小説 op.4-03《愛する人/廃墟の花》⑦…世界が滅ぶまで、君と。

回廊の近くの広場に行く。噴水の周りに座る。水の音を背後に聞く。人々はたちどまらない。四方に開かれた通路から入れ違いに、すれ違い、声はかけられ、笑い声がたち、たまに彼らはわたしにまで笑いかけ、声をかけさえしたが、わたしは水の音を聞く。彼らはいぶかしかったに違いなかった。この異邦人は、なぜ、こんなにも不機嫌なのか?

《死者たち》の老人が一人、いま、壁にぶつかって倒れ付した。骨が折れたらしかった。床で、のたうちまわるように、四肢をばたつかせるが、彼らに痛みの感覚はあるのだろうか?…あるとしたら?生きながら崩壊していくこと。

比喩ではなく現実的に、彼らは死に犯された身体に訪れる、それらを崩壊さしめていく作用のすべてを直接、感覚しているのだった。彼らは指を触れ続けているのだった。それどころか、体を浸しきっているのだった。死に。とはいえ、死という事態自体が、訪れるつつあるものではなく、すでに訪れたものに過ぎない彼らに、死にもはや何の意味も無いのかも知れなかった。










女が一人、わたしの顔を覗き込むようにして一瞬伺い、笑いかけて、通り過ぎて行った。不安なのかも知れなかった。彼らは。わたしがなにかしでかしはしないか。あるいは、興味深く、彼らはわたしを見守っているかも知れなかった。いつまで、この男は生きていられるのか?つれてこられた何人かの男たちのように、いつ自殺してしまうのか?いつまでも生きていられる自信は無かった。すくなくとも、まともな意識のままで。


年老いた女のらしい、長い悲鳴が立った。向こうで。

喚声が立ち、向こうで、何かが起こっていた。

耳を澄ます。

通路に出た、右手のほうか。

何人かの人間たちが駆け込み、逃げ出してきて、叫び、ののしりあうのだった。口々に。ときには何かをお互いに指示しながら。暴力の匂いがした。事故だとは思えなかった。何もわからない。皮膚すれすれに危険な何かが迫っていて、それを回避しようとする不快な圧力が喉もとに迫った。単なる、感覚として。

背後から数十人の人間たちがバイクを飛ばして駆け抜けていく。


なぜか、吐き気がした。


銃を担いでいた。


皮膚の下で体内が体温を失った。


鎮圧部隊だったのか。あるいは、混乱を煽る側の人たちなのか?


人々。


ある女が床にすわりこんで泣きじゃくり、…なぜ?三人がかりで女たちは慰めるのだった。白目さえむいた彼女を。子供が泣き叫んでいた。その音声が頭の中を突き刺した。悲惨なノイズだった。誰も彼に手を貸しうる人間はいなかった。頭から血を流している男が歩いてきて、通りすがりの男にすがるように指図した。男は床に座り込んで、頭部の出血の手当てさえしない。男は何かに絶望していた。うずくまって床を見ていた。自分で、血に汚れた布を頭に押し当てているだけだった。いま、この風景を、と、向こうの奥で銃声がする。

見ているのだろうか?機関銃の乱射。

レ・ハンは?無数の。

やけになったようなそれら、機関銃の発砲音が向こうで木魂して、その絶え間ない音響が、叫び声の束と共に、それらは大音響となって空間を破壊しあい、離れたここで、いま、それは、ささやき声に満たない音量で、すまされたわたしの耳の中に聞こえていた。

レ・ハン。彼の構築した世界が、いま、崩壊しようとしている、と、思う。あるいは、彼自身が仕掛けたのだろうか?この崩壊を?サイレンの類は何も鳴らない。女が笑うような声を上げて泣き崩れた。

通路に入ると、大気が、向こうから立ち上がってくる煙にいぶされて、臭気にまみれる。衣服ごと燃えている人体が死んでいた。銃声は最早無い。喚声だけが時に、疎らに立った。


人々は傷ついて、床に倒れ付していた。

無数の発砲が殺してしまった二人の男の人体が寄り添うように重なって、血にまみれていた。

流れだした血は、濃すぎる紅に床を、彼らの衣服を、染め抜き、灼けた内蔵の匂いがした気がした。一瞬、しかし確実に。もはや鼻腔は麻痺していた。

無数ののた打ち回る肉体はまだ死に切れてはいない。肉体がせめても生を維持しようとする。進めば進むほど惨状はひどくなる。何人死んだのか?何人死のうとしているのか、そして、結局は何人死ぬのか?なぜ、彼らは殺されたのか?誰が、なぜ、彼らを殺したのか?通路の真ん中に、体をへし折るようにしてうつぶせた男の、撃ち抜かれ、上部を吹き飛ばしてしまった頭部の残骸を、ある男がひざの上に抱えるようにして、そのくせ、彼は泣きもせずに、なにか、訴える眼差しでわたしをただ、見上げる。

わたしだけではない。

彼の目に映るすべての人間を、彼は。

彼は明らかに、死ななかった人間のすべてを、ただその眼差しのみによって非難していた。

よくも、まだ、と。









死体を引きずって、一箇所に集めようとしている男が背後から殴打され、逃げさろうとした加害者は射殺された。

周囲に立っていた女を、へし折るように、ひとり巻き添えにし乍ら。


まだかろうじて生きている兵士が、にも拘らず、死にかけた目でわたしたちを見ることなく、彼の見開かれただけの眼は、すでに、何ものをも見い出すことなどなかった。

火災が、コンクリートを黒く染め、傍らで肢体が燃え上がっていた。あるいは、生きながら火をつけられた人体が、叫び声さえ尽きたいま、死体として燃え始めているのかもしれない。


臭気。

さまざまな臭気が鼻を打つ。呼吸さえためらわれるが、なだれこむ複数の臭気に、なんどめかに、ふたたび、鼻がゆっくりと麻痺しまじめていた。


残酷な色彩。

天井近くにまで跳ね上がった鮮血。

砕けた頭部の肉片と、その踏み砕かれた断片。床の上に。そして、いまも踏み砕かれながら。

首から下しかない死体の出血が止まらない。


そのまま、その惨状を突っ切って、わたしは《花園》に行く。静かだった。何も起こっていなかった。混乱が起きたのは、西のブロックのわずかな範囲に過ぎなかった。それでも、百人近くが負傷していたはずだった。50人ほどの死体を見た気がする。膨大な花の群れが一輪たりとも乱されることなく、咲いていた。目にあざやかな色彩。


《花園》の空気を吸い込む。容赦なく、その鮮明な空気が入り込む。穢れた肺に。一気に。鮮明な。鮮度に冴えた空気の触感。臭気の無い空気の匂い。その瞬間、わたしの体中が血と肉片の臭気に汚染されきっている気がした。


涙をなどともない獲ない純粋な悲しみが、悲しみ以外の何ものも含まないまま、わたしに襲い掛かっていた。

彼らの死を悲しんだのではない。

こんな世界に生きなければならないわたし自身を悲しんでいるに過ぎない。


…そんな気がした。


そして、もはや、それがすでに悲しかった。

わたしは、百合のような、かすかに花弁の縁を桃色がからせた白い花を、一本、折った。







ぐるっと回って回廊に帰る。回廊の周辺には何も変化はない。変わり映えのしない時間だけが経過している。部屋の中で少女はベッドに座っていた。わたしに気付いた彼女はわたしを振り向き見た。

知覚。


彼女はわたしの接近を知覚した。どうやって?知っている。彼女が、わたしのここにいることを。確実に。


たとえば植物は知っていたのだろうか。樹木はかたわらに立ったわたしの存在を知覚していたのだろうか?

昆虫は、蝶は知っていたのか、花々とともに、自分を見つめたわたしの眼差しに。

見つめられていることに。

知っていたのか、花は。

へし折られて仕舞うこと、仕舞ったこと、仕舞っていたこと、それらを、その、経過をさえも?

その、植物的な知覚に於いて。


彼女の胸ポケットに、そっと花を差してやった。

表情はなかった。

指に触れた彼女の、体温のない胸元の冷たさが、かすかな恐れを指さきに与えた。


彼女はわたしをだけ見上げていた。

かすかにあごを上げて。


黒眼がわたしのほうを向き、黒く、そしてきらめく。

それらが、結局は何も見ていないことをは知っている。


向かいの壁の窓に座り込んで、見詰め合うのだった。沈黙の中で、話すべきなにかを探した。日差しが遠い上方から床に直視する。体半分だけ光に埋もれた彼女の、半身の白いきらめきを見る。レ・ハンは見ているだろうか?監視カメラは見当たらなかった。本当に見たのだろうか?もしも、彼が煽情に長けた心理学者で、わたしの何かを煽ろうとして、伝聞に過ぎない情報で、嘘をついているとしたら?見てるの?と、問いかけたくなる。見てる? 少女に。…ねぇ、その視線は 俺を。明らかにわたしを見ている。こまかなきらめきの向こうで。わたしだけを。

見てる?


Trang の母を見つけ出すのに、苦労はしない。いくつかある市場を回るうちに、あの《水の広場》から遠くない市場で、すぐに彼女を見かけることができた。人ごみの中に見いだされた彼女は、食事のために違いない、野菜と肉を大量に買い込んで、何かのパーティでもあるのだろうか?かごを押し乍ら歩いて回っていた。市場を出た彼女の後をつける。彼女は結構な距離を歩いた。突かれ切るには十分な。



天井から差し込んでくる、壁に反射させられた横向きの光が、ときに逆光を作る。

人々は行きかう。口と鼻から息使い乍ら。


住居の中に入っていく。部屋の入り口はほとんどしきられないままに、数十メートルにわたって開口し、壁面はそのまま広い空間を維持して、その奥で重なった壁の向こうに居住空間があるのかもしれなかった。


この施設に無数に開かれた、ありがちな住居スペースの一つ。わたしの部屋とたいして変わらない。

いくつかのかざり壁が戯れに遮断しただけの空間の中で、若い女が子どもと戯れてやり、小さい子どもたちは3人いた。奥の木製の椅子に年老いた男が、うなだれるように座りこんでいた。そのおちた肩がなぜか悲痛だった。一瞬、もう息をしていないのかと思った。その若い女ははじめて見る女だった。見覚えが合った。あきらかに、見覚えがあった。


彼女たちの住居のはす向かい。通路の柱の影で時間をすごす。女が出てくるのを待つ。その日、女は出てこなかった。


次の日も…あるいは、あれから、なにごともなく、ただ待ちくたびれて、みじめに、疲れ果てて、帰ってきて、寝て、起きて、ややあって、ふたたび、経過する時間の中で、ふたたびあの女のところに行った。何が起こるのか、なにを確認するのか、すでにわたしは知ってさえいた。

女は出てこない。


若い男が出入りした。やがて、わたしは自覚した。すでに、この円柱と、床と、周囲の空間に、奇妙な親しみを感じ始めていることに。うずくまって、立てたひざの中に顔をうずめたままに、やがて眠り始めてしまったわたしを、そして、誰かが起こした。


わたしは、意識を取り戻しながら、鼻腔が匂いを感じていたのに気付いていた。


開かれた目が、彼女を捉える前に。

それは、女の髪の毛の匂いに違いなかった。

鮮やかな。

鮮明な。


そして、かすかな、彼女の体臭の、やわらかい、生きた皮膚の匂い。それを嗅ぐのは久しぶりだという気がした。つねに、自分のそれを吸い込んでいるに違いないのに、それは。


正気づかれたわたしの眼差しは、彼女を捕らえる。寝呆けたわたしを、心配そうに彼女は揺り起こして、何か言っていた。何を言ってるの?わたしは言った。…何?


「なに?」


答えないまま、あたりまえのように彼女は笑いかけた。彼女が何か言っていた。彼女の言葉に言葉を発した。なんでもない。大丈夫です、と、気にしないで、大丈夫。言う。わたしの言葉を、

「だいじょうぶ、」わたしは、「…ありがとう」聞いていた。彼女も、その耳のすぐそばで。わたしが言うのだった、もう、だいじょうぶ。…大丈夫です。彼女は、あの少女の妹に違いなかった。十六歳くらいなのか。美しい少女だった。あるいは、彼らにとっては。わたしには少し、唇が跳ね上がりすぎている気がした。そして、鼻はまるすぎ、眼は大きすぎた。美しい少女だった。人種的な差異に傷つけられながら、わたしたちは予測しあうのだった。その、固有の美しさを。異人種との間では。探りあうのだった。目の前のものの、美しさの妥当性を。

すこしも美しいとは思わないときにさえも。


この少女が、あの少女の妹であることなど、すでに知っていた。離れた距離において確認されていたものを、至近距離の中に確認しなおしたに過ぎなかった。彼女が何か言った。ありがとう、わたしは答えた。わたしは立ち去ろうとする。あの幼い子供は、と、思う、あの少女の生んだ子どもに違いない。まだ、床を這っている、あの子供は。

父親は誰だったろう?出入りする男たちの誰かなのだろうか?すでに、それはどうでもいい気がした。わたしは、わたしが記憶する少女の顔と、目の前の彼女の顔を重ね合わせて、いつか、生きてあるならばそうであるはずの彼女の顔の映像はかたちづくっていた。


あの少女の顔が見えた気がした。

なんの、映像も正確には結ばないくせに。



Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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