ハイドン(Franz Joseph Haydn)、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)。…3つの《運命》









ハイドン(Franz Joseph Haydn)

モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)

ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)

…3つの《運命》









Franz Joseph Haydn

(1732-1809)

Wolfgang Amadeus Mozart

(1756-1791)

Ludwig van Beethoven

(1770-1827)













運命、と言えば、ベートーヴェンだ。





Ludwig van Beethoven(1770-1827)

Symphony No.5 in C Minor op.67



1. Allegro con brio

2. Andante con moto

3. Scherzo. Allegro

4. Allegro





しかし、ジャ、ジャ、ジャ、ジャーンの例の《運命動機》、あれはベートーヴェンの発明ではない。


モーツァルトも、ピアノ協奏曲第25番で、すでに使っている。…むしろ、モーツァルトの使い方のほうが、地味だが、執拗で、かつ、なにかこう、…いわば、存在論的に不気味だ。

自分でも、何を言っているのかよくわからないが(笑)。





Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791

Piano Concerto No.25 in C Major, K.503



1. Allegro maestoso

2. Andante

3. Allegretto





モーツァルトの曲種の中で、一番人気があるのは、たぶんピアノ協奏曲である。


もっとも、本当に一番愛されているのはオペラなのだろうが、基本的に2時間ちょっとかかるあれは、そんなに日常的に聴けるタイプの音楽ではない。

というか、そもそもオペラは見るものだ。

なので、日常的な聴取の対象としては、ちょっと向かない。


そして、基本的に、モーツァルトの交響曲はつまらない。これは暴言を吐いているのではない。モーツァルト好きに限って、そう想っているんじゃないか。


ピアノ・ソナタ。これでもいいのだが、どうせだったらオーケストラの音も欲しい。

そして、たどり着くのがピアノ協奏曲。

あとは、ディヴェルティメントなど、だ。


そんな、大人気のピアノ協奏曲の中で、もっとも人気のない曲が、この第25番である。


どうしてかと言うと、たぶん、何を言っているのかさっぱりわからない曲だから、なのではないか。

《運命動機》は、モーツァルトのほうが先だ、と言ったその《運命動機》、第一楽章からすぐに、はっきりと何度も何度も執拗に刻み続けられる。ベートーヴェンのそれのように、はっきりと、《運命はかく戸を叩く》と言った感じで、攻め込んでくるような破滅感はない。

のた打ち回るような焦燥感もない。


明るい、清潔で、すがすがしい風景の中に、妙な焦燥感らしきものや、不意の破滅の予感が執拗に、ただ気配をだけ感じさせて、しかし、空は青く澄み切り続けている。

…いや、やっぱり、俺は幸せなままなんだ。…


でも。


…と、言ったような音楽。

だから、モーツァルト好きからは、いつもの《モーツァルト・マジック》が感じられない、と、敬遠されてしまう。

もっとも、なにも、僕はこの曲が彼の最高傑作だなどと言うつもりはない。


とはいえ、妙に棄ておくには忍びない曲であることも、事実なのである。


第二楽章にも、結局は《運命動機》は姿を現す。


そして第三楽章、この楽章に関しては、モーツァルト好きも普通に好んだりする、中間部に適度な暗さを含んだ、明るく、軽い音楽だ。なので、なんか、つじつまが合わずに、若干、納得できないような気がしながら聴いているうちに、ふと気付く。

このモティーフは、《運命動機》から一音外しただけだよな、と。つまり、タタタターンかタタターンかの違い。

要するに、これは、第一楽章のあの風景に、そのままつながりうるのだ、と、そう気付いた瞬間に、音の向うに見えていた風景の意味が一変するのに気付く、と言う楽章だ、…と、僕は、想う。


結局、なにか、こう、…破滅はしないし、破滅的な風景が一瞬でも広がるわけではないし、あるいは未来の破滅が予言されるわけでもない。

が、なにか、どこかで破滅的なのだ。


少なくとも、この曲は、僕にとって、モーツァルトの曲の中で、一番好きな曲ではないが、一番気になる曲ではある。

そもそも、何回聴いても飽きない。


さて、《運命動機》は、モーツァルトの発明だ。では、ベートーヴェンはなぜ、《運命動機》をパクッたのか?

…この、問題提起は、実は、根本的に間違いである。

なぜなら、《運命動機》は、モーツァルトの発明でもないから、である。

《運命動機》は、もともとフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの、生涯を通じてほぼ全作品に姿を落としている、宿命的な《動機》なのである。





Franz Joseph Haydn

Ⅲ: 47

Strings Quartet op.50 No.4



1. Allegro spiritoso

2. Andante

3. Menuetto: Poco allegretto

4. Fuga: Allegro molto





この曲など、ベートーヴェンの《運命交響曲》の、もろに元ネタ、と言う感じだが、この曲以外にも、とにかく、ハイドンの曲は、初期の初期から《運命動機》を、ふと気が付いたら、どこかの声部が鳴らしている。


ハイドンの場合、この《動機》は、かならずしも《運命》ないし《破滅的な何か》を暗示すだけ、とは限らない。もっと多様な表情を曝す。

だが、基本的には、どこかで、若干程度でも、ある暗い力の存在を、察知してしまいかねない表情を持つことが多いと、言えないわけでもない気もしないでもない…と、こんな意味不明な言い方になってしまうのも、本当にあらゆるところで姿を現すからである。


ただ、一つ明確に言えるのは、宗教曲《イエス・キリストの最期の7つの言葉(Die sieben letzten Worte unseres Erlösers am kreuze)》には、この《動機》は全く出てこない、ということだ。


ところで、《運命動機》という名の由来は、こんなエピソードによる。


ある日、弟子のシントラーがベートーヴェンに尋ねた。

「新作のシンフォニーの、あの動機、あれ、一体、何を意味するんですか?」

ベートーヴェンは答える。

「…ん?…ああ、あれね。あれは、お前、運命がああやってドアを叩いてるんだよ」


でも、この師弟にとって、《新作のあの動機》とは、どういう意味を持っていたのか?


そもそも、ベートーヴェンの完全なオリジナル作品である交響曲ハ短調、という意味など、持っていたのだろうか?

繰返すが、ハイドンの弦楽四重奏曲に、すでに《運命動機》の反覆、という手法を駆使した先行作品は存在している。そして、ベートーヴェンがハイドンの弟子だったことなど誰でも知っていたし、そもそも、当時最先端の、前衛音楽のカリスマだったハイドンである。

誰だってハイドンの作品くらい研究している。

だから、その動機の、ハイドン→モーツァルト→ベートーヴェンという流れくらいは、誰でも知っていたはずである。


もっとも、ひょっとしたら、モーツァルトの曲の方は、曲自体がそれほど認知されていたなかったかもしれないが。


いずれにせよ、シントラーだって、その《新作交響曲》が、師の師の先行作品が持っていた音楽的可能性を徹底的に研ぎ澄まして、先行作品にはない刀のきらめきを与えたパワフルな作品であることを、ちゃんと理解していたのではないか。

だとするなら、新作交響曲の《あの動機》とは、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベンの作品67、交響曲第5番ハ短調の、統一主題。…ではなくて、そこで引用されている、ハイドンの生涯を貫いたところの、あの《タタタターン》という動機そのものについて、尋ねたのではないか?

「結局、あの《ハイドン動機》って、何なんでしょうね?」

ベートーヴェンは答える。

「ああ。あれはいわば、《運命》がドアをたたいてんだよ。タンタンタンターン!ってね」


冷静に、時代状況と事の経緯を考えれば、そうとしか考えられない。

ところで、《運命》である。あくまで、ドアをノックしているのは、《運命》。

《死神》ではない。《破滅》ではない。《破壊》ではない。《無常》でも《恐怖》でも…とにかく、そういうものではない。

あくまで《運命》である。

《運命の人》とも言い、《運命的な出会い》とも言う、あの、運命に過ぎない。

つまり、どうしようもない、意志の力などでは制御不能な、超越的な何かが至近距離に接近しているのだ、と、言っているだけである。

そうやって考えると、ベートーヴェンの、わかるようでよくわからない《第五交響曲》の本当の意味がわかるような気がする。


制御不能な超越的な力そのものに、曝されている。

もちろん、それが何をもたらすことになるなど、分かりはしない。あるいは幸福と解放を与えてくれるかも知れない。だが、いずれにせよ、それは制御不能で、もはや暴力そのものに過ぎない。そんな超越的な力が、荒れ狂ってるんだよ…と。

だから、あの曲は、苦悩から歓喜へと《至っている》などとは言えない。


そもそも、そんなストーリーなど、交響曲は描き出せていないはずである。焦燥の第一楽章、次の第二楽章の陶酔的であるよりは寧ろ、ひたすら覚醒してものを見つめるような、そんな醒め切った歌。そして第三楽章、突然、同一モティーフによる行進曲から壊滅的な舞曲への展開。いきなり転調すれば、第四楽章、勝利の歌。

じつは、何のつじつまもあっていないし、歓喜の歌も、いかにもお手軽に、さくっと転調、はい、ハッピーと、真面目な聞き手を嘲笑うような鮮やかさで勝利へと越境していく。


つまり、それこそが、ベートーヴェンの描こうとした《世界観》なのではなかったか。


どう転がるのかは知らないが、いずれにせよ《運命》が荒れ狂ってるんだ、と。

ベートーヴェンの《運命》は、だから、個人的な音楽、ではなくて、非常に客観的、あるいは批評的な音楽だ、と言う気がする。


結局、肝心のハイドンにとって、《運命動機》とは、一体何を、意味したのだろう?

ところで、ハイドンに、こんな曲がある。





Franz Joseph Haydn

XV: 9

Piano Trio No.22 in A major



1. Adagio

2. Vivace





ピアノ・トリオの第22番。

美しい曲だ。

この第一楽章を聴いて、何かを思い出す方がいらっしゃるのではないか。

何を?…モーツァルトの最後のピアノ協奏曲、第27番の第2楽章を、である。





Wolfgang Amadeus Mozart

Piano Trio No.27 in B-flat major, K. 595



1. Allegro

2. Larghetto

3. Allegro





リンクの13分くらいからが、第2楽章だ。

もちろん、先に書いたのはハイドンのほう。

それどころか、こういう雰囲気、ハイドンのお得意の音響空間だったりする。

実は、モーツァルトの印象的な音響の元ネタは、基本的にはハイドンに見つかることが多い。

いずれにしても、ピアノ協奏曲の第27番と言えば、《モーツァルトの白鳥の歌》と呼ばれ、文字通り最期の作品群の中の一つなのだが、第25番から引き続きの、ハイドン・コンチェルトという気がしないでもない。

結局のところ、モーツァルトにとって、ハイドンとは一体、何ものだったのだろう?


もちろん、彼らは今、何も語らない。

ただ、ああでもないこうでもないと、例えば僕のような、何百年も後の縁もゆかりもない《愛好者》たちが、自分勝手に頭をひねるばかり、である。





2018.07.01

Seno-Le Ma





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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