女に膨大な水の生き生きとしたざわめきを実感させているの違いなかった。
青空に一直線に向かった眼差しは、一切のブレを見せない。その、あからさまに決意がある眼差しが、滑稽で、そして痛ましかった。泳ぐ、と。そう言ったのは、愛だった。
朝、寝起きの一番に、一瞬言いよどんだ後で、加奈子に言った。そう、加奈子は言った。
周囲の人間たちが、義人と愛とを避けて、自然に彼らのためのスペースが発生する。
Trang にも一緒に行こう、と言った。
加奈子からの誘いの LINE が入ってきたのは、正午を過ぎたばかりだった。駄目です。
Trang は言った。「陽に灼けます。」やめじぇっ、そう、…ひにじゃけまっ、じゃ、俺、ひとりで行ってくるよ。
やめじぇっ、あの女の人は変態ですから。Trang は言った。
見開かれた眼差しが、世界中の悲惨と、苦痛と、絶望のすべてをいま、まさに、たった一人で体験しているようだった。愛は、もはや、震えることも、痙攣することも出来ずに、完全に体を静止させて、腰まで水の中に沈む。持ち上げられ、胸に硬く押さえつけられた両手のこぶしだけが、力みすぎてふるえ、彼女にも同じように、時間が流れていることを照明していた。
波のたびに、義人の体が揺れ、愛の髪の毛が、ただ、無機的に揺らいだ。
「義人、そのまま、落としちゃえばいいのに。」加奈子は、微笑さえせずに、「…いや、ほんとに、」
そうしたら、泳ぐかも知れない。つぶやく。
すれ違いざまのベトナム人に甲高い声で話しかけられ、笑って、その不注意な一瞬を、背後から高い波が襲った。姿勢を持ち崩した義人が愛ごと海水に突っ込むが、腰程度の高さでしかない。背の低い愛でさえ、胸元までしかないはずだった。
義人が歓声を上げて、なにかののしり乍らたち上がり、周囲に笑い声がたつ。顔を手のひらで拭って、愛はいない。
一瞬、義人はたじろぎ乍ら、すぐに声を立てて笑う。沈んだ愛が、水死体のようにうつ伏せで浮かび、彼女は失心していた。
なぜか、陸に挙げた愛は、体中を真っ赤に充血させていた。
砂地にそのまま横たえて、その肌を直射した海辺の日差しは、急速に乾かせて行く。体を曲げて、わたしは愛の口元に頬を寄せた。水はもう、吐いた後だった。胃液と一緒に。胸に耳を当てる。鼓動は聞こえなかった。
生きているには違いなかった。
海水のそれに混ざった、人体の皮膚の強い匂いが、塩気にまみれて、鼻を差す。義人の笑い声はやまない。加奈子は、哀れむような眼差しを送るしかない。
「皇紀は、どこ行ったの」中国です、と義人は言った。次の日、…なんで?雨の日。「瑞希さんと」朝から、雨期でもないのこまかなに雨が降りしきって「買います。」
「…ん?」
「爆弾です。」爆弾?私は眉をひそめて、ホテルのロビーに、まだ人はいない。「練習します」フロントの人員以外は。朝の7時半。
「…何の?」
「爆弾の…」ビル、…ね、と、手のひらで爆発のジェスチャーをし、ゆっくりと振り下ろされていく両手は、倒壊して行くビルを表現したのかも知れない。
ばくだん、という発音が、外国人にとって非常に発音しやすい音声であることを、義人の正しい発音が証明していた。
「…ここで?」
うなづいた義人は微笑、いつでも、と、想う。この男には、悲しみを感じない。
自分が死んでしまうときにさえ、彼は微笑むだろうか?
たしかに、昨日の夕方、レンタル・バイクを飛ばして海岸まで来て、数分間の立ち話で分かれてから、だれも皇紀を見かけなかった。
「Maさん、また、儲かります。」
「なんで?」
「…ビル、壊れますから」苦笑じみた笑い声を、私は立てる。
Trangと子どもは、家に置いてきた。
加奈子たちはまだ降りてこない。
開くエレベーターのドアはすべて、赤の他人を連れてくる。
何度かLineを鳴らしても、一向に出ようとしない。いつものことだった。
せかせておいては、時間に遅れ、呼び出しておいては、連絡不通になる。
部屋に迎えに行くほど、加奈子たちに飢えるているわけでもなかった。
コーヒーでも飲もう。わたしが言って、渋る義人を連れて、立ち去った。
クーラーの効き過ぎたホテルの、自動ドアが開いた瞬間に、湿った、肌寒い大気が、生暖かく肌に触れる。生き物に、不意に触れられたような錯角さえ起こし、不意に鼻で笑ってしまった私を、義人は不思議がりもしない。
義人が不機嫌なのは知っている。
昨日、加奈子が、彼をなじるだけなじったのだった。愛を殺すつもりだったのか?と、愛が、砂浜で意識を失い続けていた間中、完全な無表情を曝して、何も言わなかった、その存在感さえ消失していた加奈子は、愛が目覚めた瞬間に、抱きつきもせずに、ただ、…ん。
その、かすかな音声だけを漏らした。
かならずしも意味を持たない、しかし、そのとき、その瞬間に於いて、加奈子にとっては、まさにそれでこそなければならなかったそれ。
私はその音声に、むしろ、感情的な正確さを感じた。リアルに過ぎて、心臓の中を鋭利にえぐられたような感覚さえもがあった。
ん、と、その音声が、その音の質感の記憶を、私の耳にしばらく持続させ、頭が変です。義人が言った。
私にカフェのいすを引いてくれながら。加奈子さんは、頭が、悪いです。過奈子を、そして振り返った私の眼差しの中に、壊れています。義人は言う。
加奈子は、いきなり、涙を流した。
無表情なままで、前ぶりもなくにじみ始めた涙が両目を瞬間で充血させ、潤わせ、充満し、あ、と、こぼれると、想うまもなく、それは決壊する。
その瞬間、泣いてはいなかった。まだ。十秒とちょっと、その静かな洪水が続いた後で、加奈子が息をついた瞬間に、しゃくりあげ、無き崩れ、流された目がふるえ、もはや、おそらくは、すでにその視界はなにものをも捉ええてはいない。
為すすべもない。
かまわなくていいと、全身で訴えながら、一人で泣き続け、その同じ全身が、誰かの抱擁をさえ訴えていた。
すでに、私は眼をそらしていた。愛は目を開いたままで、焦点ゆっくりと合わせながら、意識ばかりか、人格を冴えゆっくりと取り戻されなけらばならなかったかのように、そして、ようやく開かれた唇が何かを言った。
聞き取れなかった。
読み取れもしない。
綺麗、と、きれー…、そう言った気がした。
あるいは、そう想いたかったのか。
たまりかねた義人が加奈子の肩を抱こうとした瞬間に、加奈子の平手がその頬を打つ。
義人は言葉もない。
私は気付かなかった振りをする。それが、礼儀で出もあるかのように感じられていた。愛は、もとから、何も理解してはいない。彼女の眼差しのすべてを、夕暮れかかった空の色彩が、占領しきっているに違いなかった。
顔だけ出しにきた皇紀はもう、帰っていた。
何をしに来たのだろう?バイクを飛ばして。暴力的なほどの運転に、数台の車とバイクにクラクションを鳴らされ乍ら。
頭がおかしいから、と、義人は左手に見えるホテルの入り口から目を離そうともしない。
駄々をこねるように、カフェに誘う私を拒絶したものだった。
数回の誘いに、ようやく乗った義人は、未だに納得できずに、いらだたしげに指と指とをこすりつけた。
何の意味があるのかは、わからない。「娘なの」
加奈子は言った。愛が身を起こそうとし始めるのと、同じだけの長い長い時間の後で、泣きやんだ加奈子は、「知ってた?」
「誰?」
「決まってる」
「誰?」
「愛」
「お前の」
「そう」
「…か。」…っか。…そっか。自分の頭の中に、それだけが、単なる響きとして連鎖していたのには気付いていた。
「…汪」
「…ん?」
「パパ、…ね。汪」
ああ、と、私は喉を鳴らす。「…たぶんね。」そう、…っか。にじゅうよんさいのときのね、そう、…なの。…あのこ、…なの。それら、「汪以外にいないんだよな。」加奈子の吐く音声の群れは、「***の癖に」断片的に耳にふれて、もはや、海は暗い。
夜が、すでに訪れて、手の施しようもなく、夜が、ただ純粋に夜を曝す。
ダナン市。
亜熱帯の、そして海沿いの、かつ、(日本人にとっては)巨大な川の濁流に真っ二つに分断されたこの町は、夜になると、一気に肌寒い、生暖かなままの冷気に襲われる。
空は、地上が明るすぎるために暗く、寧ろ、地上の照明に彩色されて、ぼんやりと確認できる雲は、さまざまな着色を曝した。
一緒に食事に言ったときの義人は悲惨だった。
事あるごとに加奈子に罵られ、結局は何も言わずに、存在を消すことそれだけに専念し始めるのだった。
ただ、お手上げだ、と、このふしだらさを絵に描いたような、理不尽な女への苛立ちをかみ殺して、ときに、なんども私に流し目をよこす。
私は微笑むか、気付かなかった振りをするか、それ以外にはない。
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