小説 op.4-03《愛する人/廃墟の花》④…世界が滅ぶまで、君と。
レ・ハンの部屋を出たわたしを、あの四人の男たちが出迎えた。彼らはわたしを待っていたのだった。わたしにあてがわれたのは、レ・ハンの部屋から遠く離れた、また別の廻廊のすぐ傍らの部屋だった。地上2階。壁を作った仕切りが複雑に入り組んだ空間。地上であるということが、ここにおけるわたしの地位を伝えている気がした。もし、レ・ハンの言うことが事実なら、地上は住居としては歓迎されるべき場所ではなかったはずだから。
清楚な、50メールル四方の正方形の部屋だった。簡単な椅子と、机、キッチンはあったが、それ以外には何もない。クローゼットには、あの青い医療服が大量にハンガーにかかっていた。窓と呼ばれるべき、壁面いっぱいの開口があって、その向こうはコンクリートの壁でふさがれていた。上部から光が差していた。パソコンはある。インターネットはあるが、彼らが運営しているらしいウェブサイトにしかつながらない。
あの風景を思い出す。
シャッターの隙間から見た風景。確かに、このコンクリートの要塞の外は、事実として、すべてが壊滅した世界なのかも知れない。地上用のものらしい廻廊は、壁面にいくつもの開口を作って、それらの気まぐれで不規則な配列が、散らばり、どこまでも上方に伸びる。
天井は無いのかも知れない。上空を光が満たしていた。しかし、その光が夜を迎えることがついに無いことに気付いたときに、それが人工照明に他ならない可能性に気付いた。もしそうなら、ここは完全に外部から隔離されていることになる。そうともいえない気もする。実際、外部の世界から夜というものが消滅していたら?そんな事が可能なのかどうかはしらない。朝も、昼も、夜もないのだとしたら?レ・ハンのいう《戦争》の結果なのか。別の何かの結果なのか。
…上空の、あるいは天井の光。そこが、外部への巨大な開口部であるという確信が、どうしても拭えなかった。
事実、光には自然な開放感があった。光が一直線に降り注ぐ。まばゆくは無い。白く、ほのかに、やさしく。
一階部分の無機質なコンクリートの上を、それらのまだらな不細工なグラデーションをかすかに浮かび上がらせ乍ら。二階部分の各塔屋をつないだ無数の橋に、手すりのようなものは何もない。ただ、コンクリートの長方形だけが、二車線分の平面をわたしていた。橋を渡る。
何度目かに寝て、何度目かに眼を覚ました後に。
何もするべきことのない、停滞した時間のなかで。
きょうも何もすることの無い、自由な、拘束されない、そして行き場所もない時間を消費しなければならない確信だけがある。それが鈍い苦しみになって、わたしの意識を常に支配している。…人々。《ベトナム人》らしい人々。
女たち。橋の真ん中で、向こうから来た女が一人、わたしに微笑みかけた。三人の集団の一人だった。背の低い、ふっくらとした女性。色は白い。唇に口紅だけが塗られている。厚ぼったい口紅。立ち止まりそうになり乍ら、わたしは彼女の微笑を見つめ、すれ違って仕舞ったあとに、ふと、立ち止まって振り向くと、もはや彼女はわたしのことなど見ていなかった。
いくつか、仕切られた空間全部を満たした水の広場がある。百メートル四方にうがたれた広大な空間に、コンクリートの壁面は流線型を連ね、すべての空間が直線で描かれたこの巨大施設の中では異質だった。
床は透明な水で満たされ、水の絶え間ないかすかな波立ちは光を反射して無数の反射光の渦が壁面を流れる薄い水の流れに波立ったそれらにさらに反射される。
淡い光の塊りが絶え間なく揺らめく。
無数の開口が通路とつながったが、《水の広場》の傍らを、人々は通り過ぎるだけで立ち止まらない。水滴の群れがはね、細かい水の粒子が、たちどまったわたしを濡らす。中央の噴水は高い天井にまでか細い水流を吹き上げていたが、それは天井に当たって、天井の全面に膨大な量の水をためている。
重力を無視した天井の水流は、それでいて、確実なその必然性を湛え乍ら、しずかに波打っていた。…これは、当たり前の風景ですよ、と。
十メートルほど上方の、水の天井。
水滴さえ、一粒たりとも落ちてはこない。その水の波立ちが壁に当たって、ゆっくりと流れ落ち、その壁面の水の流れを形成しているのだった。どういう方法論がそれを可能にしていたのか、わたしにはわからなかった。わたしは水の中に入り、それは自然な温かみをもって、冷たくは無い。
ひざまでを濡らす。
中央の水流に歩くはじめると、背後で、女の声がする。振り向く。若くは無い女。逆光の中、表情は見えない。たぶん、四十代くらいの。たった一人で、何か、わたしに話しかけていた。笑い声を立てながら。異邦人の奇矯な振る舞いを、面白がりながら諭しているに違いなかった。おぼろげな水の反射光がわたしをてらしだしていた。
振り向いて手を振ってみせ、わたしは笑っていた。声をさえたてて。
水の、夥しいきらめきの渦は、わたしのからだ中にに反射する。水の流れのかすかな水音が、無数の束になって空間を、わたしの耳の中を満たす。
中央の水流は細い。華奢な樹木の枝くらいの太さしかないそれが、ゆっくりとした水の流れになって、上方に吹き上げている。音さえない。それに手を触れようとする。
女が背後で笑い声を立てた。
のばされた指先がそれに触れた一瞬に、水の柱は崩壊し、水の天井は破綻する。墜落した水の塊りが一気に崩れ落ちて、わたしは叫び声を上げながら溺れかける。
濡れた髪をかき上げたときには、それらは既に回復している。何事も無かったかのように、一瞬で。水の円柱が、ゆっくりと水を噴き上げていた。女はすでにどこかに行っていた。
四方の壁に、…不規則にうがたれた正方形の出入り口の向こうに、何人かの人が通り過ぎていくのが見える。その一つに、明らかにぎこちなく歩む、少年らしい人影がある。彼に、わたしは興味を引かれる。あきらかに、彼は彼らと違っている。あの少女、あるいは、あの、砂のように崩壊した人体と同じ、なにか。
彼についていく。彼は歩いている。少年、十歳くらいの。足と手に連動性は無い。彼が立っていることは、それら手足がかろうじて成立させた偶然にすぎない。両足の動きさえ、痙攣の産物でしかない。
濡れたからだが作る、床面のわたしの足跡に、わたしは目を落とす。
背後の通路に、わたしの足跡は刻印されたが、乾いて、すぐに消滅してしまうに違いない。
円柱が両方を支えた通路のような空間。向こうの遠いどこかからか差し込んだ黄ばんだ光が、横から差す。人工照明のそれのようには見えない。夕暮れ時に差し込むような、そんな、やわらかい光。
高ぶったわけでもない、なにか、鈍い気持ちを持て余して、彼の前に回り込む。彼は既にわたしの存在に気付いていたに違いない。
眼を合わせないが、表情に、一瞬、わたしを咎めるような影が差した気がした。あきらかに、彼は生きていない。生命を保持された体内を流動する水分を失って、干からびたような皮膚の、生命感を一切欠く青白さ。
腐りかけてはいない。まだ。彼は歩いている。
その視線は何も捉えない。黒目はちぐはぐに、両方が違う動きをする。前面に、髪の毛はもはや生えてはいない。後頭部の長い伸ばされきった髪の毛が、肩にまでかかっていた。毛髪は、死ぬことさえなく伸び続けているのだった。立ち止まったわたしの傍らを彼が通り過ぎていく。匂いはまだ無い。
食堂か市場のような空間があって、そこで、人々は食事し、買い物をした。金銭の交換は無い。ののしりあうような会話を重ねながら、笑い声が無数にたつ。人で溢れている。相変わらず天井は高い。
《死者たち》さえもがそこにたまに紛れ込んでいだ。人にぶつかって、倒れ、起き上がったり、起き上がれずに、床で痙攣を繰り返したりし乍ら。誰かが起き上がらせてやった。太った、五十代らしい男だ。彼はすぐに、蛇口をひねって手を洗う、ののしるような声を立てながら。
《死者たち》は何を食うわけでも、なにを買う、正確に言えば入手するわけでもなく、ただ、そこで生きている。彼らは生きているように見える。生きているのかもしれない。事実としては、彼らは明らかに死んでる。すくなくとも人間としては。その身体組織自体は、死んだ人間の身体組織に過ぎない。
口から吐き出した血にまみれて搬送されていく女を見た。妊婦のようだった。あるいは、何らかの深刻な疾患を抱えていたのか、その腹部は空気を入れたように膨らんでいた。四肢が痙攣していた。黄色い担架に乗せられた彼女の痙攣する身体が、不意にこぼれ落ちそうになって、男たちはそれを殴りつけるように保持した。彼らは走る。十人ばかりの人が、担架を担いだり、その周囲で単にののしったりしながら彼女を運ぶ。彼女が助かるとは思えない。
日々が過ぎていく。
何度か《死者たち》を見かけ、無数の人々とすれ違う。
そうめんのような味の無い麵を食べる。
水を飲む。
時に音楽が聞こえる。
歌。
何を歌っているのかわからない。
ラブソングに違いない。
あまったれた、感傷と媚を含んだメロディ。この、巨大施設の中でのラブソングが、どのような風景を歌いだすか、わたしは不意に気になったが、それを聞き取る手立ては無い。朝なのか、昼なのかもわからない。回廊の日差しは常に同じ一定の明るさで、差異は、微かなものに過ぎない。美しく、やわらかな白ずんだ日差し。
回廊の日差しを、わたしは愛した。何よりも。ただ、それだけが留保なくうつくしいもののように思えた。なんどもそこに行き、日差しにふれる。
肌にふれさせる。
人々がすれ違う。
橋の上に座りこんだわたしの背後を。
足の下に、一階通路に人々がたまに行きかった。何人くらい?ぜんぶで数千人程度なのだろうか。《死者たち》をふくめて。
施設の巨大さに比べて、明らかに人口は少ない。この巨大施設が維持できているのが不思議なほどだった。あるいは、かつて栄えた文明の、太古の遺跡であって、そこを間借りしているだけに過ぎない錯覚さえする。もちろん、そんなはずは無い。新しすぎる。これらは、あきらかに彼らが彼らのためだけに作った建造物にすぎない。
回廊の隅に横たわった。
あおむけに目を閉じた。
閉じたまぶたに光を直射させてみる。閉じられたまぶたのうちの暗闇を、かすかなオレンジ色に染め上げる光。眠ったような、眠らないような時間のまどろみの中に、わたしは聞く。
時に通り過ぎる人々の足音、衣擦れ、音声、それらの音響、空間の最も低い吹き溜まりに反響したそれらを。
ふいに、停滞した気配を感じる。何者かの気配ではなく、停滞した、なにもかたりかけないそれ。
眼を空ける前に、予想はついていた。
少女だった。
あるいは、女性だった。《死者たち》の一人。死にきった皮膚が、正確な年齢感を奪い、十代後半なのかも知れない彼女に、時間の崩壊したある幼さを与えた。同時に、幼さという概念が、あくまで見の前にありもしない成長の未来の予感を根拠にした感覚に他ならないことを、彼女の容姿は明示した。それは、生きている幼さとは明らかに違った、決定的な欠損が見せる幼さに過ぎなかった。彼女に未来の成長は一切無かった。現在しかない。
崩壊しかけていく。
あからさまに欠損していたのは未来だった。年齢はわからない。年齢など最早存在しないから。
髪は長い。
女性には違いない。青ざめた褐色の肌。立ちつくしたまま、わたしを見下ろすわけでもない。わたしは身を起こす。左腕だけがしびれて、震えていた。彼女がわたしを見た気がする。意識?
…どんな?
彼女が見ている風景を、見ようとする。
重なりえない。
いかなる想像力を駆使したとても。
だぶついた薄青のパンツだけをはいている。上半身を隠すものは何もない。胸のふくらみは、柔らかさも感じさせず、その手ざわりも予感させない。それらは皮膚が作った単なる流線型に過ぎない。生々しさを欠いた、造型された有機体の曲線。彼女はわたしを見ている。明らかに、その視線を感じた。わたしは指をのばす。のばされた指先に光が触れる。温度は無い。指先が、彼女のみぞおちに触れる。温度は無い。体温を失った、皮膚という細胞組織そのものに触れた触感があった。これが皮膚なのか、とおもった。皮膚と呼ばれるものの実態に触れた気がした。彼女が笑った気がした。表情は無い。顔の筋肉が、時に動く。痙攣したように。それが何かを、かたちづくっている。
何か。
…何かを。彼女は何かを感じている、と思った。この、死に絶えた肉体は。あり獲ないことには気付いている。目の前のそれには明らかな断絶がある。飛び越え獲ない断絶。
鮮明にして、あきらかな。
ひざまづいて、胸に、耳をつける。ひんやりとした触感が、耳と頬に触れた。人々は、ときに行き過ぎた。わたしに笑いかけさえし乍ら。奇矯な異邦人。頭が狂いかけている、かわいそうな外国人。心臓の音は無い。
当たり前の事実を確認する。
わたしは彼女を抱きしめて、その胸に顔をうずめた。匂いをさえ、いっぱいに吸い込みながら。死者をもてあそんだ気がした。冷たい、明らかに死んだ皮膚がわたしの顔に触れた。何かを感じる気がした。なにをも感じなかった。
彼女が死んでいる、この、既に知っていた事実以外をは。
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