小説 op.4-03《愛する人/廃墟の花》①…世界が滅ぶまで、君と。
これは、連作《永遠、死、自由》の後半の、近未来を舞台にした中篇です。
ゾンビがはびこる核爆発による破綻した世界の中で、
記憶を失った男が、理解不能な巨大施設の中に隔離され、
言葉の通じない人々の間で生きて行く。
謎めいた男と出会う。そして、ゾンビの少女とのふれあい、
明かされていく彼女の《死》の顛末は…という、
あらすじにするとありがち、かつ、笑うしかないくだらない展開なのですが、
読んでいただくと、納得していただけるのではないか、と思います。
いままでアップされた作品の中で、一番、読みやすいかもしれません。
今までの行変え殆どなしのキツキツ形式から、いきなり行変え・行空け多様に変化してもいます。
ぜひ。
2018.05.22. Seno-Le Ma
愛する人/廃墟の花
…Chết rồi. 最後に発話された チェッローイ… 単独の男声が耳に残って、既に閉ざされ始めた視界は、結局は何も見いださなかった。
ヘリコプターの音響が耳の中に存在しつつける。
視界が、白濁した揺らめきとしてしか、もはや、何をも見いださないことにも、鼓膜が、鳴り響く音響をさえ、もはや、遠くの出来事としてしか認識しないことにも、気付いていた。
消滅しかけた意識は、まどろんで、もう、混濁していくだけの堕ちるような気安さに、すべてはいつか、気付かれないままに消滅する。
風が吹き荒れていたのには気付いた。…失心。
そっと、指さきでふれられてしまった積み木のような、あざやかな崩壊。
意識の。
見開かれた眼が壁面を捉えていた。側面のそれを。右の、手を伸ばせばふれられて仕舞いそうなほど、身体のすぐそこに接近した側面。気付いたときには、そして、何度目かに、ふたたび気付く。
まどろむ。
わたしはコンクリートの壁を見ていた。果てが見えないほどに、天井は高い。わたしはマットレスに身を起こしたまま、…清潔なマットレスの上の泥だらけの身体。窓はない。
はるかに高い通風口の列から日差しが入るが、それらが連続した逆光の模様を描く。気付けばずっとそれを見ていた。
部屋の果てさえ見えない。縦の奥行き。光の列がどこまでも空間の中を照らし出した。
見るべきものはその光の模様でしかなかった。はてしない連続。空間の優しい薄暗さと、それを裏切った光の模様の鮮烈さ。
自分の息遣い以外には、聞くべき音は無い。
左手の向こうも壁で閉じられていた。数百メートルの向こうに。閉じ込められているには違いない。幽閉されているのか、収容されているのか、それさえわたしは知らない。
わたし以外には人はいない。離れたところに単独の、何かの気配があった。…誰かの。
気付かない振りをした。
体中に痛みがある。骨の内部の鈍重な痛み。皮膚を荒いやすりで磨り切ったような、痛みと。筋肉の固まった、ときに痙攣させる痛み。
重い。まどろんだままの身体が、瞬間、しばし、ひきつり、あえてそれらのリアリティを確認することをは拒絶する。
嘔吐を繰り返した記憶がある。
休息が必要だった。いずれにしても、わたしは休息できるのだった。幽閉され、放置されているいま、休息するしかないのだから。何かが起きるまでの猶予かも知れない。何も起こらないのかも知れない。何か起こっていないわけでもない。いまも。既に。わたしの内臓は、ときに痛みを、不意に発生させた。それがわたしをうめかせる。向こうのほうの何かの気配が、それは体ごと床に引きずるような音声を立て始めて、その音声は接近した。
逃げ出すべきだと察知されながら、まだ、それの射程件には入っていないと思い込む。なんども目を閉じては開き乍(ながら)ら。もうすこし猶予を。もう少しの。
目を閉じたままに、わたしは感じるのだった。やがては、それが至近距離にまで接近して、聞き取れない耳慣れない言語が独り語散られたときに。わたしは彼の体臭を感じていた。
ずっと。鼻に突き刺さってくるような、明確な、至近距離の、肉が腐敗していく嫌悪感を伴ったあまやかな匂い。
そして、それ以外の刺激臭さえもが混入した、その、病んだ匂い。それが、何か、あいまいな違和感をだけ感じさせた。
眠ろうと努力するうちに、やがては眠りに占領されてしまう。記憶などどこにも、何も現存しないことに意識のどこかで気付いていいた。そんな事が重要なのではなかった。眠りのうちに、すべてはやりすごされて仕舞うべきだと、その明確なその意志は、眠りに落ち始めた意識の混濁のうちに、もはや、何らの明確さの痕跡さえない。
するどく突き刺された不意の痛みに眼を見開いて、視界が明確さを獲得する前に、わたしは痛みに目覚めていた。意識する。わたしが苦痛にのた打ち回っていることに。
内臓が痛かった。助けが必要だった。口の中だけで、痛い、と、その言葉だけを繰り返すうちに、その痛みを訴える短い言葉の無数のヴァリエーション。
言葉の。
声の。
音声の。
しぐさの。
汗がにじんでいた。いつか苦痛が消え去り、あるいは少しは緩和する気がしたが、わたしは苦痛にのた打ち回り続ける。何の解決も無いままに。気付いていた。傍らの壁際に、物体のように、ある生体がからだを横たえていることには。
フードのような布地につつまれたそれ。それは人体には違いなかった。ぼろ布に包まれた、あの臭気の正体。獲得された記憶が、記憶を整理し始めるが、痛い。腹部に強烈な痛みが、そして、わたしの身体はただ、汗ばみ、歯と歯をかみあわせた。奥歯と奥歯を。
前歯と前歯が口の中で音を立てた。舌が噛み切られるのに怯えた。丸まった。通風孔からの光が、ひたすらな白さを獲得していたのに気付く。
白い。内側から白さに、透明なままで染まりきって仕舞ったような。希薄で確実な白さ。それには、なにか記憶があった。なにも思い出されないままに、…雪の日の? 走ってくる無数の足音がして、雪の日の、彼らは光線の息を …白さ。乱してさえいた。
男たち。二人以上、四人以下の。いくつかの足。入り乱れる腕。その身体と、頭部。覗き込まれる顔。それら。
それらは、彼らの体臭のそれぞれの差異を知覚させさえし乍ら、わたしの周囲に、ばらばらにばたつくが、彼らの身体の一つがわたしに何かを注射したのは知っている。身体の動き。それらの断片的な動きは、実際には一つの固有の身体として動いていることをは察知されていた。
わたしの過失に過ぎない。それらを無数の断片として知覚することしかできないでいることは。散乱する無数の腕、乱雑な足音、散らばった息遣い。それらを、崩壊した空間を寄せ集めた塊りとして、わたしは知覚する。冷たい戦慄に、おののき乍ら。不意に、急に、わたしの意識が消滅したことに気付こうとしたとき、最早意識は、ふたたび、ない。
叫びながら眼を覚ました。そんな気がした。何かを夢見ていたに違いない。怖い、ふたたび見たくはないような何か。叫ぶにあたいするような何か。指先ひとつ微動だにしないまま、気付けば眼は見開かれ続けていた。天井の、突き当りさえ見えないくらいの高さに向かって。…高い。百メートルくらいの見上げられた上空に、コンクリートの。
建物は新しくはない。古いとまではいえない。誰も手を入れていない躯体は、無数のクラックを既に発生させてた。傍らの何かがからだを動かして、わたしに何か言こうとしていた。鼻にぬけていくような、優しい音声だった。わたしはそれを聞き取り獲ない。それが未知の言語だったからだ。神秘性は無い。人間の、たんなる外国語に過ぎない。聞いたこともない言語なのかもしれないが、聞き飽きている気がした。いずれにしても、人間の声帯がたて獲るにすぎない言語音声。
《それ》の呼吸音が聞こえる。わたしは既に《それ》が人間とは呼べない、不愉快な肉塊りに他ならないことに気付いている。腐った肉のような匂いと、干し肉のような匂いが混濁した、執拗な臭気がする。それら、明らかに差異する傾向の匂いが混ざって、ないまぜになって、そして、すでに慣れてしまったわたしの鼻には、なんらの違和感ももはや無かった。
《それ》が音声を発していた。懐かしくさえない人間の言語。鳴き声でも吼え声でもない。人体の成れの果て。文字通り、生きながら腐っていく身体。生き乍ら?《それ》が、生体とは最早いえないのには気付いていた、いつからか。最初にそれが接近してきたときにか。身を起こして、《それ》を見る。うすい暗がりのあかるさに、癒されきった眼はその正確な姿を捉え続けていた。崩壊しかけた肉体。それが生命を維持しているのが不可解だった。指先をのばす。ふれそうな至近距離の中に、一瞬、ためらって、布に触れて、それをめくる。わたしはうつむいて、目をそらす。《それ》は、何かを言おうとしていた。それは腐っていた。それは何かを言っていた。
何かを。
伝染するだろうか、と思った。一瞬、恐怖に駆られた。もしそうなら、と、すでに気付いていた、もう手遅れだと、それに気付いた最初はいつだったのか?…手遅れ。
何度目に失心する前なのか?…もう、遅い。
ひざを組んでマットレスの上に身を曲げ、記憶。すべての事跡の記憶を喪失しているにも拘らず、思考能力が維持されていることに、不意に、違和感を感じた。ならば、思考とは何だ?自分の思考が、そのまま狂っている可能性について考えた。
失心のようなうたたねを繰り返し、《それ》の音声に気付いて、ふたたび意識を取り戻し、まどろみ、通風孔の外のあかるさが、いつでも同じあかるさに過ぎないことに違和感を感じる。それは、自然光なのではないのかも知れなかった。朝もなければ夜もない。あの、いつか見た記憶のある、雪が降った日の外光のような、かすかに白んだ明るさ。
人工照明なら、ここは、何かの、更なる巨大施設の内部に他ならないのだった。広大な空間が、更に巨大な外壁に包まれている可能性。
傍らのそれはいつか沈黙していて、空気が通り抜ける音声だけがする。あるいは、それはまだ話し続けていたのかもしれなかった。身体的な能力として、声を形成するだけの十分な声帯をなくしたそれは。
わたしは、立ち上がって、歩く。リハビリをするように、ゆっくりと歩き出してみ、何の損傷も身体には存在しないことに気付いた。体が、ただ、汗ばみ、皮膚に臭気があるだけだった。…何の?いつ流されたのか知らない、誰のものかもわからない血痕さえ無数にあって、泥だらけの身体。わたしは穢れていた。傷は無い。清潔なマットレスを陵辱するような身体の穢なさ。目だった傷は、無数のかすり傷以外にはない。重要な痛みは、なにもない。無い。
壁際にうずくまった《それ》をふたたび見下ろし、《それ》は思ったよりも小さく、小柄な老人が胡坐をかいて座ったくらいの塊りにすぎない。臭気。そして、空気は冷たい。寒いほどではなかったが、鳥肌を立たせる寸前の冷気が大気を支配していた。清潔な大気だった。
左の壁の行き止まりにまで歩く。数百メートルの距離。何があるわけでもない。床と壁がある。天井がどれだけ高いのか確認してみたい気がした。歩くたびに衣擦れの音がわたしの周囲でだけ小さくたった。それはわたしが立てた音だった。わたしの音、と、無意味に独り語散る。
振り返った向こうの壁にだけ、上方に、十メートル間隔で空けられているに違いない無数の通風孔の一列が、上のほうにまで連なって、見上げられた上方にいつか尽きていた。
広大な空間であるには違いない。巨大建造物。暗くは無い。通風孔の照明が規則的にうがった逆光が、丁寧に幾何学模様の光を空間に放ち続けていたから。それは美しくさえあった。コンクリートの、剥き出しの壁、そして床。
縦の奥行きは、はるかに、奥のほうまで広がりきって、その果てに、いつか、尽きているらしいのがわかる。数十メートル先にドアが見えていた。白い鉄製のドア。なぜ、まっすぐにそこに行かなかったのだろう?すでに、その存在には気付いていたのに。白いドア。
壁に一度身をもたれ、息を整え、わたしはしばらくの間休息をとる。たいした運動がなされたけでもないのに。
いつか、すでに、ここが安らかな空間であるかのように錯覚されていた。
いきなりドアを開くと、何の抵抗も無くドアが開いてしまったことに驚いた。隔離など、何もされていたのではなかったのだった。あるいは、そこが、単にわたし自身の部屋だったのかも知れない感覚に襲われ、目の前には、当たり前のように、外国の廊下が広がっていた。軍用機関なのか、医療機関なのか。飾り気のない、白くと塗装されたコンクリート壁の廊下。床に敷かれた淡い緑の御影石。薬物の匂いはしない。目の前の椅子の上に座っていたアジア人の老人が顔を挙げ、沈黙し、わたしを見つめ、ややあって、片方のまゆげを上げた瞬間に、彼は話し始めた。聞いたことも無い言語を、早口に、そして、それは中国語風の音声のような気したが、なにか決定的な差異がある。わたしだって中国語くらい知っている。ニーハオ。シェーシェー。それだけ。
彼が何を言っているのかはわからない。笑うしかないわたしは笑みに顔を崩すのだが、もてあまして、ドアを開けはなったまま、ふたたび部屋の中に帰ると、いつか立ち上がっていた老人は部屋に入ってくる。この、あまりに広大な、わたしと《それ》との部屋の中に。隔離された部屋?
老人はしわだらけの茶けた軍服らしい衣服を着崩していた。粋がってはずされた胸元のボタン。部屋の奥に、わたしは彼を誘導していく。そんなつもりは無いが、わたしが歩くほうに、彼がついてくるので、いつか、わたしは彼を誘導している気になっていた。…どこへ?老人はわたしに背後に話しつづけた。わたしは揃いのブラックスーツの上を脱いだ状態で、ジャケットとネクタイはどこにもない。靴も無い。ソックスははいていた。泥水に汚れてかわいたそれらはごわつき、臭気がある。もう慣れた。老人は話しやまない。わたしが彼に返答することは、なにも、ジェスチャーにおいてもない。右手のほうで、足音がした気がした。通風孔の光がどこまでも続いているだけで、何も見えない。どこかに、身を隠しているのかもしれなかった。どこに?老人が立ち止まって、その善良な顔つきのまま、わたしに何か必死に教えようとしているのに気付いた。なにか重要な事柄ではない。ほんの、ささいな、どうしようもなくささいなことなのだった。
俺、痛風なんだよ。
だからさ、もっとゆっくり歩けよ。
例えばそんな。にもかかわらず、彼にとってそれは重要なのだった。わたしは彼に笑いかける。それは初めて彼に投げかけたわたしの返答に他ならなかった。壁に背をもたれて、自分を見つめているわたしのシャツの首もとを直してくれて、老人はわたしの肩をたたいた。何かを言った。
笑う。
わたしは、彼が、わたしに背を向けて、立ち去っていくのを見る。振り向きはしない。マットレスを避けもせずに踏みつけて、《それ》に一度、慰めるように手を振ったが、見向きもされない。そのまま気にせず、通り過ぎる。
壁沿いに歩いて行く。もはや、わたしたちを振り向きもしない。鼻歌を歌い、ときどき、思い出したようにする老人の両手のジャスチャーが、何を意味するのか、わたしには意味を取ることができない。背はひくい。わたしの胸元までしかなかった。
遠ざかるほどに、どんどん、背が縮んで行く。
わたしは床に座りこむ。壁に背をもたれる。
聞く。
自分が呼吸する音を。向こうの正面に、ドアがある。
そこにドアがあることなどすでに、気付いている。
そこから老人を迎え入れたのだから。
いつでも出て行くことができる。
老人の声は陽気だった。…記憶。思い出して、ゆっくりと、小さくなっていく彼の背中をときに見る。
乾ききった喉が、渇きに苦痛をさえ感じていた。皮膚に、いまさらのように、こびりついた垢に膿んだひりつく触感があった。決断するべきだった。ドアをもう一度開けさえすればいいのだった。老人は、空間の縦のはるかな先を、壁沿いに、まだ歩き続けていた。そのまま、いつか出会うその突き当りの何かから、どこかへ行こうとしているらしかった。…何か、どこか。ドアがあるのか、或いは彼の住み慣れた住居スペースでもあるのか?いずれにしても、何かがそこにあり、そこで何かは起こり、何かが起こって、あるいはなにも起こらない。そんな何かの可能性のほうに彼は帰っていく。
決断すればいい。
わたしは、十まで数えて立ち上がると、ふたたび、ドアに歩く。
背後で《それ》は身じろぎもしない。
もうできないのかもしれない。
ドアはふたたび開かれる。
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