小説 op.4-03《愛する人/廃墟の花》②…世界が滅ぶまで、君と。
開かれたドアの向こうには公的施設の通路に違いない。飾り気の無いコンクリート壁の通路を電気照明が照らしだし、天上は高めだが、4メートルほどでしかない。老人が座っていた5、6人がけの椅子には新聞が投げ捨てられていた。
見慣れない発音記号つきのアルファベットが書かれたそれに、一人の男の写真が載っている。賞賛しているのかもしれない。否定しているのかも知れない。何かを、彼は演説したに違いない。ここの指導者なのかも知れない。
廊下の突き当たりはT字に分かれ、わたしは左に進む。それに何かの意味があったわけではない。
広い空間に出る。
噴水がある。
中央に。
天井がいきなり高く切り開かれていた。もっとも、三階分くらいの高さに過ぎない。噴水の水に触れる。
それが、わたしの干からびかかった指先にふたたび潤いを与えた気がした。
泥水が、一瞬水を汚し、それはすぐに拡散して仕舞う。
顔を洗う。
水は冷たい。
匂いは無い。
折れた壁の向こうで複数の連なりあった音声が聞こえる。人々が、無数のそれらの群れが、その、何かを語り合っている音声の連なり。
低い反響。
白く塗られた壁。
噴水以外には何もない。
振り向いた壁に大きくTCMとスプレーで殴り書きしてあった。意味はわからない。その黄色い色彩。くすんでいる。すでに、それなりの時間が経過しているに違いなかった。噴水で顔を洗いながら、唇から混入した水滴が口の中を濡らす。吐き出そうとし乍ら、なしくずしにそれを喉に入れる。一瞬のためらいのあと、その水を口に含んだ。渇きは癒せない。含んだ後、それを吐きだす。
飲める水なのか、そうでないのか。飲めない水なのか、死をもたらすほどに、汚染された水なのか。
色は透明で、何の穢れも感じさせない。そして、わたしはその噴水の形態を眼差しのふちに確認する。
単に、パイプが上方に水を噴出しているだけに過ぎない。小さな噴水。
喉の渇きが、最早、少し猶予をも許さなかった。歯に痛みがある。歯茎の内側にこもったような執拗な痛み。折れ曲がった壁面が組み合わさった四方に、無数の通路が開かれているらしいのには気付いている。
髪をかき上げたとき、わたしはわたしの髪の毛が、短く切りそろえられていたのに気付く。わたしはわたしの顔を知らない。
渇く。
喉が渇いていた。
かわく。
…かわく、と、その音声が頭の中に繰り返された。背後の通路に気配を感じたとき、それは数人の男性の気配に違いない。わたしは右手の通路に足音をしのばせながら侵入する。彼らから隠れようと。その正当性を保障するものは何もない。あのドアを閉めただろうか?白い鉄板の。《わたしの部屋》の。開け放ったままだったろうか?その記憶が一瞬飛んだまま、わたしが侵入した広い通路は、高い、どこまでも高い天井の下に、天井の上から数メートル間隔にうがたれた不規則な採光口からの光が、その純白のタイル石の床の上に、自由な光の模様を、向こうにまで描き出す。
突き当たりに空間が開かれている。数百メートル先に。早足に歩かれるわたしの素足の足音が、足元だけで音を立てた。わたしの息遣う音とかさなって。
三人の女が壁際で寄り添うように話し込んでいた。若い女だった。質素な、色彩と言うほどの色彩も持たない素朴な色の衣服を身につけ、それは公的機関の制服のように見えた。警官か、軍人のような服。手首と首から上以外には肌の露出は一切無い。外気から身を守ろうとするように。気温からも?たしかに暖かくはない。褐色の肌の一人と、ふたりの白い肌の女。真ん中の女はすでにわたしに気付いていたが、順番にわたしに振り向いて、視線をくれた。彼女たちは、それまで、同性愛を暗示するかのように、お互いを交互に抱きしめあうようにし乍ら話し合っていた。その会話は既に途切れていた。わたしのせいかもしれなかった。丸顔の、淫蕩な気配のある唇の女がわたしに笑いかけようとした一瞬に、警戒を浮かべようとするが、すぐさな、なしくずしの笑にくずれた。…いいんです。
いいの、と、いいんですよ、と、無根拠に肯定したような笑顔。だいじょうぶ。…ね?もんだいないから。だいじょうぶ。…でしょ?
彼女の両脇で、二人の女が、わたしのために悲しんでいたような、やさしい、どこか過去形の笑顔を作って見せていた。右の女の皮膚は褐色だった。肌に荒れがあった。それが表情にすさんだ気配を与えた。口紅はあざやかにその唇を装飾していた。すれ違ったときに、彼女たちの髪の毛の匂いがした。長く伸ばされた、美しい、その。
通路の尽きた先に、開けた空間が見えている。遠い向こうの突き当たりに巨大なシャッターが見えた。わたしの視界の正面に。突き当たりの果てにまで広がる、それぞれ四面のシャッターの群れ。飛行機か何かでも格納しようとするかのようだった。巨大な空間。何台かのヘリコプターが収容されているのが見えた。向こうから男が一人歩いてくる。わたしに用があるわけではない。陽に灼けた長身の彼は若い。一瞬立ち止まって、わたしに挨拶しようとした。彼は知っている。わたしが彼らの言語を解さないことを。戸惑った、善良な顔つきを、すぐに困惑の中に混濁させて、彼が通信機器を胸元に探す。わたしの彷徨を誰かに報告しようとしたに違いなかった。逃げ切れるとは思えなかった。
すれ違いざまに会釈したわたしに、彼は、わたしのそれを丁寧に模倣した会釈をくれた。突き当たりの空間に出たとき、そこは広い。薄暗い広大な空間。天井は見えない。だが、その尽きた暗さが、にも拘らず、やがては天井によってその空間が終了して仕舞っているらしいことを暗示した。振り向いた背後の壁面に、はるかな上まで小さな丸い窓が無数に開かれ、それらの内部からの明かりが、気まぐれで数学的な模様を描き出したが、暗い。
シャッターの側の向こうの壁面に、白い電気照明の列が、一直線に、ほのかな逆光を作る。何を意味しているのかはわからない。人々が疎らに点在している。ざわめきはない。話し声が、ときに、ささやくように聞こえる。彼らは何か仕事をしているに違いない。彼らの仕事を、そして不意に、声が四方で立つ。
気配が乱れる。
両脇の向こうの果てまで、行き止まりは見えない。数台のヘリコプターが整備されていた。見上げられた天井の一角に、空が見えた。はるかに遠い上方に。…たぶん。その、四角い、純白の光。おそらくは、数百メートル四方に切り開かれた正方形の口。油の匂いがする。洗浄剤の匂い。火薬の匂い。すれ違うたびに、男たちの体臭。どこかで女の嬌声がした。
ヘリコプターのどれかが羽根を廻し始めた音がする。軍用らしいヘリ。輸送用の。男たちは老人と同じようなデザインの、いくつかの色違いの制服を着ていた。誰もが一瞬わたしをすれ違いざまに見るが、さまざまなその反応。笑顔、人懐っこいそれ、媚びるようなそれ。たんに浮かべたに過ぎない何の感情も伝えないそれ。いぶかしげな一瞥。沈黙した、無口な凝視。それら。ヘリの陰から、人間のようなものが、ゆっくりと這い出して、わたしの前を歩く。
立ち止まろうとしたが、わたしの足は立ち止まらなかった。
わたしの前を横切ろうとするそれは、ぶつかりかけた一瞬に、わたしはそれがあきらかに生きてはいないことに気付く。それは既に死んでいる。崩壊した皮膚組織の、腐りかけの身体。《あれ》に似た匂い。生体の何らかの生体特有の疾患を差別的に比喩したのとは明らかに違う、あからさまな死穢の、腐敗した皮膚。その乾いた臭気、澱んだ腐臭を背景にした、乾ききった干し肉のようなそれ。
《それ》にかすかに肩が触れた瞬間に、それは女だった。
幼さを残した、十二、三歳くらいの少女の身体の残骸。彼女は一瞬、あきらかな驚きを、あきらかに顔に浮かべ、遅れて、その顔面の皮膚にえがかれた、不意の、戦慄の表情。
彼女の。
その、見開かれた目は、彼女がわたしを見ている実感をは与えない。
一瞬、日に灼かれたプラスティックを連想させた、黒目のそろわない眼差し。あきらかに、彼女は死んでいた。
わたしがその瞬間に曝した表情を、わたしは知らない。
恐怖した気がする。
感情が明確さを獲得する前に、彼女の開かれた口が、それは何の臭気さえない。彼女はわたしの左腕に噛み付いたが、わたしは聞く。その時たった、すぐ右に屈んでいた男が立てた笑い声を。笑い声が一瞬で連鎖し、煽るような声の群れが周囲にたったが、女声さえ混じって、力なく、わたしの腕の皮膚に噛み付くそぶりをしている少女。
戯れと呼ぶにも値しないその力の無さが、そして、わたしは、肌に触れたその触感を感じていた。
歯。…かさついた唇。乾ききった、口の粘膜。歯。…歯の硬い、無造作な肌触り。それらを。歯。…咬む。とっさにわたしが腕を振りほどいたとき、彼女の顎は一瞬で崩壊した。
口の形は最早無い。
下あごだったものは千切れかけてぶら下がり、彼女は自分が今、何をしているのかわかっていないに違いない。彼女は茫然としている。…え?。
なに? 囃すような笑い声がやまない。
身を避けるようにして彼女を通り過ぎると、その左腕は執拗に、反対側にのけぞろうとする運動を繰り返し続けていた。何の意味もなく。右足と左足は明らかに違う方向に歩こうとしていて、彼女の歩みは、その無根拠な動きが結果的に生じた前進に過ぎなかったことに気付く。彼女が歩いているのは偶然に過ぎない。あるいは、すでに、わたしの視覚はそれらを認識していたはずだった。最初から。彼女はすでに死んでいる。
息をしている。
わたしは、自分の息遣いを聞いている。向こうの突き当たりのシャッターに歩く。
話し声の束。笑い声。
そして、それが必ずしもわたしと少女にだけ向けられたものではなかったことに気付く。彼らは彼らそれぞれに、いま、生きていた。
わたしたちは。
自分勝手に。
それぞれに。
シャッターに触れる。
その横の壁面に、不細工なほどに大きいボタンがあって、それは赤い。ボックスの黄色地に黒い斜線のその上に。わたしがそれを殴りつけるようにして押したとき、警報音は鳴り響き、赤い閃光が頭上に点滅を繰り返す。喚声が四方に立っていた。遅れて、開き始めたシャッターから冷気が一気に、そして外光が足元から差し込み始める。四面のシャッターはわたしの側から順番に開き始め、駆け寄った男がわたしを羽交い絞めにし乍ら引きずり倒し、倒れ掛かる瞬間に、わたしは見た。
外の世界。
その滅びきった世界を。
鳥が飛んでいた。
向こうの空に。
二羽。
純白の鳥が、二羽。
羽根を広げて。
白い。
地の果てまで雪にとざされた、純白の世界。
それ以外に何もない、その。
…白い。
わめき散らされながら、二人がかりで引きずられる。わたしがわめき散らしているのも知っている。背後でシャッターがふたたび閉じられたのも知っている。あの部屋に投げ込まれ、ふたたび閉じられたドアの向こうでも、まだ、わたしをののしる彼らの声はやまない。鍵が掛けられる気配は無い。鍵という機能自体が失われていたのかもしれない。鍵穴はあるにも拘らず、鍵そのものが失われてしまえば、外から鍵などかけられはしないのだった。内側から鍵をかけてやろうかという思い付きが、わたし一人だけを笑わせた。立ち尽くし、ややあって、彼らは未だ立ち去ろうとしない。単に、話し込んでいるだけなのかもしれない。いつの間にか、彼らの音声はのんきな陽気さに支配されていたから。
歩く。マットレスのほうへ。ふたたび《それ》のほうへ。わたしののばされた指先が《それ》に向かう。布を剥ぎ取る。その瞬間に、壊れた。《それ》は砂になって一気にかたちを崩し、不意のその崩壊。
叫んだ。
わたしは悲鳴をあげ、なんども叫んだ。
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