小説 op.5-02《シュニトケ、その色彩》中(三帖) ⑥…地の果てで、君と。
シュニトケ、その色彩
中
三帖
「何?」
言った私に、答えもしなかった。建築途中のままに放置されている、…この、半年くらいの間。ずっと、その、コンクリートの地肌と鉄筋を空に向かって曝した、背後の、未完成のマンションの廃墟のようなたたずまい。日陰はそこにしかなく、Trang はその、日陰に逃げて行くに違いない。
子どもが、…どこからどう見ても、単なるベトナム人にしか見えない子ども。彼女は汗ばんでいるかも知れない。直射日光に背を向けた、Trang の体だけが、かろうじて遮ってやっていた。
サトウキビのジュースを。
私はそれを二つ買いに行くために、大通を渡る。
一階部分に突入したらしい、自衛隊の
人間たちの、気配が、物音以前に足元で
揺れる。振り向き見た
皇紀が、足元に散乱した空薬莢を蹴飛ばした。音が
しないように、繊細に。ほほえましくさえ
想う。皇紀の背後に、ヘリコプターが音を
立てる。窓の
向こう、割れたガラスの
向うに。
どうやって、埋葬してやればいいのだろう?
叫ぶように、涙さえ出さずに。声だけで泣きながら、私は、どうやって、彼らを。ここの埋葬の流儀など知らない。あれほど、多くの人間が死んだのに、私はそれを学ばなかった。
埋葬してやれるのは、いまや、私しか残されてはいなかった。
彼女たちには。
どうやって?
「…青い。なんで?」
不意に、皇紀が言った。
…なんで
ダナン市の海岸沿いにバイクをとめて、私は
皇紀のために何か飲み物を買ってやろうとし、
大気に温度がある。「なんで、」夏の
「青いんだろうね、」その。
「空って」
なんで、
…青さの意味って何?
青いんだろうね?
言うだけ言ったあと、皇紀は声を立てて笑い、自分勝手に
空って。
その会話を終わらせる。
議員たちを片っ端から、出来る限り
銃殺してやった後で、ベランダに
向かう。皇紀が何かの檄文を読み上げる
予定だったが、彼女が、何も用意さえしていないことは
知っている。そして、時間もなければ余裕もない。後ろ手に縛られ
拘束された、その、この国の
首相は義人に尻を蹴り上げられながら、階段を上がる。赤い
絨毯の。愛が、私の尻を
叩いて見せた。いそいで、
いそいで。かすかな
上気が、その、
幼さを残した
頬の
皮膚に
あった。
愛は、両手を広げて見せたのだった。議事堂の中央玄関上部のベランダ。もう、ヘリが無数に旋回を始めていた。愛が、息を吸い込み、吐く。肺の一番奥まで、その、深呼吸。
「…やったね。」皇紀が言った。
流れ込んだに違いなかった。空気は。
彼女の肺に。東京の、地上を見下ろす、空の一番低いところあたりの。
「とりあえず、日本、死んだね」笑う。
Minh ミン が、負傷した Dan ャン を介抱した。大した傷ではなかった。手首を捻挫したに過ぎなかった。
息を荒らげて、その苦痛を表現する表情が、直射日光に差された。小さい、悲鳴以前のかすかな声が押し殺された気配に振り向いて、愛が、背後から皇紀に触れていた。皇紀は微笑みもせずに、ベランダの向こう、東京都の遠景を見た。彼女の背中を、撫ぜるように、その、愛の、奇妙なほどに大人びて見えた仕草が、私を微笑ませそうになったとき、私は聴く。ヘリの音響、そして、風にはためいた衣類の、私たちのそれらの、無数の、それ。表情以前の、海の向うに目を凝らしたような表情を曝したままに、愛が皇紀の腰の改造拳銃を手にしたとき、撃つだろう、と、私はただ、そう想っていた。
一度手に握られた拳銃が発砲されないわけがなかった。耳に、乱射された銃声の残響の名残があって、誰の耳をも重くしていたに違いない。
銃口は、やや、その前方に投げ捨てられたままに、殆ど茫然と、愛が引き金を引いたとき、床の上に撥ねた弾丸は、Minh を撃ち抜いた。なぜ、と。
目の前で起こったことを信じられないのではなく、ただ、思考は沈滞し、その隙間を行動が埋めた。すでに私は愛に駆け寄ろうとしていたし、Nhgĩa-義人は Minh の死体にひざまづいた。
器用に、顎から下が吹き飛んだそれを。
あきらかに、皇紀は愛を許していた。
その場にいた6、7人の会員たちは愛を見ていた。
何を?…いいよ、と。ただ、いいよ、と。
愛は私たちに交互に銃口を向け、唇が一度かすかなふるえを見せた。痙攣したような、その。荒れている。
すこしだけ、彼女の唇は。
どこか茫然としたままの皇紀は、やがて、泣き出しそうな眼差しを、立ち尽くしたまま愛にくれた。愛は、ベランダと空の境界線へ、背中を向けたまま後退した。意図したのか、そうでなかったのか、誰にもわからないままだった。私は、愛の数メートル前方に立ったまま、後退する愛を案じた。そのまま、一度も振り向き見もせずに、バルコニーの終わりが近づいていって、どちらが?
堕ちるのが先なのか、引かれた引き金に落とされたハンマーが、また誰かを、銃殺するか、少なくとも負傷させるのが先なのか。
あぶない、と、私の声が、喉の内側だけで何度も愛を諭すが、見る。その背後には青空が広がる。
わずかばかりの雲を引き裂くように散らし、青い。
こっちに、と、私は帰って来いと、それをどういう身振りで伝えればよかっただろう?
遠方のヘリが旋回する。
遠いそこでの、騒音の大音響の存在を推測させる。急速な回転。
回転するプロペラの。その。
バルコニーの行き止まりのすれすれで、愛が銃口を自分のこめかみに押し当てて見せたときに、Nhgĩa-義人に掃射された機関銃が、愛の腹部を破壊する。
吹きだされた夥しい血が、その触れたものすべてを穢す。
愛の、添えられた手のひらさえも。
首の皮膚が細かく痙攣しているのを見た。愛の。震えた。私のまぶたが、そして、振り向いた肩越しに、皇紀は長く、息を吐いた。
それは、何ら、明確な感情をは伝えない。
ベランダの手すりにもたれかかって、いっぱいに背をのけぞらせれば、傷付いた皮膚は内臓をこぼれさせたが、もはや出もしない声で、その時、愛は叫んでいたに違いなかった。
或いは、悲鳴だったのか。ひっくりかえるようにこぼれ堕ちて、愛の身体は墜落した。手すりに血痕だけを残した。名残のように。
考えてみれば、遠方のヘリは報道のそれに違いなく、一体何人の人間たちが、あの殺害を見たのだろう?
それに、やっと、十分後に気付いたとき、明らかに、目に映るものの風景の、その気配の差異の意味を知った。それらは、明らかに、今まで見たこともなかった気配の色彩を曝していた。わたしたちは、今、明らかに、日本中から、例外なく憎まれていた。
殺しても殺したりないほどの憎悪が、私たちの周囲にあふれかえっていることに気付いた。
その差異が、もはや、世界が曝した色彩それ自体として明らかだった。同じ青が、全く違う色彩を曝し、わたしたちを憎しみ、ただ、私たちの無残な破滅だけを心から祈っていた。
二度と、立ち直れはしない、無慈悲なまでの、無残さを。
ただ、わたしたちに。
バルコニーに身を乗り出して、議事堂の路面を確認したのは、一人、義人だけだった。
首を振った。
そんな事は誰もがわかっていた。
愛は死んだ。まだ自衛隊は総力攻撃をしかけない。
屋内に撤退したわたしたちは、皇紀にそれぞれの目配せをくれ、もはや、作戦などありえないことなど理解していた。
あとは、私たちの完全な、留保無き自由時間に他ならなかった。
後ろ手の男が、ベランデ、尻を上げたまま顔で這った。
Minh の死体は放置されていた。
Nhgĩa-義人は一階に降りて行く。実戦を再び交えるために。数人が後に続く。…こんにぁあんっ、と。
その声は皇紀の声だったが、「こんなのか、…」と。
そう言ったに違いない、表情を失って、うな垂れた皇紀の眼差しに、それが悔恨だったのか、納得だったのか、確認するすべはなかった。
…どっちにしても
「…くそ、だね。」皇紀は言って、唾を吐いた。
後ろ手の男が這いながら、よじった眼差しに、胸焼けしそうなほどの殺意が、あるいは憎悪が、充満していた。
皇紀の体から、…硝煙の?煙った、鉄の酸化した臭気が
夥しく
その男が、一国の官房長官かなにかだったことに気付く。
名前は忘れた。
いまや、この国に政府など存在しない。
空を、明らかに強気なヘリが無数に飛び交い、拡声器が聞き取れない音声を木魂した。
無政府国家の、無政府軍隊が、いま、私たちに牙を向く。
朝、六時。
私を揺り起こした愛が、暇つぶしにつぶやく。柾也さんって…
「生まれ変わったら何になる?」
何って?…何?
生まれ変わったら、と、愛が言ったのは、その時、私たちを誰も相手にしている余裕がなかったからだった。会員たちは《維新》の準備に追われた。大量の火薬と火器をそのままトラックの毛布の上に積み、シートを掛け、こんなもんで大丈夫だよ。そう言ったのだった。皇紀は。日本でこれだけの火器がトラックで輸送されるとか、だれも考えてないから。
馬鹿だからね、政府も日本人も。
まったく、全部。…みんな、…ね?
「何に、なりたい?」
お前は?言った私に、「君は、何になるの?…生まれ変わったら。」
「愛?」
うなづきながら微笑む私に、「何にもならないよ」
「何で?」
「知ってるから。」…生まれ変わりなんて、存在しない事。
諭すように…愚かな、馬鹿な、愚鈍な、私を諭すように、愛は、その、聴く。
わたしは、彼女の声を。
聴いた。
寄せ集めの机ででたらめにバリケード化されたドアが、何かの爆弾で吹っ飛ばされる。
煙の向うから銃弾が飛んでくるのを待つ。背後、ヘリが窓の外、すれすれの至近距離に接近している。
待ちきれなかった。彼らの発砲など。
振り向いた私は、拾い上げた機関銃を向けて、乱射する。
ヘリに向かって。
その轟音と、空中に静止しした躯体の、かすかなブレの連続。
叫び声さえ立てない。
見た。感じられた反動。胸に。
背後で発砲される音響の、一斉の掃射を聴く。
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