小説 op.5-02《シュニトケ、その色彩》中(一帖) ②…木漏れ日の中の、君を見る。
このピリオドの後半あたりから、非常に血なまぐさい展開になって行きます。
このピリオドで、だいたい、半部くらい、です。
本編の方は、そのまま行ったきり帰ってこなくなるので(笑)、
インテルメッツォ的な短編を、間に挟むために、いま、書いています。
最初は、《上》だけの、ごく短いものになるはずだったのですが…
タイトルに出てくるアルフレート・シュニトケは、20世紀の作曲家で、
一般的には、浅田真央さんが、この人の《タンゴ》と言う曲で踊った事がある、というので有名な、
コアな音楽好きの間では、20世紀を代表する暗ーい、救いのない曲を書いた作曲家として知られている人です。
私は、その話は、リアルタイムではよく知らなかったのですが、後でインターネット経由で知って、ものすごい違和感に言葉を失いましたが(笑)
真央スマイル、オリンピック・スポーツ、そしてアルフレート・シュニトケ。…
この取り合わせ、最後の一つだけが異様にいびつなんですね。
かつ、YouTubeで演技を見る限りでは、美しいスケートが成立してしまっているあの事実に、
すごく、感銘を受けたりもしました。
浅田真央さん本人なんだか、そのブレーンなんだか、コーチなんだか知りませんが、そのセンスがすごいなと。
普通、シュニトケはないんですよね。シュニトケは…
もっとも、そのシュニトケ、暗い・破滅的・絶望的と言われながらも、非常に端整で、理路整然とした音楽を、実は、書いている、結構クールな作曲家だった、と、私は想っています。
2018.06.14 Seno-Le Ma
シュニトケ、その色彩
中
一帖
「***やろうでしょ?」不意に耳打ちしてささやき、穢い***やろう。Trang がこっちを見ている睨み付けるような視線を確認してから、気付かない振りをしたままに、私の頬に手のひらで触れる。限界まで接近した、そのすれすれの距離自体が、例えば抱きしめあった抱擁よりも寧ろ親密さを Trang の眼差しのうちに表現したはずだった。
加奈子の仕草の一つ一つが、韓国ドラマのような、演技じみたわかりやすさで、あなただけではない、と、Trang に告知した。唇を開いて、私を見詰めたままに、一瞬、指につかんだ鳥の骨をよそ見し乍らいじった後、一気に咥えて、すすり、しゃぶり、咬みきり、舐め、飲み込む音が、開きっぱなしの口の中から派手な潤んだ音をたてる。Trang が鶏の油に汚れた指を立てて、指の腹どうしこすり合わせ、そして、誰もがそうしていた。東京のレストランで同じ音がたったなら、悲惨な状況が現れるはずだった。
傍らの路面をいくつかのバイクが通り過ぎ、歩道に赤いプラスティックの椅子とテーブルを無造作に並べただけの路面店だった。
周囲の至る所で、人々の口から彼らの食事の音響が盛大に立った。Trang は上目遣いに私を見詰め、彼女の完璧にメイクされた真っ赤な唇が卑猥にゆがんで、ふたたび、軟骨を咬むのを見た。私が声を立てて一人で笑うのを、Trang は咎める眼差しさえくれずに、ただ、無表情な顔つきの下で、彼女は戸惑っていた。
軟骨を噛み千切って、丁寧に舌先で唇から押し出し乍ら砕けた骨を床に吐き捨てた。何かに気を使った慎重な繊細さがあった。その心遣いの意味は私には理解できず、確かに、彼女がどこか薄穢く見えるのは確かだった。痩せぎすで、幼すぎるほどに幼さを残して、そのくせ眼差しに狡猾さがあった。たいして狡猾なわけではなかった。単に衝動的であるに過ぎない何をしでかすかわからない女。
彼女自身が、自分を狡猾な何かとして考えているらしいのは気付いていた。彼女が私以外の人間に投げかける、安易な侮蔑のある眼差しがそれを、すぐに感じさせた。私を見るときの、羊のような眼差しとの極端な落差に戸惑いさえ感じた。上目遣いに、息をひそめて、上品で、エレガントで、美しく振舞い続けなければならない痛みをと喜びをすべて引き受けなければならない美しい女で在って仕舞ったことに恍惚とした、そんな、自虐性と腹立たしい自己愛がないまぜになった、その。
いずれにしても、私に選ばれてある恍惚と不安とを彼女は感じているには違いない。少なくとも私の目の前では。醜い、老いさらばえた私に。腐りかけの体臭を撒き散らしているかも知れない私に。夢のように美しい男。すれ違うたびに、女たちが目を伏せて、何かから何かを守ろうとする男。あるいは、押し付けがましい、開ききった瞳孔で見詰めずにはいられない男。
覆いかぶさった豊かすぎる頭髪が括(くく)られれば、みだらなほどの後れ毛を首筋に散乱させ、Trang の好みなのだろう、そして、現地でよく見かける真っ赤な口紅が、褐色の肌を隠そうとした白地のファンデーションの色彩との歪つな対比を作る。眼を逸らしたくなるのは、あまりにも豊かな胸の膨らみだった。虚弱児じみた身体のか細さの中で、そこだけが必死になって彼女の身体の上に豊饒たる女性性を維持しようとしているように見えた。垂れ下がり、胸元を揺らし、それは幼い顔をも含めた彼女のすべてを裏切って、まるで Trang の首から下は出来の悪いポルノか、日本のアニメーションの中の、穢れを知らない清純な美少女たちのような、薄穢い淫猥さを発散した。
Trang にとって、彼女はつつましいエレガントな女であるには違いない。私のただ一人の事実上の正妻でもあった。無意味に垂れ下がった出鱈目で悪趣味なピアスも、趣味の悪い金のネックレスも、腰から前につんのめるような歩き方も何もかも、彼女にとっては彼女の美しさの構成要素であるはずだった。猫のように大きい目のくりくりした黒目の、誰でもそうであるところの無機質な無表情さが、Trang の顔の真ん中で、彼女が微笑むときでさえも、涙する時でさえも、そのはかない表情の繊細さのすべてを台無しにし、Trang の美しいともいえなくもない貌は、結局は悲惨な茶番に堕す。
眼差しが重なり合う。
Trang と私の。
そして向こうの席でおかゆをすすり上げる五十台の女と、その横の男、彼らの眼差しも絡まりあって、空間に、話し声の音声さえ絡まる。
通り過ぎるバイクの排気ガスの匂いがした。
Trang が前のめりになって私の唇に指を触れる。
彼女が声を立てて笑いそうになっているのは知っている。
髪の毛が匂う。
眼差しを反射光が白濁させた。
彼女が取ったのは、私の唇に付着した崩れた米の粒だった。私は右手でテーブルの上のおかゆの茶碗を撫ぜた。Trang は崩れそうな微笑みを唇にわななかせて、指の米粒を唇に持っていって、そして、自分の舌に奪った。私は彼女を見ていた。
頭を撫ぜてやると、舌を尖らせて、Trang は何かを私に矜持した。「あなたも、仏教徒なの?」
「なに?」Nhgĩa-義人が、振り向きもせずに答える。疾走するバイクの上、騒音と風にまぎれて、音声はほぼ聞こえない。バイクは疾走する。海辺の風景は急激に流れる。すれ違いに通り過ぎるバイクの音が、真近な風の音の外で立つ。Buddhist、と私はぶっでぃすと、言いなおして、Nhgĩa-義人は二回繰り返させた後に、「でも、日本人も、でしょう?」
「日本人は、」じぇもにふぉんいんもいぇしょ…知ってる?「そうじゃないよ。」三番目の眼が開くの。あんな、仏陀になったら。生々しい宗教性など、…知ってた?サリンでもばら撒かれない限り、日本ではめったに体験できない。
バイクを止めた雑然としたカフェで、Nhgĩa-義人が自分の足元にまで差し込んで、テーブルの角に敗北し、青い影に堕した日差しのきらめきを見やり乍ら「テトをすぎると、急に暑くなります。」息を吐く。
九時を回ったに過ぎないにも拘らず、日差しの温度は急激に上昇し始めていた。昨日までとは別の国にいるようだった。白濁した、雨がちな曇り空の下で、震えるような寒い大気が風もないままに停滞し、朝方の雨は昼過ぎまで降り続ける。どうしようもなく悲しい世界の白濁。「もう、暑くて、大変」振り向いて笑った Nhgĩa-義人に、「汪を殺したとき、なんて思った?」言った。彼は聞き取れないか、日本語を理解できない振りをした。或いは、半分くらいは本当に理解できなかったのかも知れなかった。迷惑そうにたじろいだ彼の表情にはどこか素直さがあった。「どうでしたか?中国人を殺したとき。何を、感じましたか?」
「…どうだったの?」
「悲しかったですよ」
「あなたが?」
「汪さんは裏切りましたから」Nhgĩa-義人は かなしかたじぇっよ 本当にそう思っているに おさんわ 違いない。眼差しが、うらぎりまったから 何か、高貴な悲しみに耐えていた。
「それに、…ね、…」Nhgĩa-義人の声。眼差しの向こうの日向(ひなた)で子どもたちの集団がじゃれあう。んー……、直射された太陽光が彼らの肌を灼く。幼い彼らの「でも、」じぇも、肌の表面積は瞬く間に光を反射する。「それに、彼は中国人ですから」
「あなたもベトナム人でしょう?」何も言わずに首を振るNhgĩa-義人が言葉を捜す。十二月中旬の東京で雪が降ったときに、加奈子が私に見せたのは《日本に帰れますか?》という由紀乃のLINEメッセージだった。ダナンの、彼女のホテルの部屋で。《帰れない。どうしたの?》もう一度、と、「日本に帰りますよ」Nhgĩa-義人は振り向きもしないままに言った。「…仲間を集めて、」
ゆち、…ゆし、…ゆう、…
《パパが大変です》「帰って、」
…有志?
《どうしたの?》
そうじぇっ、ゆすぃじぇっ
「日本を作り直します」《みんな困ってます》加奈子に背を向けたままメールを開いたとき、汪の赤坂事務所からのメールを見つける。
加奈子の泊まっているホテルの壁は白く、背後からの窓越しの陽光が斜めの影を作る。午前の十時だったから、東京は正午だった。《社長が刺殺されました。義人君が犯人です。身柄は事務所で拘束しています。詳細、追って連絡します。口外しないこと、お願いします。》午前9時45分。藤原瑞希。私は笑った。「汪さんの言ってることと変わらないよ。」
「私は汪さんじゃありません。」Nhgĩa-義人も、憤慨して見せるが、すでに声を立てて笑っていた。彼はいつも屈託の無い笑い方をする。そのくせ本当に面白がっているようには見えない。「私は中国人じゃないから」
「ベトナム人でしょう?」
「日本人ですよ」言って、コーヒーの入ったロックグラスの氷をスプーンでかき混ぜた。私が微笑んでいるのを彼は見詰めている。「日本人はもう日本人じゃありませんから、私たちが日本人になります」私と加奈子は額をくっつけるようにして、何と言うわけでもなくスマホの画面を見ていたが、唐突に鳴った無料通話を取った加奈子の指先は敏捷だった。母親からだった。実際には、彼女がどうしようもない焦燥感に駆られているのは見て取れた。いきなり顔を上げた加奈子の顎が、首もとの空気を揺らした。彼女は笑いそうだった。「いつ?」Nhgĩa-義人が声を立てて笑うのを聞いていた。「いつか。」《了解です。》瑞希に返したのはメール本文はそれだけだった。あのベトナム人が殺しちゃったらしいよ。「誰を?」…パパを。加奈子がその母親としゃべりながら、身をよじって耳打ちした。「どうやって?」
「さぁ…」Nhgĩa-義人は言い、加奈子は手を空中に静止させて、待って、とその身振りは言った。「占領してしまうのがいいと思います。日本人をみんな選別します。駄目な日本人は追放します。殺すや。支配するや。もう一度教育するや。残念です。日本人、もう、日本人は、死にましたから。殺します。」私たちは話し合う。声を潜めさえせずに。眼差しの向こうにけられたサッカーボールが転がるのを見やる。原田扶美香には、事務所で身柄を拘束されたNhgĩa-義人は譫妄状態に見えた。あるいは、悪魔か、怨霊か。何かでも取り憑いたのか。いずれにしても普通ではない。それは単に、Nhgĩa-義人が彼の母国語で呟き続けていたからだった。
十二月二十日の東京には雪が降った。交通が麻痺していた中を昼ごろになって汪の事務所に遅れて出勤したとき、瑞希は事務所で煙草をすっていた。遅刻した扶美香に、瑞希は何も言わなかった。彼女が煙草を吸うのを扶美香は初めて知った。やばいよ、と、興味もなさそうに言う瑞希に、扶美香は目線さえあわさなかった。眼を逸らしたまま、「社長室、見て」瑞希のその声を聞いた。扶美香は瑞希の、いつもどおり品のない口元と、下唇の下右端のほくろを見る。それはすすり上げるような声だった。普通でない気配はすでに彼女には察知されていて、窓後に雪の日の冷たい白霞んだ光の色彩があった。
あけられた社長室のドアの向こうに、Nhgĩa-義人はガムテープでぐるぐる巻きにされて床の上に寝かされていた。汪はデスクに座ったまま、腹部から血を流して明らかに死んでいた。首が無かった。頭が不在の首は、無理やりちぎり盗られたように、そのぐじゃぐじゃした傷口を曝した。あるいは、食いちぎられたかのように。頭を探そうとした瞬間に、汪の背後の床の上に、その首を見た。汪の首が唇をへの字にまげて、眼を開けたまま置かれていた。首を切り落とすのが、あそこまで皮膚も骨も筋肉も破壊しなければ不可能なほどに、困難が伴うことに、扶美香は気付いた。
血まみれの部屋が湿気を持つことを、扶美香は初めて知った。蒸れて仕方ないの、と瑞希は言った。何かほかの事、考えようとしたけど、全然、考えらんない。蒸れて仕方ないから。そう言った瑞希を振り向き見て、「どうするんですか?」
「…どうするつもりなですか?これ、…」
「なにを?」これを、と、扶美香は言いかけて、より正しい代名詞を探した。父親と母親に謝り続けました、と、Nhgĩa-義人は言った。犯罪者になっちゃったことを?「では、ありません」
「なに?」
「穢いです。」Nhgĩa-義人が手に取ったグラスが振られて、コーヒーは揺らぎ、氷が音をたてる。「とても穢い。血は。」血はなかなか死なないですね、と Nhgĩa-義人は言った。体が死んでるのに、なかなか死なない。大津寄皇紀とは連絡がつかなかった。扶美香が何度も鳴らした LINE は応答もなくその呼び出し音だけを鳴らした。あの、頭のおかしな女。《どこにいるの?》瑞希はすでに壊れているのだ、と《連絡してください。》瑞希は思った。無意味にパソコンを開いて、無意味に閉じる。それをなんども繰り返し、使い物にならない。既読の付かない彼女が打ち込んだフォント文字を見やり、桜桃会に《だれか、大津寄さんと連絡を取ってください》打ち込んだ後、その日本語が彼らに理解できるか自分の中で確認する。《今すぐ連絡とってください》既読が疎らにつき始め、大津寄はどこへ行ったのか、美しい女だった。桜子という本名を偽って、男装し、彼は誰よりもあせっていた。ほぼ外人ばかりで組織された桜桃会の中の、三人だけ居る日本人の中では一番まともだった。彼、あるいは彼女は日本人である以上、誰よりも日本人でなければならなかった。
その後、その他の桜桃会の人間とは連絡がついたが、皇紀とだけは連絡がつかなかった。彼はどこかへ逃げて仕舞った。「ねぇ、」言って、私の頬を手のひらに抱く加奈子を見た。「信じられる?」なにを?
「なにを、」部屋の中を見回し、その「信じて欲しいの?」ホテルの理路整然と整理された部屋の美しさを、私はいまさら乍らに確認した。一ヶ月近く住んでいるのに、まるで生活臭が無かった。あくまでも、他人の部屋のような。「わたし、孤児に為っちゃった」…三十過ぎの。…ね?、と言って声を立てて笑う彼女の、不意に浮かべた涙を拭ってやった指先が、その液体の温度に穢れる。Trangと加奈子がNhgĩa-義人の実家で待っていた。彼女たちは先にタクシーで向かった。二人だけにさせておくことは、あまり好いアイデアではなかった。加奈子が何を言い出すか分からなかったし、何をしだしても不思議ではなかった。待ち合わせ時間は夜の十時だった。Nhgĩa-義人は電車を乗り継いで事務所に向かった。もう、最初から殺す気でした、と、正気づいたNhgĩa-義人は瑞希に言った。「青龍刀で、汪さんを」唐突に取り乱した扶美香がわめき散らし乍ら手当たりしだい物を壊し始め「殺すつもりです」瑞希は彼女を殴打し、ついでに「事務所に来ます」蹴り上げたNhgĩa-義人が「汪さんが居ました。」荒く息をついた後で、すみません、「殺しました」と言ったのだった。「汪さんを、」私は殺しました、と言うNhgĩa-義人の声を聞き、「どうやって?」瑞希は、一人で?「青龍刀で?」Nhgĩa-義人がうなづく。「腹を刺します」扶美香はソファーに身をうずめてしゃくりあげ乍ら「刀を構えましたら」やがて瑞希に、初めて見ました。「汪さんが見ました」首、ない、人間、見たの、「汪さんが暴れようとしましたが」わたし、初めて。Nhgĩa-義人に、「言いました。」逃げない?瑞希は「終わり。」確認したが「あなたは、ぜんぶ」いやな体臭がする「終わりです。」と瑞希は思った。「腹に刺さって、暴れました。私は」それは彼女好みの体臭ではなかった。「汪さんの首を斬りました」何でこんなことになったんですか?
0コメント