小説 op.4-01《永遠、死、自由 Ⅲ》⑥…まだ誰も見たことのない風景を、見ようよ。
「さがしだして」
「だれを?」
「きまってる」
「泰隆?」
「さがしだして」
「どうするの?」
「はなしあうの」
「なにを?」
「未来のこと」
「未来?」
「未来のこと。…いっぱい、…いっぱい、未来のこと」
「どんな?」
「ふたりの。たっくさん、話すの。」
「たぶん」わたしは病室の千秋に付き添って、彼女に言った。「もう、千秋との未来なんか、見えなくなってるんじゃない?泰隆は。なんにも。未来なんかないんだよ。…きっと」血を吐いて倒れた後、彼女はこん睡状態に陥った。「知ってる。」千秋は言った。すぐに気がついたものの、病室のベッドに寝かされた彼女は…あ、とふいに声を立てて、下腹部に手を入れた。引き出された手のひらが血に染まっていた。
流産していた。…ねぇ。動揺して、看護婦を呼んできたわたしの慌てふためいた腕を握って、千秋が言った。痛くも何もないの。ねぇ、まじ?って。「痛くも何にもないんだよ。こんなに血まみれなのに。…なんにも、痛くないの。」眼にいっぱいの涙をためながら、笑ってさえいる彼女の表情から、わたしは目を背けた。
どうしてあんなことしたんですか?言ったわたしに、いつだったか佐藤が言った。「何を?」
「なぜ、瑞樹を強姦しようとしたんですか?」頭の中で思考が一瞬停止し、佐藤は不意に何かを思い出して、「…いや、…」口籠った。その数秒あとに、「彼女の手を握らなければならなかったんで…」
「どうして?」
「そんな気がして。どうしても手を握らないと。そんな。けど、握ってしまえば、逃げ場所がなくなって」息をしていた。…彼女の手が言いました、…握って、と。鼻からしずかな、乱れのない呼吸が聞こえた。「…最後までしてしまわないと。」
「最後?」
「手を握ったなら。何が最後かわからなかったんですが、でき獲ることの最後まで」例えば?とわたしが言い、佐藤は一瞬聞こえないふりをしようとしたが、たとえば、殺してしまうとか?わたしは思って、口にはしなかった。佐藤はわたしに笑いかけ、「どうしてなんでしょう?」わたしをではなく、コンクリート片の下で身をもがく復活した瑞樹を見ていた。遠く、すこしはなれた距離に立ち尽くしたまま。「手が見えたから。そこに。手が。彼女の」瑞樹の首が暴れるように痙攣し、両手が背後に敷いたコンクリートスラグを掻きむしった。顔の半分は潰れていた。
ハナエ=龍は時に、白く短いスパッツをはいただけで出歩いたものだった。素肌を思うままにに曝しながら、にも拘らず、彼女の身体は美しい衣類で飾られたように見えた。その色彩とうねる形態を乱した刺青のために。そして、無数の無抵抗な《死者たち》は彼女に刈られた。腐った血をときに、吹き上げながら。彼女のエステサイズの標的として。
佐藤の妻の完全な腐敗を確認した後で、わたしは佐藤の家に火をつけた。佐藤が離れた背後で手を合わせていた。振り返ることさえしなかった。視線の中に入れることがためらわれた。目を泣き腫らした佐藤の姿を。
「許してくれるかな?」泰隆が言った。「あいつ…、おれのこと」と、数週間ぶりにようやくつながった電話の向こうで、泰隆は何を聞かれるでもなくそう言い始めて、わたしはいま、どこにいる?そのことばさえ未だ言ってはいなかった。「…許すよ。」私は言った。「たぶん。ぜったいに。」わたしは言い、誰もが知っていた。千秋は泰隆を許すしかなかった。なぜだろう?なぜ、彼女は許すかないのだろう?だが、わたしたちは、みんなその事実を既に知っていた。
「あなたを見てると、生き残ってる人間の卑怯な卑屈さだけを感じてしまう」その、ハナエ=龍が背後からかけた言葉を、北浦は一瞬無視しようとして、思いなおした。「…卑怯。卑屈。そうですね。そのとおり。卑屈でさえあります。」車椅子を引いている彼の妻は、二人の会話の意味を捉えようとして伺ったが、それはわたしも同じだった。「毎朝の日課があります。」北浦が言った。彼は右手を後ろ手にのばして、彼の妻に触れようとした。「毎朝、じゃないですけどね。…二、三日に一回くらい。」彼の妻は微笑むべきかどうか、自分の表情のあるべきかたちを自分の中で探していた。「*器を切るんです。」
「自分で?」わたしの声に、振り向きもせずに、「自分で。再生には二、三日かかる…痛みは、ちょっと、ね。すごいですよ。」短く声を立てて笑ってみせ、「麻酔を打っています。だから、自分では立てないんです。半身不随になる。そのくらいしないと、ちょっと、耐えられない。最初、衝動的にそれをやったときは、本当に、記憶を半分くらい失いそうになるくらい痛かった。何日も。ずっと。」
「なんで?」ハナエ=龍は瓦礫の上に昇って向こうを見乍ら、雨が降る、…ね?「卑屈で、卑怯だから」北浦が言った。向こうの空に暗い雲があってもうすぐ雨が降ることが知れた。「わかりますか?怖いんですよ。人類の崩壊に立ち会うことが。奇形種と呼ばれたわたしたちが大量に出生したとき、…いろんな議論がありましたが。わたしは先行種だったので、始めは自分だけの特異な能力なのかも知れないと思っていた。そのうちは良かったけど、新生児の大半が奇形種として生まれ始めたとき、わたしは怖かった。わたし自身が、…わたしたち自身が?人類を、…自分自身、…わたしにとっては、あくまで、自分自身を、…あの膨大な人間たちの数、現在、過去、未来、…時間、記憶、それらのすべてを破壊し破滅させ絶滅させようとしている、その実感が。…どうしようもなく怖かった。それは誰かの、…新しい人類であるわたしたち、の、可能性ではあるかもしれないけれど、わたしにとっては、《わたしたち》の可能性ではなかった。人類は滅びるしかないんだから。わたしは、自分が人類だと思っていたから。…人類ではないことなど、知っていましたが。…ね?可能性に満ちている。けど、誰の可能性でもない。人類は滅びるしかない。どうしようもなく怖かった。奇形種の大量殺戮が繰り返されましたね?わたしも加担しましたよ。批判が多かったし、違法だったけれど。迷うことなく。わたしには生理的な嫌悪感があったから。」
「で、切っちゃうの?」振り返ったハナエ=龍は鼻に笑い声を立てながら言って、「なんで?」もはや、おかしくてたまらないように笑うのだった。「なんでよ?」
「卑屈だから。卑怯だから。倫理。子どもを生む可能性を拒否して、そればかりでなく自分の身体に刻印し続けること。…妻が、切ってくれます。自分ではできない。…吐き気さえする。刃物を当てたときの感じ。麻酔で、何も感じないはずなのに、冷たい触感がある気がする。事実、ある。」
「奥さん、切ってくれるの?」
「泣きながら、…ね。ほんとうに。もう、目にいっぱい涙をためて。涙をこぼれさせ乍ら。わたしは口に彼女のハンカチをかんでいる。叫び声を上げてしまうから。」…あつい。ハナエ=龍がアオヤイの上を脱いで肩にかけ、湿った風に皮膚をさらした。日本が乾期と雨期の二つの季節しかなくなって、もう長い時間が過ぎた。ハナエ=龍の皮膚の上以外には、もはや桜さえ咲かなかった。わたしは彼女の背中の龍の鼻をなぜ、彼女の汗ばんだ肌の触感を指先に感じた。
…あ、とふいに口にした瑞樹を見上げた。調達に入った廃墟のビルの窓際で、日差しは傾きかけていた。部厚い会議テーブルの上に横たわらせたわたしの体の上で、裸になった瑞樹が腰を振った。快感はなかった。なにも。それを感じる感覚機能はそもそもなかった。体の上に声を立てる彼女の快感をわたしは見つめただけだった。不意に停止した腰の動きが、やがて、すべての体重がわたしの体の上にかかった。
「なに?」
言ったわたしに、おくれて気づき、…なに?聞き返したあと、瑞樹は声を立てて笑った。鼻にかかった短い笑い声。
数週間ぶりに会った泰隆を、認めた瞬間に見せた無表情な表情の固着、そして、そのまま振り上げられた手のひらが彼の頬を打ち、既に一瞬見せた怒りの表情は失われた後だったが、もう、千秋は泣きじゃくっていた。遅れて、泰隆は千秋を抱きしめた。千秋の借りているマンションの部屋の玄関口で、わたしは彼らから目を背けた。彼らを視界に入れるのには、眼差しに軽い痛みが伴った。どうと言うこともない、ただ、不快な痛みだった。
「一人にしないで、」そう瑞樹が言っていることがわかった。聞き取りようがない、しゃくりあげる乱れた音声の向うで。
二日後に千秋は死んだ。
自分を強姦した彼らを殺しに行く前に、わたしの太刀を手に取りながら、ハナエ=龍は言った。泣かないで。わたしは彼女の頭をなで、その手のひらはやがて彼女の髪の毛を愛撫していった。「何にも、傷つかなくていいから。もう、おわるから。気にしないで。何でもないから」傷ついた人間を慰めるように。わたしは傷ついていた。それにすでに気づいていた気がした。愛する存在を傷つけられたこと自体に。「もう、だいじょうぶ。」ハナエ=龍がわたしに言った。
背後から、何の意味もなく不意に、かるくわたしの頭をひっぱたいて見せて、瑞樹は声を立てて笑う。…何?答えないままに、戯れるように逃げるそぶりをした。わたしは彼女を追っかけてやった。瑞樹は逃げた。わたしをなんども振り返り、わたしの追走を確認し乍ら。「ねぇ」かすかに傾斜している高層ビルを上がった。非常階段を、息を乱して、ときに休んだ。笑い声が彼女の息をさらに乱した。廃墟のビル。ところどころ、割れたスラグから鉄骨が突き出て、次の地震で倒壊するに違いない。砕けたコンクリートが鉄筋にぶら下がって鳥を留めていた。灰色の鳥だった。鳩だったかもしれない。十数階のビルの最上階にあがり、そこは無人化していた。もと居住用のマンションだった。最上階は豪奢を極めた。すべてはもはや残骸だった。ところどころの壁の焦げた跡が、そこで何が起こったのかを暗示していた。《死者たち》はここでも焼かれたのだった。核爆発のとき、彼らがこの窓からどんな風景を見ていたのか、わたしは知らない。瑞樹がクローゼットを物色した。服を脱いで、ベッドにかけ、…ねぇ。彼女が呼んだ。振り向いたわたしにわざとらしいウィンクをして、声を立てて笑った。下着に手をかけて、脱いだ先からわたしに放った。…ね。言われるままに、瑞樹のあとを追った。屋上への階段を探し、見つけたとき唐突に振り返った瑞樹は投げキッスをくれた。屋上に出た。高層階のビル風が舞った。瑞樹の髪の毛が乱れ、近く感じる太陽の日差しが、全裸の彼女の肌を上から下まで照らしだす。空は青かった。都市に人の気配はどこにもなく、雲の連なりが斑に推移する色彩を描いて、無言のままに覆いかぶさった。身を乗り出して町を見下ろし、瑞樹は何も言わなかった。一瞬、倒れそうになった瑞樹が、墜落する寸前で持ちこたえた。「だいじょうぶ?」駆け寄ったわたしに倒れこむと、腕の中で、瑞樹は大量の鼻血をたらしていた。「めまい、した」言った。体が細かく震えていた。立ってられない…、言った。彼女が、もうすぐ死のうとしていることにわたしは気付いた。瑞樹の身体は放射能に食い散らされた後だった。「わたしが死んだら」やがていつだったか、瑞樹が言った。「ビルの屋上から放り投げて」
「どうして」
「最後に、空くらい飛びたいから。」瑞樹の止まらない鼻血と、歯茎からの血が、日の光に差されてきらめき、わたしは見上げた逆光の雲間の太陽に目をくらませた。
土砂降りの雨の中にハナエ=龍の悲鳴が聞こえている気がした。予感があった。予感はなにも具体的な未来をも、現在をも伝えなかった。わたしは太刀をとって、廃墟の崩れかけたコンクリート片の隙間を走った。見つけ出したハナエ=龍は雨に、仰向けになってうたれていた。コンクリートの瓦礫の小高い山の上。遮るもののない雨が直接彼女の素肌をうった。それを踏んづけた瞬間に、滑った足が、破り捨てられたアオヤイの残骸を踏んでしまったことに気づかせた。行為は終わっていた。男たちは雨に濡れながら、抵抗さえしなくなっていたハナエ=龍の体を見おろしていた。見惚れてしまうほどに、美しい形態だった。大の字に広げられた四肢が、そのまま雨を受けいれて、無数の水滴を撥ねさせていた。わたしは一人の男をしか殺せなかった。逃げていく数人の声を、息遣いと足音をいくつもの方向に聞き、わたしはハナエ=龍の額を撫ぜた。うつろな目が焦点をとり戻そうとして、やすらいで、ふたたび焦点を失った。だいじょうぶ?掛けた私の声に何の反応もして見せなかったが、彼女がわたしの声を聞いていることは知っていた。傍らに転がっていた男の死にかけた体が、うめき声と荒れた呼吸をたてながら、音をたてて瓦礫の山から滑り落ちた。水滴が撥ねる無際限なほどの音響の束なりが、空間を満たし続けていた。皮膚の上の水滴の無数の流れ落ちる流線型の軌道を見た。「たぶん、妊娠したよ」やがて正気づいたハナエ=龍が、体を乾かしながら言った。わたしの耳もとに、微笑み乍ら。
…、月が、傾いた。
人麻呂がそう言った。死にかけの、神(もの)憑き。
ぼろくずのように横たわり、最早自分で立つことさえ出来なかった。
泰隆と見に行った海に日が落ちた。向こうに赤く染まった空と海が、遠いさざ波を立てた。雲の群れらが細かな崩壊を繰り返してうごめき続け、光をうねらせた。何も言わずに立ち去ろうとする泰隆の腕を、わたしは後ろ手につかんで離さなかった。
2018.01.24-29
Seno-Lê Ma
0コメント