小説 op.5-02《シュニトケ、その色彩》中(一帖) ①…木漏れ日の中の、君を見る。
これは、《シュニトケ、その色彩》の《中編》の第一帖、です。
今のところ第三帖までありますが、書き足すかも知れませんね。
いずれにしても、ベトナム、ダナン市で《わたし》が目にした一家惨殺で幕を開けた物語が、進行し始めます。
物語は、外国人を集めた右翼集団の事が主体に進行します。
読み進めるほどに、いきなりの急展開になって行きます。
もっとも、今回のピリオドは、非常に、物語自体はのどかです。
ほぼ、描写主体。
もし、《中・一帖》全体を読んでいただいたなら、今回のピリオドとそれ以外で、かなり違いがあるというか、
雰囲気が別の作品のように感じられるのではないかと想うのですが、
じつは、この部分は直接、まだ書かれていない第二部のほうを、先導する部分だから、なのです。
次回分から、かなり血なまぐさい展開になります。
2018.06.13 Seno-Le Ma
シュニトケ、その色彩
中
一帖
彼をどう呼べばよかっただろう?
本名は Lê Thị Nhgĩa、レ・ティ・ニア、漢字で書けば黎義、日本在住の中国人だった汪たちが戯れにつけた日本人名は義人、彼は私には義人と日本名で呼ばれることを好んだ。私が日本人だったから。日本に何年留学していただろう?もとは医療関係の留学生だった。医学の嗜みくらいはあるはずだった。専門的な知識があるかどうかは知らない。多くの、まともな留学資格もないベトナム人たちが日本へ留学していた。彼らが悪いのではない。日本の企業が大量に買い入れるからだ。安価な労働力として。
留学生にとっては最も安全な外国だった。差別の問題もあるが、中国や韓国ほど深刻ではない。より陰湿なだけだ。本質的には貧しい島国に過ぎない世界の忘れられた局地が、突然、いわゆる先進国になってしまったことから生じた、いじましい、べたついた、執拗な、下位カテゴリーに対する差別が、作法と礼儀の国日本には、あくまでも作法と礼儀として存在し、表向きをは作法と礼儀が上品に覆い尽くす。家畜たちを見下す眼差しる与えたそのもの静かな優しさ。インターネット上でだけ、その下品さをさらけ出して。
Lê Thị Nhgĩa の肌は白い。陸に上がった Lê Thị Nhgĩa は小柄な体躯を日の光の下に、真っ白くきらめかせて曝し、振り向きざまに、「泳ぎませんか?」私に言った。その見事な日本語発音が、唐突に私の耳に触れて、無意味に私を戸惑いさえさせる。自分で、思わず声を立てて一人、笑った。
海の波音が聞こえる。
上手だね、日本語。言って、笑いかけもしない、眼をそらしたままの私にLê Thị Nhgĩaは、快活な笑い声を自分勝手に立てた。いえ、まだまだです、と、教科書どおりに言ったその発音には奇妙ななまりがある。方言のような。
それは不意打ちのように、私に違和感を与えた。お前は、誰?と。
今、彼の背後に彼の生まれ故郷のベトナム、ダナン市の海岸線が広がり、どこか惨めなくすんだ青さを曝した。その色彩が仮の色彩にすぎないことに私も彼も、誰もが気付いているに違いなかった。空の色彩を移したに過ぎないそれは、雨の白濁した空の下では同じような白濁のうちに波立つのだった。
まだ夏には早い2月の始めの海は青から緑に至る色彩のグラデーションをのたうたせて、波立ち、塩が腐ったような潮の匂いが空間に満ち、仮に Lê Thị Nhgĩa を Nhgĩa-義人と呼んでおくなら、彼はその短パン以外の肌を晒した身体を頭からつま先まで海水に濡らして、海からあがったままの水滴を、白い肌に垂らし乍ら息遣っている。短い髪が先端だけ濡れて光る。撥ねた水滴が一瞬だけ、空間をきらめかせた。私は瞬く。
まるで遠泳でもしてきたかのように、たかが十数メートルの水泳に息を上げる。傍らに立ってじゃれるようなすれすれに接近した彼の身体の息遣いを、そして、私は快くさえ感じていた。私が同性愛者であるという理由からだけではない。彼は健康だった。美しいとはいえないが愛すべき、翳りの無い快活な男だった。
泳ぎませんか、と、もう一度言った彼に首を振ると Nhgĩa-義人は日本人は泳ぎませんね、失望した表情を隠しもせずに、私は彼の笑ったままの顔を見やる。
彼の肌の白さは異常なほどだった。白人たちのそれに近いほどに、太陽光線に触れたことが無い植物のような白さを曝したが、アジア人の肌にその色彩が巣食ったとき、同じそれは病的な何かを感じさせた。
白さを穢した乳首の濃い色彩が、なにかの禁忌のように、そして、それは小さな汚点として固まっていた。海水の温度がそうさせたのか、なんなのか。
Nhgĩa-義人の肌の白さは、現地の人間たちには愛されてやまない色彩だった。Đẹp trai デップ・チャイ、美男子の色彩として彼らが否応なく愛さずにおかない色彩は、私にはいびつな色彩にしか見えない。Ma も、と私を彼らがつけたベトナム名で呼び乍ら、こんな風に白ければいいのに、と、例えば Uyên ウェン は私に言った。彼は私の会社の設計士の一人だったが、私と同じような褐色に肌を灼かれ、私に子飼いの犬の媚びた目で笑いかけ乍ら、もっと白ければ、もっと、…ね?。ハンサムです、と言って、Maさんは、あなたもね。とても、言った私にハンサムです。侮辱されたような表情を作って、「いいえ、違います。」それは彼の誕生日のパーティだった。「もう十分、私はハンサムです。」笑う。海辺の海鮮料理屋は笑い声と話し声に満たされていたが、その音声の群れの中に、私たちが上げた無意味な歓声も消えうせていくのに、誰も気付かなかった。
Nhgĩa-義人が鼻を指先で押さえて、鼻水を砂に、無造作に吹き飛ばす。水滴を撥ねながら、空間に光の線を描く。飛沫は、Nhgĩa-義人が気付かないうちに、私の左腕にも触れている。
Nhgĩa-義人はベトナムに帰ってきたばかりだった。テト、旧正月のためでもあり、日本にいられなくなったからでもあった。それは彼の心情的な問題にすぎなかった。彼にとって、最早日本に居場所が無いと言うにすぎず、日本と呼ばれる地表の上には、彼が棲息できる場所などいくらでもあった。年老いた、アジアの中で最も新しいネイションのあの国に、今、膨大な外国人たちが押し寄せて、そこを稼動させていることなど、どんなに馬鹿な日本人でも知っている。高速度のささやき声が繰り広げる世界一困難な言語に支配された地表の上の、日本人たちの隙間を夥しい《アジア人》たちが埋めつくす。
いつか、日本で生活すること自体が、ベトナムで、外国人の中で暮らすのと同じような、文化的な無数の差異に貫かれた、不均質な体験になるに違いない。
ダナン市の朝の海岸には、まだ、外国人は殆どいなかった。韓国人を主体にした、外国人旅行者たちが海にやってくるのは昼近くから夕方にかけてだった。その時間には水着姿の彼らによってここは支配された。現地の人間は水着など着ない。短パンとTシャツで、そのまま飛び込むのだった。
夏になればもっと多くの人間たちがこの海岸を満たした。今は誰にとっても肌寒いはずだった。二月二十日、旧暦の一月五日、まだ夏とは言えない。ほぼ常夏のこの都市であっても。肌寒いはずの空気の中に外国人たちは意固地なほどに肌を晒したがり、現地の人間たちは寒がった肌を厚着に守った。寒くないよ、と言ったのは日本から帰った直後の Nhgĩa-義人だった。寒いだろ?…全然。日本に比べれば。ダナン空港の待ち受けロビーで。全然、寒くありません。インド人の友人が言った。東アジアやヨーロッパから来た人たちにとっては、それでも暖かく感じるのだと。今、彼らの国は凍えるほど寒いのだから。私は笑って、二十五度を下がれば誰にとっても肌寒いんだよ、と否定したが、その私の否定を改めて否定しなおすように、バイクで海辺にまで辿り着いたとき、日本帰りの Nhgĩa-義人は「泳ぎませんか?」と言ったのだった。肌寒さに皮膚をうずかせる私に。「いいよ。寒いから」
「寒くないです。」
「寒いよ。君だって、そんな厚着だろう?」
「いや、これは」彼はジャンパーを脱いで、海岸沿いの道路に止めたバイクの上に放り投げた上で、「日に灼けないためです」そんな事は言われる前から知っていた。「寒くないの?」
「暑いです」ついさっきまで、テトの近くはさむくて大変です、と言っていたことなど最早記憶から抹消して仕舞った Nhgĩa-義人は、泳ぎましょう、私を誘って、Tシャツさえ脱いで、自分勝手に海の中に入って行った。
背後の海岸を肥えた白人の夫婦がランニングして走って行った。朝の太陽は海の側にあった。空がひたすら、色彩を消失した白から青の大半の支配を経て紫がかる寸前までの色彩を推移し、わずかな雲はそれでも空を渡った。かすれ乍ら。私は彼が海の向こうに泳いでいくのを危ないものを見るように、心をなぜか躍らせながら見るのだが、もちろん、Nhgĩa-義人はそんな視線に気付きさえしないのだった。疎らな人々が、海に入り、海岸を歩き、彼らの休日の時間を潰した。波間の群青の濃い緑がかった色彩は、海の色彩が空の色彩、その単なる他人の色彩の借り物に過ぎないとするならば、それもまた空の色彩の含有色だと言うのだろうか?見上げれば、そんな色彩などどこにも存在しないと言うのに、と、私は黄色がかった色素を空に探すが、探し出そうとする眼差しには、その表面の色彩の裏に確かに黄色い下塗りが透けて見えるような気がしないでもない。
いずれにしても、油彩画だったら、無数の下塗りがその向こうに施されなければ到達できない類の色彩が、今、あまりにも単純に視界を満たしていた。いつも思った。もっと、海らしい海はないものだろうか?
球体の地球の必然と、人間の小さな目玉の限界に拘束された、丸く、水平線に消滅する海などではなくて、どこまでも、視野の限界を超えて広がって、遠方視力の限界と共に消滅していく海を見いだすことはできないのだろうか?目の前のものは太平洋なのだから、こんな、ちっぽけな広がりなどではありえないのは当たり前だった。にも拘らず、私が捉えるのは小さな、すぐそこで水平線に消滅する小さな風景にすぎなかった。
海、それが所詮は小さな惑星の表面を満たしさえもしなかった水たまりに過ぎなくとも、もっと、大きな存在として眼の前に現れてしかるべきだった。母なる海と言うにはあまりに惨めで小さく、それは彼女が生んだ人間に合わせた小さな人間的スケールなのかも知れなかった。「どうですか?」いつの間にか背後に回った Nhgĩa-義人に話しかけられたのを、私は振り向きさえもせずに「なにが?」答えたが、Nhgĩa-義人の体臭はまだ海水の臭気をこびりつかせ、その甘く腐ったような潮の匂いと彼の体臭とは混濁した。「慣れましたか?」
「ベトナムに?」
「そうです。日本のほうがいいですね」
「そんな事無いよ」
「どう思いますか?」
「ベトナムを?」
「べトナム人はどうですか?」…って、と Nhgĩa-義人は自分の質問に自分で笑い出し乍ら、駄目な質問です。言った。「なんで?」難しいです。答えるのが。いいベトナム人も、悪いベトナム人もいます。答えることができません。いつも、困ります。「君が?」日本で、いつも困りました。同じ質問をされます。私は声を立てて笑い乍ら、じゃ、何で、いま、あんな質問したの? Nhgĩa-義人は私を見詰めた。一瞬だけ深刻な表情を曝し、見詰めて、そして、しかし、何も言わない彼の沈黙の時間が、何?と、耐えられずに私は口にして仕舞いそうになり乍ら、私は見るのだった。Nhgĩa-義人の黒目が微かに震え、停滞し、何?、と、しかし、持ち堪えられずにふたたび、それは震えたが、…え?。一瞬口籠って、「困る、を、する、を、」言いかけ、「困った、を、する?…あげる。…」私は息をつき、Nhgĩa-義人の、必死に言葉を捜す急速度の思考が今、彼の頭の中を発熱させているのを明示した、痴呆じみた眼差しを私は見つめ、困らせる?
「こま、ら、せる?」言った。「…そう」
私も、Nhgĩa-義人も声を立てて笑うのだった。「困らせたかったからです」眼の前の太った中年の女が、通り過ぎ乍ら私だけを振り向き見た。私の実家に来ませんか?と言ったのは Nhgĩa-義人の方だった。ダナン市のいまだ再開発の手が入っていない町外れに彼の実家はあった。日本人を見ることは初めてなので、喜びます。「日本に留学することが、反対でした」そう彼は言った。その意味はわかるようでわからない。
もちろん、わからないことはない。
言葉の通じない人間とやり取りすることの煩わしさに何度か断ったが、結局はNhgĩa-義人が私を押し切った。一人では実家に帰りづらかったのかもしれなかった。何年も、日本から帰ってこなかった。決して裕福ではない家族から、留学費の大半を捻出させ乍ら。旧正月の真ん中を避けて、そのお祝いの騒ぎが収まりかけた連休の終わりに、私たちは彼の実家を訪ねることにした。Nhgĩa-義人が海岸沿いのリゾート施設の隅を指差して、あれ、あれ、と言って笑った。何を言っているのかわからない私は、なに?なに?言い、彼が、いいから、ね?、あれ、あれ、繰り返すのを聞く。手を引かれて彼に連れられるままに、その真っ白い壁の裏の歩き、Nhgĩa-義人に言われるままホースを手にした。「洗って」と言ったNhgĩa-義人の海水に汚れた体を、私はその水で洗い流してやる。
見咎めた一人の、老年に差し掛かった男に何か言われても、Nhgĩa-義人はただ笑って彼に言葉を返すだけだった。その六十歳ばかりの男は施設の管理人か何かに違いなかった。
Beach resort Da Nang というその施設には韓国語がいたるところにあふれていた。韓国企業が資本を出したのかも知れなければ、単純に韓国人観光客であふれかえっているからに過ぎないのかもしれなかった。明らかに管理人は Nhgĩa-義人を咎めているのだが、Nhgĩa-義人があまりにも陽気に彼に挨拶し続けるので、結局は私たちのすぐそばでしゃがんで煙草を吹かし始め、お前もどうだ?手振りで私に勧めた。首を振ると、Nhgĩa-義人は水を止めて、管理人に礼を言いながらその煙草を奪い、濡れた手で濡らさないよいうに煙草を二本抜き取って、煙草は彼の唇に二本とも咥えられた。管理人が笑い乍ら何か口走って、火をつけてやるのを、済ました顔で Nhgĩa-義人が受ける。管理人は陽気に何か独り語散るように口走り続け、途切れ途切れのその音声を聞く。私が背後にホースを投げたとき、自分の口から一本、Nhgĩa-義人は煙草を咥えさせた。「おいしい?」言って、Nhgĩa-義人は私の返答をは待たない。煙をくゆらし、管理人と話し込む。
話の内容はなんとなくわかるような気がした。Nhgĩa-義人は私が日本人だと言うこと言い、管理人は彼へのサービスも含めて大袈裟に驚いてみせ、ホンダ、アジノモト、と彼が知っている日本の何かを冗談めかして口走ったあと、立った笑い声が消えるまもなく彼に話し込まれたNhgĩa-義人はやがて、Maさん…、振り向いて言った。「この人の孫が今、日本語を勉強しています」話やめない管理人に適当な相槌を打ち乍ら、時に話しかけ、私に通訳し、「今年、日本に行くそうです。」いつ?私は言ったが、話に切れ目の無い管理人の隙を伺うのは確かに困難だったに違いない。
「十二月」Nhgĩa-義人は、忘れた頃に言った。
管理人の独り語散るような話は尽きない。ふたたび隙間を縫って「日本のどこ?」私が聞かせた質問に Nhgĩa-義人は「千葉」という答えを聞き出す。目の前を蝶が舞った。小さい、白い蝶だった。朝の日差しが斜めにその羽撃きを微かさを照らしたが、私はその翼の周辺の空気がその羽撃きにかき混ぜられて、わずかな乱気流さえ生じているのを、皮膚も視界も何も捉えないままに、ただ、黙って、感じた。建物の白壁が朝日を反射しているに違いなかった。視界の横に白い反射が、感じられないまでもうかがわれ、その向こうの湾岸道路を通り過ぎる無数のバイクやタクシー、バスや自家用車の連なった騒音、しかし、人々の話し声は不思議なほど聞こえてこずに、私はその蝶の空間の低い高みに浮き上がった羽撃きを見る。羽の色彩を形成した燐粉は、かすかにでも飛散するのだろうか?
一切の色彩など感じさせない間に。
口に煙草を咥えたまま、管理人の話を聞いているはずの Nhgĩa-義人は私を無表情に見つめていて、どうしてだろう、と私は思った。彼の見つめる表情の意味が私にはわからなかった。なぜ?問いかけるまもなく、管理人は何かを口走り続け、独りで会話する。やがて Nhgĩa-義人は彼に笑いかけて、煙草を投げ捨てるが、管理人はすでに彼の煙草を吸い終わっていた。管理人が未だ話し終わらないうちに彼に握手の手を差し出し、別れを告げようとする私を、Nhgĩa-義人は声を立てて笑い、その声に私は瞬く。管理人に丁寧に別れを告げた Nhgĩa-義人が洗いざらしの水滴にまみれた体をそのままTシャツに包んで、Tシャツの生地が斑に濡れた模様を作る。
風景のすべてが朝の光の中に淡く白濁しかすんだ。ココナッツ、針葉樹林、それらの、街路の両脇を規則的に埋めた樹木の群れがのたうつような線を作って伸び上がって、風もほとんどない今、葉の群れをかすかに揺らしているに過ぎない。山の連なりが頂を雲にぶち当てて、砕けた雲は白濁させ乍らかすむ。白人たちがカフェを探して海岸沿いを歩いた。彼らは白くしかありえない肌を責め苛(さいな)むほどに日に晒し、肌にその太陽の色彩を着色しようとする。ある意味に於いて、日焼けは彼らにとって刺青のようなものなのか。
彼らの肌が赤らみ、それらはすでに茶色くなりかけていた。沿岸の遠くに漁船が群れを成し、砂浜に木肌を編んで作った小さな黒ずんだ船が放置され、日に差されるに任せる。バイクに乗って、さぁ、と、手振りで後ろに乗れと Nhgĩa-義人が指示をくれ、「いきましょう」もう?…もう。もう、遅いよ。
遅刻気味です、と言った Nhgĩa-義人は、なにか口籠って、顔をしかめ、伝えようとした情報を結局日本語化できないままに、なにか言いあぐねた。「なに?」
…ん、
と、ややあって、そう言ったのが彼の精一杯だった。もどかしそうに唇を尖らせた。不意に声を立てて笑った。私は彼の無意味な笑顔を確認しただけで、そして、私は彼の後ろに乗った。
走り出したバイクが風景に速度を与え、視界に通り過ぎさせる。向こうの山のふもと近くに巨大な観音像が建って、海を見やっていた。有名な寺院だった。名前は知らない。いつだったか、Trang チャン に連れられて行った。知っていますか? Trang は境内で、奥の三つ並んだ仏像に三度ずつ手を合わせてひざまづいた後で、Buddha になると、額に三つ目の眼が開きます、と言った。その表情には、不意に恍惚とした恐怖と憧憬がない交ぜになっていて、私は思わず目を背けた。
明らかに宗教的な興奮を含んだ、その眼差しの発熱を忍ばせる表情は、少なくとも私にはあからさまに穢らしく、どうしても理解できないものだった。彼女は山を降りたあと、豊かに茂った髪の毛の中に顔をうずめながら音を立てて蒸した鶏肉を食い、その音が多くの外国人たちに不愉快なことには彼女は、未だ気付いていない。じゅるっ、
ずぅ、ず、
ぎいぃっ、く、
…っちゅ、っちゅ、ちゅ、じゅ、
ん、じゅじゅ、
じゅっ、ん、
…ん、ち。ちぃっ、
つ、
…、ん。ちゅ。…っちゅ、んちゅ。
ちゅぃっ、…っちゅ。藤井加奈子がいつだったか、言った。あの、穢らしいこぶた、そう言って、見下した哀れみの眼差しをくれ乍ら、彼女に顎をしゃくった。
柿本建築研究所のビルの外で、バイクのうしろにまたがったまま私を待っているのが、ガラス越しに見えた。「あんたに捨てられたくないから、どこにでもついてくるの?」
「これから飯、食いに行くんだよ」
「あの乞食と?」
「カノジョとも言う」
「まさか」鼻で笑って、加奈子があからさまな侮蔑を、しかし、その表情がわざと作られたものにすぎないことが私にはわかった。「ここまで体臭匂ってきそう。」
彼女と窓ガラス越しに視線を合わせながら、私に舌を出して見せ、先端をひわいに震わせる。私は笑う。「どこもかしこも臭そうなんだけど。」…ねぇ、
「…変な病気持ってる?あのこぶた。」
「人種差別?」
「そうとも言う。私以外の人間全部が差別対象なの」
「おれも?」
「***やろうでしょ?」不意に耳打ちしてささやき、穢い***やろう。Trang がこっちを見ている睨み付けるような視線を確認してから、気付かない振りをしたままに、私の頬に手のひらで触れる。限界まで接近した、そのすれすれの距離自体が、例えば抱きしめあった抱擁よりも寧ろ親密さを Trang の眼差しのうちに表現したはずだった。
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