小説 op.4-03《愛する人/廃墟の花》⑧…世界が滅ぶまで、君と。

立ち上がって、帰ろうとした瞬間に、彼女の家から出て行った男とすれ違った。息を飲んだ。それは、あの男だったから。Trang を強姦した男。首班だといわれた男。彼は、すれ違いざまに、彼女に何か言われて、わたしにふと、さびしげな笑顔をくれた。


…でしょ?、と、わたしに同意を促す笑顔。知っているのかも知れなかった。わたしが、いま、少女を《飼って》いることを?そうではなくて、単純に、わたしを悲しんでくれたのかも知れなかった。いつか自殺するに違いない、あるいは、いつか狂気に堕ちるかも知れない、あるいは、その両方を享受することになるかもしれない、目の前の男の、将来の破綻の予兆に。わたしが何の気も無く差し出した手を、彼は握った。握手に、わたしはその手を握り返した。触れられていた。わたしの手は、彼の手に。しっかりした手だった。肉の厚みのある。その手。少女を殺して仕舞ったその手に。わたしは自分の手さえ穢れてしまったのを実感した。ふたたび、手が離れた瞬間に。はっきりと。











レ・ハンの部屋に行った。

誰もいなかった。

いつものソファに座った後、思い直して、立ち上がり、振り向いて、突き当たりに歩く。壁面と棚が、そこに出入り口のあることを巧みに隠している。…知っている。あるいは、隠されてさえいなかったのかもしれない。単純に、見えにくいだけなのかもしれない。

その部屋は、薄いピンクの壁紙が張られ、花の柄を意識した抽象的な筆が色彩を描き出していた。


花が舞っているように見えた。


中央の、薄桃色のシーツが掛けられたベッドの真ん中に、レ・ハンは仰向けのままで裸体を曝していた。わたしは目を逸らした。恥じらいが生まれて、すぐに、通り過ぎた。

数人の少年たちは、彼を愛撫し乍ら、気付いたわたしにかわるがわる笑いかけた。十人程度の少年たちが戯れていた。ときに、駆けずり回ってみせながら。裸の少年たち。十歳程度の。それ以上はいなかった。幼い子供たち。レ・ハンは茫然としたように、天井を見上げていた。**したばかりなのだ、と、わたしは一瞬思った。その痕跡はなかった。あるいは、薬物のせいかも知れなかった。いずれにしても、彼は恍惚としていて、わたしに、禁忌に触れた、生理的な見苦しさがあった。


いたたまれなかった。


どうしました?

帰ろうとしたわたしにレ・ハンの声はかけられ、わたしは振り向く。「どうしたの?」

「あなたこそ、…どうしたんですか?」

「何が?…」

落ち込んだような沈黙がながれて、「ここは、何ですか?」わたしのその声に反応した少年の一人が声を立てて笑い、早口に彼らは何かを耳打ちしあったのだった。

聞き取れないささやき声によって。

「何事ですか?…何をしてるんですか?いったい、あなたは、」と、言い終わらないうちに、「愛しています。」レ・ハンは、身を起こさないまま、「見えますか?わたしは、いま、愛しています」言った。

「少年たちを?」


「見えますか?」

「奴隷ですか?彼らは…この子たちは。あなたの?」

「違います。…見えるでしょう?」

「なんですか?これは」見てください、レ・ハンは言った。わたしの声には、明らかに非難があった。軽蔑と、嫌悪と。少年たちは、くすくすと笑ったり、笑いあったり、或いは、既にわたしの存在に飽きて仕舞った少年たちは、ほかの新しい獲物を探して周囲を見返した。「壮大な、廃墟です。ここは」わたしが言うのを、彼らの何人かは聞いている。「あなたの、欲望の。独裁者の。哀れむべき、狂った…」

「違いますね。」

「何が?」

「まず、」身をおこしたレ・ハンは、いつものように微笑んでいた。「わたしはいかなる意味でも独裁者じゃない。単に、協力しているんです。彼らの生活レベルの向上のために。わたしは、生態医療の研究をしていましたから。彼らのために、いまも、研究しています。」

「何を?」

「ここで?…ここでは、薬を作ろうとしたり、治療法を考えようとしたり…」

「したり?」

「医者でも薬剤師でもないから。DNA工学の研究者だったに過ぎません。ですから、基本的には何の役にも立ちません。DNA学者に薬を調合させるということは、パブロフにトナカイのそりの乗り方を尋ねるようなものです。素直に、サンタクロースに聞いたほうがいい。…わたしは、基本的には誰も救えません。自分自身さえも。」

「あなたは、」

「末期がんです。ここの医者が言いました。いつだったか、…そう。失心したときかな?…のけぞって倒れたらしいよ。いきなり。…とはいえ、正確な余命さえ、自分では診断できません。すこしまえ、暴動事件があったでしょう?あの犠牲者たちも、ひとりさえ、わたしには救えませんでした。何もできません。ましてや、彼らを支配することなど。…しかし、わたしは救おうとしている。彼らを。わたしたちを。何とかして。…研究しています。どうにか、…」

「なにを?何の研究を?」

「わからない。調査している。LDⅡや、異端種の。彼らの。…なにを、研究すればいいのか、それを探している。…あわれでしょう?でも、精一杯やってる。どうすればいいのか、わたしにはなにもわからない。が、何とかしようとはしている」

「そして、…」嗜虐的な、喜びをわたしはいつか感じていた。「この、くそいまいましい、穢らしい、あなたの変態のハーレムを築いている?」


「結果としてはね。…ただ、」わたしは、彼をなじって、ぼろぼろにし、穢し、穢しぬいて、ひれ伏させ、生まれてきたことそれ自体を後悔させてやりたかった。「この子たちが、望んでいることです。」


「うそでしょう?」

「嘘ならよかった。…わたしは綺麗なんです。美しいんです。彼らにとっては。わたしは愛されているんです。力で強制してるわけじゃない。求めるもの、求めることを与えているんです。彼らのために。彼らを辱めないであげてほしい。」

「愛とは何ですか?あなたにとって。性的な愛玩物として堕落させることですか?愛する対象がそんな穢れた存在になることを、むしろ自ら楽しんで仕舞えるような、そんな感情にすぎないんですか?あなたにとって、誰かを愛するということは?」

「あなたにとっては?」

「わたし?」

「あなたにとって、誰かを愛するということは、どういうことなんでしょう?」

「いつくしむこと。尊重すること。その人が幸福であるために尽くすこと。幸福を願うこと。」


「同じですよ。わたしも。同じようなものです。」

「いつくしんでいますか?あの子たちを穢し乍ら?」

「いつくしみの感情もなくて、欲望に駆られただけで、人は口付けできますか?他人の肌に。…やさしく?」










わかるでしょう?もういいかげんにしましょう?そんな表情を、レ・ハンは晒していた。もういいでしょう?…ね?わたしは次の瞬間に、笑い出して仕舞いそうだった。

「この子達の親は知っているんですか?」

「気づいていますよ。ただ、まだ、知らない。…気づいているということと、知っているということには、本質的な差異があるとは思いませんか?それらは別の体験なんです。」

「殺されますよ。彼らに」

「そうでしょうね。彼らが知ったら。間違いなく。」

「知らせてやりましょうか?わたしが。」ついに、わたしは声を立てて笑った。その瞬感、後悔が残った。

「殺したいですか?あなたは。わたしを。

…なぜです?」教え諭すように。簡単な答えに、幼い子に、答えをみちびいてやろうとするように、彼は。

わたしにはそう聞こえた。「何もあなたを害しはしないわたしを?」もう一度、ややあって、彼は、繰り返した。同じ眼差しのうちに。「何故です?」

少年の一人が泣き始め、それは、ちいさな子供同士のいさかいだった。彼を泣かして仕舞ったほうも、いつの間にか泣いていた。その泣き声が、不意に、この空間の気配を悲惨なものにしていた。なんという…、と、わたしは、残酷な世界なのか、この世界は。思う。なんという、無残な世界。「だいじょうぶ」むごたらしいだけの。レ・ハンは、二人の子供を呼び寄せて、彼らはお互いにレ・ハンにすがって泣きじゃくっていた。「だいじょうぶ。…もう、…」まなざし。慈愛に満ちた、その、彼の眼差し。


立ち去ろうとしたわたしに、思い出したように、レハンは言った。「わたしも、あなたと同じように彼らに救われてきたんです。同じように。日本から。…ね?」


「待って。」わたしの声を彼が聞いているのか、もはや、不安だった。「じゃ、この施設は、誰が作ったんですか?…あなたじゃないんですか?」レ・ハンは、泣き止みかけた少年の涙を唇で拭っていた。やわらかく、「わたしじゃない」閉じられたまぶたに、恍惚の表情がはっきりと、あった。「くわしくは知らない。ただ、…」自分さえもが、泣いて仕舞いそうだった。レ・ハンは、いま、「東ティモール人…かな?海の向こうの…」少年に、共感しているのだった。心から。彼が触れた、涙そのもの。その、ぬれた触感、温度にさえも。「どこかの島の少数民族…か、なにか…。クインとかキインとか…外国人の名前だから、発音は正確にはわからない。スズキさんが、シュジュキさんになったりするでしょう?」


「彼は、いま、どこに?」

「知ってどうするの?」レ・ハンは声を立てて笑った。「死んだ。殺された。DE‐34に、…真ん中近くの、北の外れに、廟があるよ。クーデーターを起こそうとした疑いがあるとかで、彼らに殺された。この建物は彼が設計したんです。システムも、何もねかもね。…グループだったかな?個人じゃなくて。ただ、廟は個人の遺体が祭られてるね。LD化しないように、冷凍されてね。伝説的な英雄だね」

「クーデター?」

「ちょっとしたいさかいがあったんでしょう。…興味ない。わたしは。」

「なぜ?…なぜ、興味が無いんです?」

「決まってる。」ふたたび、鼻にかかったレ・ハンの笑い声を聞いた。「触れられ獲ない過去に興味は無い。過去をいたぶる時間も無い。すでに、猶予も無く滅びかけてるんだから。」微笑んだ。「わたしたちは、みんな」











あの男を捜した。見つけ出さねばならない気がした。わたしは時間におわれた。走った。憎むべき、あの、うつくしく優しい男を追った。時間に追い立てられていた。人々の間を早足に、彼らにときにぶつかりながら駆け抜け、時に、見誤った男を殴打してしまった後で彼に殴られる。喚声、わめきごえ、わたしは探す。乱れた自分の息を聞く。時間がなかった。あの、小さな噴水の近くで見つけた彼は数人の男たちと群れて、話し込んでいた。立ったまま。Trangを殺した男。彼の友人が笑い乍ら煙草に火をつけた。不意につかまれた胸倉に、一瞬戸惑った表情を浮かべた。男は、殴りつけられて倒れ掛かるのを踏みこたえ、誰かがわたしの肩を羽交い絞めにしようとする。こぶしに痛みがあった。彼の歯が傷つけたのだった。振り払って逃れた隙に、誰かの体にぶつかって噴水に落ちた。よろめきながら。彼を殴る。水の中で。首を絞めてやろうとした瞬間に周辺で声が立っていたのに気づいた。

周囲の、誰もからも。


音響が満たしていた。


水の中をさえも。


水は飛び散る。


水の中に、彼を窒息させようとした。羽交い絞めにされたわたしは床にひずられ、男たちの制裁が始まる。体中が濡れている。歯が折れたのは知っている。血の匂いが鼻中に満たされ、口の中が濡れている。痛みが体の内部を満たしきって、口からあふれた。一瞬、止まった呼吸が肺を無意味に膨らませた。わたしは、誰を愛しているのだろう?誰を?何を?殴打がやまない。何度か失心した意識が、ふたたび、殴打の痛みに呼び起こされて、強制的に、あの天使のような少女の、…穢され、自殺させられて仕舞った少女の思い出を?見たこともない、思い出され獲もしなかった、わたしの、このわたしだけが抱いた彼女の思い出を?、彼女は振り返った。微笑み乍ら…夢見られた、生きていたとしての少女の残像を?髪が乱れた。

はらっ、と。


振り返ったその一瞬に。なにを?


…目の前に見ている少女の死んで仕舞ったなきがらを?…彼女の身体をいま、動かす、何ら

かの意識の明確な存在を?それらを、…それらに、いちどたりともふれえもしなかったままに?

それらを?

愛している、と思う。

何を?

偽り無く、否定もできずに。


やがてわたしは失心していた。


目を開けると、天井がある。


コンクリートの。


それは白い。


横から反射して差す、しらずんだ光が、真横から照らしている。


わたしの横たわった身体ごと、その室内を。


複雑にたたみかけられた壁面の交錯。


影が光を浮かび上がらせ、光が影に沈んだ。


壁に染み付いた反射光。


わたしの身体は、床の上に投げ出されたマットレスの上にある。


部屋の中だった。

あるいは、部屋として見いだされるべき、仕切り壁に不完全に隔離された空間の中。


わたしは意識を取り戻している。目が醒めるにしたがって、身体の痛みが、思い出されたように、意識され始めていくのだが、痛み。


しつこく、沈んだ痛み。


そして、この部屋にはなんの記憶もない。

この部屋に来たことはない。

はじめて来た部屋。向こうに、人の気配がした、複数人の。そして、こどもの声が。なぜ、いつでも子どもの泣き声は悲惨なのか。むごたらしいほどに。


天井で扇風機が舞っていた。その音はかすかに聞こえていた。それが大気を揺らし、かすかに風が舞っているのを皮膚は感じていた。その、産毛の一本までもが。


体を起こして、立ち上がり、壁面の隙間を抜ける。歩く。声がしたほうに。そして、あらかじめ予想されていた風景を目の当たりにして、わたしはかすかな驚きを感じる。何の想起も伴わないからっぽの既視感とともに。


少女の妹が子供をあやしていた。よちよち歩きの小さな子供と、6歳くらいの子ども、そして、その首が振り向いて、わたしを見上げたが、遅れて、妹はわたしに気づき、一瞬の戸惑いの後に微笑もうとした。


すぐに、我にかえった彼女が、咎めるように何か言った。わたしにだった。彼女はわたしを見ていた。まだ寝ていなければならない、と、彼女がそんな事を行っているに違いなかった。眼差しが優しく咎めた。立ち上がった彼女はわたしに触れ、それらの身体の動きが幼児を驚かせたのか、泣き出してしまった幼児に彼女は短く舌打ちする。


彼女は混乱している。ささやかに、みじめなほどに、どうしたらいいの?ねぇ?どうしたらいいんでしょう?幼児とわたしを交互に見返し、わたしは何度も振り向き見る彼女に微笑まれて、わたしの唇からは笑みがこぼれた。どうしようもないわ、…ねぇ?言っていた。…ほんとに。…ねぇ?…ね。


体臭。彼女の体が、その動きのたびに大気に触れて、大気を穢す。それが、わたしに触れる。予感された温度があった。彼女の身体の。なぐさめるように時に、わたしの体に触れた彼女の指さきは、温度を感じさせないままに離されたが、体温はすでにわたしに感じられていた。


口走られつづけるささやくような彼女の音声、それらを聞く。静寂はそのたびに、耳の中で、雪崩を起こして崩壊し続けた。


幼児の泣き声につられて、奥から足音が聞こえ、それはあの男だった。わたしの姿を見留めると、一瞬警戒して、ややあって、微笑み、わたしに近寄った彼の体の匂い。


気配。


理性的で、親密な。


誰からも優しい男として、ときにうらやましがれたりさえしたに違いない。この男の妻は。この男が集団強姦などできるものかうたがわしかったが、わたしには確信されていた。彼らの必然に於いて、それらは確実に行為されたのだった。どんな必然に於いて?彼がわたしの手を取って、握手に握った。そのときにもまだ、わたしは彼を見つめるばかりで、彼の手を握り返すことさえできなかった。しっかりした、厚みのある体温。彼は、あの少女を愛していたのかも知れない。或いは、と、思う、この幼児の父親だったかもしれない。少女の夫。妹と彼には、あきらかに家族集団の集合された《匂い》があった。義理の兄の、義理の妹に対する、同一ではない集合の匂い、のようなもの。気配の。身のこなしの、しぐさの。彼らが同じ時間における体験を共有していたのはまったき事実だった。


抱き上げられた幼児が妹の腕の中で、言語にはならない音声で何かを伝えていた。男が何か言った。素手でとられた皮さえむかれないままの果物を、その、青緑のそれを、男は手にとって、わたしに笑いかける表情のうちに、わたしにも勧めた。

テーブルに置かれていたそれ。バスケットの中の。

男がかじりついた瞬間に、妹が声を立てて笑った声が、空間に、すっ頓狂な時間のひずみを一瞬、うがった気がした。わたしは知っている。わたしがいま、微笑さえしていたのに。どうしようもない既視感がやまない。果物の球形に光がぎざついて反射し、瑞々しく、光ごと男の口はそれを食いちぎった。

音をたてて。

噛み砕く。…ほら。おいしいよ。顎は咀嚼する。

男が言っている。

笑いかけながら。あなたも、どう?…ね?

…nhe.

…ニェエ。

…ね。その青づいた果物の球形に触れた瞬間に、…それに、指さきが触れようとした一瞬前に、思い出してた。わたしは。妻を殺したときの記憶。

旧東京市街区の廃墟の中。

崩れそうなビルの谷間。

割れたガラスの破片の、路面に点在したおびただしく細やかな反射光の散乱。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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