小説 op.4-03《愛する人/廃墟の花》⑤…世界が滅ぶまで、君と。

子供たちが笑い声を立てながら通り過ぎた。目を閉じたままの、わたしの背後を。


最初に隔離されていた空間。そこを探そうとする事がある。なんどか、暇つぶしに。とはいえ、この巨大な空間はあまりにも広く、もはや、わたしはそこに辿り着けないのだった。何人かの《死者たち》とすれ違う。無残なほどに、片腕だけ腐らせた男。何歳なのだろう?あるいは、何歳のときに死んで、何日、何週間、経過したのだろう?その臭気とすれ違った瞬間に、生命体への冒涜を見せ付けられた気がした。冒涜?


…なぜ?老婆。回廊の光の下に立ち尽くし、光は彼女を直射したが、素っ裸の彼女の目を背けずには置かない醜い曲線を、光は、細かく、白くきらめきだたせた。光を見上げ、彼女は何かを言っているようだった。音声を発する機能はすでに失われていた。紫がかった死斑が、その身体を無数に彩っていた。












さ迷い歩くうちに、ある数百メートル四方の空間の中に、無数の花々が栽培されているのを見つけたことがある。不意に、目の前に出現した花園に、わたしは一瞬笑いそうになったが、声はない。


わたしは、わたしが笑った気がした。笑ったかどうか、ついにわからなかった。ミツバチが飛ぶ。

花の名前はわからない。


数百メートルの上方に壁は尽きて、あきらかに、空のようなものが見える。

透明な水で張った膜のように、それは静かに波立っているようだった。

しろい。光がかすかにゆらめく。白。まだらな曇り空の様にも見え、しかし、外気の気配は無い。

色彩はゆっくりとかたちを変えていくが、それが見上げられた空であるという確信が抱けないのは、なぜだったのか。あまりにも巨大な四方の壁面が、それを取り囲んでいたからなのか。この空間が、閉ざされた密閉空間なのか、開かれた空間の壁面に過ぎないのか、それさえも確信が抱けない。わたしが見ているものは何なのか。わたしが存在し、生息しているここは何なのか。巨大なシェルターならば、外気に触れる開口はあり獲ないはずだった。


無数の花が咲かされていた。

咲いているとはいえない。それは、白いボックスの中に列をとって、向こうの果てにまで、完璧に管理されているのだから。

飼育され、支配された花々。ミツバチと、昆虫が舞う。

蝶さえもが。

管理の及ばない偶然を与え乍ら、結局は管理者の意図に、おおまかに従ってしまう。蝶ちょ。見たことのない、大きめの、純白の蝶が舞う。

はためきが空間に作る色彩の推移を見つめた。

色彩をなくしたような純白さ。その翼が、透き通ってしまいそうなほどの。

蝶を追った。

時間を費やして、戯れるように逃げ去られ乍ら。

やがては、わたしは、息をさえ乱し乍らも。


誰もいない。


なぜ、誰もいないのか。

これほどまでに管理されきっている空間にも拘らず。

蝶の後を追う。

やがて、蝶の静止。


紫から葵にかけてのグラデーションを湛えた、百合のような形の花の、花弁の黄色い花粉の小さな塊りの上に、一瞬停滞したそれに、ほんの一瞬、ふれたと思われた指先は、そして、蝶は既に逃げ去っている。手に触れた実感など何もないままに、指先にはかすかに粉がついていた。ほんの掠めたほどの、微量の。銀色がかった光沢を浮かべた、白い粉が。蝶の、翼のそれなのか。

あの、透き通ったようにさえ見えた色彩の。


指と指を、なぜあわせた。手ざわりはない。指の腹の、お互いの手ざわりしか。


日々の経過。夢をみた。わたしは回廊の真ん中にうつぶせになって眠っている。背後に気配がした。


それは無視された。

怖いのではない。もはや、手遅れだと思ったのだ。すべてが最早手遅れであることの気安さにだけに支配された。わたしはそのままの姿勢で、閉じられたまぶたのうちに空を見ているのだった。


純白の空を。


透き通って見えるほどの。

それはこれだったのだろうか?わたしが、常に空としてみてきたものは。それは、むしろ、羽撃かれたあの蝶の羽ばたきの記憶だったのではないか?


それを確信したときに、空は一気に崩壊した。


巨大な音響を立てさえして。わたしはすでに、ずっと、叫んでいた。わたしの叫び声がやまなかった。最初からずっと、土砂降りの雨が降っていたのに気付いた。真っ赤な色彩のそれが。命の気配をたたえながら。



気が狂ってしまう、とわたしはときに思った。レ・ハンが言った自殺者たちの未来が、足元に口をあけている実感があった。たやすいことだ。一瞬の気の緩みが、それへの失墜を可能にしていた。そんな気がした。にも拘らず、わたしは正気だった。

いっそのこと、狂ってしまおうと思った。発狂は困難だった。それが不思議だった。危機がそこにあるのに、それに自分から飛び込むことができないことの、不可解な苦痛。

ほんとうに、もう、気が狂ってしまう、と、…壊れてしまう。

わたしは思った。












回廊でふたたび眼をさます。いつもと同じ光が差している。常に、大まかな意味で変わらないそれ。そして、ごく精密には、そして現実そのものとして、常にたゆたい、変容しているそれ。光。


かすかな、微細な変容。


光の。

透明な水に立った波紋に反射した光が作るような、遠い、わずかな変容。


夢を見た。降っていた雨が一瞬、静止した。

空中に。

ながい、ながい、一瞬。それらの水滴がわたしの周囲を取り囲み、それにわずかでも触れた瞬間に、時間の凍結は崩壊して、雨はすべて降り堕ちて仕舞うに違いなかった。

わたしがそれに触れないかぎりの、永遠の停滞。


もしも、と、わたしがそれに触れることができなかったなら、と、わたしは、いや寧ろ、と、思う、…死んでしまったら?。このまま時間が静止したにまかせて、いつか、わたしがそれらに触れる前に死んでしまったら、どうなるのか。

この、死んだ体が崩れ落ちて、しかも、死者だけのためにもふたたび雨は降るのだろうか?

一気に、この空間を葬り去るために。

指を伸ばそうとする。

それら、ふたたび墜落する水滴が破壊してしまうに違い、この雨の中からいち早く逃げ出すために。彼らが、この世界の停止を崩してしまう前に、と、気付くのだった、わたしは、思い出したように、それらに触れることができなかったら?と、叫びそうになったのは何度目だったろう?


触れることが、永遠に不可能だったとしたら?思い出した。晴れた日には、雨が降っていたのだった。

いつも、燃え上がりながら空間に消滅して仕舞った雨の水滴の無数の群れの痕跡が、それらを空間は満たしていたのだった。


それら水滴の内部にいっぱいに。


破裂しそうな無際限の空間をはらみこまされたまま、水滴の無際限の群れが空間に燃え上がって仕舞っていた。

途切れることさえなく。

一切の色彩を持つ前に、もはや、色彩などという穢れにふれる猶予さえ与えられずに。

すでに、それらは、空間に記憶されていたのだった。自ら、自らを食い散らすように崩壊させてしまいながら。寧ろマイナスの時間の中で、逆方向に覚醒し乍ら、眼はやがて、見た。

両方の眼は。

わたしのものだったそれは。こぼれ落ちようとした水滴のたった一つの水滴の一つに、覚えているのか?


その水滴の記憶を、わたしは。


恥じながらそれらが放棄してしてしまった、廃棄されていた記憶のどれかを?

すべての声は無視されなければならなかった。


周囲に鳴り止まなかったすべての声は。


いま、わたしが見ていた夢の数々さえも。


それらが呼び起こした声の無数の連なりのその一つが、わたしに見つけられて仕舞ったにも拘らず、すでに最早、この世界には存在しなかったのだった。

流される涙にさえ触れられなかった時間の消滅のなかで。

気付く。

その生誕の前から既に、時間はただ自らのうちに消滅していたのだった。ついに支配されることのなかった、無数の世界が、想像された誰かの声を立てながら最早、なにものも支配されることなどできなかった。

なにものも崩壊することも、破壊されることもできなかった。


世界の実態そのものが、触れ合うことさえなく無際限な集合として充溢していた。…つまり、蝶は羽ばたいたのだった。

わたしの視線の、わずかな先で。

蝶が音もなく羽撃く。



人々の気配を背後に聞く。


無数の人々が走り去っていく、その。振り向く。わたしはまだ回廊の光のしたにうずくまるように座り込んだままで、その目の前に少女がいた。


明らかに、知能に障害を抱えていた、その少女は。障害、という生易しいものでは無いのかも知れなかった。彼女は体中を痙攣させながらわたしのほうを直視していた。その何ものも捉えてはいない眼は何も捉えてはいなかった。

その眼差しが直視しているわたしさえも、明らかに。


痙攣する身体が、そして呼吸器が声帯を震わせるわななくようなノイズが低く、喉から発生されていたが、脳組織自体が、欠損している気がした。生体として、そこに自立しているのが不思議だった。耳から、彼女の脳組織がちょうど半分、色の無い水になって流れ出すのを想像していた。

彼女がまばたいた一瞬の、いつかに。


何も見ない、見開かれただけの眼差しの先にはわたしがいることを彼女に知らせるすべはなかった。


ふいに帰ってきた四十代の太った女が、健康そうな贅肉を揺らしながら、わたしに何かののしった。わたしにではなく、その少女へのののしりを、わたしに言ったのかもしれない。

あるいは、聞き取るべき聴力の無い彼女の代わりに、わたしに言ったのかもしれない。

彼女の耳の代理として。

女は少女のかたわらに一瞬静止し、わたしを振り向き見てその眼差しがわたしを認めたにちがいない瞬間に、彼女は少女を殴打した。文字通り、壊れたように少女の身体はくずれ、一切の力をなくして倒れ臥したが、失心したのかも知れない。


わずかに作用していた脳の機能さえもが死んでしまったのかもしれない。

女はわたしに、わたしを慰めるような笑みをくれて、その少女を脇に抱えて、走り去って行った人々の足音のあとを追った。



指さきを光にふれてみる。指のはらに光がふれる。温度もないままに。見つめてみる。

そのきらめき。

ざわめいた、こまかな産毛の、そして、皮膚の表面が刻んだ凄まじい複雑な形態。

光。


もしこのまま、時間だけがたっていくのだったとしたら、今すぐに死んで仕舞うほうがいいのかもしれなかった。何のためにも生きていけないのだとしたら。すでに終わっていたのと同じことだった。あるいは、なぜ、何のためにでもなく生きていけないのか、わからなかった。なぜ、蝶のようには、猫のようには生きていけないのか。

発狂してしまったほうがいい。そう思った瞬間に、人間に自殺することはできても、自らの意思で発狂することはできなかった事実にあらためて気付く。

これほど、狂気との不確かなすれすれの距離の中で、お互いに交じり合いさえしながらも。


光が唇に触れる。

たわむれに唇を開閉させて、そのわずかな動きの中に、光を感じたふりをする。

目を閉じたままの暗闇の中で?












なおも、…まだ。

回廊の橋から見下ろした一階に、女性の靴が落ちていた。小ぶりな赤いスニーカー。

片方だけ。

紐は無い。

それは地上通路の真ん中にあった。

人々が疎らに行きかうが、誰もそれに触れようともしなかった。たまに気付かれて、一瞬の視線を浴びながらも。


…なぜ?


いつか、回廊を通り抜けて《水の広場》に行った。

いつだったか。

絶え間の無い水の音。

そして、向こうまで続く、広大な、反射光の鈍い連鎖する揺らめき。


彼女は向こうに、水に浮かんで、死んでいた。あおむけに。


あの、死んでいる少女だった。いつか会ったあの。

あの日のパンツすら失って、いま、彼女は全裸だった。...滅びかけの身体。

かすかな渦巻く水の光が、おびただしく、その硬直した身体に反射した。

見開かれたまま、眼はなにものをも見いだしはしない。


水に入る。


わたしは彼女に接近していく。


身動きしないまま、わたしが立てる波紋に揺れる、髪の毛が水の中に拡散して、揺らめきながら、光の反射の中に、無数の昏い影をうがつ。

透き通った水に反射された皮膚は、水の反射光の透明な気配に染まった。死んだ身体は、揺らめきにまかされていた。


彼女を抱き上げる。


いつの間にか、彼女の目が閉じられていたのに気付いた。呼吸もしていないそれは、完璧で否定できない死体に他ならなかった。


その眼から、水滴がしたたり落ちていた。


泣いた、と思った。

彼女が。

いま。

わたしは。

うつくしい、と思った一瞬に、誰かの流した涙を、自分のそれをも含めて、そのときが初めて美しいと思った瞬間に違いないことに気付く。うす穢れた、と、そんな風な自虐的な軽蔑を含めてしか、涙を見たことはなかった。








* *





少女を抱いたまま部屋につれて帰る。すれ違った誰もが、奇異な眼でわたしを見た。この行為が、なにか、わたしに事件をもたらすかも知れなかった。わたしにとって破滅的なそれか、彼女にとって破滅的なそれか、彼らにとって、あるいはわたしたちにとって、それとも、わたしたち皆にとって、いずれにしても、何か。


あるいは、彼女の破滅は既に訪れて、去っていた。

彼女はすでに、存在しないのだから。

この世には。…死。


わたしの部屋にドアなどは無い。入り口と敷居を作った壁面があるだけだが、それらが作り出す陰と光の連鎖が腕の上で彼女の身体に模様を描く。どの部屋もそんなものだった。

部屋に照れて帰った彼女を椅子に座らせた。彼女の視線がわたしを見た気がした。一瞬だけ。


確認しようとふたたび捉えたわたしの眼差しが見いだすのは、何も見ていない、いつもの黒眼の停滞だけだったとしても。


シャワーで濡れた体を洗い流し、着替えようとした瞬間に、彼女に対しても、それはなされるべきだということに気付く。入浴なのか、洗浄なのか。


ふたたび抱き上げられた彼女の身体を、そして、浴室でその体を洗い流したときに、内股の、傷ついたその部分に、腐敗がしずかに発生し始めていたのを見いだす。


わたしはしばらく見つめ、何かを確認し、目線を逸らす。何を確認したのか、わたしにはわからない。簡単なことではある。彼女が死んでいることを確認したのだ。

そうとは言いたくない、執拗な、いたみのような感覚があって、その簡単な回答を何度も否定させた。


コンクリートの壁面が尽きた上方からの、光。壁の一面いっぱいに開かれたガラスも何もない採光窓に腰掛け、あの青い医療服に着替えさせた。


彼女を見る。


彼女は部屋の中を確認するように、しずかに、ゆっくりと、あらゆるもに手を触れてみ乍ら歩き回った。


時間をかけて。


なんどもわたしを振り向き見乍ら。

意識が存在するとしたら?と思う。

もしも、彼女に。

彼女たちに。

あるいは、彼女にだけは。


背後、後方上部から差しおろす日差しに、わたしの体は染まっている。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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