ジョン・ケージ(John Cage)…その美メロを楽しむ。
ジョン・ケージ(John Cage)…その美メロを楽しむ。
John Milton Cage Jr.
1912.09.05-1992.08.12.
ジョン・ケージと言えば、《4分33秒》で有名な、20世紀《現代音楽》の象徴的人物だ。
《4分33秒》、ようするに、ピアニストがステージの上で、なにもしないで座っている。それを、聴く。なにも音楽は聞こえない。つまり沈黙の空間が流れるのだが、しかし、それは静寂ではない。
なぜなら、どんなに静かな空間であっても、かすかな物音は常に空間に点在し、それらの音響が満たしている違いないのだから、…という曲だ。
早い話が、コンセプチュアル・アートである。
沈黙と、静かである、という状態と、静寂そのものの差異、および、静寂の不可能性を聴く、ということだ。
これは、ジュリアード音楽院だかなんだかの、無音室に入ったときに、最初は静寂を感じたが、よく聴くと自分の呼吸音だとか心臓の音だとかが聞こえてきた、という体験に基づくらしい。
つまり、生体はついに静寂を聴くことは出来ない。
…そんな、現代音楽の教科書のどこにでも書いてある薀蓄は、どうでもいい。
《20世紀最大の鬼才》たるジョン・ケージこそは、20世紀最高の美メロ…とまではいえなくとも、美音響ピアノ曲を連発していた作曲家であることを、ご存知か。
もっとも、これはケージ・ファンなら誰でも知っていることではある。
かつ、ケージの名がタイトルになったブログ記事に、はたしてケージ・ファン以外が寄り付くものかどうか、私には自信がない。
ということは、全く無意味な記事である、という可能性のほうが、高い。
けれど、たとえば小説ブログ、というこのブログの性質にひかれて入ってきていただいた方で、もし、まだ、この音楽を聴いた事がない方がいらっしゃったら、どうか、騙されたと想って、ぜひ、聴いていただきたい。
In a landscape, for piano (1948)
…美しい。
とめどもない、終結しないモティーフが、あてどなくさまよう、約7分。
実際、ケージがこの曲しか残さなかったとしても、忘れられることはなかったんじゃないか。このピアノ曲一曲のおかげで。
たとえば、映画などで印象的に使われたら、そうとうメジャーな曲になってしまうに違いない。
ジョン・ケージがすごいな、やっぱり本物だな、と想うのは、こういう仕事を、片一方でちゃんと残していることだ。
作曲年代は1948年。
初期の作品、といえる。
しかし、40年代に入った当初から、プリペアード・ピアノ…つまりピアノの弦に異物をはさんだり置いたりして、通常の音響がならなくなったピアノを用いた、前衛的な曲を、すでに何曲も書いている。
だから、学生時代の習作であるとか、そんなものではない。
自分のスタイルをすでに十分構築した、初期《前衛》期のなかで、唐突に生まれている。
こういう曲をちゃんと書いてしまうのが、この人のふところの広さだと想う。
ちなみに、当時の作風は、こんな感じだ。
Sonatas and Interludes (1946-1948)
よく聴くと、この二つの全く違う雰囲気の曲、ある意味でやっていることは基本的には同じことだ、という解釈もある。
後のミニマル・ミュージック的な最小モティーフの繰り返しとか、そういう要素が。
この時期のケージを聴いた後で、いわゆるミニマム・ミュージック一派の曲を聴くと、あまりにも硬直したスタイル過ぎて、つまらなくなる、のも、事実だ。
Dream(1948)
モティーフが、メロディを形成しようとするが、まるで流れ去る水のように、結局は何ものをも形成することなく、消え去っていく。
だが、もちろん音は、現実に鳴っているので、それはあてどない音響美だけを、ただ、かたちづくる。
なんと言えばいいのだろう?
たとえば、地面に作られた、揺れ、ざわめく木漏れ日の影が、何かの形象をかたちづくりそうに見えながら、結局は何ものをも形成しないまま、ただ、それ自体として、にもかかわらず美しいように。…
ケージの弟子、モートン・フェルドマン(Morton Feldman, 1926-1987)による、ケージにささげられた曲。
For John Cage
曲はヴァイオリンとピアノだけの、ひたすら繊細な対話に終始する。
ミニマル、といえばミニマルな、無数の、モティーフ以前の音響が、それぞれに聴きあいながら、無際限な私語を重ねていく。
僕はこの作曲家の熱狂的な信者なのだけれども、ケージのピアノ曲と続けて聴くと、スタイルは違えども、基本的には同じ場所で音がならされていることに気付く。
あの、木漏れ日の、無際限な変容、形態、その色彩を見詰め続ける、その眼差しがある場所で、…だ。
2018.06.12
Seno-Le Ma
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